加藤泰恒

江戸時代前期から中期の大名

加藤 泰恒(かとう やすつね)は、江戸時代前期から中期にかけての大名伊予国大洲藩3代藩主。官位従五位下遠江守

 
加藤泰恒
加藤泰恒像(如法寺蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 明暦3年(1657年
死没 正徳5年7月9日1715年8月7日
改名 泰経、泰常、泰恒
別名 秉軒(号)
戒名 英久院殿傑山紹俊大居士
墓所 愛媛県大洲市柚木の如法寺
官位 従五位下遠江守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉家宣家継
伊予大洲藩
氏族 加藤氏(光泰系)
父母 加藤泰義太田資宗娘奈辺
脇坂安政次女左牟酒井忠清七女以津
泰統泰都泰広板倉昌信正室、
徳大寺実憲室ら
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略歴

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加藤泰義の次男として誕生。初名は泰経、泰常。号を秉軒。

父の早世により世子となる。延宝2年(1674年)2月25日、祖父の隠居により跡を継いだ。度重なる公役を務めたことにより藩財政が悪化し、天和元年(1681年)には家臣への給与を知行から蔵米へ改めた。天和3年(1683年)4月には倹約、綱紀の粛正を行なった。狩野常信門下で絵を学び、歌や書に優れた。

正徳5年(1715年)7月9日、痢疾が原因で他界した。享年59。跡を次男の泰統が継いだ。法号は英久院殿傑山紹俊大居士。墓所は愛媛県大洲市柚木の如法寺

系譜

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その他

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  • 松の廊下刃傷事件浅野長矩が刃傷に及ぶ前、泰恒や出羽新庄藩主の戸沢正庸が日光社参・東照宮法会の際に受けた吉良義央からのいじめを浅野に伝え、お役目を終えるまで耐えよ、と諭したという話が『冷光君御伝記』や『赤穂義人録』などに記されている。
    • しかし、正庸が藩主になるのは宝永7年(1710年)で、家督前の世子が日光社参や饗応役を務める例は皆無である。当時の藩主・戸沢正誠は赤穂藩上屋敷の受け取りと破却を担当したが、日光社参や饗応役をした記録はない。 また、寛文3年(1663年)の日光法会で泰恒はわずか3歳であり、享保13年(1728年)の法会には既に死去している[1]。『冷光君御伝記』や『義人録』には明らかに間違っている記録や、時系列で辻褄の合わない記述もあり、信憑性がない。作者の室鳩巣について松浦静は、「腐れ儒者」、「笑止なる見解なり」と厳しく批判している[2]

脚注

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  1. ^ 「日光山御社参御行列書」(国公立文書館)ほか
  2. ^ 「甲子夜話」(続篇七)

関連項目

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