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吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照))は、江戸時代前期の高家旗本高家肝煎)。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上左近衛権少将上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓源氏清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。領地は三河国幡豆郡吉良庄、岡山、横須賀、乙川、饔場、小山田、鳥羽、宮夾の八箇村の3200石、上野国緑野郡の白石村、碓氷郡の人見村、中谷村の三箇村の1000石、計4200石。

 
吉良義央
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永18年9月2日1641年10月5日
死没 元禄15年12月15日1703年1月31日
改名 三郎(幼名)→義央
別名 左近(通称)、卜一(号)
墓所 万昌院功運寺片岡山華蔵寺
官位 従四位下侍従上野介従四位上
左近衛権少将
幕府 江戸幕府奥高家、高家肝煎
氏族 吉良氏清和源氏足利氏流)
父母 父:吉良義冬、母:酒井忠勝の姪(忠吉の娘)
兄弟 吉良義央東条義叔東条義孝
東条冬貞東条冬重、孝証
正室:上杉綱勝の妹・富子(梅嶺院)
上杉綱憲三郎、鶴姫(島津綱貴室)
振姫、阿久利姫(津軽政兕室)
菊姫(酒井忠平室→大炊御門経音室)
養子:義周(上杉綱憲の次男)

目次

生涯編集

出自編集

寛永18年(1641年)9月2日、高家旗本吉良義冬(4,200石)と大老酒井忠勝の姪(忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。一説によれば、陣屋があった群馬県藤岡市白石の生まれともされる。義冬の母及び父方の祖母が高家今川家出身で、今川氏真の玄孫にあたる。継母は母の妹。

弟に東条義叔(500石の旗本)、東条義孝(切米300俵の旗本)、東条冬貞(義叔養子)、東条冬重(義孝養子)、孝証山城国石清水八幡宮の僧侶・豊蔵坊孝雄の弟子)の5人がいる。妹も2人おり、うち1人は安藤氏に嫁いだ。

承応2年(1653年)3月16日、将軍・徳川家綱に拝謁。明暦3年(1657年)12月27日、従四位下侍従上野介に叙任(位階が高いにもかかわらず、上野守でなく上野介であることについては、親王任国を参照)。

万治元年(1658年)4月、出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚。

『上杉年譜』では「万治元年3月5日、柳営において老中酒井忠清松平信綱阿部忠秋列座のなか、保科正之から三姫を吉良上野介へ嫁がせるべき旨を命じられたことを千坂兵部が(綱勝に)言上した」と幕命による婚儀と記している。

富子との間に二男四女(長男・三之助、次男・三郎、長女・鶴姫、次女・振姫、三女・阿久利姫、四女・菊姫)に恵まれた。ただし次男・三郎と次女・振姫は夭折。

名門の家柄編集

万治2年(1659年)から父とともに出仕する。部屋住みの身分ながら、家禄とは別に庇蔭料1,000俵が支給された。

寛文2年(1662年)8月には、大内仙洞御所造営の御存問の使として初めて京都へ赴き、後西天皇の謁見を賜る。以降、生涯を通じて年賀使15回、幕府の使者9回の計24回上洛した。

寛文3年(1663年)1月19日、後西上皇の院政の開始に対する賀使としての2度目の上洛の際、同年2月3日、22歳にして従四位上に昇叙している。24回もの上洛は高家の中でも群を抜いており、さらに部屋住みの身でありながら使者職を行っていた事は、高家としての技倆が卓越していた事を表している。優秀な技倆を綱吉が寵愛した為ともいわれている。

寛文4年(1664年)閏5月、義兄・上杉綱勝が嗣子なきまま急死したために米沢藩が改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、長男・三之助を上杉家の養子(上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、30万石から15万石への減知で危機を収束させた。綱勝急死は義央による毒殺説が存在するが、これは上杉家江戸家老千坂高房らと対立して失脚した米沢藩士・福王子八弥の流言飛語で、綱勝自身も若いころから病弱で、何度か病に倒れ、危篤になったこともあり、毒殺説の信憑性は乏しいとされている。

以後、義央は上杉家との関係を積極的に利用するようになり、財政支援をさせたほか、3人の娘達を上杉家の養女として縁組を有利に進めようとした。長女・鶴姫薩摩藩主・島津綱貴の室、三女・阿久利姫は交代寄合旗本・津軽政兕の室、四女・菊姫も旗本・酒井忠平の室となっている(鶴姫は1680年11月20日に綱貴に離縁され、菊姫も死別するが、のちに公家・大炊御門経音の室となって1男1女を産む)。

寛文8年(1668年)5月、父・義冬の死去により家督を相続する。時に28歳。

延宝8年(1680年)8月29日、高家の極官である左近衛権少将に転任し、延宝8年(1680年)11月20日に島津綱貴に嫁いでいた鶴姫が離縁される。天和3年(1683年)3月には大沢基恒畠山義里とともに高家肝煎に就任した。貞享3年(1686年)に領地のあった三河国幡豆郡黄金堤を築いたという伝承がある。

また、長男・綱憲の上杉家入り以後、嫡男は次男・三郎だったが、貞享2年(1685年)9月1日に夭折。綱憲や幕府とも協議の末、綱憲次男の春千代を吉良左兵衛義周と改名させて養子とし、元禄3年(1690年)4月16日に江戸鍛冶橋の邸宅へ迎え入れた。

元禄11年(1698年)9月6日、勅額火事により鍛冶橋邸を焼失し、のち呉服橋にて再建する。この大火で消防の指揮をとっていたのは播磨赤穂藩主・浅野長矩であった。

松の廊下の事件編集

元禄14年(1701年)2月4日、赤穂藩主・浅野長矩と伊予吉田藩主・伊達村豊両名が、東山天皇の勅使である柳原資廉高野保春霊元上皇の院使である清閑寺熈定らの御馳走人を命じられた。義央は高家肝煎饗応差添役だったが、朝廷への年賀の使者として京都におり江戸に帰着したのは2月29日だった。長矩は過去に1度、勅使御馳走人を経験していたのだが、以前とは変更になっていることもあって手違いを生じていた。ここに擦れ違いが生じた、と見る向きもある。

3月14日午前10時過ぎ、松之大廊下において、義央は浅野長矩から背中と額を斬りつけられた。長矩は居合わせた留守居番・梶川頼照に取り押さえられ、義央は高家・品川伊氏畠山義寧らによって別室へ運ばれた。外科医・栗崎道有の治療もあって命は助かったものの、額の傷は残った。その後、目付・大久保忠鎮らの取り調べを受けるが、長矩を取り調べた目付多門重共の『多門筆記』によると、義央は「拙者何の恨うけ候覚えこれ無く、全く内匠頭乱心と相見へ申し候。且つ老体の事ゆえ何を恨み申し候や万々覚えこれ無き由」と答えている(多門筆記は事件のだいぶ後に書かれたもので、他者の作も考えられる)。長矩は、即日切腹を命ぜられた。

義央は3月26日、高家肝煎職の御役御免願いを提出。8月13日には松平信望(5000石の旗本)の本所の屋敷に屋敷替えを拝命。受領は9月3日であった。当時の本所は江戸の場末で発展途上の地であった。なお旧赤穂藩士との確執が噂され、隣家の阿波富田藩蜂須賀飛騨守から吉良を呉服橋内より移転させるよう嘆願があったとされる[1]。これは堀部安兵衛らが大石に送った8月19日付書簡に書かれてあったことで、後世になって流されたものとされる。

また、屋敷替えに富子は同道していなかったといわれてきたが、義央も隠居し、養嗣子の義周に家督を譲って以降は、妻の富子らと共に上杉屋敷や上杉家臣の本庄氏の子息、左兵衛の屋敷などに常住し、本所屋敷には常住していなかったことが『桑名藩所伝覚書』・『江赤見聞記』・『忠誠後鑑録』などの複数の史料によって判明している。

この屋敷替えに合わせるように、8月21日、大目付庄田安利、高家肝煎の大友義孝、書院番士の東条冬重など、義央に近いと見られた人物が「勤めがよくない」として罷免されて小普請編入となっている。

12月11日、義央は隠居願いを提出した。これは即座に受理された。養嗣子・義周が家督を相続した。元禄15年(1702年)7月に浅野長矩の弟・長広が浅野本家に預かりとなった。

これと前後して茶人・山田宗偏は本所に茶室を構えていたので、義央から吉良家の茶会にしばしば招かれていた。12月14日に本所の吉良邸で茶会があるとの情報が宗偏を通じて、宗偏の弟子・脇屋新兵衛(その正体は四十七士の一人大高忠雄)につかまれていた。

義央は養嗣子の義周に家督を譲って以降、上杉屋敷や上杉家臣の本庄氏の子息、左兵衛の屋敷などに住み、本所屋敷には常住していなかったため、常に上杉の兵達に守られている状況にあった。そのため、義央が上杉屋敷を離れ、本所の吉良邸で茶会を行うこの日を元赤穂藩筆頭家老・大石良雄は討ち入り日に決定した。

最期編集

 
華蔵寺にある墓

12月15日未明に、大石を始めとする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入った。当時の吉良邸には、諸説あるが『桑名藩所伝覚書』に「上杉弾正様より吉良佐平様へ御附人之儀、侍分之者四十人程、雑兵共百八十人程参居申候よし」とあるように、上杉家(米沢藩)から220人ほどが派遣されていて、義央の警固にあたっていたとされる。

討ち入った赤穂浪士はまず、家臣達が寝起きする長屋の戸口をかすがいで打ちつけ、吉良家の家臣達が出られないように工作を行った。 そのため、戸口を破って応戦したり、逃亡した者数名を除いて、長屋から出なかった者達(用人1人、中間頭1人、徒士の者5人、足軽7人、中間86人)と赤穂浪士らに抵抗しなかった裏門番1人の合計101人には、死傷者は出なかったとされる[2]

赤穂浪士らの襲撃に気づいた吉良家の者達は、この時の当主・義周をはじめとした吉良家臣40名ほどが防戦にあたり[3]、その間に、義央は寝所から二人の供を連れて、台所横の炭小屋に隠れた。赤穂浪士らは吉良家の家臣達と戦いながら 義央の捜索にあたったものの、容易に見つけることはできなかった。 しかしながら、義央の寝所にたどり着いた赤穂浪士のうち、茅野和助が夜具に手を入れ、まだ夜具が温かい事を確認すると、赤穂浪士らは義央が寝所から離れてそう時間が経っていないと判断し、再び捜索にあたった。

そして、吉田兼亮間光興らが、台所横の炭小屋から話し声がしたため、中へ入ろうとした。すると、炭小屋にあった皿鉢や炭などが投げつけられ、赤穂浪士らに向かって2人の吉良家臣が斬りかかってきた。そのため、その二人を切り伏せ、炭小屋内を調べると、奥で動くものがあり、間光興が槍で突いた。間光興が突いたのは 寝所から逃げてきた白小袖姿の義央で、義央は脇差を抜いて抵抗したが、武林隆重に斬り捨てられ、首を討たれた。享年62(満61歳)。

そして、義央の首は泉岳寺の浅野長矩の墓前に捧げられた後、箱に詰められて同寺に預けられた。寺では僧二人にこれを持たせて吉良家へと送り返し、家老の左右田孫兵衛斎藤宮内がこれを受け取った。この時の二人の連署が書かれている、吉良の首の領収書(首一つ)が泉岳寺に残されている。その後、先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が義央の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、義央は菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。

この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが大正期に「万昌院」と名を改めて中野へ移転し、それに伴って墓も改葬して現在は歴史史跡に指定されている。

その後の吉良家編集

赤穂浪士らの切腹が行われた同日、元禄16年(1703年)2月4日、吉良義周は荒川丹波守(御寄合)、猪子左太夫(御先手)が同伴し、評定所へ呼び出され、仙石伯耆守(大目付)より「仕形不届」として、領地召上のうえ、信濃諏訪藩(高島藩)の藩主、諏訪忠虎へお預けの旨が申し渡された。 そして、その身柄は高島藩士の沢市左衛門、茅野忠右衛門、加藤平四郎に渡されたことなどが『上杉家御年譜』などに見える[4]

幕府が義周をこのように処分した理由としては、幕府の裁定により、父・吉良義央が松の廊下での事件の際に内匠に対し卑怯の至りな振る舞いをし、赤穂浪士討ち入りの時も未練のある振る舞いをしたため、「親の恥辱は子として遁れ難く」として、父である吉良義央に代わって吉良義周が責任を取ることとなったこと[5]。そして、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った際の義周の対応、義周が自ら武器をとって赤穂浪士達に応戦したが、不破正種に面と背中を斬られ、そのまま気絶していたことなどに対して幕府評定所が「不届き」としたためであった。そして、その後、宝永3年(1706年)に義周が死去したため、高家としての吉良家は断絶となった。

評価編集

地元での評価と実態編集

忠臣蔵の悪役として有名な義央の評価は全国的には芳しくない。一方、地元では、領地三河国幡豆郡に黄金堤を築いたとされる治水事業(1686年)や、富好新田の新田開拓、塩田開発などの治績を行ったという伝承が形成されており、これらを根拠として地元では名君として評価する史観に基づいた教育が行われている[6]。しかし、実際には義央の実像については不明な部分が多く、名君であるとする根拠も近年になって作られたと考えられるものが多い。

  • 当時の吉良家の日記である『吉良家日記』が現存しているが、日記には、黄金堤築造・富好新田の干拓・塩田開発などを当時の吉良家や義央が行ったという記述・記録は一切、見られない[7]。また、こうした事業を当時の吉良家や義央が行ったということを記した江戸期の史料もまた、現在のところ、発見されておらず、皆無である。
  • 義央が吉良家の領地を訪れた頻度については『吉良家日記』に、延宝5年(1677年)11月に京都へ臨時の上使を務めた帰りに、領地の三河国幡豆郡吉良庄を一度、訪れたことが確認できるのみで、義央が自身の領地を訪れたことが確認できる史料・記録としては、これが唯一のものである[7]
  • 義央が領地を訪れた延宝5年(1677年)の時期は、義央が黄金堤を築造したとされる貞享3年(1686年)、妻の富子の眼病治癒を期に富好新田の干拓を行ったとされる元禄元年(1688年)から、10年ほど前のことであり、黄金堤・富好新田の干拓が行なわれたという時期とは、10年ほどの開きがあり、一致が見られない。
  • 上記のように、治水・新田開発を行ったとされる時期と義央が実際に領地を訪れた記録に一致が見られず、また、吉良家にとって一大事業であったはずの黄金堤築造や富好新田の干拓などが当時の『吉良家日記』に記述・記録が見られないこと。そして、当時の吉良家が上杉家(米沢藩)に多額の借金の肩代わりなどをさせていた・して貰わなければならない経済的状況にあったことなどから、多額の資金を必要とする、こうした事業は経済的な面から見ても不可能であったと考えられるため、義央が行ったとされる上記のような治績は、実際には、当時の吉良義央や吉良家が行なったものではなく、後世の領主や幕府などが行った治績である可能性が高いと見られている[7]
  • 吉良荘があった矢崎川流域は新田開発によって発展した地域であり、吉良領周辺にも「新田」と名が付く地名も多く見られる地域である。また、新田開発自体、江戸期を通して幕府から推奨されており全国各地でその取り組みが行われていた[8]。これらの事を考えると新田開発が義央の特出した治績であったとは言いがたい。
  • 塩田開発に関しては、義央が刃傷事件に遭遇した元禄14年以前に開発されていた三河国幡豆郡の塩田は、本浜及び白浜のみで、このうち本浜塩田が所在する吉田村は甘縄藩松平領、白浜塩田が所在する富好外新田村は幕府領でいずれも吉良領ではない。そもそも吉良家の歴史の中で塩作りを行ったという記録は一件もなく、吉良家が塩田に関わった説の初出は戦後とされ、NHK大河ドラマ『峠の群像』で世間に広まったと言われている[9]
  • 吉良町には赤馬という郷土玩具が存在し、これは義央が黄金堤を築いた際に当地を訪れ、現地を赤馬に乗って作業を視察したという言い伝えに由来すると言われている。郷土玩具の赤馬は義央の死後130年ほど後の天保年間になってから作成が始まったものである。そもそも「赤馬」自体は全国各地の郷土玩具に散見するモチーフの一つで、吉良の郷土玩具として全国的に知名度が広まったのは、戦後五代目の田中清一の時からである。その後、六代目になって愛好家からの要望で、初めて商品に「白馬」と「殿様」が加わった[10]
  • 「黄金堤」という名称についても、築堤によって水害を終息させ農業生産の安定に寄与した義央の遺徳を偲んで称されるようになったとされるが、実際に義央が築堤したとする根拠は乏しい。 1991年に行われた発掘調査では吉良義央の築堤という伝承を支持する年代観は得られず、「その領国政策については伝承のみ」とされた。また、黄金堤の名称とその存在の初現については、明治17年の瀬戸村整埋図に「番外三十二番黄金堤 長十七間四尺 幅平均九間」とあるのが確認できる最初のものであり、それ以前の現存史料である寛永5年(1623年)岡山村検地水帳・宝永2年(1705年)田畑水帳などには、黄金堤の名称とそうした堤の存在が確認できないことが愛知県埋蔵文化財センターの調査によってわかっている[11]

他の大名家・藩での評判編集

義央には浅野長矩以外の御馳走人にも、いわゆるいじめを行っていたという話が残っており、忠臣蔵が上演される以前から義央が行っていた長矩に対するいじめの話は広く世間に知られていたようである。

  • 浅野が刃傷に及ぶ前、伊予大洲藩主・加藤泰恒出羽新庄藩主・戸沢正庸が日光法会中に受けた義央のいじめを浅野に伝え、お役目を終えるまで耐えよと諭したという話が『冷光君御伝記』や『義人録』などに記されている。
  • また、尾張藩士の朝日重章の日記である『鸚鵡籠中記』に、
「吉良は欲深き者故、前々皆音信にて頼むに、今度内匠が仕方不快とて、何事に付けても言い合わせ知らせなく、事々において内匠齟齬すること多し。内匠これを含む。今日殿中において御老中前にて吉良いいよう、今度内匠万事不自由ふ、もとより言うべからず、公家衆も不快に思さるという。内匠いよいよこれを含み座を立ち、その次の廊下にて内匠刀を抜きて詞を懸けて、吉良が烏帽子をかけて頭を切る」
「吉良は欲が深い者ゆえ、前々から皆贈り物をして頼んでいたが、今度の内匠頭のやり方が不快ということで、何事につけても知らせをせず、事々において内匠頭が間違って恥をかくことが多かった。内匠頭はこれを遺恨に思った。今日の殿中における御老中の前での吉良の言い様は、今度の内匠頭のやることは万事、思うようにならなかったのだから、もとより言うべきではなかった。公家衆も不快に思ったという。内匠頭はいよいよこれを遺憾に思って座を立ち、その次の廊下で刀を抜いて、声をかけて吉良の烏帽子ごと頭を斬った」と記述があり、松の廊下の事件が起こった直後の尾張などでは、こうした評判・風説がすでに広まっていたようである[12]
  • 元禄11年(1698年)、勅使御馳走人となった亀井茲親は義央からいじめを受け、耐えかねた茲親は家老の多胡真蔭に洩らしたという。真蔭は主君を諫める一方で、密かに金遣役を呼んで納戸金一箱を取り出させ、茶菓子のなかに入れて手土産として吉良邸へ持参し、主君の無礼を詫びたうえ、指導引き回しを懇願して帰邸。翌日より茲親への態度が急に優しくなったので事なきを得た、という話が津和野名産の茶菓子源氏巻誕生の逸話として残っている。この逸話の初出は、大田南畝(蜀山人)の『半日閑話』(1768~1822年)とされている。

養子縁組や娘の嫁ぎ先編集

上杉家(米沢藩)家臣たちからの評価も芳しくなかった。それは上杉家では義央の長男・三之助(後の上杉綱憲)が上杉家の養子となって以降、吉良家の買掛金や普請を負担し、支払うのが慣例となっていたからである。

  • まず、延宝4年(1676年)に、吉良家が町方に未払いでためていた6000両を上杉家が上方からの借金で年1000両を支払い、6年間で返済[13](1両=10万円計算で、現在の価格でおよそ6億円)。
  • 続いて、天和元年(1681年)に、『上杉家御書集成』の6月8日付の須田右近書状に「上野介様の御身上はかねて御不如意に候いて、御迷惑なされ候、なかんずくこの頃は呉服所の伊兵衛と申す者が町奉行へ書付を指し上せ候……」とあるように、吉良家がためた買掛金を一向に支払わないため、呉服所の伊兵衛が町奉行へ訴え出るということが起こり、訴え出た呉服所の伊兵衛を始めとして、さがみ屋又兵衛・薪屋庄兵衛などの町方・商人十人ほどにためていた吉良家の買掛金2780両を上杉家が肩代わりしている[14](2億7000万円相当)。
  • そして、元禄11年(1698年)には、勅額火事により鍜治橋にあった吉良邸が焼失したため、呉服橋に新邸を建てることとなり、その建設にかかった費用の2万5500両も上杉家が負担している[15](25億5000万円相当)。
  • 更に、これらに加えて、米沢藩の分限帳に、「一、五千石 御前様(義央の妻の富子) 一、千石 鍜治橋様(吉良義央)」とあるように、上杉家から吉良家に毎年6000石の援助を行っていた。(ただし、確認できるのは寛文2年(1662年)から延宝4年(1676年)までなので、1石=1両として、6000両×13年=7.8万両)[16](現在の価格で総額78億円相当)。

なお、当時の上杉家の江戸家老の色部安長の知行(石高)は1666石。色部安長の前任で江戸家老を務めた千坂高房は1565石。上杉家で色部氏と共に最上位に遇され、米沢藩が削封されてから福島城代から代わって鮎貝城代(御役屋将)を命ぜられ、上杉家の軍大将(軍奉行)も兼ねた本庄政長は1666石だったので、当時の上杉家で最上位に位置していた、これら上士(上級藩士)の三家を合わせた石高よりも更に多い俸禄を上杉家は毎年、吉良家に仕送りしていたということになる。

上記のように、上杉家は吉良義央の長男を養子とすることで改易を免れたという立場上、そしてその義央の息子である上杉綱憲が藩主となったことなどから、所領が半減されるなどの苦しい藩財政にありながらも吉良家に対して何かと支援し、金銭を工面しなければならなかったのである。そのため、吉良家に対して、多額の肩代わり・資金援助を行わなければならなかった当時の上杉家の江戸勘定方、須田右近は国元の米沢藩にあてた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と書き残している[17]

  • 島津光久の継室で公家の平松時庸の養女であった陽和院が松の廊下の事件について、兄の平松時量に送った「陽和院書状」という書状が現存している[18]。陽和院は光久の継室であったため、血の繋がりはないものの、光久の孫である島津綱貴の祖母といえる立場にあり、その孫の綱貴に嫁いでいた吉良義央の娘の鶴姫とはいわば、大姑の関係にあった人物でもあった。松の廊下の事件が起こった当時、江戸にいた陽和院は京都にいた兄の平松時量に宛てて、以下のような書状を送っている。
「十四日御しろの事めつらしき事、きら殿人かわろく申候事ニて御さ候、仰せのことく再々御くたりあそハし候へとも、しせんよき時分ニて御さ候つる、何事もわれからの事とそんし候」
「十四日に江戸城で珍しい事が起きました。これは吉良殿の人が悪いためです。(時量殿も)仰せによって何度か江戸へ下向されていますが、よい時に来ていました。何事も自分の身からでたことと思われます」

すでに義央の娘、鶴姫と島津綱貴とは1680年に離縁しているためか、陽和院の書状の内容は義央に対して同情心めいたものは見られず、冷淡な反応を示している。ちなみに、延宝8年(1680年)11月20日に島津綱貴から離縁された鶴姫はその後、実家の吉良家には戻らず、養家であり、弟である上杉綱憲のいる上杉家に戻って七姫と改名している。そして、その後も上杉家下屋敷の白金藩邸に住み続け、再婚しないまま、宝永5年(1708年)年9月25日に死去したという。享年49歳。

朝廷編集

松の廊下での刀傷事件が伝わった当時の朝廷の反応・様子を伝えるものとしては、当時の関白であり、朝廷内で親幕府派であった近衛基熙の日記である『基煕公記』、当時の参議であった東園基雅の日記の『東園基長卿記』、そして、東園基雅の父であり、有職四天王と称された一人でもあった東園基量の日記の『基量卿記』などがある。

  • このうち、『基煕公記』では吉良が刃傷されたことについて、近衛が3月19日に「珍事」とおもしろげに記しており、3月20日に近衛が参内した時に、松の廊下の事件について書かれた書状を東山天皇がご覧になられた際の様子については「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と天皇が喜ばれていたこと、そして、近衛が高野前中納言と密かに吉良が斬りつけられた件について話した際に、高野が心中、歓悦している(大変喜んでいる)と述べたことなどが書かれている[19]。なお、近衛が3月20日に参内した時、天皇や近衛に伝わった情報は『基煕公記』の3月20日に「浅野内匠頭は田村右京亮に預けられ、吉良の生死は未だ知られずと、先ず注進があり」と書かれている。事件の報告として吉良の生死不明な状態である事が先に伝わっていたことから、長矩が本懐を遂げたかどうかではなく、吉良が刃傷に巻き込まれた事について喜ばれたと考えられる。
  • また、当時の参議であった東園基雅の『東園基長卿記』には、浅野長矩が切腹の上、一家滅亡することを伝え聞いた基長が「三月二十六日、晴れ、伝え聞くに、去る十四日……内匠頭乱心これより相極り、その夜切腹といい、これより一家滅亡といい、とても不憫である。所存が達せられず、かつ、家中以下は流浪とこれ至り、不憫なり」と書いている[20]
  • そして、その基長の父である東園基量の『基量卿記』も同様に、「三月二十日、晴れ、伝え聞くに、去る十四日に武江城(江戸城)に於いて浅野内匠頭が吉良上野介を刃傷したが、然れども吉良は死門に赴かず、浅野内匠乱気による沙汰と有り、夜に入りて切腹といいつけられ、一家は滅亡という。存念が達せられず、とても不憫である。当日、これより御返答申され、白書院は流血で不浄の間となり、黒書院において御清めが有ったという」と書いており[20]、東園父子は、どちらも浅野と赤穂藩の処遇に対して同情を示しており、不憫であると書き残している。

そして、これらの当時の朝廷に仕えていた三者の史料から判断する限りでは、親幕府派であった近衛基熙も含めて、当時の朝廷側は、吉良義央に対しては冷たく、浅野長矩に対しては同情的であったことが読み取れる。ただ、当時の吉良氏の立場としては、幕府の方針を忠実に実行しただけとはいえ、義央は幕府による朝廷抑制政策の通達役に立つことが多く、そのため、天皇もまた義央に含むところがあったという見方もある。しかしながら、綱吉の時代であるこの時期は、御料(皇室領)が1万石から3万石に増加し、幕府嫌いといわれる霊元天皇に代わって、親幕派であった近衛基熙らの補佐を受けて東山天皇が親政を行っていた時期でもあり、朝廷と江戸幕府との関係はおおむね良好に推移していたとされている。

幕府編集

江戸幕府が編纂した『徳川実紀』の元禄十四年三月十四日条には、以下のように書かれている[21]

「世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて、積年朝儀にあづかるにより、公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし。よって名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し、毎事その教を受たり。されば賄賂をむさぼり、其家巨万をかさねしとぞ。長矩は阿諛せす、こたび館伴奉りても、義央に財貨をあたへざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて、何事も長矩にはつげしらせざりしほどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみ、かゝることに及びしとぞ」

幕府は吉良義央が礼節典故を熟知し、精錬していることに関して、右に出るものはいないと高く評価している。 しかしながら、その反面、その立場などから賄賂を貪り、巨万の金額を得ていたこと。長矩が阿順せず、賄賂を渡さなかったことを憎んで、何事についてもいやがらせをしたことから恨みを買ったために、あのような顛末になった、ということも記している。

茶人編集

茶人としての義央は、茶匠千宗旦の晩年の弟子の一人であり、『茶道便蒙抄』を著した茶人山田宗偏などとも親交を持っていた。「卜一」(ぼくいち・上野介の上の字を二分したもの)という茶の号を持ち、卜一流を興していた。

  • その一方で、松の廊下の事件が起こるおよそ3年前、佐賀鍋島藩の支藩である鹿島藩の江戸留守居の公用日記『御在府日記』の元禄11年(1698年)9月2日の記述に「吉良上野介様より香炉御所望に付き、獅子香炉・町伯荒木酒一器副え、御手紙にて陸使にて遣わされ候、唐冠香炉御所望に候へども之無く、右の香炉有り合わせ候由にて遣わされ候」、同じく、11月15日の記述に「吉良上野介様卓香炉一つ、花色染付大花生一つ、袖香炉二つ物恕付一つ、遣わされ候」などが見えるように、義央が所望したため、度々、家宝や茶道具をいくつも用立てていた鹿島藩のような藩もあった[22]
  • また、秋田藩の家老岡本元朝の『岡本元朝日記』にも松の廊下の事件から10日後に書かれた義央に関する記述として、
「吉良殿日頃かくれなきおうへい人の由。又手の悪き人にて、且物を方々よりこい取被成候事多候由。先年藤堂和泉殿へ始て御振舞に御越候時も、雪舟の三ふく対御かけ候へは則こひ取被成候由。け様之事方々にて候故、此方様へ御越之時も出入衆御内々にて目入候能(よき)御道具被出候事御無用と御申被成候由ニ候。」などがあり、
「吉良殿は日頃から横柄な態度で有名な人物だということです。また手の悪い人で、方々から物をせびりなさる事が多いということです。先年、藤堂和泉殿(伊勢津藩主)へはじめて御振舞に御越になった時も雪舟の三幅対の御掛け軸をかけたところ、せびって自分の物にしたということです。このような事を方々でなされるので、こちら様へ御越の時も御出入の旗本衆が内々に、よい御道具は出されない方がよいと御申しなされたという事です」と書かれているように、義央は他の大名の屋敷に赴いた際などにも、家宝や茶道具などを所望し、持って行ってしまうことが多々あったようである[23]

吉良家の所領近隣の評価編集

吉良家には領地としては三河国幡豆郡吉良庄、岡山、横須賀、乙川、饔場、小山田、鳥羽、宮夾の八箇村の3200石、上野国緑野郡の白石村、碓氷郡の人見村、中谷村の三箇村の1000石、計4200石の領地があった。このうち、上野国碓氷郡人見村では、隣村である磯部村において、村の水不足を解消するために磯部村領主の仙石因幡守久俊によって1658年から用水工事が計画・開始されたが、領地を接する吉良氏の反対・妨害にあい、この工事は1666年から1668年の間、難航・頓挫した。
この吉良氏からの妨害を退けるために久俊は自らの領地を返上し、工事を幕府主導による直轄工事とすることによって1673年に人見堰を完成させた。この治績から久俊は領民によって深く感謝されて稲葉大権現として祀られ、その功績を讃えて建立された石祠・頌徳碑などの関連史跡は、現在では安中市の指定史跡となっている[24]

備考編集

義央以外の高家衆編集

刃傷事件があった元禄14年(1701年)、義央は高家肝煎の地位にあったが、当時の高家は彼を含めて9人いた。義央以外では畠山基玄(従四位上侍従)・大友義孝(従四位下侍従)・品川伊氏(従四位下侍従)・京極高規(従四位下侍従)・戸田氏興(従四位下侍従)・織田信門(従五位下侍従)・畠山義寧(従五位下侍従)・横瀬貞顕(従五位下侍従)である(元禄14年当時)。

このうち、吉良義央・畠山義寧・大友義孝の3人が高家肝煎職であったが、中でも義央は高家肝煎職の最古参であり、かつ唯一の左少将であった。高家筆頭と呼ばれているのはこのためである。

江戸っ子と田舎大名編集

義央が浅野長矩を「田舎大名」と愚弄した根拠はない。ただ、義央も三河国愛知県)などに領地を持つ旗本である。両者の違いは、旗本と大名の問題に起因している。旗本は自らの領地に入ることがほとんどなく、家臣を代官に任命して派遣し、すべてを任せている場合がほとんどである。義央も領地三河国幡豆郡吉良庄に入ったのは一度のみで、上野国緑野郡白石村と碓氷郡人見村に至っては一度も行ったことがない。そのため、旗本が領地にアイデンティティを持つことはほとんどない。一方、大名(特に外様大名)は参勤交代で隔年に領地に入るので、領地にアイデンティティを持つ傾向が強かった。旗本や譜代大名からは「田舎大名」と失笑を買うことがあった。

当時の賄賂編集

勅使饗応役に就任するのは、4万石から7万石前後の所領を持つ城主の外様大名、院使饗応役に就任するのは1万石から3万石前後の陣屋の外様大名であることが多かった。任ぜられた大名が高家から指南を受ける場合、指南料や何らかの贈り物をするのが慣例となっていた[5]。そうした中、当時の文献には義央が暗に賄賂を要求したが浅野長矩が十分な賄賂を送らなかったことが両者の不和の原因だとするものがある。

松之大廊下で刀傷事件が起こった時には、二回目の勅使饗応役である浅野長矩は義央に指南料として黄金1枚(元禄大判1枚=約100万円)・巻絹1台・鰹節一連を贈っている。饗応役の指南料の相場については、はじめに「御馬代」といった名目で大判金を1枚、無事に役目を果たした後に、さらに大判金1枚を贈るのが慣例だったとされている[25]。なお同時期に、上皇からの使者を接待する院使饗応役を任じられた伊予吉田藩主の伊達宗春は、大判100枚(約1億円)・加賀絹数巻・狩野探幽の竜虎の双幅を贈っている[25]。浅野は相場相当の指南料を、伊達は相場よりかなり高額の金品を義央に指南料として支払っていたことになる。

そもそも、松之大廊下で刀傷事件が起こったこの時期は、義央は1月28日から年賀の使者として朝廷に参内するために京都へ上京しており、2月29日まで江戸には戻れなかった。そのため義央が江戸に戻るまでの約1カ月の間、他の高家が饗応役に関する指南を行っていた。実際2月には浅野が高家の畠山義寧に勅使饗応の費用の相談をし、畠山から接待費用を700両で良しとする了承を得ている。これらの事から、畠山らが義央不在の間の指南役として重要な役割を果たしていたと考えられる[26]。直接、義央が指南役を行ったのは3月1日から事件が起こる3月14日までの二週間ほどの間となる。浅野・伊達の両大名が役目に就任した2月2日から3月14日までが全体の指南期間と考えると、義央は差添役として限られた期間のみ指南役を行っていたこととなり、浅野・伊達の両大名から上記のような額の指南料を貰うのは、非常識であったという指摘がある。

義央の木像編集

元禄2年(1689年)に吉良義央は家臣に命じて、華厳寺の西側に霊屋を建て、三基の厨子を並べ、中央に吉良義安の木像を安置し、左に義定の木像、右に義央の自像を安置したという。義央が父祖幾代の像を差し置いて、自己の像を安置したのは僭越の行為であったとされ、義央自身、「生前自身に像を安置するのは憚あれど、五十に達するに遠慮は及ばず」として、敢えて像を安置したという[27]

吉良と大石の縁戚関係編集

吉良義央と大石良雄の2人は、近衛家諸大夫進藤家と斎藤家を通じる形で遠縁がある。義央から見れば、妻の母親の実家を継いだ者が大石家の血の流れる者だったということになる。しかし、事件前から面識があったかどうかは不明である。

進藤長治
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大石良信
 
 
 
長滋
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
良勝
 
 
斎藤本盛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
良欽
 
 
 
長定俊盛生善院
 
 
 
上杉定勝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
良昭長房斎藤宣盛宣盛富子
 
 
吉良義央
 
 
 
 
 
 
良雄

偏諱を与えた人物/名前の読みについて編集

の読みは従来「よしなか」とされていたが、愛知県西尾市の華蔵寺に収められる古文書の花押などから、現在では「よしひさ」と考えられている。

伝記編集

  • 鈴木悦道『新版 吉良上野介』(中日新聞社、1998年) ISBN 4806203025
  • 中津攸子『吉良上野介の覚悟』(文芸社、2001年) ISBN 4835513541
  • 岳真也『吉良上野介を弁護する』(文春新書、2002年) ISBN 4166602853

吉良義央を題材とした作品編集

吉良義央を演じた俳優に関しては赤穂事件を題材とした作品を参照。

出典編集

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  1. ^ 宮澤誠一『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」』 1999年。93-95p。吉良上野介の本所への屋敷替えについて「隣家の蜂須賀飛騨守内匠頭の家来が吉良邸へ斬り込んでくるのを日夜警戒していたが、出費もかかり困り果てて老中に屋敷替えを願い出た」「この風評は『江赤見聞記』巻四にも似たような話が記されている」
  2. ^ 『赤穂市史』第1巻
  3. ^ 「米沢塩井家覚書」
  4. ^ 『上杉家御年譜 第6巻 綱憲公』
  5. ^ a b 山本博文 『赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)』 吉川弘文館
  6. ^ 黄金堤(こがねづつみ) - 愛知エースネット/愛知県総合教育センター
  7. ^ a b c 西尾市史編さん委員会編『吉良家日記』
  8. ^ 町人の進めた干拓 水土の礎 - (一社)農業農村整備情報総合センター
  9. ^ 塩と歴史くらしお古今東西 塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会
  10. ^ 吉良の赤馬 あいちの地場産業 - 岡崎信用金庫
  11. ^ 「黄金堤発掘調査報告」愛知県埋蔵文化財センター年報 1991.3
  12. ^ 朝日文左衛門[原著] 加賀樹芝朗著『朝日文左衛門「鸚鵡篭中記」』雄山閣
  13. ^ 藩政史研究会編「藩制成立史の綜合研究 米沢藩」
  14. ^ 渡辺誠『直江兼続と上杉鷹山』
  15. ^ 小野栄「米沢藩」
  16. ^ 米沢市史編さん委員会編『米沢市史』
  17. ^ 上越市史専門委員会中世史部会編『上杉家御書集成』
  18. ^ 『広島大学所蔵猪熊文書』 福武書店
  19. ^ 宮内庁書陵部『基煕公記』
  20. ^ a b 中央義士会 編[他]『赤穂義士史料 上巻』 雄山閣 昭和6年
  21. ^ 成島司直 等編『徳川実紀』経済雑誌社
  22. ^ 三好不二雄 編『鹿島藩日記』
  23. ^ 岡本元朝著 秋田県公文書館編『岡本元朝日記』
  24. ^ 安中市市史刊行委員会『安中市史 第2巻』(通史編)
  25. ^ a b 中江克己著『忠臣蔵の収支決算』
  26. ^ 水間沾徳『沾徳随筆』
  27. ^ 義士叢書刊行会 編赤穂義挙録. 上

参考文献編集

  • 月刊『TOWN-NET』「忠臣蔵で江戸を探る脳を探る」(1998-99年・百楽天著)
  • 宮澤誠一 『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』 三省堂、1999年(平成11年)。ISBN 978-4385359137

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ 『朝日新聞』2013年12月15日29面(東京西部朝刊)。

外部リンク編集

先代:
吉良義冬
吉良高家(三河吉良氏)当主
第3代:1668年 - 1701年
次代:
吉良義周