原爆切手

原子爆弾やそのキノコ雲などを図案とした切手

原爆切手(げんばくきって)とは、原子爆弾やそのキノコ雲などを図案とした切手である。これまでにいくつか発行されているが[1]、中でも日本では、アメリカ合衆国郵便公社1995年平成7年)に発行を予定し1994年(平成6年)末に日米間で政治問題化したものが知られている[2]

1990年以前の原爆切手 編集

「小さな外交官」とも呼ばれる切手[2]、発行する国家の政策やイデオロギーなどを表現する手段ともなっている[3]。世界で初めて1945年昭和20年)8月6日広島市投下され[4]30万人以上の命を奪い去った原子爆弾[5]反核平和を訴える格好の題材として、いくつかの国で切手の図案となっている[6]

1990年以前に発行された原爆切手としては以下のようなものが知られている。

これらの多くは反核・平和を趣旨とするものであった[6]。ただ、北ベトナム1967年に発行された切手は、水素爆弾を示す「H」と書かれた提灯を咥えて飛ぶハトを描いたデザインで、これは同年に行なわれた中国初の水爆実験が成功したことを祝って発行されたものである[6]

アメリカが発行を予定した原爆切手 編集

現地時間の1994年平成7年)11月29日(日本時間11月30日)、アメリカ合衆国郵便公社はマスコミに向けて翌1995年(平成8年)に発行予定のすべての切手の図案を事前発表した[8]。その中には、1991年(平成3年)から毎年発行してきた[9]第二次世界大戦シリーズの最終第5集となる9月発行予定の切手シートも含まれていた[8]。日付は明示されなかったが、対日戦勝記念日である9月2日に発行予定だったとされる[10]。そのシートに含まれる10種の切手の中に、タテ26ミリメートル、ヨコ40ミリメートルのサイズで[11]原爆投下を象徴するキノコ雲の図案と、その下に「Atomic bombs hasten war's end[8][12]原爆戦争終結を早めた[13])」との説明がつけられた一枚があった[8][14]。アメリカ合衆国郵便公社の報道官は、第二次世界大戦を伝えるうえで原爆投下は外すわけにはいかないとし、「(選ばれた一〇の図案は)それぞれ歴史的に正しく公平な見方を示している」と説明した[15]

これに対して日本のマスコミは11月30日付けの夕刊以降[16]、批判的に報道した[8]内閣総理大臣村山富市が「(日本の)国民感情を逆撫でするようなことは困る」とコメントしたのをはじめ、副総理外務大臣河野洋平厚生大臣[注釈 1]井出正一など政府首脳が相次いで不快感を表明[17]広島市長平岡敬は「原爆の使用は正しかったという認識につながる。核兵器の使用は理由を問わず許されない」、長崎市長本島等も「戦後のソ連に対する優位性の確立を狙ったという認識が欠落している」と強く批判した[18]

日本側の反発に対してアメリカ合衆国郵政公社は、当初、「歴史的に重要な事実である」[8]国務省国防総省専門家の意見も聞きながら大戦全体として図案を決定した」「それぞれの切手は史実に基づき、大戦へのアメリカのかかわりを示している」[19]などとして予定通りの発行を譲らなかった[8][19]。しかし、12月6日の閣議後には郵政大臣大出俊が「もしアメリカがこんな切手を出すのなら、対抗して、日本も”原爆投下は国際法違反”と書いた切手を発行したいところだ」と述べるなど[20]日本側の反発は日を追って強まった[19]。こうした状況に日米関係の悪化を懸念したホワイトハウスが介入[8]。12月8日にアメリカ合衆国郵政公社は、大統領からデザインの変更が妥当との見解が示されたとして、「日米関係の重要性に考慮」して原爆切手の発行を撤回した[21][22]。キノコ雲に「原爆が戦争終結を早めた」との説明を加えた図案は、「勝利を発表するトルーマン大統領」に差し替えられた[12][11]

その後の原爆切手 編集

アメリカが発行を予定していた原爆切手が日米間で物議を醸したのちの1995年平成7年)夏、マーシャル諸島が原爆切手を発行した[23]。タテ31ミリメートル、ヨコ51ミリメートルのサイズで、エノラ・ゲイキノコ雲を描いたものであった[23]。タブには、1945年昭和20年)8月6日昭和天皇が発したとされる「忍びがたきを忍び、我々はできるだけ早急にこの戦争を終結させなければならない」という言葉が印刷されている[23]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 厚生省は、被爆者の援護を所管していた。

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g 亀山久尚「気象の切手209 原爆きのこ雲の切手」『気象』第358号、財団法人日本気象協会、1987年2月15日、6頁。 
  2. ^ a b 内藤 2003, p. 6.
  3. ^ 内藤 2003, p. 272.
  4. ^ a b c d 押山 1966, p. 27.
  5. ^ 内藤 2003, p. 167.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 特集 世界の平和切手~ピカ研資料から 国境超え心つなぐ「外交官」”. 10代がつくる平和新聞 ひろしま国. 中國新聞社. 2022年1月15日閲覧。
  7. ^ 内藤 2010, p. 60.
  8. ^ a b c d e f g h 植村 1996, p. 203.
  9. ^ 内藤 2003, pp. 145–148.
  10. ^ 内藤 1996, pp. 188–189.
  11. ^ a b 植村 1996, p. 204.
  12. ^ a b 内藤 1996, p. 190.
  13. ^ 内藤 1996, p. 189.
  14. ^ 内藤 2003, pp. 145–146.
  15. ^ 内藤 2003, p. 146.
  16. ^ 内藤 1996, p. 191.
  17. ^ 内藤 2003, pp. 166–167.
  18. ^ 内藤 2003, p. 168.
  19. ^ a b c 内藤 2003, p. 169.
  20. ^ 内藤 1996, p. 195.
  21. ^ 内藤 1996, p. 198.
  22. ^ 内藤 2003, p. 174.
  23. ^ a b c 植村 1996, p. 205.

参考文献 編集

  • 植村峻『切手の文化誌』学陽書房、1996年。ISBN 4-313-47004-2 
  • 押山保明「アフリカの切手9 原爆禁止の切手」『月刊アフリカ』第6巻第9号、社団法人アフリカ協会、1966年。 
  • 内藤陽介『それは終戦からはじまった-新視点から見た戦後史』日本郵趣出版、1996年。ISBN 4-889-63524-6 
  • 内藤陽介『外国切手に描かれた日本』光文社、2003年。ISBN 4-334-03189-7 
  • 内藤陽介『事情のある国の切手ほど面白い』メディアファクトリー〈メディアファクトリー新書007〉、2010年。ISBN 978-4840134934 

関連項目 編集