メインメニューを開く

大山村(おおやまむら)とは、千葉県長狭郡(のちに安房郡)にかつて存在した村である。現在の鴨川市の西部に位置している。1889年(明治22年)、町村制施行にともない編成され、昭和の大合併により廃止された。

大山村
廃止日 1955年3月31日
廃止理由 新設合併
大山村吉尾村主基村長狭町
現在の自治体 鴨川市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 千葉県
安房郡
面積 21.13km2
総人口 2,794
(1950年、国勢調査
隣接自治体 安房郡勝山町富山町丸山町、吉尾村
君津郡関豊村環村
大山村役場
所在地 千葉県安房郡大山村
大山村 (千葉県)の位置(千葉県内)
大山村 (千葉県)
 表示 ウィキプロジェクト

目次

地理編集

 
現代の大山千枚田(大字釜沼。2016年5月)

現在の鴨川市域(ひいては、かつての長狭郡域)で最も西にあたる地域である。長狭平野の最も奥まった場所で、加茂川の上流にあたり、房総半島を横断する古い交通路である長狭街道が通る。

現在の鴨川市域を、鴨川市成立時およびその後の合併時の町村によって4地区に区分する場合、旧大山村の地域は「長狭地区」の一部に位置付けられている。鴨川市域を町村制施行当時の町村(旧町村)によって12地区に区分する場合は「大山地区」とされ[1]、現在の大字では平塚(ひらつか)・金束(こづか)・古畑(こばた)・奈良林(ならばやし)・佐野(さの)・釜沼(かまぬま)・大山平塚(おおやまひらつか)が含まれる[1][注釈 1]

1926年(大正15年)時点の大山村は、東に吉尾村、西は佐久間村および君津郡駒山村、南は嶺岡山脈を隔てて丸村平群村、北は君津郡豊岡村・駒山村に接していた[3]:1085。当時は全村を平塚金束古畑奈良林佐野釜沼の6区に分けていた[3]:1085

歴史編集

前近代編集

平塚にある大山寺高蔵神社は、神亀元年(724年)に良弁によって建立されたと伝承される古い寺社である[4]

江戸時代には、嶺岡山地周辺には江戸幕府の嶺岡牧が置かれた。のちの大山村の村域南部は嶺岡西一牧・嶺岡西二牧とされていた[5]

近代編集

 
安房郡域の町村制施行時の町村
(※1897年に平郡・朝夷郡・長狭郡を安房郡に編入)
1.北条町 2.館山町 3.豊津村 4.西岬村 5.富崎村 6.長尾村 7.豊房村 8.神戸村 9.館野村 10.九重村 11.稲都村
平郡】21.凪原村〔のち那古町〕 22.船形村 23.八束村 24.富浦村 25.岩井村 26.勝山村 27.保田村 28.佐久間村 29.平群村 30.滝田村 31.国府村
朝夷郡】41.白浜村 42.七浦村 43.曦村〔のち千倉町〕 44.健田村 45.千歳村 46.豊田村 47.丸村 48.北三原村 49.南三原村 50.和田村 51.江見村
長狭郡】61.太海村 62.大山村 63.吉尾村 64.由基村〔のち主基村〕 65.田原村 66.鴨川町 67.曽呂村 68.西条村 69.東条村 70.天津村 71.湊村〔のち小湊町〕
現在の行政区画
赤:館山市 桃:鴨川市 紫:南房総市 橙:鋸南町

1878年(明治11年)、千葉県に郡区町村編制法が施行されると、平塚村は一村で戸長役場を置き、古畑村・奈良林村・佐野村・金束村は連合戸長役場を金束村に、釜沼村・大幡村・北風原村[注釈 2]は連合戸長役場を大幡村に置いた[3]:1087。1884年(明治17年)に戸長役場の管轄変更が行われた際[6]、平塚村と金束村が連合し、古畑村・奈良林村・佐野村は釜沼村・大幡村・北風原村と連合して大幡村に連合戸長役場を置いた[3]:1087

1889年町村制の施行により平塚村・金束村・古畑村・佐野村・釜沼村・奈良林村および嶺岡西牧[注釈 3]が合併して大山村が発足した[6]。新村名は、平塚村字大山にある郷社「大山神社」(高蔵神社)[注釈 4]から採用された[6]。村役場は村域の中央にあたる金束に置かれた[3]:1087

行政区画・自治体沿革編集

経済編集

1888年(明治21年)に記された分合取調文書によれば、住民はおおむね農業で生計を立てていたとある[6]

1926年(大正15年)の『安房郡誌』によれば、「土地豊饒にして農耕に適す」とされる村の主たる生業は農業であり、[3]:1088。畜産・養蚕・園芸・薪炭・養鶏等の副業は「甚だ盛ん」とされている[3]:1088。特に畜牛と養蚕は郡内屈指の地位にあるとされる[3]:1088

畜産業・乳業編集

峯岡牧嶺岡牧場)周辺は日本の酪農史で大きな役割を果たした地域であった。明治20年代頃からは民間でも酪農業が盛んになり[7]、大正期から昭和戦前期にかけ、安房地方は日本の煉乳生産の中心地のひとつとなった[8]

当地出身の竹沢弥太郎は、1879年(明治12年)に東京に出て築地で牛乳店を開いた[7]。安房出身者が東京で牛乳販売に携わった早い事例とされる[7]

竹沢弥太郎は1881年(明治14年)に米国産短角種の種雄牛1頭を導入するなど[7]畜産業において先駆的な役割を果たし、1887年(明治20年)に有志が設立した安房種畜組合では頭取となった[7]。竹沢は1890年(明治23年)に渡米してホルスタイン種50頭を輸入し、郡内で販売したり農家に預託したりするなど普及に努めた[7]。1912年(明治45年)には、千葉県畜牛共進会が大山村で開催された[7]

1893年(明治26年)、東京海陸社[7]の根岸新三郎が、金束に「安房煉乳所」を創設、練乳・バターの生産に乗り出した[8]。これは安房郡で最初に設立された煉乳工場であった[8]。しかし安房煉乳所は経営不振のため経営者が転々とし、1903年(明治36年)磯貝岩次郎[注釈 5]の所有となり(磯貝煉乳所に改称)、ようやく経営が安定した[8]。磯貝煉乳所の「鳳凰印」練乳は品質面でも評価され、明治屋にも特約販売された[8]

1916年(大正5年)、竹沢太一(竹沢弥太郎の子[7])らによって「房総煉乳株式会社」が設立された(本店:大山村金束[8])。竹沢は、安房地域の牛乳加工業の不振を資本が過少であることに求め、群小の業者(ほとんどが個人経営だった)の糾合を目指し、大山村の磯貝煉乳所を買収して磯貝を取締役に迎え、会社を設立したのであった[8]。1917年(大正6年)4月16日、明治製糖が房総煉乳に資本参加し[8]、以後その資本力で安房郡の煉乳工場をほぼ手中に収めた[8]。房総煉乳は1920年に明治製糖傘下の東京菓子株式会社(のちの明治製菓)と合併して解散するが[8]、その事業はのちの明治乳業に至ることになる。

交通編集

名所・旧跡・祭事編集

人物編集

  • 千葉千代世 - 政治家、衆議院・参議院議員。1907年平塚生まれ

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 大字の読みは日本郵便の郵便番号検索[2]による。
  2. ^ 大幡村・北風原村はのちに吉尾村の一部となった。
  3. ^ 嶺岡西牧は嶺岡牧の一部で、いずれの村にも属さない地域であった[6]
  4. ^ 高蔵神社は長狭21村の郷社とされた[4]
  5. ^ 吉尾村長を務めた人物である(在任:明治25年 - 明治27年)[3]:1087

出典編集

  1. ^ a b 大字別世帯数および人口 (pdf)”. 鴨川市統計書 平成28年版. 鴨川市役所. pp. 18-19. 2018年3月30日閲覧。
  2. ^ 郵便番号検索
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 千葉県安房郡教育会 編『千葉県安房郡誌』千葉県安房郡教育会、1926年。
  4. ^ a b 高蔵神社について”. 高蔵神社. 2018年3月29日閲覧。
  5. ^ 日本近代酪農・乳食文化の源流 嶺岡牧』(pdf)千葉県酪農のさと/嶺岡牧研究所。2018年3月28日閲覧。
  6. ^ a b c d e 「大山村」『明治22年千葉県町村分合資料 十八 長狭町村分合取調』、16-19頁。2018年3月30日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i 安房酪農の歴史”. JA安房. 2018年3月29日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j 佐藤奨平「日本練乳製造業の経営史的研究 ―安房地域を中心として―」 (pdf) 『乳の社会文化学術情報』第2巻、乳の社会文化ネットワーク、2015年2月、 31-55頁、2018年3月28日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集