奥平昌成

江戸時代中期の大名。下野宇都宮藩主、丹後宮津藩主、豊前中津藩初代藩主。中津藩奥平家5代。奥平昌明(昌章)の次男。大膳大夫、従四位下。子に豊太郎
奥平昌春から転送)

奥平 昌成(おくだいら まさしげ)は、江戸時代中期の大名下野国宇都宮藩主、丹後国宮津藩主を経て、豊前国中津藩の初代藩主。中津藩奥平家5代。

 
奥平昌成
奥平昌成像(奥平神社蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 元禄7年11月6日1694年12月22日
死没 延享3年11月14日1746年12月25日
改名 熊太郎(幼名)、昌成
別名 昌春
戒名 竜源院殿徳翁道見大居士
墓所 東京都品川区北品川の東海寺清光院
官位 従五位下大膳大夫従四位下
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗家重
下野宇都宮藩主→丹後宮津藩主→豊前中津藩
氏族 奥平氏
父母 奥平昌章:岡見氏
兄弟 次郎吉、昌成秋元喬房正室
正室阿部正喬の娘
側室:松嶺院
豊太郎、昌敦昌純、万之丞、松平義峯内藤信興正室、建部長教婚約者、土屋篤直正室、堀田正邦継室ら
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生涯

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元禄7年(1694年)11月6日、宇都宮藩主・奥平昌明(昌章)の次男として生まれる。長兄の次郎吉が早世したために世子となり、同8年(1695年)に昌明の死去により2歳で家督を継いだ。

元禄10年(1697年)2月11日には宮津藩9万石へ移封される[1]。同15年12月14日(1703年1月30日)、元禄赤穂事件が起こると宮津藩士が屋敷前で見張り、引き上げ途中の赤穂義士を咎めて鉄砲洲の旧・赤穂藩邸への接近を阻止している[2][注釈 1]

同16年9月28日1703年)、10歳で綱吉将軍に初御目見する。宝永4年(1707年)12月23日、従五位下・大膳大夫に叙位・任官する。

正徳3年(1713年)、宮津で領内巡検を行う。同年10月26日老中阿部正喬の娘と婚姻する。

享保2年(1717年)2月11日に1万石加増の上で、豊前中津10万石に移封となる。同7年(1722年)3月、藩士に対し、中津藩庁へ先祖書を提出させた。これが、現在に伝わる奥平家臣に関する資料の元となる。

延享元年(1744年)12月16日に従四位下に昇叙する。延享3年(1746年)11月14日に死去した。享年53。跡を次男の昌敦が継いだ。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 江戸名所図会」(築地鉄砲洲)では浜田藩の松平周防守(松平康宦)が通行を阻んだことになっている。

出典

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  1. ^ 坂本俊夫『宇都宮藩・高徳藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月、61頁。 
  2. ^ 奥平家文書「桜井惣右衛門正朝書翰」

関連項目

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