小國 狂二(おぐに きょうじ、1903年8月15日 - 1970年代)は、日本の映画監督脚本家スクリプター劇作家演出家小説家である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。新漢字表記小国 狂二[1][5][6][7][8][9]。本名山田 常次(やまだ つねじ)[1]、あるいは小国 常次(おぐに つねじ)[3][4][10]。一時的に小国 京二とクレジットされることもあり、別筆名に琴代 京平(ことしろ きょうへい)、小国 常次(おぐに じょうじ)がある[1][3][4][10][11]

おぐに きょうじ
小國 狂二
本名 山田 常次 (やまだ つねじ)
別名義 小国 京二
琴代 京平 (ことしろ きょうへい)
小国 常次 (おぐに じょうじ)
生年月日 (1903-08-15) 1903年8月15日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 兵庫県神戸市
死没地 日本の旗 日本 東京都
職業 映画監督脚本家スクリプター劇作家演出家小説家
ジャンル 劇映画現代劇時代劇サイレント映画トーキー)、軽演劇
活動期間 1926年 - 1960年代
配偶者
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人物・来歴

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帝国キネマの小國狂二

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1903年明治36年)8月15日[1][2][3][5]兵庫県神戸市に生まれる[3]。『日本映画監督全集』(キネマ旬報社)を執筆した岸松雄によれば、生年は1905年(明治38年)説もあるといい[1]、本名については、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)に「本名も同じく小國狂二」[2]とあるように、従来それが本名とされていたものを岸は否定し、「山田 常次」であるとした[1]。『放送年鑑 ラジオ・テレビのすべて 1965』(日本放送作家協会)、『文化人名録 第19版 著作権台帳』(日本著作権協議会)、いずれの「琴代 京平」の項目においても、「小国 常次」が併記されているが、岸によればそれはべつの筆名であるという[1]。『文藝年鑑』(日本文藝家協会、1978年)によれば、琴代京平の本名は「小国 常次」であるという[4]

旧制中学校を卒業後[2]関西学院(現在の関西学院大学)に進学するが、1922年(大正11年)、同学を中途退学する[3]新劇の劇団に参加し、座付作者として活動を始める[1][2]マキノ・プロダクションと提携関係にあった実川延松延松映画が製作し、1926年(大正15年)3月19日に公開された『怪刀乱舞』にオリジナルシナリオが採用された記録がある[6][7]。同年、 帝国キネマ演芸芦屋撮影所脚本部に入社する[1][2]。1928年(昭和3年)には同社を退社、谷崎十郎が主宰する奈良ヤマト映画製作所で、『因果かづら』と『否通魔』を監督したが、同年4月には帝国キネマ演芸に復帰している[1][6][7]

1932年(昭和7年)には、京都の東活映画社脚本部に入社、脚本を量産するが、同社は同年10月に解散している[1][6][7]

ムーランルージュの琴代京平

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1935年(昭和10年)3月14日に公開された『召集令』(監督・脚色渡辺邦男)には「記録」(スクリプター)としてクレジットされており[6][7][8]、当時は、東京に移住して、同作を製作した日活多摩川撮影所で同様の仕事をしていたと推測される[6][7][8]。1938年(昭和13年)ころには、小沢不二夫の紹介でムーランルージュ新宿座文芸部に参加、同年2月17日には『赤煉瓦の夢』、1939年(昭和14年)9月12日には『裏町株式街』、1940年(昭和15年)9月21日、『福松造船所』を「琴代 京平」の名で作・演出している。このムーランルージュの時代、同年1月15日に大都映画が製作・配給して公開したトーキー新家庭防空読本 新婚爆撃隊』(監督山内俊英)、同じく1942年(昭和17年)1月7日に公開された 『疾風馬車』(監督・脚色小崎政房)にオリジナルシナリオや原作が採用されている[6][7]早稲田大学坪内博士記念演劇博物館には、執筆年代が不明であるが琴代の名で署名された『天才小役一家』、『守錢奴外道 四景』、『巷の相剋 三景』、『春暦 四景』、『模範工場顛末 四景』、『裸の村 三景』、『しぐれの街』の7篇の謄写版台本を所蔵している[12]

第二次世界大戦終了後も、ひきつづき新宿ムーランルージュで自作の戯曲を演出している。1960年(昭和35年)2月2日から同年4月5日にかけて10話連続で放映されたテレビ映画江戸の影法師』(原作寿々喜多呂九平フジテレビジョン)の脚本を「琴代京平」の名で手掛けている[11]。1966年(昭和41年)5月15日に死去した小沢不二夫を偲ぶ会が、その後まもなく開かれ、小国(琴代)はこれに列席しており、そこで再会した岸によれば、当時60代の小国は、東京都小金井市の「小金井市公会堂」(2006年3月閉館)で事務の仕事をしていたという[1]。1960年代には東京都世田谷区大原町(現在の同区大原)に居を構え[3]、やがて府中市北山町に転居、さらに杉並区下高井戸へ転居、晩年を過ごしたとされる[1][4]。岸によれば、同所に転居した後の1970年代後半のある時期に死去した[1]没年不詳

フィルモグラフィ

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クレジットは特筆以外すべて「脚本」である[6][7]。公開日の右側には脚本を含む脚本以外のクレジットがなされた場合の職名[6][7]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9][13]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

初期

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すべてサイレント映画である[6][7]

帝国キネマ演芸芦屋撮影所

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特筆以外すべて製作は「帝国キネマ芦屋撮影所」、配給は「帝国キネマ演芸」、すべてサイレント映画である[6][7]

帝国キネマ演芸

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すべて製作は「帝国キネマ小坂撮影所」、配給は「帝国キネマ演芸」、すべてサイレント映画である[6][7]

東活映画

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すべて製作・配給は「東活映画社」、すべてサイレント映画である[6][7]

フリーランス

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q キネマ旬報社[1980], p.96-97.
  2. ^ a b c d e f 映画世界社[1928], p.133.
  3. ^ a b c d e f g 作協[1965], p.12.
  4. ^ a b c d e 文藝[1978], p.58.
  5. ^ a b c 小国狂二jlogos.com, エア、2013年4月1日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 小国狂二日本映画データベース、2013年4月1日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 小国狂二小国京二琴代京平、日本映画情報システム、文化庁、2013年4月1日閲覧。
  8. ^ a b c d e 小国狂二日活データベース, 2013年4月1日閲覧。
  9. ^ a b c d 小国狂二東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年4月1日閲覧。
  10. ^ a b 著作権[1985], p.64.
  11. ^ a b c 琴代京平テレビドラマデータベース、2013年4月1日閲覧。
  12. ^ 琴代京平早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、2013年4月1日閲覧。
  13. ^ a b 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年4月1日閲覧。
  14. ^ 玩具映画および映画復元・調査・研究プロジェクト(収蔵フィルム目録)2008大阪芸術大学、2013年4月1日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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