東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。本名品川 久義(しながわ ひさよし)[1][2][3][4]。海外を柔道行脚した前歴から、日本のサイレント映画の全盛期に現れた「スポーツ俳優」の一人として知られ、現代劇を中心に多く主演した[1][9][10]

とうごう ひさよし
東郷 久義
東郷 久義
1920年代の写真
本名 品川 久義
しながわ ひさよし
生年月日 (1898-03-26) 1898年3月26日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 島根県
職業 俳優
ジャンル 劇映画現代劇時代劇サイレント映画
活動期間 1926年 - 1935年
主な作品
鉄血団
学生五人男
大学のイーグル
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人物・来歴

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1898年明治31年)3月26日島根県に生まれる[1][2][3][4]。『日本映画俳優名鑑』の「昭和四年版」(1929年版・1928年発行)および「昭和五年版」(1930年版・1929年発行)には「島根縣の一寒村」に生まれたと記述されている[2][3]

長じて東京に移り、旧制・海城中学校(現:海城中学校・高等学校)に進学、同校を卒業後に大阪に移り、関西大学法学部に進学する[1][2][3][4]。同学の柔道部(創部1915年)[11]の主将を務めて活躍、同学卒業後は、3年間にわたり、南洋群島(現在の北マリアナ諸島パラオマーシャル諸島ミクロネシア連邦の地域)やドイツフランス等、各国各地を「柔道行脚」した[1][2][3][4]

1926年(大正15年)5月、牧野省三に「主演俳優」として招かれて京都に御室撮影所をもつマキノ・プロダクションに入社、同年7月15日・23日に公開された『蛮骨漢』前後篇(監督富沢進郎)に主演して、満28歳で映画界にデビューした[1][4][5][6]。「スポーツ俳優第1号」と呼ばれる鈴木傳明、「陸のスポーツ俳優」こと浅岡信夫、「海のスポーツ俳優」こと広瀬恒美、「和製パール・ホワイト」こと冒険女優・高島愛子、「昭和の鳥人」ことハヤフサヒデト、あるいは大久保謙治大井正夫らとならび、マキノのスポーツ俳優として、同年8月13日に公開された『奮闘児』(監督富沢進郎)、1928年(昭和3年)7月20日に公開された『鉄血団』(監督川浪良太)等に主演し、人気を博した[9][10]。牧野省三が総指揮・総監督に乗り出した大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』あるいは『大化新政』では時代劇にも出演し、それぞれ「赤埴源蔵重賢」役、「巨勢徳大臣」役を演じている[5][6]

1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、東郷は、嵐冠三郎荒木忍南光明根岸東一郎谷崎十郎阪東三右衛門市川米十郎市川幡谷實川芦雁らとともに「俳優部男優」に名を連ねた[12]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)8月、同社の解散とともに退社した[1]。同社での最後の作品は、同年4月3日に公開された主演作『親爺天国』(監督三上良二)であった[5][6]。同年8月1日から9日間、京都・南座で清川一郎の欧米遠征を送別する『送別柔拳大会』が開かれ、同月3日から「マキノの東郷久義君も審判官として」参加すると報道されている[13]

同年9月、東亜キネマに入社、等持院にあった京都撮影所に所属し、同年10月8日に公開された『奉天城一番乗』(監督大江秀夫)に主演したが[1][5][6]、入社した9月のうちに同社の製作代行会社・東活映画社が設立され、東郷は、この新会社に継続的に入社した[1][5][6]。1932年(昭和7年)10月には、東活映画社が解散、翌1933年(昭和3年)1月には同社の前社長・中山貞雄が設立した新会社・日本映画に移籍するが、同年3月には早くも解散、同社があまりにも短命に終わったため、東郷の出演作はなかった[1][5][6]。東郷は、同年、東郷久義プロダクションを設立、『桃色ギャング』(監督大庭喜八)を製作・主演した[1][5][6]。1934年(昭和9年)末、東京・西巣鴨大都映画に移籍、数本に主演したが、満37歳になった1935年(昭和10年)5月8日に公開された『最後の勝利者』(監督太田辰三)を最後に、同社を退社し、映画界から去った[1][5][6]

マキノ光雄によれば、戦時中は中華民国河北省天津市(現在の中華人民共和国河北省同市)にある酒場に勤務していたという[14]が、終戦後の消息は伝えられていない[1][4]没年不詳

フィルモグラフィ

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人間治郎吉』(1927年)公開時のチラシ、「東郷久義」の名が確認できる。図柄は勝見庸太郎ら。

クレジットはすべて「出演」である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター (NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][15]。同センター等に所蔵されていないものは、特に1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

マキノプロダクション御室撮影所

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すべてサイレント映画である[5][6]

東活映画

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すべてサイレント映画である[5][6]

大都映画

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すべてサイレント映画である[5][6]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n キネマ旬報社[1979], pp.382-383.
  2. ^ a b c d e f 映画世界社[1928], p.23.
  3. ^ a b c d e f 映画世界社[1929], p.28.
  4. ^ a b c d e f g 東郷久義jlogos.com, エア、2013年5月30日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 東郷久義日本映画データベース、2013年5月30日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak 東郷久義、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月30日閲覧。
  7. ^ 東郷久義allcinema, 2013年5月30日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g 東郷久義東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月30日閲覧。
  9. ^ a b c 東郷久義コトバンク、2013年5月30日閲覧。
  10. ^ a b 山本[1983], pp.272-275.
  11. ^ 関西大学体育会柔道部OB・OG千柔会関西大学校友会、2013年5月30日閲覧。
  12. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録立命館大学、2013年5月30日閲覧。
  13. ^ 国立[2003], p.208.
  14. ^ 『讀賣新聞』1957年10月31日付。
  15. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年5月30日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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