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後藤 圀彦(ごとう くにひこ、1891年 - 1945年)は、日本の実業家大分県出身。京成電気軌道二代取締役社長。今日の京成電鉄の礎を築く。 法政大学政治学科卒業。

来歴・人物編集

大分県直入郡竹田の後藤定彦の次男として生まれる。中学二年の時、中川伯の所有林で山火事を起こし、金5円を持って上京。

学生時代は新聞配達など苦学をし、法政大学政治学科を卒業。読売新聞社に職を奉じ、政治部長、経済部長となる。米国に渡り経済事情を調査し、帰朝後、中国へ視察に赴く。その後、松方正義や財界のまとめ役の男爵郷誠之助の知遇を得て、実業界に身を転じる。

東洋製鉄会社川崎銀行国際信託池上電気鉄道などを経て、当時経営が脆弱であった京成電気軌道(現・京成電鉄)の専務に38歳の時に就任、経営を立て直す。花川戸線(浅草延伸)の免許、京成上野線(本線)の建設、電気供給事業、分譲事業など経営の多角化、系列会社の育成に努め、今日の京成電鉄の基盤を築いた。

多角化の際、企業買収を多く行ったため、電鉄界の「両強盗」として東急五島慶太と引き合いに出されたこともあった。また、花川戸線免許の際、疑獄事件に発展し、本多貞次郎と共に獄につながれたこともあった。この時、後の自由民主党創設に貢献した三木武吉も逮捕されている。

1943年、病気に倒れたが、病床につきながらも職務を執った。しかし、病には勝てず、復興を希求しつつも、1945年に死去。享年54。 墓所は、松戸市八柱霊園

参考文献編集

  • 『京成電鉄五十五年史』