敦慶親王
平安時代中期の皇族。宇多天皇の四男。勅撰集『後撰和歌集』に3首入集。二品・式部卿、中務卿。子に源後古(従四位下、刑部卿)、源方古(従四位下)-義忠、源福慶
経歴編集
宇多天皇の第四皇子として誕生。初名を維蕃といった。寛平元年12月28日(890年1月22日)、兄3人とともに親王宣下[2]。寛平2年12月17日(891年1月30日)に、同母兄・維城親王(後の醍醐天皇)とともに改名し、敦慶となった。延喜16年(916年)金字寿命経を書写し、仁和寺に法会を設けて宇多法皇五十の賀を催した[3]。延喜18年(918年)の六条院への行幸では笛を吹いている[4]。二品に叙され、中務卿、式部卿を経て、延長3年(925年)8月4日、大学別当に補任[5]。延長8年(930年)2月28日薨去。享年44。
人物編集
容姿にすぐれ、「好色無双の美人」と評された[6]。玉光宮の通称から『源氏物語』の光源氏のモデルとの説もあり、琴・弓などに秀でた。敦慶親王の死は多くの人々に惜しまれ、伊勢・藤原兼輔らによって哀悼歌が詠まれた[7]。和歌に長じて『後撰和歌集』に8首が入集[8]、孚子内親王(桂のみこ)・伊勢らとの交際が知られる。伊勢との間には、歌人・中務が生まれている。また延喜19年(919年)に甥の代明親王の元服においては絃歌を奉じた[9]。