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長崎市の文明堂総本店

文明堂(ぶんめいどう)とは、カステラ和菓子を製造・販売する老舗。1900年(明治33年)に長崎中川安五郎が創業し、実弟の宮崎甚左衛門が東京に進出させ、製造革新と斬新な販売、広告によって全国的に知られる暖簾となった。現在、複数の「文明堂」を冠する企業がある。

歴史編集

 
創業者,中川安五郎の銅像。
  • 1900年(明治33年)1月 - 中川安五郎が長崎市丸山町72番地で創業[1]。1914年(大正3年)時点では電話番号(加入者番号)「1125番[注 1]が使用されている[2][注 2]
  • 1916年(大正5年)10月25日 - 佐世保市に支店を出す[3]
  • 1922年(大正11年)3月1日[4] - 宮崎甚左衛門が東京市下谷区東黒門町4番地(現:東京都台東区上野)に東京支店を開設。電話番号は「下谷723番」だった[5]
  • 1923年(大正12年)
  • 9月1日 - 関東大震災で東京支店を焼失。長崎に一時帰省する[6]
  • 10月末[7] - 麻布区箪笥町69番地(現:東京都港区六本木)に東京支店を再建。ここは青山電話局の加入区域内だったため、電話番号が「下谷723番」から「青山6035番」に変わった[8]
  • 1925年(大正14年)1月20日 - 東京中央電話局管内の電話番号が6桁(局番2番+加入者番号4桁)に変更された[9]
この日、京橋電話局で自動交換機が導入されたため、京橋電話局の加入者の電話機は回転ダイヤル式に交換された。この地域の加入者たちは(電話交換手を介さず)ダイヤル番号のみで電話を掛けるため、各電話局に"局番"が割り振られ、文明堂に電話するには青山局を意味する36番を前置して「36-6035」を廻した[10]
これまで加入者番号は1桁、2桁、3桁、4桁の4種類が混在していた。例えば「7番」「30番」「567番」といった3桁以下の加入者番号には、0を付加し「0007番」「0030番」「0567番」と4桁に統一した。特に1桁や2桁の番号は「1声(ひとこえ)」「2声(ふたこえ)」と呼ばれ、高値で市場取引されていたため、それら"若番"を所有する電話加入者からは猛烈な反発があったという[11]
東京の自動交換化は電話局ごとに20年もの歳月を掛けて行われた[注 3]。手動交換局エリアの加入者たちの電話機には回転ダイアルがなく、文明堂に電話するには受話器をあげて、出てきた交換手に『青山の6035番』と告げて接続してもらった。
また1927年(昭和2年)5月1日現在の電話番号簿によると、文明堂に「青山36-6045」が追加されている[12]
  • 1928年(昭和3年) - 文明堂合資会社(現在の株式会社文明堂総本店)を設立し、大波止店(長崎市)を新築し本店とした。
  • 1930年(昭和5年)
  • 4月21日[13] - 神戸市神戸区元町通五丁目243番地(浜側)に神戸支店を開店。電話番号は「元町4[注 4]-0375番[13]だったが、4年後に「元町4-0006」「元町4-0012[14]という"若番"を獲得している。また出店時期は不明だが、少なくとも1933年には三宮駅前(神戸市葺合区布引四丁目104番地)に売店を出し、その電話番号は「葺合2-0041」だった[15]
  • 8月24日 - 青山電話局加入区域内に新たに赤坂電話局が開局[16]
そのため文明堂東京支店の電話番号は「青山36-6035」「青山36-6045」から「赤坂48-0067」「赤坂48-0068」に変わった。これにより自動交換化の完了エリアから東京支店に電話するには6桁番号の「48-0067」か「48-0068」を廻し、また自動交換化の未完了エリアからは交換手に『赤坂67番』または『赤坂68番』と告げた。
  • 1933年(昭和8年)
  • 11月8日[17] - 横浜市中区伊勢佐木町四丁目(相模屋呉服店前)に横浜支店を開店。電話番号は「長者町3[注 5]-2391」である[17]
  • 12月20日[18] - 新宿支店を開店。新宿支店(四谷区新宿3-30)は老舗電話局である四谷電話局の加入区域内にあったが、「四谷35-0091(ここいち)」という"若番"の買い取りに成功した[18][19]
  • 1934年(昭和9年)9月15日[20] - 大阪市南区心斎橋筋[注 6]に中川安五郎の文明堂総本店直営の大阪支店を開店[20]。電話は「南75-0405」だった[21]。5年後の5月20日には難波高島屋前に戎橋支店も開いた[22]
  • 1935年(昭和10年) - 東京支店が赤坂電話局の先頭から2番目の「赤坂48-0002」という"若番"を手に入れた[23]
これで東京支店の電話は「赤坂48-0002」「赤坂48-0067」「赤坂48-0068」の3回線となった[24]
  • 1939年(昭和14年)2月12日[25] - 京橋区銀座五丁目2番地(松阪屋前)に銀座支店を開店し、その二階を長崎カステーラ風味所(喫茶室)にした。銀座電話局の「57-0002」は獲得できなかったが、「銀座57-0081」という"若番"と、「銀座57-2000」の2回線を得た[25]
  • 1944年(昭和19年) - カステラの製造販売を中止[26]
  • 1945年(昭和20年)
  • 1月27日 - 銀座・有楽町・丸の内を標的とするB-29による空襲で銀座支店を焼失[27]
  • 5月25日 - 470機のB-29による空襲(山の手大空襲)で東京支店(麻布支店)、新宿支店を焼失[28]
  • 8月15日 - 終戦。ごく一部だが東京に残っていた手動交換局は空襲で全滅したため、自動交換局として復興され、いっきに6桁電話番号が定着することになる。
  • 秋 - 新宿店の焼け跡でバケツや洗面器などの雑貨品の露店を開業(カステラは材料がなく作れなかった)[29]
  • 1946年(昭和21年) - 東京・横浜・神戸等の地方支店を総本店から経営分離。
  • 6月1日 - 新宿店の焼け跡でアイスキャンディーを販売し、大当たりとなる[30]
  • 7月11日 - 銀座店の焼け跡でもアイスキャンディーの販売を開始[30]
  • 1948年(昭和23年) - カステラ委託加工[注 7](銀座店)の新聞広告を出す[31]。銀座店の電話「57-0081」は「57-0020」になった[31]
  • 1950年(昭和25年) - 新宿店、銀座店でカステラの製造販売を再開。新宿店の電話が四谷局「35-0091」から淀橋局の「37-0002」に変わった[32]。これが戦後初の「2番」である。また銀座店の2階ではフランス料理とすき焼きのレストランをはじめた[33]
  • 1951年(昭和26年)
  • 7月2日[34] - 中央区日本橋室町一丁目10番地(三越前)に日本橋店を開店。電話は日本橋局の「24-0002」だった[34]
  • 10月27日 - 老舗を集めた日本初の「名店街」として東横デパートにオープンした『東横のれん街』に渋谷東横のれん街店を出店した。電話は渋谷局の「46-0002」だった[35]
  • 1952年(昭和27年) - 箪笥町の麻布店(元東京支店)を再開した。電話は赤坂局の「48-0001」と「48-0002」だった[36]
  • 1953年(昭和28年) - 念願だった銀座店の電話番号「57-0002」の買収に成功[37]
  • 4月 - 戦災にあった神戸の福原口店を再開[38]
  • 7月21日[39] - 東京駅八重洲口にオープンした『名店街』に東京駅店を出店。しかし電話は「2番」を獲得できず丸の内局の「23-3973」だった[40]
  • 1967年(昭和42年) - 浜松文明堂を設立。
  • 2010年(平成22年) - 新宿文明堂と日本橋文明堂が合併し、文明堂東京設立。
  • 2014年(平成26年) - 文明堂東京・文明堂銀座店がグループ化。

第二次世界大戦後に経営が再開されて以降文明堂は、根は同じ長崎の文明堂であるが、別々の会社となる。長崎には文明堂合資会社から改称した株式会社文明堂総本店、神戸には株式会社文明堂神戸店浜松には株式会社浜松文明堂、横浜には株式会社文明堂、新宿には株式会社文明堂東京、銀座には株式会社文明堂銀座店、六本木には株式会社麻布文明堂と、現在7社の文明堂が存在している。

複数の『文明堂』編集

 
文明堂神戸店

文明堂の扱う商品は、カステラ・カステラ巻きと三笠山(どらやき)は菓子製造から撤退した麻布文明堂を除いた6社すべてが製造するものの、地域性から会社ごとにカステラの味が違っていたり、別商品を扱っている点も特徴的で、その特徴ゆえに、会社を間違えて欲しい商品が買えなかったという話も存在する。具体的には以下の会社が独自の商品展開を行っている。

会社特有の商品展開
会社名 商品
文明堂総本店 桃カステラ、レモンケーキ、合わせ最中、ようかん、さざれ菊
文明堂神戸店 爛華カステラ、栗饅頭、半月最中
浜松文明堂 ハニーカステラ、「お茶みかん」・「花絵巻」(タルト
文明堂(横濱文明堂) 極上金かすてら、サブレ、クッキー、羊羹
文明堂東京 ハニーカステラ、最中、小巻(タルト) 、パイポルト
文明堂銀座店(銀座文明堂) ブッセ、バームクーヘン、マドレーヌ(ボワイヤージュ)

文明堂各社では創業を1900年(明治33年)、初代を中川安五郎としており、東日本を中心にTVCMも共同で放映している(後述)。このため、先述どおり根は同じ長崎であることがわかる。社紋についてはかつて日本橋と浜松は丸文の紋を掲げていたが、現在は全社が中川の紋で統一されている。

 
ハニーカステラを食べきりサイズの2切れ1パックにした「おやつカステラ」

株式会社文明堂銀座店が発売している商品には「銀座文明堂」、株式会社文明堂(横浜)が発売している商品には「横濱文明堂」と表示されている。また、株式会社文明堂銀座店の東銀座店は、「文明堂銀座店東銀座店」となるのではなく、「銀座文明堂東銀座店」となる。「文明堂銀座店」はあくまで会社名であり、店の屋号は「銀座文明堂」である。

2008年(平成20年)、日本橋文明堂と新宿文明堂は共同持株会社「文明堂東京ホールディングス」を設立し、2010年(平成22年)10月にその下で合併して文明堂東京となった。さらに2014年(平成26年)には銀座文明堂とも経営統合を行っているが、「文明堂銀座店」の屋号は残す2社体制となっている。以上の結果、各社のレシピを引き継ぐこととなり、日本橋文明堂のレシピである「ハニーカステラ」や、銀座文明堂の商品だったバームクーヘン、ブッセ、ボワイヤージュも、現在では各店で販売されている。ちなみに創業者が日本橋文明堂と同じく宮崎甚左衛門である浜松文明堂でも「ハニーカステラ」は販売されている。

文明堂東京は横浜駅西口・港南台では横濱文明堂と、大阪梅田では神戸文明堂とお互い競合関係にある。また、横濱文明堂と浜松文明堂も浜松市内で競合関係にある。

麻布文明堂は2003年(平成15年)にカステラを含めた菓子類の製造販売を休止し、アロマテラピー商品やオーガニック商品などの販売を行うショップ、「ABJOY(エービージョイ)」を運営している。

のれん分け編集

大阪・心斎橋をはじめとする銀装や、東京・千歳船橋文栄堂は文明堂からのれん分けされた企業である。

CM編集

関東地方編集

戦前編集

東京に進出した宮崎甚左衛門は1922年(大正11年)3月1日に東京支店をオープンさせ、同月24日には新聞広告を打っている[41]。その後も中元・歳暮の時期になると散発的に新聞広告を出しており、広告・宣伝には積極的だった。

大正末期の大阪に『電話は二番』をキャッチフレーズにした、すき焼き屋「本みやけ」宗右衛門町店[注 8]があり、その電話番号は「南2番」と「南864番」だった[42]。まだ手動交換方式だったため、南電話局管内からは単に『2番』[注 9]、他の電話局管内からは『南の2番』と電話交換手に告げれば「本みやけ」に接続された時代である。

大阪市内では1928年(昭和3年)より順次、自動交換化が進められ、「本みやけ」宗右衛門町店の電話番号は「南75-0002」、「南75-0864」と6桁化され、またのちに北区にオープンさせた堂島店[注 10]には「北36-2981」、「北36-3215」の番号を得た[43]。「本みやけ」の三宅誠一代表は堂島店36-2981番を『ニ・ク・ハ・イチ番[44]、宗右衛門町店75-0002番を『電話は2番』と宣伝し[45]、大繁盛させていた[46][47]

このような店舗の電話番号について、宮崎甚左衛門自身が以下のように記している。

“わたしは、元来電話番号には人一倍気を使っていた。耳鼻咽喉科のお医者さんの三三八七(みみはな)とか花屋さんの八七八(はなや)など商売にぴったり合ったり覚えやすい番号には、日頃から非常に心を惹かれていた。こういう番号は、お客様の頭の中に焼きついて離れないからである。電話帳を探す時間と手間を省くだけでも、お客に対する大きなサービスである。ましてや競争のはげしい商売ならば、覚えやすい番号がどれくらい強力な注文獲得の武器になることか、その効果は想像以上のものがある。
昭和のはじめのことである[注 11]。三越の食料品部に宮尾さんという人がいて、大阪に「肉は一番 電話は二番」と宣伝しているすき焼屋があると云う話をしてくれたことがあった。それがわたしの頭に妙にコビリついていた。たまたま、用があって大阪に行った時、晩飯を食べようと思ってタクシーに乗り、「運転手さん、肉は一番、電話は二番と云う店があるそうだが、そこへやってくれ給え。」というと、「ああ、宗右衛門の本みやけでしょう。」といって、すぐにわたしをつれて行ってくれた。そこで、わたしは晩飯を食べながら、女中たちにいろいろ話をきき、その宣伝の威力につくづく感じ入ったわけであった。こうして、わたしは、電話の二番をあらゆる犠牲を払って集めたのである。現在の文明堂の標語は「カステラは一番、電話二番」である。これは、云いかえれば、値打ちあるものをつくれ、名を残すものをつくれと云うことである。“
(引用: 宮崎甚左衛門 "実演とおまけ" 『オール生活』 1957年10月号 実業之日本社 71-72ページ)

この「本みやけ」での食事が語呂の良い電話番号を収集するきっかけだった。1933年(昭和8年)12月20日に開店した新宿支店に、宮崎は"若番"で語呂の良い「四谷35-0091」を獲得した。そして1934年(昭和9年)3月20日の東京朝日新聞朝刊(11ページ)に出した広告より、『電話 四谷 九(ココ)一(イチ)番』と九一の右側にフリガナを付けるようになった[注 12][注 13]

1935年(昭和10年)1月14日付けの東京朝日新聞夕刊に文明堂の大きな懸賞募集広告がある。部門は(A)~(C)の3つで、各部門1等金50円(1名)、2等金10円(2名)、3等金5円(3名)の賞金と引き換えに、すべての版権を文明堂に渡すというものだった[48]

  • (A) 長崎文明堂のカステーラを宣伝する簡にして力強き標語又は俳句、川柳
  • (B) 長崎文明堂を表はす商標(墨一色)
  • (C) 「長崎文明堂のカステーラ」の書体(縦書と横書の二種)

審査員は画家の中村不折、小説家の佐々木茂索、東京朝日新聞広告部長の新田宇一郎[注 14]、日本電報通信社営業部長の光永眞三[注 15]の4名である。 (A)部門の一等作品には『カステーラは日本一の文明堂』が選ばれた[49]

しかしこのキャッチフレーズに満足できなかったのか実際の広告には使用されていない。宮崎は東京支店が加入していた赤坂電話局(48番)の加入者番号"二番"、すなわち「赤坂48-0002」の獲得に乗り出し、それが叶った。

1935年5月5日の新聞広告[50]では『カステラは一番 電話は二番(赤坂)』というキャッチフレーズを大きく中央に置き、その右横に東京支店、左横に新宿支店の電話番号を並べた。これがこのキャッチフレーズ誕生の瞬間である[注 16]。またこの日の広告より新宿支店の"番"にもフリガナを追加し、『電話 四谷 九(ココ)一(イチ)番(バン)』に変えた[50]

これ以降はこの広告が用いられたが、翌1936年(昭和11年)になると末尾の局名"(赤坂)"が省かれ『カステラは一番 電話は二番』になった。現実問題として、「電話は二番」では文明堂に繋がらない。赤坂電話局などの自動交換エリアの住人が文明堂に電話を掛けるには、まず赤坂を示す局番"48"をダイヤルしなければならないし[注 17]、他の手動交換エリアから文明堂へ掛ける場合には交換手に局名"赤坂"を告げなければならないことから、電話番号としての実用性より、イメージ戦略へ舵を切ったと考えられる。

そのかわりに文明堂の電話番号を電話帳で調べる際の手間を軽減するように、1936年4月1日版の東京市電話番号簿に全面広告を出した[51]。掲載場所は表紙をめくった"表紙ウラ"の、さらに"次"のページで[注 18]、『カステラは一番 電話は二番』のキャッチフレーズと、新宿店には『電話 四谷 九(ココ)一(イチ)番(バン)』とフリガナが付けられている。

つづく同年10月1日版の電話帳には広告を出さなかったが、1937年(昭和12年)4月1日版に再び全面広告を出している[52]。広告の掲載場所は表紙をめくった"表紙ウラ"[注 19]という一等地である。ちなみにこの1937年4月1日における東京中央電話局管内の自動化局は16局(丸ノ内、日本橋、神田、九段、芝、三田、赤坂、銀座、茅場町、浪花、本所、下谷、浅草、小石川、大塚、根岸)で、手動式電話局はわずか6局(牛込、四谷、青山、高輪、墨田、小石川)になっている[53]

戦後編集

終戦直後の苦しい時期、文明堂は新宿店や銀座店の復興資金を作るために、休業している麻布店(元東京支店)の3回線「48-0002」「48-0067」「48-0068」を処分した。被災した赤坂電話局の電話回線網が一向に復旧しないことも理由のひとつだが[54]、文明堂はせっかくの「二番」を手放してしまった。そのかわり1950年(昭和25年)、新宿店に淀橋局の「37-0002」番を得た[32]。これが文明堂における「戦後の二番」である。

東京市の電話局はすべて自動交換局となった[注 20]。新宿店の「37-0002」番を手始めに、東京の文明堂各店で加入者番号「0002」が収集されるようになったのは終戦後の1950年からだった。翌1951年(昭和26年)にオープンした日本橋店に「24-0002」、東横のれん街店に「46-0002」を得て、さらに1952年(昭和27年)に再開した麻布店(元東京支店)には戦災で一旦手放した「48-0002」を買い戻した。そして1953年(昭和28年)には銀座店に念願の「57-0002」を100万円[54]という破格の金額で買い付けた。

こうして東京の5店舗(銀座、新宿、日本橋、麻布、渋谷)すべてで加入者番号「0002」を得ることができ、1953年2月24日に『カステラは1番 電話は2番』のキャッチフレーズを使った新聞広告が復活した[37]。その後も文明堂は加入者番号「0002」を集め続けた[注 21]

昭和20年代も終わる頃、キャッチフレーズの"カステラ一番"から「」が消えた。文芸春秋の1954年(昭和29年)3月号171ページにある大阪心斎橋の文明堂の広告は『カステラ一番・電話は二番(南)』[注 22]となっている。関東地方では、カンカンダンスを踊るクマの操り人形のテレビコマーシャル(文明堂豆劇場)と、そのCMで流れるジャック・オッフェンバックオペレッタ地獄のオルフェ(邦題「天国と地獄」)」の序曲にのせたひばり児童合唱団による「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」というCMソングが有名である[注 23]。やはり「カステラ」の「」を除いている。

このCMは関東地方の日本橋文明堂を除く文明堂数社が共同で制作したもので、1960年(昭和35年)[55][56][注 24]からモノクロで放映開始。その後1990年代からはリメイクされたカラー版が放映されている。最後のマークは中川の紋である。日本橋文明堂のCMを含む歴代のCMは文明堂東京のサイトで視聴可能。マリオネットを操っているのは、NHK私の秘密』に出演していた、オーストラリアから来たノーマン・バーグナンシー・バーグ夫妻で、1980年代放映のCMでは映像中に登場し実演を行っている。このクマの人形は夫人の手作りで、クマの割には尻尾が長めに設定されている。これは、欧米で人気のあった猫のキャンキャンキャットを想定して作ったためであり、後で会社の意向によりクマに変更されたときの名残である。

兵庫県編集

文明堂神戸店はかつて、「文明堂・神戸店」名義でフラメンコを踊る女性と共に「カステラ一番、電話は二番、神戸のカステラ文明堂」とのフレーズが流れる独自のCM(旋律も異なる)を、地元兵庫県のサンテレビで頻繁に流していた。宣伝看板も緑と黄の独特のものが、現在も県内あちこちにある。このため、以前の兵庫県下には文明堂を「(モロゾフゴンチャロフ製菓のような)神戸固有の洋菓子店の一つ」と、CMの音声のみから判断し思い込んでいる子供が多かった。兵庫県では踊る操り人形バージョンのCMが流れていないため、大人でも件のCMを知らないことがあった。現在でもフレーズは「♪文明堂のカステラ」。カステラの部分は音楽が消え台詞のみのCMがラジオ関西で流れる。

長崎県編集

長崎県内では昔から、文明堂総本店が「ぶんぶぶぶん、ぶんぶんぶん、文明堂のかすてーら♪」という歌い出しで始まるもの、「カステラ一番、電話は二番、文明堂のカステーラ」、別のBGM版では「文明堂の、かすてらー♪」という旋律もフレーズも首都圏版や神戸版とも違うCMを流すなど独自の傾向が見られる。この為、東日本で知られている上記のカンカンダンスを踊る操り人形バージョンのCFは全国ネット番組の同時ネット時間帯で東日本版が長崎でも流れたことはあるが、存在を知らない人も多数存在する。また、長崎県ではカンカンダンスとは違う「デキシーパンダ」なるパンダの人形によるバンド演奏をするCMもあり(楽曲は前述のぶんぶぶぶんのもの)、他にも1984年(昭和59年)頃からは、長崎県の童歌を用いた「でん出らりゅう編」、「赤っかとばい編」のものも放映されている。

1969年(昭和44年)頃には『ひみつのアッコちゃん』や『リボンの騎士』のキャラクターを用いたCMがあり、1973年(昭和48年)頃からは、午後3時の時報を兼ねた東映動画製作によるアニメーションCM「3時のおやつ編」をテレビ長崎で『3時のあなた』→『タイム3』、並びにNBCテレビで『アフタヌーンショー時差ネット)』の直前に流していた。

その他編集

北海道など一部地域のCMでは最後のフレーズが「三時のおやつは」ではなく、「カステラ一番」に変更されている。また東海地方京都府など、「カステラ一番、電話は二番」というフレーズを使わないCMを最近まで流していた地域もある。

スクウェア・エニックスのゲーム(SRPG)『半熟英雄VS 3D』のシナリオ間のCMデモとして、モノクロバージョンのこのCMが採用されており、実際に流れる演出がある。

屋号の意匠編集

現在の、銀座・東京・麻布の文明堂の屋号の文字は、文人としても知られた歌舞伎役者の中村吉右衛門(初世)の筆によるもの。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 長崎市は単局(電話局が1局のみ)だったため、電話番号の頭に局名を付ける必要はなかった。
  2. ^ ただし文明堂がいつから加入者電話を設けたかは不明
  3. ^ 1925年度中に自動交換機の導入でダイヤル式電話機になったのは京橋、本所、神田、下谷、茅場町の各電話局区内の加入者。
  4. ^ 神戸は電話局が多くなかったため、局番は1桁だった。
  5. ^ 横浜は電話局が多くなかったため、局番は1桁だった。
  6. ^ 中川安五郎が大丸と十合呉服店(後のそごう百貨店)に挟まれた「大宝寺通り」と商店街である「心斎橋筋」が交差する南東角地(大阪市南区心斎橋一丁目11)を買い上げた。地下鉄の出入口も近く超一等地だった。
  7. ^ (材料不足で自社カステラの製造はできなかったが、)粉と砂糖を持ち込んだ客にカステラを焼く仕事をはじめた。
  8. ^ 大阪市南区宗右衛門町22
  9. ^ 同一電話局管内の回線接続には交換手に(局名を省き)番号だけ告げれば良かったため。
  10. ^ 大阪市北区堂島上2-11
  11. ^ オール生活編集部編 "宮崎甚左衛門の成功商法" 『オール生活』 1953年10月号 実業之日本社 95ページ
    にはその時期を「昭和5、6年のこと」と記されている。
  12. ^ なおこの時期にはフリガナ(ココイチ)を付けていない広告も少々ある。
  13. ^ 東京支店の電話番号「48-0067」「48-0068」には特に工夫はしていない
  14. ^ 戦後はよみうりテレビ副社長や、電通ラジオ局の顧問などを歴任。
  15. ^ のちに電通の二代目社長となる。
  16. ^ その6日前(1935年4月29日)の読売新聞の広告だと、まだ赤坂2番(注:自動化局からは48-0002番)」の電話番号はなく、赤坂67番・68番(注:自動化局からは48-0067番・48-0068番)のままだった。
  17. ^ もし仮に、赤坂局が電話交換手による手動局だったならば、同じ赤坂局管内の住人は局名を省いた「二番」というだけで文明堂に繋いでもらえたはずだが、実際には赤坂局は自動化されており、当初より「二番」だけでは接続されなかった。
  18. ^ 広告でいう「扉(とびら)」ページ
  19. ^ 「ウラ表紙」だと誤って伝えられることがあるが、正しくは「表紙ウラ」(表紙の裏面)である。
  20. ^ 最後まで残っていた一部の手動交換局は空襲で壊滅した。
  21. ^ 文明堂は現在でも加入者番号を0002番にしたり、0020番、0222番など、電話番号に2を入れる傾向がある。
  22. ^ (南)とは南電話局
  23. ^ PHP研究所編 "戦後の話題広告小史" 『数字で見る日本のあゆみ』 1982 PHP研究所 526ページの年表の昭和27年(1952年)に、「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」と記されている。この年は民放ラジオ局誕生の年である。
  24. ^ 『当初はラジオだけで、オッフェンバッハの「天国と地獄」の軽快なリズムにのせてひばり児童合唱団が「カステラ一番」と歌った。三十七年からはテレビ登場、五匹の子熊の縫いぐるみが「天国と地獄」に合わせてラインダンスを踊る現在の形になった。』
    (引用:産経新聞「戦後史開封」取材班編 『戦後史開封3』 1996 産経新聞ニュースサービス 390ページ)というように、1957年(昭和32年)がテレビCMの最初とする文献もある。

出典編集

  1. ^ 中川安五郎 『文明堂総本店店主中川安五郎苦闘録』(自費出版) 1940 27ページ
  2. ^ 由比顕次 『九州電話実業案内』 1914年9月発行 励精社 33ページ
  3. ^ 宮崎甚左衛門 『商道五十年』 1960 実業之日本社 61ページ
  4. ^ 宮崎甚左衛門 『商道五十年』 1960 実業之日本社 82ページ
  5. ^ 東京中央電話局編 『東京電話番号簿』(大正11年4月1日現在)481ページ
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関連項目編集

  • 銀装(大阪心斎橋にある文明堂から暖簾分けされて作られた店)
  • 千なり - 両口屋是清から販売されているどら焼きの一種。三笠山から触発されて作成された。

外部リンク編集