日野資名

鎌倉時代後期~南北朝時代の公卿。日野俊光の長男。正二位・権大納言。日野家18代。勅撰集『続千載和歌集』以下に9首入集。子に日野氏光(-1333.9.11、左衛門権佐、裏松、策、春宮大進、

日野 資名(ひの すけな)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿藤原北家真夏日野家権大納言日野俊光の長男。官位正二位・権大納言。日野家18代当主。

 
日野資名
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 弘安9年(1286年
死没 延元3年/暦応元年 5月2日1338年5月21日
官位 正二位権大納言
主君 花園天皇光厳天皇
氏族 藤原北家真夏日野家
父母 父:日野俊光、母:阿野寛子(阿野公寛の娘)
兄弟 資名資朝柳原資明賢俊
時光氏光名子
テンプレートを表示

経歴編集

永仁4年(1296年)、左兵衛佐に任官すると、正和4年(1315年)には参議に昇り、文保元年(1317年)に権中納言に昇進して、元徳2年(1330年)には正二位となった。

元徳3年/元弘元年(1331年)に鎌倉幕府大覚寺統後醍醐天皇を廃して持明院統光厳天皇を擁立した際には後醍醐天皇からの三種の神器の伝授に関与した。以後は光厳天皇の寵愛を受けて同年に按察使、翌年には権大納言に任命される。

正慶2年/元弘3年(1333年)、足利尊氏の寝返りによって六波羅探題が陥落した際、六波羅探題北方の北条仲時らと共に光厳天皇・後伏見上皇花園上皇を奉じて京都から脱出する。しかし、逃走中に佐々木導誉が差し向けたとも言われる野伏[注釈 1]に阻まれて近江国番場宿にある蓮華寺で仲時らは自刃、資名はそこで出家した。

建武2年(1335年)、足利尊氏が今度は後醍醐天皇から離反して独立すると後醍醐天皇から朝敵とされてしまった。尊氏は後醍醐天皇に対抗する持明院統の天皇を擁立し、後醍醐天皇側の新田義貞などを逆に朝敵にせんと考え、光厳上皇の側近である資名に接近した。資名は尊氏の意を受けて光厳上皇の院宣を弟の三宝院賢俊と図って貰い受けるや、すぐに尊氏が滞在していた備後国鞆津に賢俊を遣わし、院宣を手渡させた。

延元3年/暦応3年(1338年)、薨去。享年53。

系譜編集

脚注編集

注釈編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 太平記』含め、佐々木導誉が直接関与したとする同時代史料はないが、足利尊氏と導誉との間に密約があり、また近江国番場が導誉の所領だったとする後世の佐々木氏関連史料から、導誉の関与を想定する森茂暁の意見がある[1]

出典編集

  1. ^ 森 1994, pp. 34–37.

参考文献編集