杉江敏男
杉江 敏男(すぎえ としお、1913年9月24日 - 1996年10月10日[1])は、日本の映画監督。
すぎえ としお 杉江 敏男 | |
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キネマ旬報社『キネマ旬報』第92号(1954)より | |
生年月日 | 1913年9月24日 |
没年月日 | 1996年10月10日(83歳没) |
出生地 | 静岡県静岡市(現静岡市清水区) |
国籍 | 日本 |
職業 | 映画監督 |
来歴
編集静岡県静岡市(現静岡市清水区)出身。静岡県立静岡中学校卒業[2]。早稲田大学卒業後、1937年にP.C.L(東宝の前身)に入社。山本嘉次郎、豊田四郎、島津保次郎、成瀬巳喜男、黒澤明らの助監督を務め、1950年、『東京の門』で監督に昇進する。以降、『その人の名は云えない』『忘却の花びら』などのロマンスもの、『ジャンケン娘』『お姐ちゃんシリーズ』『若大将シリーズ』などの青春映画、『密輸船』などのアクション映画、『社長シリーズ』やクレージーキャッツ主演のコメディと、多方面に撮り分ける監督として東宝を支えた。公開ベースで見ても、1955年6本、1956年7本、1957年5本、1958年4本、1959年4本、1960年5本、1961年6本・・・と、邦画界の量産時代に、休む間もなく次から次へと会社から回ってくる企画を撮り続け、20年満たない期間に68本もの監督作品を残した。
いわゆる、喜劇映画や青春映画を中心としたプログラムピクチャーの旗手であったが、杉江自身はサスペンス映画の監督を望んでいたといい、『三十六人の乗客』『黒い画集 ある遭難』など、監督作品の中でも数少ないサスペンス作品は、現在でも高い評価を受けている。
1960年代後半に入ってからは、邦画界の斜陽を受けて劇場用映画の監督作品が減少し、東宝テレビ部に移ってテレビドラマを監督した。
主な監督作品
編集映画
編集- 東京の門(1950年)
- その人の名は云えない(1951年)
- 密輸船_(映画)(1954年)
- ジャンケン娘(1955年)
- 婚約三羽烏(1956年)- 原節子初のカラー作品。
- ロマンス娘(1956年)
- 忘却の花びら(1957年)
- 大当り三色娘(1957年)
- 三十六人の乗客(1957年)
- 肌色の月(1957年)
- 人生劇場 青春篇(1958年)
- 大学のお姐ちゃん(1959年)
- 戦国群盗伝(1959年)
- お姐ちゃん罷り通る(1959年)
- 新・三等重役 当るも八卦の巻(1960年)
- 新・三等重役 亭主教育の巻(1960年)
- サラリーマン忠臣蔵(1960年)
- 続サラリーマン忠臣蔵(1961年)
- 黒い画集 ある遭難(1961年)
- 大学の若大将(1961年)
- アッちゃんのベビーギャング(1961年)
- 銀座の若大将(1962年)
- 社長洋行記(1962年)
- 私と私(1962年)
- 社長漫遊記(1963年)
- 国際秘密警察 指令第8号(1963年)
- 香港クレージー作戦(1963年)
- ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば(1964年)
- 無責任遊侠伝(1964年)
- 落語野郎 大脱線(1966年)
- 落語野郎 大馬鹿時代(1966年)
- 落語野郎 大爆笑(1967年)
- 喜劇・駅前桟橋(1969年)
テレビドラマ
編集脚注
編集- ^ “杉江 敏男 - Webcat Plus”. webcatplus.nii.ac.jp. 2022年4月22日閲覧。
- ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 59、60頁。