村山定男
村山 定男(むらやま さだお、1924年〈大正13年〉4月9日 - 2013年〈平成25年〉8月13日)は、日本の天文学者。国立科学博物館に長く奉職し、生涯を通じて天文普及活動に尽力した。
生誕 |
1924年4月9日 日本 東京府 |
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死没 |
2013年8月13日(89歳没)[1] 東京都 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 天文学 |
研究機関 | 国立科学博物館 |
出身校 | 東京帝国大学理学部化学科 |
主な受賞歴 |
勲三等瑞宝章(1994年)[2] フランス天文学会アンリ・レイ賞(1971年)[2] |
プロジェクト:人物伝 |
生涯
編集東京府東京市本郷区(現:東京都文京区本郷)で出生[3]。父は村山達三(医師、東京都立駒込病院院長)、母方の祖父は宮入慶之助(寄生虫学者、九州帝国大学医学部名誉教授)[3]。
幼少時から天文学に親しみ、5歳の時に望遠鏡で観望した火星をスケッチした[3]。小尾信彌(天文学者)は、誠之小学校(現:文京区立誠之小学校)の同級生であった[4]。
武蔵高等学校(旧制)[注釈 1]を経て東京帝国大学理学部化学科を卒業した。村山自身は東京帝大天文学科への進学を希望していたものの、父の「天文学では食って行けない」という意見に従って化学科に進んだ[3]。
1946年(昭和21年)に東京科学博物館(現:国立科学博物館)に奉職し、1989年(平成元年)に、国立科学博物館 理工学研究部長を最後に65歳で定年退官した[3]。天文学者としての専門分野は「隕石の研究」と「火星の観測」[3]。
天文普及活動への尽力
編集村山は国立科学博物館で天文ファンへの普及活動に尽力し、同博物館で1931年(昭和6年)から続く夜間天体観望会(毎週の土曜日)の講師、同じく同博物館で1946年(昭和21年)から続く天文学普及講演会(毎月の第3土曜日)の講師を、1989年(平成2年)に定年退官するまで一貫して担当した[3]。また、同博物館が一般から受け付ける質問電話(多い時は数十件/日)への対応も、同様に一貫して分担していた[3]。部長職に昇格しても変わらない村山の天文普及活動への献身は、周囲を驚かせていたという[3]。退官後は、天文博物館五島プラネタリウム館長(1990年 - 2001年[2])、東亜天文学会会長などを務め、講演・テレビ出演・文筆など多方面で活動した[1]。天文雑誌『星の手帖』(1978年に創刊 - 1993年に休刊)の編集委員でもあった。
五島プラネタリウムを舞台にした瀬名秀明の小説「虹の天象儀」では、主人公のモデル(タイムスリップして織田作之助にムーンボウを見せることになる)となった。小惑星3220番・村山は彼に因んで命名されている[1]。
受賞・栄典
編集著書
編集単著
編集- 『天体観測入門・惑星と月の観測』(恒星社厚生閣 1955年)
- 『太陽系・隕石』(恒星社厚生閣 新天文学講座2 新編 1963年)
- 『旺文社学習図鑑』(旺文社 1976年)
- 『日本アマチュア天文史・惑星』(恒星社厚生閣 1987年)
- 『宇宙と星の基礎知識・簡単なスターウォッチングの方法をおしえて下さい』(講談社 1989年)
- 『星座・隕石をさがす』(作品社 日本の名随筆 1992年)
- 『双眼鏡で星座ウォッチ』(丸善)
- 『天文学のあゆみ』(あかね書房 少年少女宇宙の科学)
- 『太陽・月・惑星』(ポプラ社 天文・気象図鑑 1)
- 『宇宙旅行の話』(偕成社 絵ときシリーズ5)
- 『惑星とその観測』(恒星社厚生閣 天体観測シリーズ4)
- 『キャプテン・クックと南の星』(河出書房 2003年)
共著
編集編書
編集訳書
編集監修書・監訳書
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d “【訃報】旧五島プラネタリウム館長 村山定男氏/17日に「お別れの会」”. AstroArts. (2013年8月13日) 2013年8月14日閲覧。
- ^ a b c 村山定男『キャプテン・クックと南の星』(初)河出書房、2003年5月10日、175頁。ISBN 978-4-309-90533-4。
- ^ a b c d e f g h i j 西城恵一 (2013). “村山定男先生を偲ぶ”. 天文月報 (日本天文学会) (10月号) .
- ^ 『追悼 村山定男先生』、23頁。
- ^ 藤井旭. “天文教育普及賞を受賞して” (PDF). 天文月報 (日本天文学会) (2021年3月号): 216-221 .
参考文献
編集- 『追悼 村山定男先生』(アストロアーツ編集・発行、KADOKAWA発売『月刊星ナビ』2013年10月号の22-25頁に掲載)