東映太秦映像(とうえいうずまさえいぞう)とは、かつて存在した日本TV映画制作プロダクションである。東映のグループ会社で、商号は東映太秦映像株式会社。本社は京都府京都市右京区太秦西蜂岡町に置いていた。

沿革編集

  • 1965年7月[1]、東映の東西の撮影所、東映東京撮影所(以下、東映東京)、東映京都撮影所(以下、東映京都)の敷地内にそれぞれ新設された制作所の内[1][2][3]、京都側に出来た「東映京都制作所」が前身[1][2][4]。東京側に出来たのが「東映東京制作所[1][3][5]。名目上は東映の自社製作が減っていた現状を鑑み、貸しスタジオやテレビ映画テレビドラマ等の製作を行うための組織改革とされたが[1]、実際は過激な組合活動家のスタッフをここへ押し込み、撮影所本体の進行をスムーズにしようという当時の岡田茂東映京都所長の発案によるもの[2][4]。メインであるテレビドラマの製作は、東映京都テレビ・プロダクションが東映と資本関係にある日本教育テレビ(現テレビ朝日)の番組を優先的に受注することになっていたのを始め、テレビ局で直に下請けすることになっていたが[2]、京都制作所は局から下請けしたプロダクションの仕事を孫請けするという住み分けがなされた[2]。組合活動家を日干しすることが真の目的のため、ここには仕事を回さず、飼い殺し状態にした[2]。しかし京都制作所独自で取引先を増やし、『水戸黄門』や『大岡越前』などを受注できるようになった[2]。その後組合スタッフの動きが沈静化して京都制作所は一旦解散し[2]、『水戸黄門』を東京で制作するという話が出た時、同番組プロデューサー・逸見稔が京都での撮影存続を岡田茂東映社長に頼み、岡田が組織をスリム化して新たに東映太秦映像を作った[2][4]
  • 東映京都撮影所と別組織の会社であり、後に名称変更され、東映の非連結子会社として運営されていた。
  • 東映太秦映画村を管理している「東映京都スタジオ」とは別の制作会社であり、太秦の東映スタジオを使って時代劇から再現ドラマ、教育映画まで作っていた。
  • しかし、時代劇の減少に伴い維持が困難になったことから、2016年9月1日付けで東映と合併し消滅した[6]。一切の版権および機能は東映京都撮影所に統合された。

制作協力作品編集

テレビ編集

その他編集

  • 近江聖人中江藤樹(中江藤樹生誕400年記念映画)

脚注編集

  1. ^ a b c d e 「女優さんは近頃おひまヤクザとエロに締出させた清純派」『週刊朝日』1965年9月24日号、朝日新聞社、 122頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年、221-223頁。ISBN 978-4-16-376810-6
  3. ^ a b 新宿書房 俎板橋だより (7)村山新治と佐伯孚治日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 24 呉徳洙(オ・ドクス)聞き手:門間貴志 - 山形国際ドキュメンタリー映画祭公式サイト、評者◆凪一木 その59 小平裕、本年八二歳No.3460 ・ 2020年08月15日
  4. ^ a b c 第3回『私と東映』x 神先頌尚 (全4回) | Facebook
  5. ^ 佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第十一回 その名も東映番外地」『シナリオ』2013年4月号、日本シナリオ作家協会、 70-73頁。佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第二十回 いけいけ! 闘争と性春の日々」『シナリオ』2014年1月号、日本シナリオ作家協会、 88-92頁。佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第二十一回 二人の刺客の喧嘩仁義(ごろめんつう)」『シナリオ』2014年2月号、日本シナリオ作家協会、 60-64頁。佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第二十四回 酒とバカの日々」『シナリオ』2014年5月号、日本シナリオ作家協会、 84-85頁。佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第二十七回 華麗なるクマの手」『シナリオ』2014年8月号、日本シナリオ作家協会、 88頁。
  6. ^ 国税庁法人番号公表サイト