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武者野 勝巳(むしゃの かつみ、1954年昭和29年)1月1日 - )は、花村元司門下の将棋棋士棋士番号は137で群馬県館林市出身。2013年5月28日引退。

 武者野勝巳 七段
名前 武者野勝巳
生年月日 (1954-01-01) 1954年1月1日(65歳)
プロ入り年月日 1979年3月22日(25歳)
棋士番号 137
出身地 群馬県館林市
師匠 花村元司九段
段位 七段
戦績
2015年3月20日現在

目次

経歴編集

  • 1971年アマチュア名人戦の群馬県代表となる。これが契機となり師匠の花村の薦めで同年4級で奨励会に入会。翌1972年より、日本将棋連盟に当時存在した「塾生」制度により将棋会館に住み込んで修行を行う[1]
  • 1975年3月に三段昇段。当時は三段リーグが存在しなかったため、三段も現行の二段以下と同様に、直近の勝率によって昇段の可否が決められていた。1979年3月22日に規定の勝率を修め、25歳で四段昇段。
  • プロ入り2年目の第22期王位戦で予選を勝ち抜き、リーグ入り。当時四段になったばかりの中村修から白星を挙げるも、その1勝に留まりリーグ陥落となった。
  • 予選を勝ち抜いて出場した第33回(1983年度)NHK杯では、3回戦(ベスト16)で中原誠二冠(当時、王座十段)に敗れるまで勝ち進む活躍を見せた。第38回(1988年度)でも同様に3回戦まで勝ち進んだが、そこで敗戦。
  • 全日本プロ将棋トーナメント朝日杯将棋オープン戦の前々身)でも、第1回(1982年度)・第3回(1984年度)で4回戦(ベスト16)進出の活躍を見せた[2]
  • 順位戦では参加6年目の第43期(1984年度)C級2組で9勝1敗の好成績を修め、C級1組に昇級。翌第44期(1985年度)で、最終局で自身が勝ち、安恵照剛佐藤義則島朗のうち2名が敗れれば順位が繰り上がり連続昇級となる所だったが、佐藤を除く2名が勝ち、武者野の昇級には至らなかった。以降は順位戦において成績が振るわず、第49期(1990年度)を最後にC級2組に降格、第55期(1996年度)にはC級2組における降級点が累積2個となり、同年度限りで順位戦への参加資格を放棄しフリークラスに転出。
  • フリークラス転出後は、第11期銀河戦(2002年~2003年)では予選勝利、ブロック戦も3連勝し[3]、決勝トーナメントに進出した(決勝トーナメントでは、1回戦で丸山忠久に負け)。
  • 現役後期は後述の通り不祥事が多く、2007年には日本将棋連盟から史上初となる引退勧告を受けたものの現役を続行。規定によりフリークラスに在籍できる年数を全て消化し、2013年5月28日の第26期竜王戦・6組昇級者決定戦で佐藤義則八段に敗れ、引退した[4]

日本将棋連盟理事としての活躍編集

  • 1983年から1987年まで日本将棋連盟理事を務める。
  • 1983年千日手ルールが以前の「同一局面に戻る同一手順を連続3回」から、現行の「同一局面4回」に改正を主張した。同一局面に戻る手順が複数ある場合、以前のルールでは無限に指し手を続けることが可能であるため、同年3月8日に行われた第41期名人戦挑戦者決定リーグ(現在の順位戦A級)8回戦・米長邦雄谷川浩司の対局で60手以上千日手模様が続き問題となっていた[5]

企業経営者としての活動編集

  • 1994年9月、パソコン通信ホスト局「ネット駒音」を開設。1995年12月に駒音コーポレーション株式会社を設立。同社は後に「株式会社棋泉」に社名を変更したが、インターネットの発展に伴い赤字が累積し、2007年12月7日に破産手続が終結。
  • 成果である有償ソフトであった棋譜管理ソフト「棋泉」は完成品だけを残し第三者に譲渡され[6]、開発ソース等は第三者が所有。フリーで公開されている。ただ、2015年のバージョンをベクターで公開したのを最後に公式サイトは2016年10月9日[7]404エラーとなっている。

米長邦雄との裁判編集

  • 2005年5月、武者野が監修した将棋ソフトの著作権を侵害されたとして、米長邦雄およびソフトウェア製作会社「サクセス」らに対して約4100万円の損害賠償を求めた訴訟を起こした。武者野が社長を務めるソフトウェア会社「棋泉」が2000年に製作し、大部分の著作権を保持している『米長邦雄の将棋セミナー21』と、「サクセス」社が2002年に製作した『みんなの将棋』とに類似が見られ、『みんなの将棋』の開発に米長が関与していたことから、両者を訴えたものである。当該訴訟は「フリークラス棋士が連盟の会長(2005年の棋士総会で米長は会長に就任した)を訴えた」ということで、一般の新聞・雑誌などでも取り上げられた。
  • 2006年12月22日に、米長が「解決金」として約800万円を支払うことなどを条件に、東京地裁和解が成立した。

不祥事編集

  • 2007年8月6日、対局の日程を勘違いし、第16期銀河戦高野秀行戦)で予選の当日に対局場に現れず不戦敗となった。武者野は過去20年間で当人の不注意により上述を含め6回不戦敗を犯しており、かねてより所属棋士から対応の甘さを指摘されていた日本将棋連盟は、罰金100万円及び次期銀河戦への出場停止の処分を下した。状況が酷似した中田功も同じ処分を受けた[8]
  • 上記の処分から間もない、同年9月11日に再び第56期王座戦沼春雄戦)で不戦敗となったため、日本将棋連盟から史上初となる引退勧告を受けた[9][10]。 しかし、罰金100万円と除名については、年次棋士総会で否定された。
  • 当の武者野は、結局上記の引退勧告を受け入れず現役を続行し、フリークラス在籍可能期間を全て消化し、引退した。

その他編集

  • 弟子に女流棋士石高澄恵がいる。
  • 近将カップ(ナイタイ出版発行の将棋専門月刊誌・「近代将棋」の誌上イベントとして行われた非公式戦)に出場して、2003年から2005年まで3年連続1回戦でアマと対戦したが、その3局全てにおいて黒星を喫してしまった。

エピソード編集

  • 邦画「Sex and the 王手」に監修、出演。
  • 高須基仁と親しく、たびたび高須のブログに登場する。
  • 恰幅の良さと蓄えられた口髭から、「マリオ」のニックネームを自称しており、前述「ネット駒音」ではこれをハンドルネームとしている。
  • あまり使われていないものの、『マリオ武者野』の名称を登録商標としている(登録4156492)。
  • 現役末期には腹水を患い、歩行にも支障を来すほどであったという[11]

昇段履歴編集

昇段規定は、将棋の段級 を参照(ただし、四段昇段は旧規定)。

  • 1971年 4級で奨励会入会
  • 1974年 初段
  • 1979年3月22日 四段 = プロ入り
  • 1984年10月4日 五段(勝数規定)
  • 1993年11月16日 六段(勝数規定)
  • 2008年4月1日 七段(フリークラス規定)[12]
  • 2013年5月28日 引退(フリークラス在籍可能年数満了)

戦績編集

  • 通算成績 310勝490敗
  • 順位戦 自己最高 C級1組(第44期=1985年度~第49期)
  • 竜王戦 自己最高 4組(第1期=1987年度・第2期)

表彰編集

主な著書編集

関連商品編集

脚注編集

  1. ^ 『誰も言わなかった居飛車穴熊撃滅戦法』p.198
  2. ^ 第1回の3回戦では当時順位戦A級に在籍し、棋王のタイトルを有していた米長邦雄に勝利。
  3. ^ 3連勝の内容は、1回戦鈴木輝彦・2回戦安用寺孝功・3回戦佐々木慎、4回戦で松尾歩に敗れた。
  4. ^ 武者野勝巳七段が引退|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
  5. ^ 田丸昇「将棋界の事件簿」毎日コミュニケーションズ、2005年、P142より。
  6. ^ [1]
  7. ^ [2]
  8. ^ 2007年8月10日読売新聞 20年間で不戦敗6回、中田七段と武者野六段に罰金百万円
  9. ^ 2007年9月12日読売新聞 将棋連盟、不戦敗重ねる武者野六段に初の引退勧告
  10. ^ 武者野六段の不戦敗について|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
  11. ^ 武者野本人が運営する「駒音掲示板」に病状を象徴する写真が掲載されている[1]
  12. ^ 2008年4月1日付昇段|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
  13. ^ 武者野をイメージキャラクターとしたごく普通の将棋ソフト。
    株式会社QBQ編 『プレイステーションクソゲー番付』マイウェイ出版発行、2018年。ISBN 9784865118346 p84

関連項目編集

外部リンク編集