メインメニューを開く

武蔵遠山氏(むさしとおやまし)とは美濃遠山氏明知遠山氏の一族。後北条氏家臣で、江戸城代。上村合戦の時、武田氏に敗れた明知遠山氏の一派が後北条氏へ逃げた説[1]が有力である。徳川家康に功績を認められ、明知遠山氏から分裂し、東側諸国を治めるよう任された一派だと言われている説[2]もある。

概要編集

1500年頃、遠山直景が奉公衆であった北条早雲の知恵を得て、武蔵国へ移ったのにはじまる。直景は明知遠山氏の10代目・景保の子で、景成の弟という。

彼は江戸城代の地位を与えられ、息子の綱景と共に後北条氏の重臣として活躍した。比企郡野本、入西郡若林などに領していた(役帳より) 。

永禄7年(1564年)第二次国府台合戦で綱景が嫡男隼人佐とともに戦死したため、出家していた遠山政景が還俗し江戸城代を継いだ。「新編武蔵風土記稿」では綱景死後の城代は、綱景の弟で小倉城 (武蔵国)に拠った遠山直親だとする。小倉城 (武蔵国)遠山光景が入ったという。

政景の跡はその子・直景が継ぎ、後北条氏の房総方面を管轄した。直景は 天正15年(1587年)に死去し、家督は嫡子の犬千代が継いだが、後北条氏滅亡とともに没落したが、後に一族は江戸幕府旗本となり、江戸時代後期には「遠山の金さん」で著名な遠山景元らを輩出している。

家系図編集

脚注編集

  1. ^ 「遠山譜」
  2. ^ 「遠山譜」