アクア説(アクアせつ、: Aquatic Ape Hypothesis: AAH or Aquatic Ape Theory: AAT)とは、ヒトチンパンジーなどの類人猿と共通の祖先から分岐して進化する過程で、一時期「半水生活」に適応したことによって直立二足歩行、薄い体毛、厚い皮下脂肪、意識的に呼吸をコントロールする能力など、チンパンジーやゴリラなどの他の霊長類には見られない特徴を獲得した、とする仮説である。水生類人猿説(すいせいるいじんえんせつ)とも呼ばれる[1]

アクア説の論拠を示した図(英語)

この説は20世紀中葉に解剖学者海洋生物学者がそれぞれ独立に提唱し、英国放送作家であるエレイン・モーガン1972年の著書『女の由来英語版』で世界的に知られるようになった。

水中環境への適応を示した化石人骨が一切発見されていないことをはじめ様々な理由から現在の科学界では否定されている仮説だが、肯定派として英国動物学者デズモンド・モリスデイビッド・アッテンボローらがいる。

概要 編集

霊長類においてはヒトにのみ存在するとされる特徴のいくつかが水棲哺乳類海棲哺乳類)や水棲鳥類において一般的に見られることが、この説の主要な根拠となっている[2][3]。現在の人類(ホモ・サピエンス・サピエンス、Homo sapiens sapiens)につながる化石人骨が発見されていなかった、およそ500万年より以前のミッシングリンク(失われた環)と呼ばれる時代のヒトの進化の過程について提唱されている仮説のひとつである[1]

しかし、20世紀後半からオロリン・トゥゲネンシスサヘラントロプス・チャデンシスアルディピテクス・カダッバなど、500万年前[4]よりも以前のヒトの祖先がチンパンジーの祖先と分かれて間もないころのものと推定される猿人時代の部分的な化石人骨が発見されはじめ、ミッシングリンクは埋まりつつある。見つかっているのは断片的な化石であるためまだ詳細はわからないが、かれらが水棲であったことを示す証拠は見つかっていない[5][注 1]

そのため現在の科学界ではこの説は否定されている[1][6][3][2]国立科学博物館館長も務めた分子人類学者篠田謙一は2022年(令和4年)に、この説に合致する化石資料がひとつも発見されていないことを指摘し、科学として「証拠のほうから追求することができない」「だから研究者はみんなここに手を出さない」と述べた[7]科学ジャーナリスト河合信和インターネット博覧会の一環で埼玉県が運営したウェブサイト「人類博物館 : 500万年進化の旅」[8]に連載したコラムでアクア説を疑似科学トンデモ説)の一種として批判した[2]

一方、アクア説の肯定派としては、提唱者のアリスター・ハーディ、1972年に公刊され世界的ベストセラーとなった著書『女の由来 (The Descent of Woman[注 2])』でこの仮説を一躍有名にした英国の放送作家・脚本家エレイン・モーガン英語版のほか[10][1][6][2]、英国の動物学者デズモンド・モリスデイビッド・アッテンボローらがいる。モーガンは『女の由来』発表後も人類の進化に関する著作を発表し続け、10年後の1982年にはストレートに『The Aquatic Ape直訳:水生類人猿[注 3])』、1997年には詳細な出典注と文献表を備えた『The Aquatic Ape Hypothesis(直訳:水生類人猿仮説[注 4])』と題した本も刊行している[10][6]。D・モリスは1967年に発表してベストセラーとなった著書『裸のサル (The Naked Ape)』でこの仮説について短く紹介し[12]、モーガンの霊感源となった[6][13]。また、1994年に刊行した著書『舞い上がったサル (The Human Animal)』では人類の進化に関して提唱されていたいわゆる「サバンナ説(サバンナ理論)」[6]との両立が可能であると主張した。また同じく1994年、BBCのドキュメンタリーTVシリーズで「Aquatic APE」というタイトルでアクア説が紹介された。英国のテレビ司会者、自然史ドキュメンタリーの制作者として著名な動物学者・植物学者のD・アッテンボロー[14]もこの説を支持した[1][10][6]

小史 編集

以上のようにこの仮説の提唱者・支持者たちは、古人類学以外の研究者や非科学者が多い。

論拠 編集

  • 直立二足歩行は水に浸かった時に頭部だけを水上に出すのに有効であり、水中では浮力の作用で容易にその姿勢を取ることができる。また他の水棲哺乳類やペンギンも同じ姿勢をとる。
  • 自分の意志で自由に息を止めることができる。これは水生の哺乳類、鳥類、爬虫類に共通して見られる特徴である。またこの能力は発声学習と関係して、言葉を発したり解釈したりする能力を獲得するための前提条件である。発声学習はヒト、鯨類、及び約半数の鳥類でその能力を持っている。[21]
  • 体毛が薄く皮下脂肪が多いのは、水中で温度を保つのに都合がよいからだ。これは他の水棲哺乳類と同じ理由である。
  • 陸棲の生物の水棲への適応は進化の過程において繰り返し発生している。哺乳類に限っても牛や豚などが含まれる鯨偶蹄目に分類されるクジラ目、猫や犬等を含む食肉目に分類されるアシカ亜目、象などと近縁とされるジュゴン目と、現生種でも水棲に適応した複数の系統が見られる。ヒトを含む霊長目やその近縁においても同様の適応が起きる可能性はあり得る。
  • 処女膜はヒトにあり、類人猿にない。クジラアザラシの水生動物には処女膜がある。また、ヒトのの急な屈曲部は、チンパンジーにははっきりしていないか、完全に消失している。処女膜や屈曲部は膣内に水が入り込まないようにする役目がある。ヒトは類人猿に比較して高い水泳能力を有している[22]
  • ミッシングリンクの時代には海水面が高く、アフリカ大陸は北部の大部分が沈んでいた。人類の祖先はこの時に海辺で生活し、海水面が元通りになると陸生活に戻った。
  • 海水中生活に適応した人類の祖先は、海水を離れた後も川辺で暮らした。川辺は失った水分をすぐに調達できる環境であったため、発汗のシステムは都合が良かった。
  • ヒトは他の動物と比べて塩分摂取の必要量も許容量も多い。これは海水中生活に適応した名残である。
  • 人の頭髪が長いのは、体が水に浸かっている時に露出している頭部を太陽光から守るためである。
  • 発涙のシステムは海棲哺乳類・鳥類にのみ見られる特徴である。海棲鳥類は塩分を排出するために涙を流すが、海棲哺乳類の場合感情が激した時に涙を流すことがある。
  • 他の水棲哺乳類と同様に頭から尻まで一直線になっているため対面性交の形をとった。
  • 洗練されたバランス感覚と柔軟な背骨は、水中という視覚などによる指標のない世界で泳ぐのに必要だった。水棲哺乳類には人間よりも鋭いそれらがあり、アシカやイルカの芸は水族館でお馴染みである。
  • 水中に入ると心拍数が減る現象「潜水反射」が人間にも備わっている。
  • 一時期の胎児には名残が残っており、全身を毳毛(ぜいもう)と呼ばれる毛で覆われているが、この毳毛は泳いだ時に水が流れる方向と一致している。
  • 現代の人間でも水中に長時間いて助からないと思われていても助かった例がいくつも報告されている。
  • 類人猿には全く見られない手足に水かきの痕跡を持つ人がいる。
  • 生後間もない乳児は水を怖がらず、水中で反射的に息を止める能力を持っている。
  • 人間の新生児は他の類人猿よりも割合として重いが、これは皮下脂肪により浮力をつけて水中での出産を容易にするためである。また、現在も水中出産は行われており、その安全性や利点に関する研究論文も発表されている。[23]
  • 水中では嗅覚が役に立たず、衰えた。
  • ケニアの湖で死因がビタミンA過剰症と見られる原人の化石が発見された。膨大な量の魚を食べていたと考えられる。
  • 人のの穴が下を向いているのは水が入りにくいように適応したためである、上唇の上の溝(人中)を持つ霊長類は人間だけである。これは上唇を鼻孔にぴったり密着させて水中で呼気が漏れたり、水が侵入するのを防いだ名残と考えられる。
  • 女性の外性器が隠れているのは、体の表面積を減らした方が水中生活では有利なためである。

反論 編集

  • 仮説の根拠の裏付けとなるような化石が発見されていない。
  • 本説が提唱された20世紀中盤にはヒトの祖先についてほとんど知られていなかったが、20世紀末から発見されだした人類の祖先化石と推測されるいずれの物も水棲説を支持していない。
  • アフリカ北部の大部分が水没していたとすると、体の構造上泳げないキリンを始め、多くの動物の分布・存在が説明できない。
  • 人間にも泳げない人がたくさん存在する。むしろ、ヒトは「訓練しないと泳げない」例外的な動物である。
  • 類人猿程度の遊泳能力の動物が海や湖に入るのは、サメやワニの捕食対象になるだけである。
  • 水棲哺乳類は総じて脚の退化が見られる。
  • 陸上で胴体を引きずらずに歩行できる水棲哺乳類(森林棲のコビトカバを祖先にもつカバ以外)には、密生した短い毛が全身にある。
  • 鼻孔を閉じる能力がない。
  • 猿人・原人化石の中には、死後に遺体が水に没したために水成層から出土するものもあるが、多くは陸成層中から発見される。
  • 水棲動物ではよく発達している瞬膜(水から目を守る膜)が、人間では完全に退化している。
  • 潜水反射自体は、人間以外の哺乳動物にも普通に見られるものである。
  • ヒトは顔に水が触れると交感神経が興奮する。モーガンの主張と正反対の現象が起こる。
  • 魚の食べ過ぎで死んだのなら魚食に適応していなかった有力な証拠である。「ビタミンA過剰で死んだ」とされる原人については、「致死量のビタミンAを含む肉食獣の肝臓を食べたのが原因である」とするのが古人類学者の定説である。
  • 水生哺乳類が水に入ると心拍数が下がるのは、人間によって強制的に陸に揚げられたイルカやジュゴンが水に戻された時のことを述べただけで、潜水反射とは無関係である。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ ただし、現在発見されている中では最古の人類化石と考えられるトゥーマイ猿人(TM 266-01-060-1)は、当時はチャド湖畔(すなわち水辺)であったチャドで発見されている。また、アクア説には当時の人類が海ではなく内陸の淡水に適応したとする修正説もある[要出典]
  2. ^ 原著タイトル“The Descent of Woman”はチャールズ・ダーウィン1871年の著作『人間の由来(原題en: The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex)』をもじったもの[9]。1970年代の第二波フェミニズムen:Women's liberation movement)の思潮の中で、人類の進化史における女性の存在意義に光を当てた点に特徴があった[10][6]。同書は2003年時点で25カ国語に翻訳されている[6]。日本語訳は2種類ある。原著初版の訳が『女の由来』二見書房、1972年(中山善之 訳)。原著改訂版の訳が『女の由来 : もう一つの人類進化論』どうぶつ社、1997年刊(望月弘子 訳)。
  3. ^ 原著フルタイトルは“The aquatic ape : a theory of human evolution”(直訳:水生類人猿 : 人類進化の理論)、日本語訳は『人は海辺で進化した : 人類進化の新理論』どうぶつ社、1998年刊(望月弘子 訳)。序文はアリスター・ハーディが寄せている[11]。英国の古脊椎動物学者でサイエンスライターのダレン・ナイシュは、アクア説は特にこの本で有名になったと記している[3]
  4. ^ 日本語訳は『人類の起源論争 : アクア説はなぜ異端なのか?』どうぶつ社、1999年刊(望月弘子 訳)。本書は本文に出典注が付され、巻末に対応した出典リスト(文献表)がある。
  5. ^ 1960年にアリスター・ハーディが『ニュー・サイエンティスト』誌に発表した論文は、モーガンの単行本『人は海辺で進化した(The Aquatic Ape)』(どうぶつ社)の「補章I 三つの論文」に日本語全訳がある[18]。またその後、ハーディがアクア説を論じた2編も同章に抄訳が収められている[19]

出典 編集

  1. ^ a b c d e Strauss 2015.
  2. ^ a b c d 河合 2001.
  3. ^ a b c d Darren 2012.
  4. ^ DNA人類進化学 ~ 3.ヒトがサルと分かれた日”. 遺伝学電子博物館. 国立遺伝学研究所. 2024年1月26日閲覧。 “このように小さな誤差しか現れないのは、ミトコンドリアDNAの全塩基配列を決定し分析ができたからである。これにより、ヒトとチンパンジーは約490万年前に分岐したと結論してさしつかえないだろう。” ※宝来聰『DNA人類進化学』岩波書店〈岩波科学ライブラリー〉、1997年より転載。
  5. ^ Darren 2012, “Despite a huge number of recent fossil hominid discoveries, fossil evidence that might support the AAH has not appeared.”.
  6. ^ a b c d e f g h i j Brooks 2003.
  7. ^ ホモ・サピエンスが繁栄し、ネアンデルタール人が絶滅した「意外な理由」 : 橘玲、人類学者・篠田謙一対談(前編)”. ダイヤモンド・オンライン. ダイヤモンド社. p. 2 (2022年7月25日). 2024年1月26日閲覧。
  8. ^ 江村謙太郎 (2017年5月22日). “〜インターネットオーディエンス測定〜 「インターネット博覧会(インパク)」のアクセス状況”. VR Digest plus. 株式会社ビデオリサーチ. 2024年1月25日閲覧。 “埼玉県が運営する「人類博物館-500万年進化の旅(jinrui.net)」(3.7万人)”
  9. ^ モーガン 1998, p. 194, 訳者あとがき.
  10. ^ a b c d e Hitt, Carolyn (2019年1月10日). “Hidden Heroines: Could Elaine Morgan win statue vote?” (英語). BBC News. BBC. 2024年1月25日閲覧。
  11. ^ モーガン 1998, pp. 7–10, 序.
  12. ^ 江村裕文「言語の起源に関する一考察(1)」『異文化〈論文編〉』第16巻、法政大学国際文化学部、2015年4月、10-12頁、CRID 1390853649760807424doi:10.15002/00010750ISSN 1349-3256 
  13. ^ モーガン 1998, p. 184, 補章I 三つの論文 : 資料3(アリスター・ハーディが1977年にオックスフォード大学科学協会発行の雑誌『ジーナス (Zenith)』第15巻第1号に発表した「われわれは“ホモ・アクアティクス”だったか (Was there a Homo aquaticus?)」の抄録).
  14. ^ デイヴィッド・アッテンボロー | 著者ページ”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2024年1月25日閲覧。 “英国を代表する自然史ドキュメンタリーの制作者。BBCの画期的なシリーズを世に送り出し、世界的な自然史ドキュメンタリーの作り手として確固たる名声を博した。”
  15. ^ Westenhöfer 1942.
  16. ^ a b モーガン 1999, p. 20.
  17. ^ 片山一道『身体が語る人間の歴史 人類学の冒険』筑摩書房、2016年、140頁。ISBN 978-4-480-68971-9 
  18. ^ モーガン 1998, pp. 164–176.
  19. ^ モーガン 1998, pp. 176–187.
  20. ^ パンツを脱いだサル”. 現代書館ウェブサイト. 株式会社現代書館. 2024年1月26日閲覧。 “本書は水生類人猿説を採り、なぜ遠征したのか、から始まり、、”
  21. ^ 岡ノ谷一夫『言葉はなぜ生まれたのか』文藝春秋、2010年7月、23頁。ISBN 978-4-16-372640-3
  22. ^ ビヨルン・クルテン 著、瀬戸口烈司, 瀬戸口美恵子 訳『霊長類ヒト科のルーツ』青土社、1995年5月[要ページ番号]ISBN 4-7917-5374-7
  23. ^ シャロン・モレアム 著、谷野真千子 訳『迷惑な進化 : 病気の遺伝子はどこから来たのか』NHK出版、2007年8月、241頁。ISBN 978-4-14-081256-3

参考文献 編集

肯定的な立場による文献 編集

  • Attenborough, D (2016年). “The Waterside Ape” (英語). BBC Radio 4. 2024年2月7日閲覧。
  • Hardy, A. C. (1960). “Was man more aquatic in the past?” (英語). New Scientist 7: 642-645. 
  • Hardy, Alister (1960). “Has Man an Aquatic Past?” (英語). The Listener and B.B.C. Television Review LXIII (1624): 839-841. 
  • Westenhöfer, Max (1942) (ドイツ語). Der Eigenweg des Menschen. Belrin: Mannstaedt & Co. 
  • エレイン・モーガン 著、望月弘子 訳『女の由来 : もう一つの人類進化論』どうぶつ社、1997年。ISBN 4-88622-300-1 (※原著改訂版の翻訳。原著初版の翻訳は、エレン・モーガン 著、中山善之 訳『女の由来』二見書房、1972年(原著1972年)。 
  • エレイン・モーガン 著、望月弘子 訳『人は海辺で進化した : 人類進化の新理論』どうぶつ社、1998年(原著1982年)。ISBN 4-88622-302-8 ※原題は“The Aquatic Ape”。
  • エレイン・モーガン 著、望月弘子 訳『子宮の中のエイリアン : 母と子の関係はどう進化してきたか』どうぶつ社、1998年。ISBN 4-88622-305-2 
  • エレイン・モーガン 著、望月弘子 訳『進化の傷あと : 身体が語る人類の起源』どうぶつ社、1999年。ISBN 4-88622-307-9 
  • エレイン・モーガン 著、望月弘子 訳『人類の起源論争 : アクア説はなぜ異端なのか?』どうぶつ社、1999年(原著1997年)。ISBN 4-88622-311-7 ※原題は“The aquatic ape hypothesis”。
  • デズモンド・モリス 著、中村保男 訳『舞い上がったサル』飛鳥新社、1996年。ISBN 4-87031-263-8 

批判的な立場による文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集