日本の歴史

世界的観点を交えた各時代ごとの日本の歴史の概観

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日本史にほんし

  1. 日本歴史。より詳しい記述は、日本史概説にある。本稿に掲載。
  2. ルイス・フロイス作の歴史書。

概略

日本列島の形成

日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前のことである。その頃は、まだ大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。そして、約1万3000年前から1万2000年前頃には完全に大陸から離れ、現在の姿と環境の日本列島ができあがった。

旧石器時代

日本列島への人類の居住は、旧石器時代のことと考えられている。最も古いと思われる遺物は約10万年前と考えられており、遺跡が多数あって人類の存在が疑いないといえるのは約3万年前からである。しかし、大陸と地続きだった時代には人類がたやすく日本に入ってこれたはずで、もっと古く数十万年前まで遡る可能性がある。旧石器時代の人類は、打製石器を用い、大型哺乳類を狩って生活していた。

縄文時代

約1万2千年前から日本列島には縄文文化が広がった。縄文時代の人々は、竪穴式住居に住み、弓矢での狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集と調理、後には栽培など、多様な手段で糧を得た。保存と煮炊きに縄文式土器を用い、様々な用途に打製石器磨製石器骨角器をあてた。人々の交流は広い範囲にわたり、環状石籬 (環状列石) のような大人数の動員と世代間の継承を要する事業を起こした。

弥生時代

紀元前3世紀かそれ以前に水稲農耕が伝わり、九州四国本州に広がった。低地に水田を作った人々は、弥生式土器を作り、石器にかえて徐々に鉄器を使うようになり、祭祀に青銅器を用いた。この時代には戦争が絶えず、人々は防護された環濠集落の中に住んだ。身分階層の差があった。やがて各地に小さな国が生まれ、1世紀に奴国の王が後漢に、3世紀に邪馬台国の女王が魏に、金印を授けられた。この頃以降の日本は、大陸からはと呼ばれた。

なお、南西諸島北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、北海道では続縄文時代、ついで擦文時代が続いた。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国のそれぞれ全域と、東北地方北部を欠く本州を指す。南西諸島の歴史については、沖縄県を参照。

古墳時代

3世紀末から6世紀末まで、各地の豪族は前方後円墳という同一形式の墳墓を日本全域に造った。過程と時期に諸説あるものの、この時代に大和王権が倭の統一政権として確立し、5世紀に倭の五王が中国に使者を遣わした。倭人が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。中国と朝鮮から、文字と仏教・儒教がもたらされた。この時代の人々は土師器須恵器を用い、もはや環濠のない集落に住んだ。

飛鳥時代

中央政治では、6世紀の末から645年大化の改新まで蘇我氏が、それ以後は天智天皇天武天皇のような天皇や皇族が政治の実権を握った。7世紀後半には中国の官制を参考に制度改革が進んだ。白村江の戦いで敗れてから、倭は朝鮮半島への進出を断念したが、この頃には鉄が国内で自給できるようになった。この時代の飛鳥文化白鳳文化は仏教寺院を中心にする。西日本に床板を持つ住居が広がったが、東日本の人々はずっと後まで竪穴住居に住んだ。この頃、倭は「日本」と改称した。

奈良時代

日本は、701年大宝律令を制定し、710年に奈良に平城京を造って都を置いた。この律令国家は、戸籍と計帳で人民を把握し、租庸調と軍役を課した。初め土地はすべて公有とされ、口分田として配分されたが、743年墾田永年私財法により荘園の形成が始まった。 唐風の天平文化が栄え、遣唐使を送っての文物を摂取した。この頃の仏教は鎮護国家のためにあった。

平安時代

桓武天皇794年に都を平安京に遷し、蝦夷征服を中断してから、貴族は京の政治的・文化的生活に意を注いだ。中央ではまず藤原氏が実権を握って摂関政治を行ない、11世紀末からは上皇が院政を行なった。地方では荘園が全国に広がって、荘園と国衙領が混在する荘園公領制が出現した。平安時代の後半には武士が台頭し、末期には中央の政争に関与し、最終的に全面的内戦の主役になった。文化面では、唐風の弘仁貞観文化から、日本的な国風文化に移り変わった。仏教界には個人救済の傾向が強まった。平安時代の末期に、日本の支配は本州北端まで及んだ。

鎌倉時代

設立当初より制度的破綻を内包していた律令体制はいわゆる武士台頭を招き、12世紀には源氏と平氏の2大勢力が中央政権の実権を奪い合う状態となった。 この権力闘争は平清盛を筆頭とする平氏の勝利に終わり、いわゆる平家の全盛時代が始まる。

しかし、平家は律令体制に代わる現実的な新しい統治理論を打ち出すことをせず、旧式の太政官制度内での栄達をむさぼり公家化し、当の平氏を含む全国の地主層である新興階級の武士たちとの間に次第に溝が出来てきた。

平清盛の最晩年、過去の権力闘争時に唯一殺害されずに伊豆に流刑にされ、北条家預かりになっていた源頼朝が平氏である北条家を抱きこみ反乱に踏み切り、各地で連敗しつつも「源氏の棟梁」の血統ブランドとその現実的な政策ビジョン、人間的魅力により次第に関東一円の武士の支持を勝ち取り大勢力となる。

鎮圧のための大軍を送り込んできた平家の軍勢を富士川近辺で敗走させ、自身は鎌倉に身を置いたまま、頼朝にわずかに先立って反乱に立ち上がった木曽の源氏「木曽義仲」の軍勢と平行したかたちで全軍を西進させ、ついには平家を京の都から追い落とした。 その後都を破壊した木曽義仲を撃破し、平家の大軍が立てこもる福原の都(現神戸)を強襲してこれを破り、続く屋島(現香川県)、壇ノ浦(現山口県)の戦いで掃蕩し、ここに平家の時代は終焉を迎えた。

その後鎌倉から動かない頼朝は、1192年征夷大将軍の宣下をそのまま受け、鎌倉に幕府を開いた。ここに日本初の幕府体制を創始することとなる。

頼朝は現実的な施策として全国に守護を置いて、地方の荘園・公領を名義はそのままで管理させる一方、全国各地方に地頭を置き武士が実効支配するという二元の支配構造を敷いた。 実際には守護地頭を管理・監督するのみで公家層は荘園・公領に対する実効支配力を失っていった。

最大の改革点は「問注所」(後に評定所)と呼ばれる訴訟受付機関を設置したことで、これまでは地所の支配権をめぐる争いは当事者同士の武力闘争に容易に発展していたものをこれにより実質的に禁止することになった。 武士の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、これに対して「公平」な審判をくだせなかった平家の轍を踏まないようにした頼朝の新統治理論はこの後永く幕藩体制の根幹を成すものになった。

頼朝の死後、将軍の輔弼制度として北条家による執政制度も創設され、例え頼朝の血統が絶えても鎌倉幕府体制は永続するように制度整備がなされ、その裏打ちとして「御成敗式目」という武士というブルジョワジーによる市民憲章ともいうべき基本法の整備が初めてなされ、これも幕藩体制が続く限り形を変えて存続することになる。

経済的には、労働者でありブルジョワジーでもある独立自営農民としての武士の土地所有制度が法的に安定したため、全国的に開墾がすすみ、質実剛健な鎌倉文化が栄えた。 文化芸術的にもこのような社会情勢を背景に新風が巻き起こり、それまでの公家社会文化と異なり、仏教や美術も武士や庶民に分かりやすい新しいものが好まれた。 政局の安定は西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらし、各地に定期的な市が立つようになった。

13世紀には二度にわたる元寇があった。

建武新政

独立自営武装農民層であった武士の複雑な利害調整を負託されていた北条得宗家による執政体制の鎌倉幕府は、元寇以来の政局不安によりその武士層から次第に尊敬を失い、1333年後醍醐天皇を担ぐ討幕勢力によって倒された。

しかし後醍醐天皇は新たな総合調整能力を持つ政権の誕生を待望していた守護大名を筆頭とする新興武士層の期待を裏切り、全く当時の日本の実情に合わないいわゆる「建武新政」といわれる中国大陸の皇帝的な天皇親政を目指し、ほぼ全ての武士の不満を買って政権は安定せず、ついには源氏の嫡流を汲む足利尊氏の反乱を招くに至る。

室町時代

足利尊氏は後醍醐天皇の主宰する南朝に対抗する北朝を擁立し、北朝より征夷大将軍の宣下を受け1336年に室町幕府を開いた。二つの朝廷がそれぞれ正統を主張し対立する南北朝時代1392年まで続き、様々な曲折を経て最終的には北朝に統一された。

これによって最終的に鎌倉幕府末期からの日本を治める政治体制をめぐる争いは、律令体制では無く幕藩体制であることが確立されたが、当の室町幕府の政権基盤は後世から想像するよりはるかに弱く、各地では様々な権利関係をめぐる争いが絶えなかった。しかし京都に本拠地を置く室町幕府はこれらの軍事的・非軍事的な紛争を調停するだけの財政軍事基盤は無く、将軍家歴代は政治を顧みることなく禅宗などの影響下にいわゆる北山文化東山文化といわれる「侘び・寂び」を基調とした文化的活動に力を入れた。

この間、各地の勢力争いは結果的に割拠勢力の相互努力による「国力増強策」を誘発し、それまでは一般庶民(農民)が購入するには高価過ぎた「鉄製農具」が安価に普及し始めたことに伴い、広い地域を灌漑する「治水」の技術が発展。農業生産を中心とする経済は急成長をはじめ、全国的に余剰生産を生むに至り、それまでの非支配者階層が実力を持つようになる。

慢性的な騒乱状態はついには京都にも伝染し、原因も結果も判然としない有力大名の権力闘争応仁の乱を引き起こすに至る。この乱でも軍事的に中心的な役割を果たしたのは双方とも「足軽」と呼ばれる無名の兵士群であり、前時代までは幕藩体制的貴族の独占であった「軍事」が下級市民に取って代わられていった象徴的な事件でもあった。  この事件をきっかけに平安時代以来の京の都は灰塵に帰し、室町幕府は全く実態を失った。京都が世界冠たる「千年首都」の実態を取り戻すのは約百年後の織田信長の首都復興政策が実現されるのを待たねばならなかった。 

応仁の乱以降を戦国時代と言うが、広く定着しているこの用語は多少の基礎知識を持って認識すべきものと思われる。慢性的な紛争状態が続いたが、単なる「戦争状態」ではなく、既存階級が尊敬と権威を失い新興の経済的実力をもつ者が新たな実力者層になる過程での新旧勢力の権力・利権闘争であったり、新興実力者同士の利害衝突に端を発する武力衝突を伴う紛争が広く日本各地で行われていた状態であり、そのような永続的な衝突を可能にしたほど経済が急速に質量ともに発達していき、それまでの無名の庶民が様々な形で「成功」を収めることができる経済成長期であった側面を常に考慮する必要がある。

様々な闘争は、実態を失った統治者側から見れば一揆下克上と呼ぶべき対象であったかも知れないが、荘園制に立脚した律令制が武装した独立自営農業者である「武士」の台頭で消滅したのと同じく、経済の急成長に伴い大量に発生した新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に開墾や内外の通商を通じて発展し、自らの実力に相応しい発言力を社会に対して要求した時代でもあった。この頃、西日本、特に九州方面では一部の漁民が海賊化し倭寇として朝鮮半島や中国大陸の明の沿岸を襲った。

安土桃山時代

戦国大名と言われる新興勢力の中で織田信長ただひとりが「天下布武」のスローガンを掲げ、戦国の世を終わらせる決意のもとに全ての既存勢力に対し自ら戦いを挑み、勝ち続け、その勢力を爆発的に拡大し、ついには当時「天下のことは定まりたり」と言われるほどの圧倒的な超大国となった。

全日本制覇を目前に明智光秀により殺害された後、実力で後継者の地位に就いた豊臣秀吉が権力闘争に勝ち抜き1590年に全国を統一した。

信長の方針で始められていた重要な平和施策である検地刀狩りを全国規模で行い、全日本規模での課税台帳の整備により国民経済の実態を把握し、農民・商人(一般庶民)の武装を禁じて非合法武装決起を未然に防ぐ治安対策を徹底した。

秀吉は信長の理想を彼なりの方法で具現化し、日本に百数十年ぶりの「平和」を実現した。

しかし、どのようなビジョンをもってか、の征服を目論見文禄・慶長の役を起こしたが、当然の帰結として敗れ、政権は短命に終わった。

この時代は圧倒的な経済成長と信長治下の安定のもと、豪奢絢爛な桃山文化が栄えた。

江戸時代(近世の日本)

室町時代と並び、現代の日本を形作る原型となった時代。 現在の我が国の問題点を考える上でも見習うべき点が驚くほど多くあり、再評価が待たれる。

明確なビジョンも戦略もなく朝鮮出兵を催した結果、豊臣政権は諸大名・有力商人(財界)の支持を失い、秀吉亡き後、徳川家康関ヶ原の戦いに勝利した結果崩壊した。

徳川家康は征夷大将軍に就くと自領である江戸の地に幕府を開き、豊臣政権崩壊後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大阪の陣により豊臣氏とそれを担いで騒乱を期待する勢力を一掃。長く続いた政局不安は終わった。

徳川幕府は徹底的な政局安定策をとり、大大名はそのほとんどが「所領没収」で姿を消し、全国の要所は直轄領として大名を置かず、多数の親藩大名に大領を持たせ、その合間に外様大名を配置し、譜代大名には小領と中央政治に関与する権利を与えるという絶妙の分割統治策を実施した。

「自家優先主義」との批判もあるが、これにより結果的には260年以上続く世界史的にも驚異的な長期安定政権の基盤を確立し、「泰平」という日本語が生まれるほどの絶対的平和状態を我が国にもたらした。

また、農本主義的に思われている家康だが、実際には信長、秀吉と同時代の人間であり、また信長の徹底的な規制緩和による経済振興策をその目で見てきていることからも、完全に成長重視の経済振興派である。 平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から生産活動へ転じたため、戦国時代から安土・桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。

いわゆる江戸時代の暗い停滞イメージのもとになるのは18世紀終盤であり、有名な「将軍吉宗」の享保の改革以降である。土地資本を基盤とする(土地所有者ではない)支配者層である武士の生活の安定と、安定成長政策とを上手く融合できずに、金融引締め的な経済圧迫政策のみを打ち出した結果であり、その結果の出口の見えない不況が社会停滞の原因である。 また、増えすぎた人口を農業のみでは養っていけない東北地方等では不作が発生した際に「飢饉」にまで事態が悪化してしまうという不幸が、特に江戸時代後半には多くなったことも、続く明治時代から見たこの時代の印象と評価を不当に下げているものと思われる。

実際には、超長期の安定政権は、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、日本に空前の繁栄をもたらし、その後の日本の誇りとなるような学問・文化・芸術・商法等あらゆるジャンルで様々な才能が花開き、確立され、現在へと引き継がれているのである。

ただ一点、「武家政権」と言いながら、それまで数世紀に渡って蓄積された軍事的ノウハウは全く失われ、人口の1割にもなろうとする膨大な人数の「武士」とその家族は、すでに軍人でも土地資本家でも無くなり、行政官としてのみ存在することになった。特に失策により経済成長の止まった江戸時代後半にはその雇用問題自体が大きな政治課題となった。

また失われた軍事能力は、嘉永年間のペリーの黒船騒動以降の騒乱のなかで、「武士」の存在意義そのものを疑われる遠因になると同時に、明治以降現在に至るまで、我が国にいびつな「軍事観」と「平和観」をもたらしているものとも無縁ではないであろう。

江戸幕藩体制は黒船騒動以降急速に衰え、いわゆる幕末の動乱を経て終焉を迎え、明治近代化に至るが、明治以降現在に至るまで、その真価が不当に低く評価されている傾向がある。

また江戸時代には、対外的には長崎出島以外で外国との交流を禁止する海禁政策を採ったが(この期間を鎖国の時代と呼ぶ)、これも家康の基本方針には無く、家康死後数十年後、3代将軍家光の時代からである。 当時の国際状況に過敏に反応した政府首脳が拙速な外交方針としてこの海禁政策を打ち出したものであり、確かにこの時期における多くの東アジア諸国に共通して見られる対外政策であったが、当時の日本の国力、政権の基盤、国内の安定度からみても、我が国独自の外交策を堅持することは可能であったと思われるが、この点も現代日本に深い示唆を与えるものであろう。

近代の日本

発展する経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも「太平の世」を謳歌していた江戸時代も19世紀を迎えると急速に制度疲労による硬直化が目立ち始める。

加えて18世紀後半の近代産業革命とその果実を得た西洋諸国は急速に「近代化」し、それぞれの政治経済的事情から前時代の「冒険」ではなく、みずからの産業のために資源と市場を求めて世界各地に「進出」をはじめた。

遠い極東の地に彼らが到達するに従い、当然我が国近海にも西洋船が出没する回数が多くなっていったが幕府はこれら外国船や我が国との外交ルートを模索する使節の接触に対し、「異国船打ち払い令」として知られる拒絶政策により「鎖国政策」を再確認しており、在野の世論もこれに同意していた。

しかし1854年、長崎の出島への折衝のみを前提としている我が国のルールに違反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に強行上陸した米国のペリーとやむなく交渉してしまった幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えをみせたペリー艦隊の威力に屈し日米和親条約を締結、その後米国の例にならって高圧的に接触してきた西欧諸国ともなし崩し的に同様の条約を締結、事実上「開国」してしまった。

「鎖国は我が国開闢以来の祖法」であるという歴史的無知によるとはいえ、下級武士や知識人階級を中心に、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「攘夷」運動として朝野を圧した。
「世論」が沸き起こること自体、幕藩体制が堅牢なころには起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、京都の「帝(みかど)」の存在が500年ぶりにクローズアップされる。
このため永い間、幕府の方針もあり政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となり、有名な「幕末の騒乱」が巻き起こる。

一時は井伊大老の超強行弾圧路線(安政の大獄)もあり不満「世論」も沈静化するかに思われたが、井伊の横死後、将軍後継問題で幕府がゆれる間に事態は急速に変化する。

藩内過激主義者と保守派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、馬関海峡を航行中の外国船を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行し、翌年相手国4ヶ国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠されたり、京都における主導権争いから薩摩藩らとの間に市街戦(禁門の変)を演じたりするなど、エポックメイキングな事件を連発し、一躍幕末政局の中心的存在に躍り出る。

列強各国から強烈に苦情を申し入れられた幕府は長州藩を罰するため「長州征伐」を行うが高杉晋作らの組織した「奇兵隊」などの庶民軍の活躍に阻まれ2度にわたって失敗してしまう。
折から幕法に反して京都に藩邸を置く諸大名を制御できず、京都の治安維持さえ独力でおぼつかない幕府と、幕藩体制の根幹である「武士」の武力に対する信頼とその権威はこの敗北によって急速に無くなっていった。

薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩はこの機を逃さず一転同盟を締結(薩長同盟)、土佐藩、肥前藩をも巻き込み、反政策キャンペーンであった「攘夷」を、折から巻き起こっていた国家元首問題としての尊王(勤皇)運動と融合させ、「尊皇攘夷運動」へと巧妙にすり替え、これを更に「倒幕」の世論へと誘導していく。

新将軍徳川慶喜は起死回生のウルトラCで「大政奉還」を実行するが、行政経験の無い公家と一部過激武士に牛耳られた西国藩では全日本の統治は手に余り、当然共同統治を持ちかけてくると踏んだ慶喜の思惑は見事に外れ、薩長は太政官制度を復活、政権の交代を宣言、年号を「明治」と改める。この体制変革と制度改革を明治維新と呼ぶ。

慌てた慶喜は大軍を率いて滞在中の大阪城から京都への実力交渉に臨むべく行軍を命ずるが、「鳥羽伏見の戦い」において薩長連合軍に先方軍が敗れるとそのまま断念、江戸へと単身帰国してしまう。

勢いを得た新政府は、徳川将軍家を一藩に降格し、天領は政府直轄領とすることを決定、慶喜に天領の返還と3世紀前の旧領である駿河(静岡)への立ち退きを要求。慶喜から応諾の回答は無く、土佐の板垣退助を総司令官とする官軍を江戸へ東征させることを決定。

「戊辰戦争」と呼ばれるこの内戦は、越後長岡藩や会津藩で大規模な戦闘が行われたものの、戦略目標の江戸城は無血開城され、函館に立てこもる残党掃蕩戦の終了をもって短期間で終結した。

その間も太政官新政府は幕府時代の全てを否定する革命的な改革路線を突き進み、明治4年には全ての藩を解体し大名制を廃止する「廃藩置県」を断行、天皇と官僚を頂点にする中央集権国民国家を打ち立てた。
当初は薩長土肥を中心に各藩から「御親兵」の名目で徴発した数千の兵力しか持たなかった太政官政府は廃藩置県後に近代国家に倣い「徴兵制」を実施、一挙に「近代」兵力を持つに至り、ここに武士(士族)の特権は全て消滅した。
これらに反発する旧武士階級(士族階級)らの西南の役をはじめとする武力抵抗を全て退け、西欧列強の圧力に対抗し得る「文明国家」(富国強兵)を目指し、殖産興業を推進した。

アジアはもとより、西欧諸国以外では唯一、植民地化されずに自力で「近代化」への改革(もしくは革命)を成し遂げた日本はその後、列強に蚕食され本来の力を発揮できずにいた清を相手に日清戦争に勝利して当時としては莫大な賠償金を獲得。領土として台湾を併合した。

20世紀に入って直後には現在の世界情勢における日米安保条約に比肩する日英同盟を締結。その後見を得て南下政策を推し進め満州、朝鮮を圧迫するロシア帝国相手に日露戦争を戦い、辛勝を得、ポーツマス講和により樺太南部を得、さらには朝鮮を併合、ここに嘉永年間以来の異国ショックとその後目指した西欧列強に伍する「近代」国家造りの目標は一応達成されたことになった。

日露戦争は近代初の白色人種国家に対する有色人種国家の勝利であり、非ヨーロッパ社会に与えた喜びと自信は大きく非西洋主観の世界史上特記されるべきものである。

経済産業面では、地下資源の乏しい国土ながら、江戸期に蓄積された資本と経営ノウハウ、そして土地資本制の幕藩体制の重荷が無くなったことにより、急速に商業・軽工業が発展し、20世紀に入ると重工業も大きな伸びをみせ、日英同盟のもと第一次世界大戦では戦勝国側に立てたことで、さらに多くの有形無形の利益を得て、それまで江戸時代と大差ないレベルであった国民生活もこのあたりから急速に豊かになった。

文化的にも江戸時代終焉以来、非「近代的」であるとして和装を廃止、髪型も「丁髷(ちょんまげ)」を禁止するなど、上からの改革で「民俗」の大変換を強行。
ただしこの無節操な変わり身は朝鮮、清などの近隣諸国からは列強に媚びるものでアイデンティティーを放棄するものである、と大変「不評」であり、その後の我が国に対する蔑視を植えつけた事実は忘れてはならない。
また混乱する日本語を多くの文筆家らの努力で収拾。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、多くの文芸作品が登場、新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、演劇、写真や映画などのエンターテイメントも徐々に充実、さらには普通選挙の実施で「近代国家」の主要条件をほぼ満たし、世は大正デモクラシーと呼ばれる繁栄の時代を迎え、多くの国民も平和で前時代よりはるかに豊かな生活を謳歌しました。

明治から大正へ、念願の「近代化」を果たし、安政条約以来の不平等条約も解消し、順風満帆のはずの我が国は、その後急速に破滅への道を辿ることになる。

太政官主導の藩閥政治で始まった新政府は明治維新後、遅れて入ってきた新思想である「民主主義」を導入せよとの在野の世論に対し、プロイセンを参考にした憲法を制定、「民選議会」も設置し立憲君主制として再スタートすることとなった。
帝国憲法発布に伴い「帝国議会」も設置され、普通選挙が行われるようになった1920年代には政党内閣が誕生するようになった。

しかし議会そのものが官製で、その権力は政府を超えず、なによりも清廉潔白・清貧な「武士」の時代をすぐ近くの過去に持つ「新」日本国民は、「民主主義」に「近代化」という言葉の持つイメージと同様の無謬の完璧性を期待しており、「民主主義」が宿命的にもつ猥雑さ、不明瞭さ、決断の遅さが理解できず、次第に「民主主義」そのものを知らず知らずのうちに疑うようになった。

不幸にしてこの傾向は、80有余年を経た現在にまでも脈々と引き継がれてしまっている。

民主主義が成熟せず脆弱な議会しかもたない国では、結局は独裁者か官僚機構が支配することになるという法則どおり、我が国においても、1930年代に入ると天皇の絶対君主化や民族主義思想を隠れ蓑に、官僚機構が政治を壟断、さらには明治憲法の不備(統帥権が天皇にあるとの条文)を濫用して、いわゆる軍部とよばれる陸海軍省が他の省庁をも圧倒、二重の意味で決定権から遠くなった内閣や国民の意思は全く無視されたまま、中国大陸での外交的遊戯と無意味な戦闘を繰り返し、事態を泥沼化させ、ついには必要性も勝算も賛同者も決定者も全て不在という太平洋戦争へ突入するにいたる。

この間、国民を代表すべき議会は、民主主義の持病である金銭スキャンダルを駆使した官憲によって国民の支持から遠ざけられ、暗殺や軍事クーデターを気取った『テロ』により内閣総理大臣までもが何度も殺害されるという事態に対しても、「世論」の無言の支持は議会に対してではなく、官僚(軍部)に向いている、という事実を見るに至っては、誰一人本気で国を憂うものも居なくなるのも道理で、ついには「政党政治」と同義語である「議会制民主主義」は葬り去られた。

急速な技術進歩を続ける20世紀は、第一次世界大戦で判明したようにすぐ前の時代までと異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。
日露戦争を「日本海海戦」という世界史上まれに見る完全勝利のおかげでどうにか全体的にも戦勝の形にもっていった日本であったが、その後につづく軍艦の「石油燃料化」に対応するには全くもって財政力が脆弱であった。
当時の超大国である大英帝国や、第一次大戦後急速に大国の地位を得た米国ですら例外ではなく、その財政負担に耐えかね、ワシントン、ロンドン軍縮会議を提唱、日本にとっては「渡りに舟」の絶好の好機であったにも関わらず、既得権益を守ることが最大使命である官僚機構の抵抗とそれを止めるべき役割の議会の前述のような衰弱から、条約締結後は逆に政治的大混乱に陥る。

歯止めの利かなくなった陸海軍官僚機構の暴走は中国市場、南方資源地帯の利権を巡り、欧米諸国との対立を深める結果になった。
2・26事件に代表される「テロ」事件以来、議会はその役割を事実上停止し、1930年から1945年の終戦までつづく15年戦争という破滅への道を突き進む。
ひとたび議会制民主主義を「見放した」国民には、官僚機構が独断で決定し実行する数々の破滅政策を修正・停止させることは不可能であり、1930年以降の満州事変、続く支那事変により国際的な友好関係は全て消滅、日本は地政学的にも余りに遠いドイツ・イタリアと同盟することで対処しようとしたが、かえって世界の「勝ち組」から外れ、最大の石油輸入国である米国の石油禁輸を招くにいたった。

米・英・中・蘭は、それぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ばれる対日強行策を実施、対外的な孤立を一層深める日本では、陸海軍省が対米戦争を準備する一方、外務省が1941年晩秋まで日米交渉を続けた。
しかし、明確なビジョンもなく、国際的なパワーバランスも無視し、当然外交による根回しもせず、ただ暴走によって獲得しただけの植民地(特に満州)を、当然の帰結として返還するよう通告したコーデル・ハル国務長官の提案(いわゆるハル・ノート)も官僚的には受け入れられるはずもなく、逆にこれを最後通牒に準ずるものと考え、現にそうであったが、対米開戦を決定、12月8日(現地時間12月7日)、ハワイの真珠湾米海軍基地を宣戦布告なしに奇襲攻撃した。
また同日、東南アジアの英蘭植民地も攻撃し、ここに太平洋戦争大東亜戦争)を勃発させた。

日本軍は開戦当初、太平洋方面で、準備の遅れた米国や対ドイツ戦でアジア植民地を顧みる余裕のない英蘭相手に連戦連勝であったが、ひとたび米国が体制を整えるやミッドウェイ海戦で海洋国にとっては最重要の主力兵器である大型航空母艦のほとんどを失い、一方、数百万の大軍を広大な大陸に無戦略に送り込み、最後には敵がどの勢力だか分からない、という稚拙極まる戦いを続けていた中国大陸での消耗も激しく、すでに最重要資源となっていた石油の備蓄は底をつき、兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともに米国の数十分の一でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していく。

大西洋憲章を制定し、連合国を形成する米英諸国に対し、日独伊は枢軸国と呼称。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表したが、現在でも見受けられる役所的な事後の「理屈付け」発想であり、実態は全く無く、対英米の世界主要諸国相手に戦争を遂行し勝利することになんら影響は与えなかった。

翌1944年7月にはサイパン島が陥落、日本本土も連日の空襲に晒され、すでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになる。
当然の成り行きとして、各種和平工作が企図されるようとするが、国際社会との窓口を自ら全て放棄した日本にはこの時点ではすでに戦争当事国のアメリカに対して降伏する以外の選択肢はなく、それはすなわち長年にわたる政策の非を認めることになる、あらゆるセクションから攻撃され、場合によっては殺害される可能性が大きく、ほとんど誰も実効ある行動に移すものはなかった。

翌1945年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、日本政府は正式回答せず、広島と、つづく長崎原子爆弾が投下された2日後、「御前会議」の場において、明治憲法下ですら禁止されていた「直接関与」による英断を昭和天皇に仰いでようやく政府として降伏を決定し(8月14日)、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。

この数日前、当時の数少ない有効な「条約」であった「日ソ不可侵条約」をソビエト社会主義連邦は一方的に破棄、満州領域と樺太、千島列島に侵攻。サンフランシスコ講和条約締結後も現在に至る北方4島の不法占領を続けている。

「日本降伏」事実は翌8月15日正午、天皇自らのラジオ放送(玉音放送と呼ばれる)により日本国民に伝えられた。

現代の日本

敗戦後、日本はそれまで占領していた、台湾朝鮮樺太南部南洋諸島千島列島(北方4島を除く)を失った。
その後1952年までの実に7年間にわたり、有史以来初めて外国(連合国総司令部、実態は米国)に占領されるという事態になった。
表面的には沖縄、小笠原諸島を除く日本の本土は、我が国に主権があったが、「占領」下のこととて当然とはいえ、全ての法令、文書は占領軍の厳しい「検閲」と「許可」が必要であり、1946年に日本国憲法発布された翌年のサンフランシスコ講和条約で連合国との完全講和が完了して後に事実上主権を回復した。
「占領」下の制定とはいえ、日本国憲法主権は国民に由来するとした「国民主権(主権在民)」や、平等権自由権参政権請求権などの権利を保障する「基本的人権の尊重」を明記した常識的な憲法であり、その特殊性を際立たせる、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しないという「平和主義」を加えた三大原則でなりたっている。

ところで、戦後、意図的に旧憲法を全否定する立場から、新憲法ではじめて「天皇を日本国および日本国民統合の象徴」とし、天皇の国政に関与する権能を大きく制限された、としている点は事実誤認であり、明治憲法下でも国政の最終責任は内閣にあると「常識」的に理解されていた。
それを「内閣法制局」よろしく海軍軍令部が無理やり歪曲解釈したこと(「統帥権干犯」問題)、そして結果的にはそのことがその後の事態を招いたこと、更に加えて国際共産主義組織であるコミュンテルンらの主張する、天皇は「専制君主」である、とする「1930年テーゼ」なる「理屈」とが脈絡無く混同され、皮肉なことに、終戦によって占領軍から合法化された共産党・社会党の信奉者の唱える「天皇の戦争責任」なるものと合体したイメージであり事実ではない。

15年戦争と敗戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷の極にあったが、朝鮮戦争の勃発により事態は一変する。
自由主義陣営諸国の旗頭である米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、補給物資の生産や輸送、そして膨大な駐留米軍の生活消費などのおかげで、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに1960年から1970年代初めまで続く驚異的な高度経済成長を遂げるに至る。
この「奇跡の復興」は、米国の戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で「警察予備隊」(後に「自衛隊」)を保持したとはいえ、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担からの解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。
このことはドイツ、イタリアは勿論、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの我が国と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。

戦後日本は、国際的には、終始米国を筆頭とする「西側自由主義陣営」に属し、日米安全保障条約に基づく同盟国として、ソビエト連邦を筆頭とする社会主義陣営に対抗し冷戦期を「勝ち組」として乗り切ることができた。
ソビエト連邦による壮大な歴史的実験の結果、社会主義が実現不可能であったと判明した冷戦後には、属すべき新たな世界構造を模索する状態が続き、国際連合に協力して海外でPKO部隊を展開するようになったり、米国主導の湾岸戦争に協力したりと、依然独自の外交指針は定められずにいる。

一方、米国側に深刻で喫緊の事情があったとはいえ、明確に憲法の条文に違反する「再軍備」を「憲法改正」せずに強行させられたことは、国民に「憲法」そのものの権威を疑わせる結果となり、明治憲法の不備を歪んだ解釈で乗り切ろうとして国策を誤った失敗を、再度繰り返す危険性をはらむ「いびつな」法治国家としてなったまま現在に至っている。

そして、冷戦期を通じて整備されていった「再軍備」は、ついには驚異的な経済力に比例して金額ベースでは世界屈指になったにも関わらず、「憲法違反」を如何なる権限に基づいてか、「内閣法制局」が「合憲」と判断するという、明治憲法下の「統帥権」の判断にも似た倒錯が現在まで続いていたが、21世紀にはいってようやく疑問を持たれ始め、「湾岸戦争」「PKO問題」「イラク戦争」等の現実に直面し、正常な「憲法改正」の議論が巻き起こってきたことは、我が国の「健全化」の兆しといえる。

とはいえ、大戦後の世界情勢の変化の影響で石油産油国と先進諸国との関係が複雑になった結果の2度の「石油ショック」も無事乗り切り、爆発的な成長を続ける日本経済は、ついには1980年代半ば、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国に次ぐ経済力を持つようになるという奇跡の復興を「完成」、人々の生活は「有史以来初めて」といえる「豊かさ」になる。

「世界屈指の豊かな国」日本は、表面的な生活と文化は欧米的に「進歩」し、「自由」と「平等」を謳歌し、これらの基盤の上に現代日本独自の文化が生まれるようにもなったが、反面、多くの日本人自身は現在の自国とその文化に自信をもてずにいる。
成人した男女が30歳を超えても「自分探し」なるものを行う未成熟さ、「個人」が「家族のあり方」と「対立」する不自然さ、日本人としてのアイデンティティーの喪失感は、占領体制下で財閥解体、農地改革などの社会構造の解体と併せて行われた、徹底的な、日本の伝統的な教育の破壊がもたらしたものである、との認識が終戦後60年を経てようやく生まれ始めている。

今世紀が日本にとって「輝かしい栄光の」歴史の1ページになることを多くの健全な国民は望んでおり、その方法も判っているが、今一歩の「決断」を飛び越えられないでいる。いまはその勇気を蓄えている時期なのかも知れない。

時代区分

各時代の関係を対照するために、日本史時代区分表がある。


文化の時代区分

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