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倭の五王(わのごおう)とは、古代中国の歴史書に登場する倭国の五人の王、をいう。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに渡って主に南朝420年-479年)に朝貢した。

倭の五王が記紀古事記日本書紀)における天皇の誰に該当するかについては諸説ある(後述)。

目次

概要編集

宋の歴史をまとめた『宋書』には、宋代を通じて五人の倭王の使者が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。宋に続く南斉の史書『南斉書』・の『梁書』にも、宋代の倭王の遣使について触れられている。一方、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は朝貢の事実を記していないが、倭の五王に比定される天皇の時代に「呉国」と使者のやり取りがあったという記述があり[注 1]、「呉」とは中国南東部の地域に当たることからこれが南朝の宋を意味するとも考えられる[1]

遣使の目的は中国の先進的な文明を摂取すると共に、中華皇帝の威光を借りることによって当時のヤマト王権にまつろわぬ諸豪族を抑え、国内の支配を安定させる意図があったと推測される。倭王は自身のみならず臣下の豪族にまで官爵を望んでおり、このことから当時のヤマト王権の支配力は決して超越的なものではなく、まだ脆弱だったと見る向きもある[2]。438年の遣使では倭王珍が「倭隋」なる人物ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔国将軍」の除正を求めているが、この時珍が得た「安東将軍」は宋の将軍表の中では「平西将軍」より一階高い位でしかなく、倭王の倭国内における地位は盟主的な存在であった可能性が窺える[注 2]。451年にも、やはり倭王済が23人に将軍号・郡太守号の称号を望んでいる[3]

また朝鮮半島諸国との外交を有利に進め[注 3]、なおかつ4世紀後半以降獲得した半島における権益に関して国際的承認を得ることも重要な目的であった[4]。倭王達は宋に半島南部の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し上申し、最終的には「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に任ぜられ[注 4]新羅任那加羅秦韓慕韓についての公認を得たものの、百済に関してはついに認められなかった。この理由としては、宋が北魏を牽制するため戦略上の要衝にある百済を重視したこと、倭と対立する高句麗の反発を避けようとしたものと考えられる[5]。また、倭王の将軍号は高句麗王・百済王と比較して常に格下であったが、これも同様に高句麗・百済の地政学的な重要性を考慮したものと思われる[6]

478年の遣使を最後として、倭王は1世紀近く続けた中国への朝貢を打ち切っている。21代雄略天皇は最後の倭王武に比定される人物だが(後述)、この雄略の実名と思しき名が刻まれた稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では中華皇帝の臣下としての「王」から「大王」への飛躍が認められ、同様の江田船山古墳出土鉄剣には「治天下大王」の称号が現れている。このことから、倭王が中国の冊封体制から離脱し自ら天下を治める独自の国家を志向しようとした意思を読み取る見方もある[7][8][9]

年表編集

413年 から502年の間の中国の史書の記録を年表にまとめると以下の通り。このうち倭王自身が使者を送ったか判然としないものもあるが、少なくとも9回は入貢している。

倭の五王、外交年表
西暦 中国王朝 中国元号 倭王 用件
413年 東晋 義熙9 高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)
421年 永初2 に朝献し、武帝から除授の詔をうける。おそらく「安東将軍倭国王」。(『宋書』夷蛮伝)
425年 元嘉2 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝)
430年 元嘉7 讃? 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)
438年 元嘉15 これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)
4月、宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』夷蛮伝)
443年 元嘉20 宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。(『宋書』夷蛮伝)
451年 元嘉28 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)
7月、「安東大将軍」に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人も宋朝から将軍号・郡太守号を与えられる。(『宋書』夷蛮伝)
460年 大明4 済? 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。
462年 大明6 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
477年 昇明1 興( 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)
これより先、興没して弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』夷蛮伝)
478年 昇明2 上表して、自ら「開府儀同三司」[注 5]と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて)
479年 南斉 建元1 南斉高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝)
502年 天監1 4月、武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。(『梁書』武帝紀)[注 6]

最初の413年の遣使は宋朝成立以前の東晋に対してのもので、『晋書』によると「高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が方物を献上した」とある。この記述を高句麗と倭国の共同入貢とする解釈[注 7]、高句麗が倭人の戦争捕虜を伴ったとする解釈、単に個別の入貢を一括して記したものとする解釈もあるが、詳細は不明である[10]。ただし、後の『梁書』諸夷伝には「晋の安帝の時、倭王讃有り」という記述がある。

479年と502年の記録はそれぞれ南斉・梁の建国時(479年・502年)のもので、これらは王朝建国に伴う事務的な任官であり、前王朝の官位を踏襲したものと考えられ、倭国の遣使があったか否かは明らかではない[11]。確認できる最後の遣使は478年であり、史料上確実な倭国の次の遣使は600年607年遣隋使まで途絶えることとなる。ただし『愛日吟盧書画続録』収録の「諸番職貢図巻」題記における「倭が斉(南斉)の建元年中に表を持ってきた」という記述から、南斉への遣使を事実とする説もある[12]

天皇と倭の五王編集

比定編集

倭の五王系譜・天皇系譜
宋書』倭国伝 梁書』倭伝
 
 
 
 
 
 
 

(421, 425年)

(438年)
 

(443, 451年)
 
 
 
 
 
 

(462年)

(478年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本書紀』の天皇系譜
(数字は代数、括弧内は和風諡号)
15 応神
(誉田別)
 
 
16 仁徳
(大鷦鷯)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中
(去来穂別)
18 反正
(瑞歯別)
19 允恭
(雄朝津間稚子宿禰)
 
 
 
 
 
 
 
 
20 安康
(穴穂)
21 雄略
(大泊瀬幼武)

「讃」→17代履中天皇・「珍」→18代反正天皇・「済」→19代允恭天皇・「興」→20代安康天皇・「武」→21代雄略天皇として、倭の五王に比定する説が一般的である。

最も蓋然性が高いのものが雄略天皇を「武」とする説である。記紀の記述の内容が5世紀末の朝鮮の史料とよく符合し、実名である「ワカタケル」と思しき名が刻まれた鉄剣がやはり5世紀末頃の遺跡で見つかっていることから同時代に在位していた大王である可能性が高く、「武」という名も実名の「タケル」を漢訳したものと考えられる[13]。先代の安康天皇は雄略の兄であり、先々代の允恭天皇は安康・雄略の父であることから、済の子が興でありその弟が武であると記す『宋書』の系譜とも一致する。また、478年に武が奉った上表文では「にわかに父兄を喪い」(奄喪父兄)と述べられており、允恭の死後に跡を継いだ安康がわずか3年で暗殺されたという『記紀』の記述とも整合性がある[14]。以上のように「済」・「興」・「武」については研究者の間でおおむね一致を見ているが、「讃」と「珍」については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあるため、様々な説がある[15]

また右掲の系図に見られるように、『宋書』では「讃」・「珍」と「済」・「興」・「武」の間の続柄が何故か記されていない。このことから、「讃」・「珍」と「済」・「興」・「武」との間に王統の断絶があったとする王朝交替説も存在する[16]。『梁書』では『宋書』に載っていない「珍」と「済」の関係を親子であると記しているが、「珍」の名が「」となっている。これは「珎(珍の俗字)」と「弥(彌の俗字)」に混同が生じやすいため『梁書』の方で誤写が生じたものと解されるが、「珍」と「彌」とは別人と見て実際には「倭の六王」とする説もある[17][18]。その他、武の上表文に「祖禰」と見えることから武の祖父に「」という人物を想定し、これと珍を同一視する説もある[19]。ただし一般には「禰」は単に廟の意と解されて、「祖禰」は先祖の意とされる[20]

他の説として、「讃」が16代仁徳天皇で「珍」を反正とする説や、「讃」は15代応神天皇で「珍」を仁徳とする説などがある。上述のように「武」の名が雄略の実名「タケル」の意訳であるとすることから他の王も同じであると考え、「讃」を応神の実名「ホムタワケ」[注 8]の「ホム」から、「珍」を反正の実名「ミヅハワケ」[注 9]の「ミヅ」から、「済」を允恭の実名「ヲアサヅマワクゴノスクネ」[注 10]の「ツ」から、「興」を安康の実名「アナホ」[注 11]の「アナ」を感嘆の意味にとらえたものから来ているという説もある。しかしながら字義や語音の解釈は恣意的な解釈も可能であり、傍証にはなり得ても決め手になるとはいい難い[21]

一方、倭王の朝貢に関する記述が『記紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が讃・珍・済・興・武などといった一字の中国風の名を名乗ったという記録が存在しないこと、『古事記』に掲載された干支と倭の五王の年代に一部齟齬が見られること[注 12]などから「倭の五王」はヤマト王権とは別の国の王とする説も江戸時代から存在した。特に九州の首長であるとする説は根強く、古くは本居宣長熊襲による僭称を唱えていたほか、戦後も古田武彦九州王朝説を唱えて一時期は学術誌に掲載されることもあった[22]

『記紀』年次との対応関係編集

『古事記』に年次の記述は無いが、分注として一部天皇の没年干支を記す。この没年干支を手がかりに、倭の五王を比定する説がある。『古事記』は天皇の没年を次のように記す。

『古事記』の天皇の没年干支
西暦 干支 名前
394年 甲午 十五代 応神
427年 丁卯 十六代 仁徳
432年 壬申 十七代 履中
437年 丁丑 十八代 反正
454年 甲午 十九代 允恭
489年 己巳 二十一代 雄略
527年 丁未 二十六代 継体

『古事記』の没年干支を正しいとすれば讃=仁徳・珍=反正・済=允恭・興=安康・武=雄略となる(数年程度の誤差は存在する)。しかし一ヶ所、『宋書』の記述と明らかに矛盾する箇所がある。すなわち珍を讃の弟とする記述である。

「讃死弟珍立遣使貢献」(讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。) — 『宋書』倭国伝

『古事記』が437年に没したとする反正は、『記紀』によるかぎり仁徳とは親子関係である。讃を仁徳、珍を反正とすると、『宋書』倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と矛盾する。反正は履中の弟である。ただし、この一点を除けば『古事記』の天皇の没年干支から倭の五王が推測できるとも考えられる。

一方『日本書紀』の記述からは天皇の没年干支は次のように計算される。

『日本書紀』の天皇の没年干支
西暦 干支 名前 説明
405年 乙巳 十七代 履中 仁徳天皇の第一皇子
410年 庚戌 十八代 反正 仁徳天皇の第三皇子
453年 癸巳 十九代 允恭 仁徳天皇の第四皇子
456年 丙申 二十代 安康 允恭天皇の第二皇子
479年 己未 二十一代 雄略 允恭天皇の第五皇子

『書紀』の年次では、413年から479年の間の天皇は允恭・安康・雄略の3名であるが、反正との年代は宋への行程を考えると候補として十分にあり得る。またこの反正天皇との崩御の時期だけが古事記が正しいとすれば、413年の讃は反正になり矛盾しない。ただ438年の珍、443年の済という二人の遣使に対し、『書紀』のこの期間に該当する天皇は允恭1人であるので珍と済が同一人物でなければならない。だが古事記では矛盾していた箇所も、讃を反正として珍を允恭とすると、『宋書』倭国伝が珍を讃の弟とする記述と合致する。

しかし、そもそも『古事記』・『書紀』とも倭の五王の遣使に明確に対応する記事はない。既述のようにこうしたことを根拠に九州王朝説が主張され、一時期は史学雑誌等の学術誌でも取り上げられることがあったが、現在では『記紀』の史料批判により26代継体天皇以前の編年は到底正しいとはいえず、またこの頃のヤマト王権では文字による記録が常時取られていたとは考え辛いことから、『記紀』に伝えられる干支や系譜を元に倭の五王を推定するという試みをあまり意味がないとする意見もある。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 『書紀』の応神天皇紀三十七年二月条「遣阿知使主都加使主於呉令求縫工女」、四十一年二月条「阿知使主等自呉至筑紫」、仁徳天皇紀五十八年十月条「呉国高麗国並朝貢」、雄略天皇紀五年条「呉国遣使貢献」、八年二月条「遣身狭村主青檜隈民使博徳使於呉国」十年九月条「身狭村主青等将呉所献二鵝」など。
  2. ^ ただし、倭隋の「倭」を姓として倭王の一族と見る説もある。
  3. ^ 倭の遣使が東晋の南燕征服による山東半島領有(410年)以後、北魏の南進が本格化する470年代にかけての時期に集中しているのは、山東半島の南朝支配によって倭及び三韓からの南朝への航海の安全性が増す一方で、東晋の東方諸国に対する政治的・軍事的圧力を無視できなくなったという見解を大庭脩川本芳昭はとっている。
  4. ^ 「使持節」とは皇帝から節(旗印)を得て委任を受けたことを示し、「都督……諸軍事」とはその地域の軍事権を承認されたことを意味する。ただし倭王が認められたのは軍事権であり、現地の行政権ではないことに注意が必要である。
  5. ^ 「開府儀同三司」は官庁を開き官僚を置くことのできる名誉職で、当時倭国と対立する高句麗の長寿王が任ぜられていた。
  6. ^ 鎮東大将軍→征東将軍では進号にならないため、征東大将軍の誤りとされる
  7. ^ しかし当時激しく敵対していた高句麗と倭国が共に入貢するとは到底考えづらい。
  8. ^ 和風諡号『古事記』品陀和氣命、『日本書紀』譽田天皇。『日本書紀』一伝に笥飯大神と交換して得た名である譽田別天皇、『播磨国風土記』品太天皇、『上宮記逸文凡牟都和希王
  9. ^ 和風諡号『日本書紀』多遅比瑞歯別尊、『古事記』水歯別命
  10. ^ 和風諡号『日本書紀』雄朝津間稚子宿禰尊、『古事記』男淺津間若子宿禰王
  11. ^ 和風諡号『日本書紀』穴穂天皇。穴穂皇子
  12. ^ 通説通り「済=允恭」とすると「珍=反正」となるが、反正は437年に没しており、珍は438年に朝貢している。

出典編集

  1. ^ (安本 1992)P133-135
  2. ^ (瀧音 2018)P132-133
  3. ^ (森 2010)P47-50
  4. ^ (瀧音 2018)P130-132
  5. ^ (佐伯 1988)P26-27 鈴木靖民による論考。
  6. ^ (森 2010)P20-24
  7. ^ (佐伯 1988)P75-76 鈴木靖民による論考。
  8. ^ (森 2010)P64-67
  9. ^ (瀧音 2018)P154-157
  10. ^ (森 2010)P7-10
  11. ^ (森 2010)P11
  12. ^ (河内 2018)P207-228
  13. ^ (安本 1992)P69
  14. ^ (森 2010)P38
  15. ^ (瀧音 2018)P128-129
  16. ^ (森 2010)P38
  17. ^ 倭の五王(国史).
  18. ^ 倭の五王(日本大百科全書).
  19. ^ (上田 2012)P226-231
  20. ^ (森 2010)P4
  21. ^ (安本 1992)P48-49
  22. ^ 本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』、古田武彦『失われた九州王朝説』他)

参考文献編集

関連項目編集