メインメニューを開く

名称編集

漢字表記は、甌の他に「甌貉」[3][4]、「甌駱」[5]などが、日本語カナ表記は「オーラック」[6]、「アウラク」[6]、「アウラック」[3]、「オゥラク」[4]などがある。

概要編集

によって、山岳地の甌越英語版地域(現在のベトナム最北部および中国南部の一部)とこれより南部の(現在のベトナム北部にある紅河デルタ)を統合して建国された[7]。蜀は甌の唯一の君主であり、安陽王の名で統治した。

成立から滅亡まで編集

成立期編集

文郎国末期、18代目雄王は酒食にふけって軍備を疎かにし、の侵攻を防ぐことができなかった。4年間の戦争の後、文郎国は秦軍を北部に受け入れたが、その地域で文郎人と共存していた西甌は秦に抵抗し、また駱越も支配を受け入れずに森林に逃れた[8]。彼らは優れた人物のを指導者とし、6年間の抗戦の末に秦軍校尉の中国語版を破り、秦軍を撤退させた。西甌と駱越の指導者となった蜀は雄王に譲位を迫り、紀元前257年に西越を統合して甌駱を建国した。

以降、蜀は安陽王の名で統治を行い、都は封渓(フォンケー、現代のハノイ中心部から16km北[9][10][11])に置かれた。現在の地名でいえばハノイ北部のドンアイン県コーロア社であり、デルタに形成されたこの地域は、当時国内では最も人口の多い地域だった。また隣接するホアン川は小規模な河川であるもののソンコイ川とその支流のカウ川を繋ぐ海上交通の重要地点でもあった。甌の行政機構は駱将部を中心にいくつかに分かれ、それぞれ蒲正(ボーチン)と呼ばれる知事が配置されていた。しかし甌成立の経緯から安陽王の権限が強く、特に統治初期に銅製農耕具の製造と改良が進んで農業生産性が増大し、建築と冶金も発達したことからこの時代以降は鉄製品も多く発掘されている[6]

古螺城編集

秦を退けたことで建国した甌だが、秦の再侵攻は時間の問題とされていた[12]。そのため安陽王は封渓に古螺城として知られる城塞を建築する。3重の土塁水堀から成り、外郭の周長は8km、中郭の周長は6.6kmある。内郭は、全周1.6km、高さ5〜10mに及ぶ。ホアン川とカー沼を組み込んで築かれ、その形が巻貝に似ていたことから螺(タニシ)城と呼ばれ、そのまま地域の語源となった[13]。また城内には銅製の武具と兵士が蓄えられ、弩も多く集められていた。河川に面したカー沼も水軍の訓練場所として利用され、軍船が常時駐留した。

これらの備えに対し、秦はむしろ衰退の兆しを見せていたが、そのために独立性を高めた諸侯が割拠する時代を招く。将軍の趙佗広東広西ら三郡を秦から任せられていたが、紀元前207年に秦が滅亡すると独立して現在の広州市付近の番禺を都とする南越国を建国した。甌は南越からの侵攻を受けるが、備えが十分であったため撃退し、趙佗は講和を結んで撤退した[14]。しかし南越は侵略を諦めてはおらず、趙佗の計略により安陽王と諸将の仲は次第に疎遠となり、また婚姻外交により甌との緊張関係を緩和していった。

滅亡編集

紀元前179年、甌で内乱が生じる。カオ・ロー中国語版、ノイ・ハウら甌の諸将はそのために安陽王の元を去り、南越軍は再度甌へと侵攻した。安陽王の軍はことごとく敗れ、また南越に対する警戒が緩んでいたことからたちまちのうちに制圧され、同年に南越に併合された[14]北属期)。

金の亀編集

の興亡にまつわる伝説として、以下のような「金の亀」に関わる伝説が存在する[15]

安陽王は古螺を都と定めて城を築こうとしたが、何度挑んでも崩れてしまい途方に暮れていた。そこにある時、金の亀が訪れて建設の助言をもたらした。その通りに安陽王が再び築いたところ、強固な城壁が完成した。また金の亀が授けた自らの爪は優れた弩となり、侵攻してきた南越国を退けた。敗れた趙佗は一転して講和を結び、子の仲始中国語版と安陽王の娘の媚珠中国語版の婚姻を進めた。結果、二人は仲睦まじい夫婦となったがそれは趙佗の計略であり、警戒が緩んだある日、ついにその弩を盗みだすことに成功する。その行いから講和は決裂し、再び戦争が始まるが安陽王は敗れ、都から娘らを連れて落ち延びようとする。だが、その時点でも媚珠は仲始を愛しており、巡りあうことを願って目印を道に落としてしまう。しかしそれは王の知るところとなり、安陽王は怒りのあまり娘を斬り殺す。やがて目印を追ってきた仲始がようやく辿り着くものの、その時には媚珠はすでに息絶えており、打ちひしがれた仲始は井戸に身を投げて後を追って死んでしまった。

脚注編集

  1. ^ チャン・チョン・キム, p. 245
  2. ^ 『東南アジアの歴史―人・物・文化の交流史』47頁
  3. ^ a b 新田栄治、「先史時代」 『東南アジア史 I 大陸部』、37頁。 
  4. ^ a b 小倉, pp. 21-22
  5. ^ 史記』巻一百一十三 南越列伝第五十三
  6. ^ a b c ファン 2008, p. 64
  7. ^ Keith Weller Taylor -The Birth of Vietnam Page 20 1991 " however, his unusual cleverness enabled him to retain his father's throne. As Nam Cuong grew in strength, Van-lang became weak; subsequently, Thuc Phan conquered Van-lang and founded the kingdom of Au Lac. That the Thuc family was .....
  8. ^ ファン 2008, p. 63
  9. ^ Understanding Vietnam - Page 7 Neil L. Jamieson - 1995 The Dragon Lord of the Lac served as protector of the kingdom under the Hung kings, as the Golden Turtle spirit guarded the realm of Au Lac. As these potent leaders and other major cultural heroes joined the spirit world after death, they too ...
  10. ^ Philip Quang Phan, Vietnamese-American engineers: An examination of the leadership ... - Page 26 University of Phoenix - 2009 "The first written records of Vietnamese in leadership date back to 258 BC, with Thục Phán as King An Dương Vương of the kingdom Âu Lạc (Nguyễn, 1999). Throughout history, Asians in leadership positions was related to the following ..."
  11. ^ Patricia M. Pelley - Postcolonial Vietnam: New Histories of the National Past - Page 213 2002 "To bring Hanoi's singular status into sharper focus, Nguyễn Lương Bích discusses the previous capitals, beginning with Phong Châu, the capital of the prehistoric Hùng kings, and Cổ Loa, the capital of An Dương Vương."
  12. ^ ファン 2008, p. 67
  13. ^ ファン 2008, p. 66
  14. ^ a b ファン 2008, p. 68
  15. ^ ファン 2008, p. 69

参考文献編集

  • ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史』今井昭夫他訳、明石書店、2008年8月31日。
  • 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』〈中公新書〉。ISBN 4-12-101372-7
  • 『東南アジア史 I 大陸部』石井米雄桜井由躬雄編、山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年12月20日。ISBN 978-4634413504
  • 『東南アジアの歴史―人・物・文化の交流史』桐山昇栗原浩英根本敬編、有斐閣〈世界に出会う各国=地域史〉、2003年9月30日。ISBN 978-4641121928
  • Trần Trọng Kim. Việt Nam sử lược. 

関連項目編集