メインメニューを開く

田中古墳群(たなかこふんぐん)は、滋賀県高島市安曇川町田中にある古墳群

概要編集

高島平野西部、泰山寺野台地の東端部に形成された古墳群である[1]。古墳群中央北に位置する田中王塚古墳を主墳とし、その周囲においてこれまでに約70基の古墳が確認されている[注 1]。古墳群は5世紀後半に築造が始まり、6世紀中頃が最も多く、7世紀まで続く[2]。墳形は円墳または方墳で、多くは直径は約10-20メートル、高さは約1-4メートルである[1]

安曇川以北には古墳時代前期から継続して古墳が築かれていたことから、本古墳群の位置する安曇川以南を新規開墾地と見る説や、当地の勢力を安曇川以北の勢力の分枝と見る説がある[2]2007年平成19年)には、初めての本格的調査となる発掘調査が36号墳においてなされている[2]

田中王塚古墳編集

田中王塚古墳
 
墳丘正面
(安曇陵墓参考地 入り口)
所在地 滋賀県高島市安曇川町田中
位置 北緯35度20分24.57秒
東経136度0分24.07秒
形状 円墳または帆立貝形古墳
規模 直径58m
高さ10m
埋葬施設 不明
築造時期 5世紀後半
被葬者宮内庁推定)彦主人王
陵墓 宮内庁治定「安曇陵墓参考地」
テンプレートを表示

田中王塚古墳(たなかおうづかこふん)は、田中古墳群の主墳。通称は「王塚」・「ウシ塚」[1]

宮内庁により「安曇陵墓参考地(あどりょうぼさんこうち)」(被葬候補者:第15代応神天皇玄孫宇非王王子彦主人王継体天皇御父)として陵墓参考地に治定されている。

概要編集

直径約58メートル、高さ約10メートルを測る大型の円墳または帆立貝形古墳である[1]。墳丘は2段築成で、表面は葺石で覆われるとともに埴輪が巡らされる[3]。埋葬主体は明らかでなく、粘土槨または木棺の直葬と推定される[3]。築造年代は墳形・埴輪より5世紀後半頃と推定され[1]安曇川以南で最初に造られた首長墓に位置づけられる[2]

1905年明治38年)、宮内省(現・宮内庁)によって被葬者が彦主人王(ひこうしのおう;第26代継体天皇の父)と想定され、周辺の古墳(陪塚として)とともに買収された[3]。その際、他の天皇陵の前方後円墳に倣って前方部が造成されたとされる[3]。現在に至るまで陵墓参考地に治定されているため、調査は行われておらず詳細は明らかでない。

考証編集

日本書紀』によると彦主人王は当地に別業として「三尾之別業」を営んだといい、継体天皇の幼少時に死去したという。この彦主人王の墓を高島市鴨の鴨稲荷山古墳(6世紀前半、前方後円墳)にあてる説等もあるが、450年頃という継体天皇の出生に対する5世紀後半の他の首長墓はないことから、本古墳がその墓として有力視されている[2]

また本古墳が首長墓でありながら前方後円墳でない理由に関して、5世紀後半における雄略天皇による中央集権化(地方勢力の締め付け)に見る説、本古墳は他所からの支援による初の大型古墳であるためとする説がある[2]

田中36号墳編集

田中36号墳は、2007年平成19年)に田中古墳群のうちで初めて本格的な発掘調査がなされた古墳である[2]

直径24メートル、高さ4メートルの円墳[1]。九州地方の古墳と共通する「石屋式」の横穴式石室が検出された[2]。石室の全長は7.9メートルを測り、壁面には赤色の顔料が塗られている[1]。そのほか、馬具・土器類等多くの副葬品が出土した[1]。以上より、築造年代は6世紀後半頃と推定される[1]

現在では遺構は埋め戻されている[1]

脚注編集

[ヘルプ]

注釈

  1. ^ 田中古墳群の古墳数について、かつては43基あるとされていたが、2009-2011年の調査で約70基が確認された (水谷千秋 & 2013年, p. 67)。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 史跡説明板。
  2. ^ a b c d e f g h 水谷千秋 & 2013年, p. 63-68.
  3. ^ a b c d 田中王塚古墳(平凡社) & 1991年.

参考文献編集

(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板
  • 「田中王塚古墳」『日本歴史地名大系 25 滋賀県の地名』平凡社、1991年。ISBN 4582490255
  • 水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎(文春新書925)』文藝春秋、2013年。ISBN 978-4166609253

関連文献編集

(記事執筆に使用していない関連文献)

関連項目編集