彦主人王
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彦主人王(ひこうしのおう[1]/ひこうしのおおきみ[2]、生没年不詳)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
彦主人王 | |
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配偶者 | 振媛 |
子女 | 継体天皇 |
父親 | 乎非王 |
母親 | 久留比売命 |
『上宮記』逸文に基づく系図(抜粋)[原 1]
伊久牟尼利比古大王 (11 垂仁天皇) | |||||||||||||
伊波都久和希 (磐衝別命) | |||||||||||||
伊波智和希 (磐城別) | |||||||||||||
凡牟都和希王 (15 応神天皇) | 伊波己里和気 | ||||||||||||
若野毛二俣王 | 麻和加介 | ||||||||||||
大郎子 (意富富等王) | 阿加波智君 | ||||||||||||
乎非王 | 乎波智君 | ||||||||||||
汗斯王 (彦主人王) | 布利比弥命 (振媛) | ||||||||||||
乎富等大公王 (26 継体天皇) | |||||||||||||
第15代応神天皇の玄孫で、第26代継体天皇の父である。『上宮記』逸文[原 1]では「汙斯王(うしのおおきみ)」と表記される。
系譜編集
『釈日本紀』所引の『上宮記』逸文[原 1]によれば、汙斯王(彦主人王)は応神天皇(第15代)の四世孫である[3]。父は乎非王(おひのおおきみ)で、母は牟義都国造伊自牟良君の女の久留比弥命[3]。
『上宮記』逸文と『日本書紀』によれば、妃は垂仁天皇七世孫の振媛(ふりひめ、布利比弥命)で、その間の子に継体天皇(第26代)がいる。
豊城入彦命 | [毛野氏族] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
10 崇神天皇 | 11 垂仁天皇 | 12 景行天皇 | 日本武尊 | 14 仲哀天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
倭姫命 | 13 成務天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彦坐王 | 丹波道主命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山代之大 筒木真若王 | 迦邇米雷王 | 息長宿禰王 | 神功皇后 (仲哀皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | 16 仁徳天皇 | 17 履中天皇 | 市辺押磐皇子 | 飯豊青皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
18 反正天皇 | 24 仁賢天皇 | 手白香皇女 (継体皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
菟道稚郎子皇子 | 23 顕宗天皇 | 25 武烈天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
19 允恭天皇 | 木梨軽皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
20 安康天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
21 雄略天皇 | 22 清寧天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
春日大娘皇女 (仁賢皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
稚野毛 二派皇子 | 意富富杼王 | 乎非王 | 彦主人王 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忍坂大中姫 (允恭皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
記録編集
『日本書紀』継体天皇即位前条によると、彦主人王は近江国高島郡の「三尾之別業」(現在の滋賀県高島市の安曇川以南域)におり、越前三国の坂中井(さかない:現在の福井県坂井市の旧三国町域)の振媛を娶った[3]。
その後振媛は男大迹王(のちの継体天皇)を生んだが、その幼少のうちに彦主人王は死去[3]。そのため振媛は高向村(現在の福井県坂井市の旧丸岡町域)に帰郷して、男大迹王を養育したという[4]。
三尾別業編集
三尾別業(みおのなりどころ、三尾之別業)は、彦主人王が拠点とした三尾にあったとされる別業[5]。継体天皇の出生地ともされ、近江国高島郡三尾郷(現在の滋賀県高島市の安曇川以南域)と見られるが、具体的な比定地は未詳[5]。
この「三尾」の地について『上宮記』では「弥乎国」と見えるほか、『延喜式』では兵部省条に「三尾駅」が、『和名抄』では高島郡に「三尾郷」が見える[5]。現在も水尾神社や「三尾里」の地名が残ることから、「三尾」とは高島市の鴨川下流域一帯を指す地名とされる[5]。現在、同地には継体天皇出生に関する数々の伝承地が残っている[6]。
- 水尾神社(位置) - 式内名神大社。祭神は磐衝別命(三尾氏祖)と振媛。
- 三重生神社(位置) - 式内社。祭神は彦主人王と振媛。継体含む3子出産の伝承地。
- 安産もたれ石(位置) - 振媛出産伝承地。
- 胞衣塚(えなづか、位置) - 継体天皇の胎盤の埋納伝承地。6世紀の築造とされる直径約11.5mの円墳で[7]、高島市指定史跡。
そのほか、同地にある田中王塚古墳(彦主人王墓伝承地)と稲荷山古墳は5世紀中頃から6世紀前半の首長墓と見られており、豪族の三尾君(みおのきみ、三尾氏)との関係も指摘される[5][注 1]。
墓編集
彦主人王に関して、宮内庁による治定墓はない。ただし、滋賀県高島市安曇川町にある宮内庁の安曇陵墓参考地(あどりょうぼさんこうち、位置)では、彦主人王が被葬候補者に想定されている[8]。遺跡名は「田中王塚古墳」。直径約58m・高さ約10mの円墳(または帆立貝形古墳)で、5世紀後半の築造とされる[9]。俗称は「ウシ塚」[9]。
陵墓参考地のため詳細な調査は行われていないが、推定築造時期の合致から考古学的にも彦主人王の墓とする説が有力視される[10]。また、三尾では滋賀県高島市鴨の稲荷山古墳(前方後円墳、墳丘長45メートル、位置)が彦主人王の墓であるとも伝えるが、こちらは現在では安曇川以南の豪族・三尾氏の首長墓と考えられている[11]。
そのほか、彦主人王および三尾氏のかつての本拠地は越前であったが5世紀後半頃に近江に移したとする立場(三尾氏移動説)から、二本松山古墳(福井県吉田郡永平寺町)と関連付ける説もある。この説では、二本松山古墳が時期の異なる(5世紀後半頃と6世紀初頭頃か)2つの石棺を持ち、片方(古相)には人骨がないことを基に、古墳を彦主人王の空墓と振媛の墓と推測する[12]。
脚注編集
注釈
- ^ ただし三尾氏の本拠地は、近江国高島郡三尾郷であるとも越前国坂井郡水尾郷であるともいう (三尾氏(古代氏族) & 2010年, p. 592)。
原典
- ^ a b c 『釈日本紀』巻13(述義9)第17所引『上宮記』逸文。 - 『国史大系 第7巻』(経済雑誌社、1897年-1901年、国立国会図書館デジタルコレクション)354-355コマ参照。
出典
- ^ 彦主人王(国史) & 2010年.
- ^ 彦主人王(古代氏族) & 2010年.
- ^ a b c d 彦主人王(古代氏族) & 2010年, p. 500-501.
- ^ 振媛(古代氏族) & 2010年, p. 565.
- ^ a b c d e 三尾別業(平凡社) & 1991年.
- ^ 継体天皇(高島ゆかりの人物から学ぶ)(高島市観光協会)。
- ^ 胞衣塚(高島市観光情報)。
- ^ 外池昇 『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』 吉川弘文館、2005年、pp. 49-52。
- ^ a b 現地説明板。
- ^ 水谷千秋 & 2013年, p. 63-68.
- ^ 稲荷山古墳(平凡社) & 1991年.
- ^ 堀大介 「「越」の豪族・三尾氏と三国氏」『古代史研究の最前線 古代豪族』 洋泉社、2015年、pp. 174-187。
参考文献編集
- 吉村武彦「彦主人王」『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、1990年。ISBN 4642005110。
- 『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588。
- 「継体天皇」、「彦主人王」、「振媛」、「三尾氏」
- 『日本歴史地名大系 25 滋賀県の地名』平凡社、1991年。ISBN 4582490255。
- 「三尾別業」、「稲荷山古墳」
- 水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎(文春新書925)』文藝春秋、2013年。ISBN 978-4166609253。
関連項目編集
外部リンク編集
- 継体天皇(高島ゆかりの人物から学ぶ) - 高島市観光協会