田坂虎之助
田坂 虎之助(たさか とらのすけ、1850年12月6日(嘉永3年11月3日) - 1919年(大正8年)1月25日)は、日本陸軍の軍人。日本における測地測量の基礎を築いた。正五位。最終階級は陸軍少将。
田坂 虎之助 たさか とらのすけ | |
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生誕 |
1850年12月6日 安芸国 広島 |
死没 |
1919年1月25日(68歳没) 大日本帝国 神奈川県 逗子 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1875 - 1902 |
最終階級 | 陸軍少将 |
除隊後 | 測地学委員会臨時委員 |
墓所 | 青山霊園 |
経歴
編集嘉永3年に広島藩士田坂佐久六の次男として広島城下に生まれる。広島藩校修道館(現:修道中学校・修道高等学校)出身[1][2]。また三原洋学所にて英語などの洋学を学ぶ。1871年1月2日(明治3年11月12日)に伏見満宮の随員としてドイツ(当時のプロイセン)に留学を命ぜられ[3]、測量や地図作成の技術を学ぶ。1875年(明治8年)12月20日、在独のまま陸軍少尉に任官[4]し、1878年(明治11年)8月23日陸軍中尉に、1880年(明治13年)12月27日陸軍工兵大尉に昇進。
1882年(明治15年)5月1日帰朝被仰付となり[5]、同年10月に帰朝し、参謀本部測量課に勤務。1885年(明治18年)3月28日に陸軍工兵少佐に昇進し[6]、同年4月に参謀本部測量局三角測量課長となる。1886年(明治19年)3月29日には本初子午線並計時法審査委員を、1887年(明治20年)1月25日には改正兵語字書審査委員を[7]それぞれ仰せ付けられる。
同年3月23日には、ドイツでの長年に亘る在留経験を買われ、ドイツ帝国皇族フレデリック・レオポール親王来航に付き、式部官長崎省吾らとともに接待掛を命ぜられる[8]。同年4月7日、兼任建設局三等技師・奏任官三等[9]。参謀本部測量局が陸地測量部となった1888年(明治21年)5月14日には初代の三角科長に就任[10]し、1889年(明治22年)4月30日、万国測地学協会委員を仰せつかる[11]。
同年11月2日には陸軍工兵中佐に昇進[12]。1891年(明治24年)5月に設置された日本水準原点の創設に貢献しており、原点の水晶目盛が埋め込まれている船形石に「陸地測量部三角科長陸軍工兵中佐従六位勲六等田坂虎之助」と名が彫刻されている。
1895年(明治28年)5月12日に陸軍工兵大佐に昇進[13]。1898年(明治31年)5月23日、明治31年勅令第84号により発足したばかりの測地学委員会(現在の科学技術・学術審議会測地学分科会の前身)の委員を仰せつかる[14]。1902年(明治35年)5月5日には陸軍少将に昇進し、同日予備役に編入した[15]が、翌日付で引き続き陸地測量部三角科業務嘱託となる。同年5月21日には測地学委員会委員を退任するも、同日付で同委員会臨時委員を仰せつかり[16]、引き続き審議に参画する。1905年(明治38年)10月16日、後備役に編入[17]。1906年(明治39年)9月、ハンガリー国ブダペストにて開催された第15回万国測地学協会総会に木村栄とともに参列[18]。1909年(明治42年)4月1日に退役した[19]。
1918年(大正7年)5月8日には、病弱を理由に測地学委員会臨時委員を退任する[20]。1919年(大正8年)1月25日、肺炎にて病没。墓所は青山霊園立山墓地。
親族
編集栄典
編集- 位階
- 1876年(明治9年)6月15日 - 正八位[21]
- 1880年(明治13年)2月6日 - 従七位
- 1881年(明治14年)3月17日 - 正七位[22]
- 1885年(明治18年)5月7日 - 従六位[23]
- 1891年(明治24年)12月28日 - 正六位[24]
- 1895年(明治28年)11月15日 - 従五位[25]
- 1901年(明治34年)3月11日 - 正五位[26]
- 勲章等
- 1888年(明治21年)11月27日 - 勲六等瑞宝章[27]
- 1888年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[28]
- 1893年(明治26年)11月29日 - 勲五等瑞宝章[29]
- 1894年(明治27年)3月9日 - 大婚二十五年祝典之章
- 1895年(明治28年)
- 10月31日 - 勲四等旭日小綬章[30]
- 11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[31]
- 1906年(明治39年)6月30日 - 勲二等旭日重光章[32]
- 外国勲章佩用允許
脚注
編集- ^ 地図測量の300人 http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/archive/ac-otona/300nin-1.pdf
- ^ 陸軍の測量 http://uenishi.on.coocan.jp/j664sanbou.html
- ^ 『太政官日誌』明治3年第54号。
- ^ 『太政官日誌』明治9年第27号。
- ^ 「明治15年 「大日記 5月 宣告辞令進退諸達伺 陸軍省総務局」(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C04030540100
- ^ 『官報』第536号、明治18年4月18日。
- ^ 『官報』第1070号、明治20年1月27日。
- ^ 『官報』第1117号、明治20年3月25日。
- ^ 『官報』第1130号、明治20年4月9日。
- ^ 『官報』第1462号、明治21年5月17日。
- ^ 『官報』第1750号、明治22年5月3日。
- ^ 『官報』第1907号、明治22年11月5日。
- ^ 『官報』第3561号、明治28年5月16日。
- ^ 『官報』第4467号、明治31年5月24日。
- ^ 『官報』第5648号、明治35年5月6日。
- ^ 『官報』第5662号、明治35年5月22日。
- ^ 『官報』第6917号、明治39年7月20日。
- ^ 『官報』第7331号、明治40年12月4日。
- ^ 『官報』第7754号、明治42年5月4日。
- ^ 『官報』第1728号、大正7年5月9日。
- ^ 『太政官日誌』明治9年第63号。
- ^ 「明治14年1月6月 「大日記 進退 1 参進」自1号至257号(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C07080547700
- ^ 『官報』第629号、明治18年8月5日。
- ^ 『官報』第2551号、明治25年1月4日。
- ^ 『官報』第3717号、明治28年11月16日。
- ^ 『官報』第5304号、明治34年3月12日。
- ^ 『官報』第1628号、明治21年12月1日。
- ^ 『官報』第1936号、明治22年12月10日。
- ^ 『官報』第3131号、明治26年12月5日。
- ^ 『官報』第3704号、明治28年11月1日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」、明治28年4月1日。
- ^ 『官報』第6901号、明治39年7月2日。
- ^ 『官報』第1326号、明治20年11月29日。
参考文献
編集- 「叙勲裁可書・明治三十九年・叙勲巻一・内国人・叙勲・削除・申牒(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A10112609000
- 西田文雄『三角点・水準点をつくった人 : 近代の測量から現代まで』文化評論、2014年。ISBN 9784830200267。
- 石原あえか『近代測量史への旅 = Die Zeitreise der Vermessungsgeschichte : ゲーテ時代の自然景観図から明治日本の三角測量まで』法政大学出版局、2015年。ISBN 9784588371233。
- 市民学芸員みはら玉手箱第5号 三原市教育委員会
関連項目
編集- 日本の三角測量の歴史
- 呉文聰:統計学者。同時期に三原洋学所にて学ぶ
- 渡正元:元老院議官。同上
- 修道中学校・高等学校の人物一覧
外部リンク
編集- 地図測量の300人|田坂虎之助(たさか とらのすけ 1850-1919) - ウェイバックマシン(2016年4月30日アーカイブ分)
- ウイーンフィルを聴いた最初の日本人は? - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)
- わが国の測量・地図作りに貢献した人 -田坂虎之助-