花山院通雅

鎌倉時代前期~中期の公卿。花山院定雅の長男。従一位・太政大臣。勅撰集『続古今和歌集』以下に5首入集。

花山院 通雅(かさんのいん みちまさ、旧字体花󠄁山院 通󠄁雅󠄂)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿右大臣花山院定雅の長男。官位従一位太政大臣後花山院太政大臣と号す。花山院家7代当主。

 
花山院通雅
花山院通雅像(三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』より)
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 貞永元年4月2日1232年4月23日
死没 建治2年5月14日1276年6月17日
改名 通雅→空理(法名)
官位 従一位太政大臣
主君 四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇後宇多天皇
氏族 花山院家
父母 父:花山院定雅、母:二条定高の娘
兄弟 通雅長雅定教、浄雅、女子
藤原国通の娘、中院通方の娘、園基氏の娘
家長家教通定、雲雅、円雅
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経歴 編集

貞永2年(1233年従五位下に叙爵。文暦2年12月(1236年1月)に従五位上・侍従に叙任され、嘉禎3年(1237年)には従四位下、次いで従四位上に叙せられた。

延応2年12月(1241年1月)正四位下に昇叙。仁治4年(1243年)12歳にして元服し、左近衛権中将に任ぜられる。寛元5年(1247年)に従三位に叙せられて公卿に列し、宝治2年(1248年越前権守を兼ねた。建長2年(1250年正三位参議に叙任。建長3年(1251年権中納言に任ぜられ、帯剣を聴された。康元2年(1257年)には正二位権大納言に昇進する。

弘長2年(1262年)に右近衛大将・右馬寮御監を兼帯する。文永5年12月(1269年1月)に内大臣に任ぜられ、文永6年(1269年)にはさらに右大臣を拝命する。文永8年(1271年)に上表して右大臣を辞任するが、建治元年(1275年)に従一位・太政大臣に叙任されて還任した。翌建治2年(1276年)3月に病のため太政大臣を辞退。同年4月に出家(法名空理)し、5月4日に45歳で薨御。

宝治2年(1248年)に後嵯峨天皇宇治御幸の顚末を記した『宇治御幸記』を著している。

官歴 編集

※以下、『諸家傳』の記載に従う。

  • 貞永2年(1233年)正月5日:従五位下に叙す。
  • 文暦2年12月21日(1236年1月30日):従五位上に叙し、侍従に任ず。
  • 嘉禎3年(1237年)2月11日:従四位下に叙す。12月-日:従四位上に叙す。
  • 延応2年12月2日(1241年1月15日):正四位下に叙す。
  • 仁治4年(1243年
    • 4月3日:元服し、禁色を聴す。
    • 12月5日(1244年1月16日):左近衛権中将に任ず。
  • 寛元5年(1247年)正月5日:従三位に叙す。中將如元。
  • 宝治2年(1248年)正月23日:越前権守を兼ぬ。
  • 建長2年(1250年
    • 5月17日:参議に任ず。
    • 5月20日:正三位に叙し、左近衛権中将に任ず。
    • 12月24日(1251年1月17日):右近衛権中将に転ず。
  • 建長3年(1251年)正月22日:権中納言に任ず。2月13日:帯剣を聴す。
  • -年-月-日:従二位に叙す。
  • 康元2年(1257年
    • 正月-日:正二位に叙す。
    • 11月26日(1258年1月2日):権大納言に任ず。
  • 弘長2年(1262年)7月16日:右近衛大将を兼ぬ。7月28日:右馬寮御監とす。
  • 文永元年12月29日(1265年1月17日):服解(母)。
  • 文永2年(1265年)3月9日:復任。
  • 文永5年(1268年
    • 11月9日:内大臣兼宣旨を蒙る。
    • 12月2日(1269年1月6日):内大臣に任ず。大將如元。
  • 文永6年(1269年)正月19日:右近衛大将を辞す。4月23日:右大臣に任ず。
  • 文永8年(1271年)3月10日:上表。右大臣を辞す。
  • 建治元年(1275年)8月27日:従一位に叙し、太政大臣に任ず。
  • 建治2年(1276年)3月29日:所労により辞任す。4月30日:出家。5月4日:薨御。享年45。

系譜 編集

参考文献 編集

先代
花山院定雅
花山院家
7代
次代
花山院家教