葛原妙子
葛原 妙子(くずはら たえこ、1907年(明治40年)2月5日 - 1985年(昭和60年)9月2日)は、日本の歌人。潮音社友、日本歌人クラブ会員、女人短歌会会員。現代歌人協会発起人。南日本新聞歌壇選者。現代短歌女流賞選考委員。
人物編集
東京市出身。東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高等学校)卒業。父は外科医の山村正雄、母は俳人のつね。夫の葛原輝は外科医。長女は児童文学者の猪熊葉子。
超現実主義短歌を推進し、戦後の歌壇に大きな影響を与えた代表的歌人の一人である。日常のうちに「見てはならぬものを視、聞いてはならぬものを聴きだし」(菱川善夫)、その景色を自ら「表現の我儘についてゆるし得る限界」とする破調の歌に詠むその歌風から、「現代の魔女」「球体の幻視者」(中井英夫)、「幻視の女王」(塚本邦雄)と称される。
略歴編集
- 1907年(明治40年) - 東京市本郷区(現文京区千駄木)に生まれる。
- 1910年(明治43年) - 父母兄妹と別れ他家に預けられ、福井市の父方の伯父のもとで、母の顔を知らずに育つ。
- 1924年(大正13年) - 東京府立第一高等女学校卒業。
- 1926年(大正15年) - 東京府立第一高等女学校高等科国文科卒業。
- 1927年(昭和 2年) - 葛原輝と結婚。千葉市に住む。
- 1929年(昭和 4年) - 夫の九州帝国大学医学部勤務に伴い、福岡市に住む。
- 1935年(昭和10年) - 夫が大田区山王に外科病院を開設し、以後定住。
- 1939年(昭和14年) - 潮音社友となり、太田水穂、四賀光子に師事。
- 1944年(昭和19年) - 三児をかかえて長野県浅間山山麓に疎開し越冬。
- 1945年(昭和20年) - 帰京。母つねの死を人づてに知る。
- 1947年(昭和22年) - 父正雄の死を看取る。
- 1948年(昭和23年) - 女人短歌会創立、会員となる。森岡貞香を知る。
- 1950年(昭和25年) - 第一歌集『橙黄』を上梓。釋迢空、中井英夫に対面。
- 1954年(昭和30年) - 第三歌集『飛行』を上梓。
- 1956年(昭和31年) - 現代歌人協会の発起人に加わる。室生犀星に対面。
- 1957年(昭和32年) - 「原牛」を『短歌研究』に発表。塚本邦雄に対面。
- 1960年(昭和35年) - 第五歌集『原牛』を上梓。
- 1963年(昭和38年) - 第六歌集『葡萄木立』を上梓。
- 1964年(昭和39年) - 日本歌人クラブ賞受賞。南日本新聞歌壇選者就任。
- 1970年(昭和45年) - 第七歌集『朱霊』を上梓。
- 1971年(昭和46年) - 迢空賞受賞。
- 1974年(昭和49年) - 三一書房から『葛原妙子歌集』が刊行。
- 1977年(昭和52年) - 第八歌集『鷹の井戸』を上梓。
- 1978年(昭和53年) - 第四歌集『薔薇窓』を上梓(制作時期でいえば第四歌集にあたるが、出版時期が遅れた)。
- 1981年(昭和56年) - 季刊短歌誌「をがたま」の創刊、編集発行者となる。
- 1982年(昭和57年) - 塚本邦雄が花曜社から『百珠百華』を刊行(2002年、砂子屋書房から再刊)。
- 1983年(昭和58年) - 「をがたま」を終刊し作家活動を終える。
- 1985年(昭和60年) - 長女葉子からカトリックの洗礼を受ける。9月2日、多発性脳梗塞と肺炎の併発[1]により東京都大田区の田園調布中央病院で死去[1][2]。
作品リスト編集
歌集
- 『橙黄』(女人短歌会、昭和25年)
- 『縄文』(未刊歌集、『葛原妙子歌集』(三一書房、昭和49年)所収)
- 『飛行』(白玉書房、昭和29年)
- 『原牛』(白玉書房、昭和34年)
- 『葡萄木立』(白玉書房、昭和38年)
- 『朱霊』(白玉書房、昭和45年)
- 『葛原妙子歌集』(三一書房、昭和49年)
- 『鷹の井戸』(白玉書房、昭和52年)
- 『薔薇窓』(白玉書房、昭和53年)
- 『葛原妙子歌集』(国文社、昭和61年)
- 『葛原妙子全歌集』(短歌新聞社、昭和62年)
- 『葛原妙子全歌集』(砂子屋書房、平成14年)
- 『葛原妙子歌集』(書肆侃侃房、令和3年)
など。
研究編集
- 幻想の重量ー葛原妙子の戦後短歌ー
- 短歌ムック「ねむらない樹」vol.7 葛原妙子特集号