本来の表記は「蕭瑀」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

蕭 瑀(しょう う、575年 - 648年)は、中国からにかけての政治家は時文。凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。

経歴編集

後梁の明帝蕭巋の子として生まれた。9歳のとき、新安郡王に封ぜられた。後梁が廃され、姉の蕭氏が隋の晋王楊広の妃となると、蕭瑀も同行して長安に入った。蕭瑀は仏教を好み、文章を得意とした。劉孝標の『弁命論』について、先王の教えを傷つけ性命の理を迷わせるものとして攻撃し、『非弁命論』を作って説き、儒者の柳顧言・諸葛潁らを感嘆させた。

晋王楊広が太子となると、蕭瑀は太子右千牛に任ぜられた。煬帝が即位すると、蕭妃が皇后となり、蕭瑀は外戚として重用された。尚衣奉御となり、左翊衛鷹揚郎将を検校した。風疾にかかって、一時は命も危ぶむ重体に陥ったが、回復して官職に復帰し、内史侍郎に任ぜられた。しかし煬帝の意にそむく進言を行い、遠ざけられるようになった。煬帝が雁門で突厥に包囲されると、蕭瑀は「北方民族の風俗では、可賀敦(可汗の妻)が軍事の発言権を持っています。義成公主は帝の娘で可賀敦に当たります。使者を立てて彼女をうながせば、戦わずに包囲が解けましょう。また陛下は突厥を平定した後も、遼東の問題を片付けなくてはなりません。このことからも下手に戦さはできません。願わくはを出されて高句麗を赦し、高句麗に突厥を討たせるのがよろしいでしょう」と進言した。煬帝は蕭瑀の策に従った。このため義成公主が突厥を丸めこみ、突厥は包囲を解いて去った。しかし煬帝の高句麗征討(隋の高句麗遠征)の意志は固く、「突厥に何ができたものか。蕭瑀は包囲されている状況に乗じて私を恐がらせたのだ」と言って、蕭瑀を河池郡守に左遷した。蕭瑀は勇士を募って山賊を破り、降伏させた。また薛挙を攻撃して敗走させた。

唐の高祖李淵が長安に入ると、蕭瑀を招き、光禄大夫の位を授け、宋国公に封じ、民部尚書に任じた。秦王李世民が右元帥として洛陽を攻めると、蕭瑀はその下で元帥府司馬をつとめた。618年、内史令に転じ、李淵の側近にあって内外の政務の裁決にかかわり、蕭郎と呼ばれた。蕭瑀は李淵の過失についてもはばかることなく発言して、信頼された。李世民が雍州牧となると、蕭瑀は雍州都督となった。621年王世充が平定されると、尚書右僕射に進んだ。626年、左僕射に転じた。

627年、特進・太子少師となり、再び尚書左僕射となり、実封600戸を受けた。蕭瑀は皇族の封建を支持して封建の議論が起こった。太宗の前で陳叔達と争って免職された。1年あまり後に、晋州都督として起用された。太常卿・御史大夫となり、朝政に参与した。蕭瑀は議論達者であったが、狭量なところも目立ち、房玄齢魏徴温彦博らにかれの議論を排斥されることも多かった。房玄齢らの小さな過失をとがめてかえって失点となり、朝政の権を剥奪され、太子少傅となった。632年、特進の位を加えられ、太常卿を代行した。634年河南道巡省大使として出された。635年、再び朝政に参与した。

643年、晋王李治が皇太子となると、蕭瑀は太子太保・同中書門下三品に任ぜられた。太宗が高句麗遠征(唐の高句麗出兵)に出立すると、蕭瑀は洛陽宮の留守を守った。蕭瑀は貴族の生まれで、心は狭く、不平不満を鳴らすことが多かった。また仏法を好んで、出家して沙門になりたいとたびたび言っていた。しかし太宗が出家を許すと、足の病のため謁に入れないと言い出した。太宗は怒りあきれて、蕭瑀の爵位を奪い、商州刺史に左遷した。647年、金紫光禄大夫の位を加えられ、宋国公の封を回復した。648年、玉華宮への行幸に従い、宮殿で病のため世を去ると、司空荊州都督の位を追贈され、昭陵に陪葬された。太常の官はかれのを粛と定めたが、太宗は彼の性格に似合わないとして、貞と改諡させた。

子に蕭鋭がおり、襄城公主を妻として、太常少卿となった。

伝記資料編集

  • 旧唐書』巻六十三 列伝第十三「蕭瑀伝」
  • 新唐書』巻一百一 列伝第二十六「蕭瑀伝」

参考文献編集

  • 愛宕元「隋末唐初における蘭陵蕭氏の仏教受容:蕭瑀を中心にして」(『中国中世の宗教と文化』、1982年)
  • 大内文雄「唐代における蕭氏と仏教」(『大谷学報』62-4、1983年)