行基図

行基図(ぎょうきず)とは、古式の日本地図

奈良時代僧侶行基が作ったとする説があるが、当時に作成されたものは現存しておらず、実際に行基が作ったものかどうかは不明である。ただし、この図が後々まで日本地図の原型として用いられ、江戸時代中期に長久保赤水伊能忠敬が現われる以前の日本地図は基本的にはこの行基図を元にしていたとされている。このため、こうした日本地図を一括して「行基図」、「行基式日本図」、「行基海道図」と呼ぶケースがある。

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概要編集

作成年代によって違いはあるものの、基本的な形態として平安京のある山城国を中心として、諸国あるいは状(主として楕円もしくは)に表して、これを連ねることで日本列島の大まかな輪郭を形成している。また、平安京から五畿七道街道が伸ばされて全ての国とつなげられている。地図によっては国のの数やの面積などを記しているものもある。

行基の地図作成伝説編集

 
行基図(『拾芥抄』写本。明暦2年(1656年)村上勘兵衛刊行。2枚の画像を合成)
左上に「大日本国図は行基菩薩の図する所也」より始まる説明が記されている。

現存する「行基図」には“行基菩薩”作と記されているものが多いが、六国史や仏教史書には行基の記事には地図作成の事実にはふれられていない。また、最古の「行基図」とされるものは、延暦24年(805年)に下鴨神社に納められたものであるとされているが、現存しているものは江戸時代の書写にすぎず、内容も明らかに延暦年間当時の状況の反映でない(延暦期にはなかった加賀国が記載されている)。

そもそも行基が生きていた時代の「行基図」が実際に存在するならば、大和国平城京(数年の例外はあっても)に存在したのであるから、大和国を中心とした地図であったはずであるが、こうした地図は実際のところ見つかってはいない。このため、本当に行基が地図を作ったのかを疑問視して、「後世の人々が作者を行基に仮託したのが伝説化したものではないか」とする見方もある。

なお、中世に成立した『渓嵐拾葉集』に引用された『行基菩薩記』には、「行基が全国を回ったことで諸国の境界が定まって開墾が進み、行基がその結果を図にして日本を独鈷の形で描いたことで仏法が栄えた」とする伝承を載せている[1]

ただし、大化の改新直後の大化2年(646年)に諸国に対して国の境界についての文書あるいは地図を献上するように命令が出され、律令政治下においては民部省に国境把握の義務があり、また、図書寮には地図保管の義務があったため、当然政府内で地図が作られていたはずである。また、行基とその教団は諸国を廻って布教活動や各種社会事業を行っており、のちの東大寺大仏建立にも関与していることから、当然こうした活動を円滑化するための地図を何らかの形で所持、あるいは作成していたことは十分考えられるのである。

したがって、「行基図」が実際に行基によって作られたものであるかは定かではないものの、行基とその教団が地図と全く無関係だったと考える積極的な理由もない。

中世における行基図編集

前述のように最古の行基図とされているのは、延暦24年作成と伝えられているものであるが、原図は既に亡く、現在伝わるものは江戸時代の有職故実研究家藤貞幹(藤井・藤原とも、1732年1797年)の写しのものであり、かつ延暦24年の実情と不一致の加筆が見られる(これが藤貞幹によるものか、それ以前からのものなのかは不詳)。

大治3年(1128年)に三善為康が書いたものを原典として鎌倉時代にまとめられたとされる『二中歴』や南北朝時代洞院公賢により書かれたとされる『拾芥抄』にも行基図が添付されているが、書かれた当時のものは残っておらず、現存のものは室町時代以後のものである。

確実に最古のものと言えるのは鎌倉時代の嘉元3年(1305年)の銘がある京都仁和寺所蔵のものと同年に他の所有者の地図から転写されたと推定されている神奈川県金沢文庫所蔵のものである。ただし、両者は大きく違い別系統に属すると考えられ、前者は典型的な行基図の体裁であるが、後者は元寇以後の軍事的緊迫下にある鎌倉近郊で用いられた事情を反映したものか、日本列島はらしき生物に囲まれてその外側に唐土蒙古などの海外の国々や雁道羅刹国などの空想上の国々が描かれている。

戦国時代弘治3年(1557年)に描かれたとされる『南瞻部洲大日本国正統図』(伝香寺旧蔵、現唐招提寺所蔵)は、日本地図の周辺の外枠に郡名などの情報が記載されている。この図あるいは同一スタイルの地図が江戸時代の行基図の基本となっていく。また、この時代には屏風絵の背景などにも行基図が採用された。安土桃山時代の作とされる福井県小浜市発心寺の屏風絵などがその代表作である。

なお、室町時代以後に行基図が朝鮮半島中国、遠くヨーロッパまでも伝わって、日本地図を描く時の材料にされたといわれている(『海東諸国記』・『日本一鑑』など)。

江戸時代の行基図編集

江戸時代に入ると、印刷技術の発達により大量印刷された行基図が登場する。そのほとんどが『拾芥抄』あるいは『南瞻部洲大日本国正統図』の系統をひく地図であるが、社会の安定に伴う交通の発達によって、より実際の日本地図に近い地形が描かれるようになっていった。慶安承応明暦年間に刊行された行基図が現在も残されている。

だが、『正保日本図』刊行以後、交通手段や測量技術の発達などもあって、より緻密な日本地図が作成・刊行されるようになり、行基図は実用利用・商業出版の場からは姿を消していくことになる。

もっとも教育・芸術分野では行基図が後々までに使われてきた。文政年間の九谷焼天保年間の伊万里焼などに描かれた行基図付の「地図皿」は日本国外にも輸出された。

脚注編集

  1. ^ 飯田剛彦「古代の地図」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 3 遺跡と技術』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01730-5 P342

参考文献編集

  • 秋岡武次郎『日本地図史』(河出書房、1955年/〔復刻版〕ミュージアム図書、1997年) ISBN 4944113234
  • 長久保光明『地図史通論 談義と論評』(暁印書館、1992年) ISBN 487015093X
  • 織田武雄「行基図雑考」『古地図の博物誌』古今書院、1999年所収。