話の特集
話の特集(はなしのとくしゅう)は、1965年から1995年まで発行された日本の雑誌。ミニコミ誌の草分け的存在である。創刊から休刊まで矢崎泰久が編集長を務めた。また、1967年に設立され1995年に倒産した出版社名でもある。
歴史
編集日本経済新聞記者[1]や内外タイムス記者[1]を経た矢崎泰久が、反権威・反権力を旗印にしたジャーナリズムの確立のため[2][3]、1965年12月20日に創刊した。創刊号の奥付は1966年2月1日だが、これは1ヶ月ほど先の日付を奥付に記載する雑誌流通上の慣習による。
創刊時は矢崎の父が経営していた日本社から刊行されており、日本社が保有していた娯楽『話』という雑誌名に「特集」をつけて、雑誌名を「話の特集」とした[4][注 1]。『話』の駅売店の権利と、第三種郵便の権利をそのまま流用している[6]。
日本社の倒産により、1966年12月号で休刊。1967年1月号は、矢崎の友人たちのカンパした資金で刊行。同年4月号で復刊し、三和実業から刊行。同年12月号から邱永漢の株式会社「求美」の刊行にかわる。1970年1月号から株式会社「話の特集」の刊行にかわる。
創刊前にアートディレクターの和田誠が助言、谷川俊太郎・寺山修司・塚本晁生・栗田勇らも創刊時のブレインだった[7]。小松左京、寺山修司、小沢昭一をはじめ、当時の先端的な文化人が多数登場した[8]。また、表紙イラストに横尾忠則(ジョン・ケージの横顔)、イラストレーターに宇野亜喜良、後藤一之、松永謙一、水田秀穂ら、写真家に篠山紀信、立木義浩、藤倉明治、小川隆之らを配した。刷り数7万部に対して実売は1万5千部と、売り上げは振るわなかったが、反権威の雑誌として若者世代から支持を集めた[9]。
1967年、アートディレクターズクラブによるADC賞(銅賞)を受賞した。1969年1月からは、『話の特集』の関係者による話の特集句会が開催された。
最盛期の発行部数は20万部だったという[10]。
1995年3月号(第352号)を以って休刊となった。2005年2月、『話の特集 2005 創刊40周年記念』がWAVE出版から刊行された。
来生えつこは、初期の「話の特集」の編集者だったことがある[11]。和田誠によると、無名時代の沢木耕太郎が校正を手伝いにきたこともあるという[12]。のちに『血と薔薇』を創刊した内藤三津子、『新宿プレイマップ』を創刊した本間健彦も、話の特集のスタッフ出身[13]。のちの作家倉本四郎、山田正紀も、話の特集の初期のスタッフだった[14]。
増刊号
編集別冊・話の特集
編集- 話の特集図書館(別冊・話の特集) 1984/1/1
- 別冊・話の特集 色川武大・阿佐田哲也の特集 1989/1/1
話の特集ライブラリー
編集自由國民社から刊行
脚注
編集- ^ a b “魂の仕事人 第4回 ジャーナリスト 矢崎泰久さん -その1- 国家ほど信用できないものはない──戦争で思い知らされたのが原点”. 人材バンクネット. 株式会社アイ・キュー (2005年10月3日). 2018年6月26日閲覧。
- ^ 『話の特集』創刊号(日本社、1965年)136ページ編集長による編集後記より
- ^ “魂の仕事人 第4回 ジャーナリスト 矢崎泰久さん -その2- 危険な目にあっても仕事への情熱は衰えなかった”. 人材バンクネット. 株式会社アイ・キュー (2005年10月10日). 2018年6月26日閲覧。
- ^ 矢崎泰久『「話の特集」と仲間たち』(新潮社/2005年)P.20
- ^ "「話の特集」元編集長・ジャーナリストの矢崎泰久さんを偲んで". 日刊サイゾー. サイゾー. 10 January 2023. 2023年1月10日閲覧。
- ^ 本間健彦『60年代新宿アナザー・ストーリー』(社会評論社)P.47
- ^ 矢崎泰久『「話の特集」と仲間たち』(新潮社/2005年)P.27
- ^ 矢崎泰久『「話の特集」と仲間たち』(新潮社/2005年)
- ^ 現代出版研究会・編『全国出版社ガイド』(流動出版、1981年、109ページ)
- ^ 炎の仕事人・矢崎泰久インタビュー・その2
- ^ 和田誠『インタビューまたは対談 その二』(話の特集)P.55
- ^ 和田誠『インタビューまたは対談 その二』(話の特集)P.60
- ^ 矢崎泰久『編集後記』(話の特集)P.176
- ^ 矢崎泰久『「話の特集」と仲間たち』(新潮社)P.247
- ^ 矢崎泰久『編集後記』(話の特集)P.256