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赤塚 不二夫(あかつか ふじお、本名:赤塚 藤雄、1935年昭和10年)9月14日 - 2008年平成20年)8月2日)は、日本漫画家

赤塚 不二夫
本名 赤塚 藤雄
生誕 1935年9月14日
満州国の旗 満州国 熱河省灤平県古北口古城裡22号(現・中華人民共和国河北省承徳市灤平県と北京市密雲県古北口中国語版との境界線)
死没 (2008-08-02) 2008年8月2日(72歳没)
日本の旗 東京都文京区
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
活動期間 1956年 - 2002年
ジャンル ギャグ漫画少女漫画
代表作おそ松くん
ひみつのアッコちゃん
天才バカボン
もーれつア太郎
レッツラゴン
受賞 第10回小学館漫画賞
(『おそ松くん』)
第18回文藝春秋漫画賞
(『天才バカボン』他)
第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞
紫綬褒章
第5回東京国際アニメフェア功労賞
公式サイト 赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!
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小学六年生の時、手塚治虫の『ロストワールド』に大いなるショックを受け、漫画家を志す。上京後は東京で工員などをしながら漫画修業にはげみ、つげ義春の推薦で1956年曙出版から上梓した貸本漫画嵐をこえて』でデビュー。

その後、赤塚よりも3歳年下の石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家となる。1967年に代表作である『天才バカボン』の爆発的ヒットと、その後の『もーれつア太郎』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』といった一連のヒット作や長期連載作品等により「ギャグ漫画の王様[1] と謳われ、戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。血液型はA型。

目次

生涯編集

生い立ち編集

 
4~5歳の頃の赤塚不二夫
(父の藤七・母のリヨと)

1935年(昭和10年)9月14日満州国熱河省灤平県古北口古城裡(現在の中華人民共和国河北省承徳市灤平県と北京市密雲県古北口中国語版との境界線)に赤塚藤七と妻リヨの6人兄弟の長男として生まれる[2]。古北口は中国内地支那)である河北省満州熱河省との境界であった万里の長城において山海関居庸関の中間地点に設けられた要害関門の町で、古来より北京(北平)と熱河とを結ぶ要地であり[3]、当時は満州国と中華民国冀東防共自治政府をまたぐ)との国境地帯であった。

父親である赤塚藤七1908年4月22日 - 1979年5月17日・満71歳没)は新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)の農家出身で地元の小学校を経て苦学の末、陸軍憲兵学校の卒業試験を2番目の成績で卒業し関東軍憲兵となったが、1933年(昭和8年)に上官の理不尽ないい分が我慢できずに職を辞し、満州国警察古北口国境警察隊の保安局特務警察官として中満国境地帯で現地人への宣撫工作や、現地で抗日活動を行っていた東北抗日聯軍八路軍等の抗日ゲリラ宋哲元冀察政務委員会率いる国民革命軍第29軍と対峙して掃討・謀略(防諜)活動を行う特務機関員をしていた[4][5][6]

父・藤七は非常に厳格でなおかつ権威的であり、『のらくろ』や中島菊夫の『日の丸旗之助[7] といった漫画を読むことを禁じられたり、箸の持ち方等で厳しくしつけられ、幼い頃の赤塚は恐怖感から父親が大の苦手であり畏怖を感じさせる存在だったという。しかし宣撫官という職務柄もあって普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を現地の村人達に分けてあげたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもあった。そのため彼には抗日ゲリラ側から当時の金額で2000円もの懸賞金がかけられていたにも関わらずに現地の村人からも密告されることもなく、また終戦直後の奉天で赤塚家の隣に住む日本人一家が報復として中国人に惨殺される中で普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は難を逃れている[8]

母親であるリヨ(1911年 - 1970年8月20日・満59歳没)は奈良県生駒郡矢田村(現・大和郡山市矢田口)出身で藤七との結婚前には満州で芸妓をしており、藤七とは宴席で出会った後に鉄道で運命的にリヨと再会。芸妓としての経験から彼女の左腕には、父とは違う別の男の名前で「○○命」と刺青が彫られていたが、藤七はこのことも含めたリヨの過去を先刻承知のうえですべて受け入れて共通の知人の仲介を経て結婚したという[9]。赤塚はこのことを父の回想を通して知り、「これは芸妓という悲しい過去を持つ母に対して父が見せた『いたわり』なのだ」と断言している。また1968年(昭和43年)に藤七が結核に罹患した際にリヨは「とうちゃんのために」と自らの意思で刺青を除去したという[10]。なお、リヨは子供の頃に目を傘で突かれたことが原因で右目を失明しており、少年時代の赤塚はタンスの引き出しから見つけた母の義眼であるガラス製の目玉をそうとは知らずに妹たちに見せて驚かせていたところ、母からこっぴどく怒られたと回想している[11]。右目の視力を失っている人物としては後に赤塚の盟友となったタモリがおり、母親との共通点から親近感を抱いたこともあって彼を居候として手厚く迎え入れたとも言われている。

当時の現地での父親との体験について赤塚は著書『これでいいのだ―赤塚不二夫自叙伝』において、

「ある晩、隣の砦のほうから突然、ドカーン、パンパンパン……と爆発音に続く銃声が聞こえた。「襲撃だ!」おやじは言うが早いか制服に着がえてぼくと一緒に外に飛び出した。「ぼくも行く」と言ったからなのか、それとも「お前もこい!」とおやじがぼくを促したからなのかは定かではない。しかし、火事場見物ではない。深夜の殺し合いに、たとえ子供にせがまれたからといって連れて行くというのは考えにくい。やはりおやじは自分の意志で息子をあえて殺戮現場に連れて行ったのだろう。おやじは長男であるぼくに、ゆくゆくは父親のあとを継がせたいという明確な意志を持っていた。この夜の同行も、この意識から出たことだったにちがいない。外に出ると小規模だが日本の正規軍と“満系”も集合、トラック何台かに分乗して現場へ急行した。到着したときはすでに敵の襲撃は終わり姿を消したあとであり、一家皆殺しに遭った千葉さんの家が焼け落ちて煙がブスブス立ちのぼっていた。敵は明らかに千葉さん一家を標的として選び、襲撃したのである。おやじの首には当時の金で2千円の賞金がかかっていた。当時としては途方もない大金である。べつに護衛に守られていたわけではないおやじが、裏切りや密告によってつかまる可能性はそれほど低くはなかったはずだ。おやじが砦の外の村へ出たとき、村人の一人が敵に連絡すればそれまでである。だが村人は誰もおやじを敵に売り渡さなかった。こういうわけで、おやじだけではなく赤塚家も襲撃されることがなかった。砦には時々、さまざまな物資を積んだトラックが到着した。おやじはその物資をよく村人に分けていた。「敵も味方も同じ人間じゃないか」何か見返りを期待したわけではない、こちらに真心があればそれは必ず相手に通じるはずだ──これがおやじの人間観だった。」

と回想している。 その後、日中戦争(北支事変・支那事変)の勃発により日本軍が華北(北支)へと侵攻するのに合わせて(古北口で日本勢力圏と対峙していた国民革命軍八路軍との前線が後方へと移動したことで)古北口地域が安定したとして、1937年(昭和12年)3月に古北口国境警察隊が解散[12]。父・藤七は危険な辺境任務を任されることとなり妻・リヨと赤塚ら子供達は大連の親類へと預けられた後、奉天鉄西消防分署長となったが、この時も消防署の部下の中国人を差別せずに親切に接する姿勢は変わらなかったという。この時の体験について赤塚は著書において次のように回想している[11]

「終戦直前におやじが奉天(現在の瀋陽市)の鉄西区の消防分署の署長になった。戦争中おやじは、部下の中国人がミスを犯すと容赦なく叱った。そんな時、彼らは翌朝早く籠に山盛りの卵を持って、自宅へ謝りにきた。しかし、おやじはかあちゃんに、「彼らも余裕があって持ってくるわけではない。どこかで無理しているはずだ。絶対もらっちゃいかんぞ」と言って受け取らせなかった。敗戦まぎわになると生活物資が不足する。そんな時も彼らは、卵や砂糖を持ってきた。かあちゃんやぼくたちは、のどから手が出そうな気持だった。しかしおやじは、「お前たちで食べろ」と言って頑固に受け取ろうとしなかった。このいかにもおやじらしい“清官”ぶりと、中国人に対するやさしさが、ぼくたち一家の危機を救ったのだ。おやじは戦争中、子供であるぼくにも「中国人からものをもらってはいけない」と絶えず言っていた。おやじが受け取らないので、息子のぼくに渡そうとするのではないか、とまで神経を配っていた。小さな恩を忘れない彼らは、終戦後もなにくれとなくぼくたち一家の生活を支えてくれた。「奥さん、米あるか」「砂糖あるか」と、生活全般にわたって1年近くも、ぼくたち一家の細かい動静に目を配っていてくれたのである。ぼくが中国人の子供たちとどういうつき合い方をしていたかといえば、生来こういう人間だから、ごく自然な形で彼らの世界に溶け込んでいた。学校では先生から、中国人を蔑視した教育を受けていたけど、ぼくは学校から帰ってくると、おやじの部下の中国人の子どもたちと、官舎のまわりで犬コロみたいに遊んでいた。中国語で、みんないっしょになって生活してたわけだから、「おまえは日本人なんだからエリートなんだぞ」なんてことはおやじは言わなかった。だから、ぼくは中国人に対して差別とかそういう気持ちをもったことはなかった。敗戦によって日本人と中国人の立場は逆転したのであるが、それは子供どうしの世界でもそれなりの形で起こった。敗戦まで、ぼくはよく中国人の遊び仲間に、「遊んでやるから、頭をひとつ殴らせろ!」とやったものだ。これが敗戦を境に変わった。彼らは殴らせろとは言わなかった。「遊んでやるから、おれに最敬礼しろ!」と言うのだった。もちろんぼくは彼らに最敬礼した。あとはそれまでとまったく変わりなく遊んだ。」

終戦編集

1945年(昭和20年)8月15日、赤塚は10歳の時に奉天終戦を迎えた。しかし翌16日、中国人の群衆が鉄西の工場内にある軍需物資を狙って大挙して押し寄せ暴徒化、凄惨な殺戮に発展した。この時の体験について赤塚は著書において、

「目の前ですさまじい騒動の光景が繰り広げられたのは8月16日である。ぼくたちが住む消防署の官舎の隣は鉄西消防署、その隣が憲兵隊。道路をはさんで藤倉電線と東洋タイヤの工場があった。その工場内にある軍需物資を狙って、数え切れないほどの中国人が殺到したのだ。無秩序の略奪は、中国人どうしの目を覆う殺しあいに変わった。これに日本人の工場関係者と憲兵が加わって、三つ巴、四つ巴の地獄絵が出現したのである。「シュルシュルシュルッ」衣ずれの音を思わせるのは、藤倉電線が作っていたパラシュートを運び出す音だ。その略奪者の頭上へ、塀の上からコンクリートの塊や石を投げ降ろす。「ギャーッ」という悲鳴。「パパーン」憲兵のピストルが略奪者を狙い撃つ。東洋タイヤの倉庫から持てるだけのサラシを抱えた略奪者は、それでもまだ足りずに、胸から胴にかけて白いサラシを巻けるだけ巻いて逃げようとする。ピストルの弾がその胸を貫通する。巻けるだけ巻いたサラシが見る見る真紅に染まっていく……。そういう光景をぼくは憲兵隊の馬小屋のなかから息を殺して見ていた。敗戦、ソ連進駐、暴動という混乱のなかで、ぼくたちはまず官舎から、隣のこの馬小屋に避難したのだった。そしてそこに日本人が潜んでいると知れたら、どんな危険がやってくるかわからないので、「赤ん坊を泣かすな!」と制止しあいながら、息をのんで外の様子をうかがっていたのだった。」

と回想している[11]

この時、馬小屋に潜んでいた一家は父の部下だった中国人の手助けもあり、全員中国服を着せられて消防車に乗り、鉄西から無事脱出して事なきを得た[13]。後に赤塚は「いつも部下の中国人を可愛がっていたおやじが、ぼくたち一家を救ったと思わないわけにはいかなかった」と語っている[14]。しかし父親は侵攻してきた赤軍によってソビエト連邦へ連行され、軍事裁判にかけられて4年間シベリアに抑留されることになる。

奉天に残された家族は赤塚が11歳だった1946年(昭和21年)に奉天を後にして海岸(渤海沿岸)の引揚船を目指して徒歩で引き揚げを始め、途中でソ連兵からの襲撃を受けてソ連軍憲兵内務人民委員部政治将校)に助けられながらも6月15日に葫芦島から大発動艇で4日かけて(赤塚にとって初めて見る日本である)佐世保港に到着[15]、厚生省佐世保引揚援護局(現在の浦頭引揚記念平和公園)から国鉄大村線南風崎駅を経由し汽車で母の実家がある奈良県大和郡山市矢田口に移った。

引き揚げまでに妹(次女)の綾子はジフテリアにより死去し、弟は他家へ養子に出され(後に赤塚は茨城県の常磐炭田炭鉱で働いていた彼と一度だけ再会している)、更には死んだ次女である綾子の名を授けられた生後6か月の末妹も母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため夭折し、日本に帰還する頃には兄弟は藤雄と弟と妹の三人と半数となってしまった。その時の母親には泣く気力もなく、赤塚は「胸がえぐられるようだった」という[16][17]

この時の経験について赤塚と赤塚と生涯を通じて密接な仲にあった担当編集者の武居俊樹は次のように回想、著している[11][18]

「かあちゃんを先頭に、ぼく、須満子と背中の綾子、宣洋の順につかまって歩いた。かあちゃんは絶叫する、「しっかりつかまるんだよ、離しちゃダメだよ!」。このとき手を離したら残留孤児となっていた。死体が散乱する草原。真っ赤な夕焼け空に何千何万のカラスの大群が飛んでいた。オレは、今でも、その夢を見るよ。人が殺されるシーンも何回も見た。その時代、戦争も死体も、子供のオレ達にとっても「日常」だったんだ。ソ連兵は子どもたちにチョコレートをくれる優しいひとたちだったが、ある夜、そいつらの何人かが、我が家に押し入り、おふくろに襲いかかった。夢中で外に飛び出し、カーベー(ソ連軍憲兵)を呼びに行った。たまたま通りかかったカーべーは、狼達を銃把で撲りつけ、おふくろを助けてくれた。人間は、天使にもなるが、獣にもなる。平和な時代だったら知る必要のない智恵が、オレには、自然に授かっていた。(中略)ぼくが初めて眼にする日本だ。行けども行けどもコーリャンと畑とでっかい夕陽、乾いた道が一瞬にして大河に変わる光景、一寸先が見えなくなる黄砂……、といった風景しか見たことのなかったぼくにとって、今、眼の前に広がる風景は新鮮そのものだった。ちょうど、朝の通勤通学時間だった。すれ違う人々は、我々を汚い物でも見るように、冷たい目で見て、通り過ぎていく。同じ日本人が、我々を「よそ者」のように見ていた。八田村のおふくろの実家に着いて30分後に、生後六か月だった綾子はフーッと一つため息をついた。そしてそのまま息を引き取った。おふくろは、泣く気力もなく、綾子を抱きしめていた。一番弱い者が犠牲になった。オレは、二人の綾子という妹を失った。引き揚げの途中で子供に死なれでもしたら、かあちゃんは半狂乱になったかもしれない。でもここまできて綾子に死なれたのなら、かあちゃんには自分を責めるものは何もなかったし、泣く理由も感傷ももうなかったのだろうと思う。どんなことがあっても子どもたちと日本にたどりつかなければ、という必死な思いを叶えた綾子は、そういう意味でも本当にかあちゃん思いの親孝行な妹だった。チビ太もニャロメもこの時代の思い出から生まれている。結局、赤貧と、ガキのドロボウグループが、ひとりのギャグ漫画家を育てたんだよ。」

引き揚げ後編集

父を除いた一家が奈良へと引き揚げてから母親は大日本紡績郡山工場の工員寄宿舎で寮母として働くようになり、赤塚は地元の小学校に編入して小学5年生となった。赤塚は奈良での経験について1994年のインタビューで、

「オレは満州から引きあげてきて、奈良の大和郡山に3年間住んでいたんだけど、あのあたりってヨソ者を徹底的に排除する風潮があったんだ。差別意識が定着してたのかもしれないな。オレも差別されたよ。配給の列に並んでて、オレの順番になると「満州、ダメ」とか言って本当にくれないんだから。いい大人が子供に対してだよ。今でも忘れられないよ」

と回想している[19]。このように一家が満州帰りとして差別を受け学校でもいじめの対象となる中、2学期の頃から貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになり、このとき手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意。見よう見まねで手塚風の漫画の執筆に没頭する[4]。この漫画がきっかけで、学校で番長を張っていた奥村という同級生と出会うことにより学校生活が一転することとなった。彼との出会いについて

「僕は子供の頃から、絵が得意だった。「よーし、あいつが俺のこと、そんなにイジメるんだったら、漫画を描こう」って、藁半紙16枚くらいを糸で縫って、そこに鉛筆でマンガを描いたのだ。確か「寿司屋のケンちゃん」ってマンガ。その頃、お寿司屋さんなんか行ったことなかったのに、どうしてそんなマンガを描いたんだろう。それがわからない。でもとにかく、描いたわけだ。それを番長に、「僕の描いたマンガです」って差し上げた。番長はしばらく、パラパラめくって見てたよ。「これ、ほんとにおまえが描いたのか?」「ほんとです」それからみんなを集めて、「いいか、今度なぁ、赤塚イジメたら、俺が承知しないぞ」って。それから見事に、イジメにあわなくなった。」

と回想している[20]。これをきっかけに奥村と仲良くなった赤塚は柿畑から柿を盗んで売り警察の厄介になるなど、数々の悪行に手を染めることになったが、その一方で

「クラスに一人、重度の小児マヒの子がいた。性格のとてもいい子だった。運動会の日がきたが彼は参加できない。窓から外を見ているだけだ。その日、ボス奥村はぼくに命じた。「お前残って、あいつと一緒にいてやれ」しかたなくぼくも運動会に出ないで、二人で教室に残った。グランドではワーワーみんな楽しそうにやっている。窓からそれを見ている彼に、「面白いか?」と聞くと、嬉しそうに「うん」と答えた。(中略)それにしても奥村という男も大したものだと思う。ただ体がでかくて腕っぷしが強いだけではなかった。ハンデを背負った友達の気持がわかり、ぼくに運動会を休んで付き添わせるという、教師ではできない対応をやってのけたのである。」

というエピソードがあり、赤塚のみならずかつて父が現地の中国人に対して親切に接したように、周囲から差別される立場の人間に対して優しい態度をとる一面もあったという。

赤塚本人にとって奥村が面倒を見ていた子供もまた少年時代の赤塚の心に深く刻まれることとなったとされ「奈良の少年時代は餓鬼のように動物のように生きた。底辺に生きる少年たちの群像から、私の登場人物のキャラクターを得ている」とも回想しており、遊び仲間たちと一緒に遊んであげていた近所の当時3歳の馬車屋の息子は『おそ松くん』に登場する浮浪児チビ太」のモデルになり、いたずらをして遊んだ野良猫が「ニャロメ」のモデルにもなったという[21]

共に強い立場にありながら弱い者を守り、決して差別しない態度をとった父親と奈良での小学生時代の同級生の奥村の二人と接した少年時代の経験がきっかけとなって後の赤塚作品では「弱い者いじめはしない」という姿勢が貫かれることとなったとされ、小説家の井上ひさしは「文部省が赤塚漫画を『道徳』の副読本にしないのは理解できない。ある意味で、赤塚の作品は道徳的だ。例えば、暴力シーンはいっぱい出てくるが、弱虫でチビのハタ坊がいじめられるシーンは決して出てこない。喧嘩も、対等か、強い者に逆らう時に起きている。チビ太が一人で六つ子に挑んでいくような時だ。」と評している[22]

その後も赤塚は漫画を描き続け、小学6年生になった12歳の時には『ダイヤモンド島』というSF長編漫画を描き、母親と一緒に大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行ったが失敗した[23]

中学生となった13歳の時の1949年(昭和24年)秋、母親のわずかな稼ぎでは残った3人の子供を養っていくことが困難であったため、兄弟は父の郷里である新潟の親類縁者にそれぞれ預けられることになり、中学1年生になっていた赤塚は新潟県に住む父親の姉一家(以前満州で父が危険な辺境勤務をしている間に1年間預けられていたことがある)である大連帰りの母子家庭に預けられて母親からのわずかな仕送りで暮らした。

赤塚は後の自身に大きな影響を与えた当時の体験として

「日本有数の豊かで美しいコメどころでも、その閉鎖性と排他性は、陰湿な風土の奈良に、勝るとも劣らぬものだった。関西なまりになっていたボクは、その頃常用の他所者(よそもの)に対する差別語を、しばしば浴びせられた。母からのわずかな仕送りで暮らす中学1年の私はひどく貧しかった。得意な図工の時間、新潟港の写生にでかけた時、私の絵の具は赤、青、茶、黒のチューブしか残っていなかった。ヤケな気分で、4色だけ使いわけて、港のスケッチを済ませた。私は、本来、当時の少年雑誌を風靡(ふうび)していた人気絵物語の影響で、細かい絵が好きで自信があるつもりだったのだが、色数が少なくてはそのテクニックは披露できない。そんな訳で、くやしまぎれのやけくそタッチで描いた。港の破船を荒っぽい筆遣いで茶色に塗り、空と海を同じ色で塗りたくって、船体のあちこちを赤と黒で彩って、おしまいにしておいた。ところが、その絵が全校の図画コンクールで第1席になってしまった。“ヒョウタンからコマ”である。本意のある絵ではなかったから、私の嬉しさは、さほどのものではなかったが、図工の成績でいくらか先生から「ホウ!?」という目で見られたこと、差別意識が強かった級友たちからも、驚きの目でみられたことが、この絵の賞が私にもたらしてくれた利点と言えた。」

と回想している[24]

赤塚が14歳になったその年の暮れに父親が舞鶴港に帰国するが過酷なシベリアでの抑留生活や日本の敗戦などで権威を失い、栄養失調による水疱でかつての面影もなくし、動作がのろくなって食欲が異常に強くなり台所を度々荒らしてしまうなど以前とは全く違うような人物になっていたという。母親を除いた父親と3人兄弟の4人一家は父の出身地であり赤塚の本籍地であった新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)809番地に移り、赤塚は四ツ合中学校(現・新潟市立潟東中学校)へ転入し、父親は農業協同組合職員の職を得て彼の実家近くにあった 法讃寺(父の実家である赤塚家はこの寺の檀家であったらしく、後に赤塚の両親が死去した際この寺で葬式が行われた)に月100円で納屋を間借りをして生活を始めたが、やはり赤塚一家は「外地から戻ったもてあまし者として、排他的な農村では心底とけこむことは出来なかった」という[24]

1952年に赤塚は中学校を卒業したが、家庭の金銭的な事情から高校進学を断念し、映画の看板を制作する新潟市内の看板屋に就職した。仕事柄、映画看板の制作に携わっていたことから花月劇場という映画館であらゆる映画を鑑賞することとなり、このときバスター・キートン駅馬車チャーリー・チャップリン喜劇に感銘を受けたという[4][23][25]。この時期に『漫画少年』への投稿も始めた。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、この頃から自分の絵柄を模索し始めるようになる。

18歳だった1954年頃に父親の頼みもあって上京し、父親の友人の紹介で就職した東京都江戸川区小松川エビス科学工業所という化学薬品工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人に参加。この同人の東京支部に長谷邦夫よこたとくおがいた。また既にプロの漫画家だったつげ義春が同じく赤塚の漫画に興味を持ち、しばしば遊びに来るようになった(投稿欄に住所も載せる緩やかな時代だった)[26]

『漫画少年』の突然の休刊後、つげからプロへの転向を勧められ、一人では心細いとよこたを誘い、よこたと西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動する事となる。つげの仲介で曙出版と契約を交わし[注釈 1]1956年(昭和31年)、描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー[23]

トキワ荘時代編集

同年、上京した石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。のちに赤塚の母も上京し、しばらくの間同居した[27]。赤塚の母は向かいの部屋に住んでいた水野英子を非常に気に入り、事あるごとに結婚を勧めたという。当時、赤塚はトキワ荘一の美青年として認識されていた[注釈 2]

当時の赤塚は少女漫画の単行本を3〜4ヶ月に一冊描く貸本漫画家であり、原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にあった。将来を悲観して漫画家廃業を考え、新宿のキャバレーの住み込み店員になろうと思った時期もあったが、安孫子素雄に「一応テラさんに相談してみたら」と勧められ、トキワ荘のリーダー的存在で兄貴分として慕われていた寺田ヒロオに相談。すると寺田から「ちょっと待て。これのある間は、ここにいろ。なくなっても、もし漫画家として売れていなかったら、キャバレーでもどこへでも行けばいい」と現金5万円を渡される(当時の国家公務員初任給は9200円)[28]。またこの時期、石森のおごりで映画を浴びるほど観て、その経験が後の作品に活かされることになった。

1958年、作家不足に陥った『少女クラブ』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか[注釈 3][29] 名義で作品を発表した。

合作の楽しさから、続いて石森と水野英子との合作ペンネーム「U・マイア[注釈 4][29] で『赤い火と黒かみ』『星はかなしく』『くらやみの天使』を合作し発表。

同年、ちばてつやの代原にトキワ荘の石森は赤塚を推薦し[27]秋田書店の名物編集者として知られる壁村耐三は赤塚に読切漫画を依頼。『まんが王』(秋田書店)1958年11月号にギャグ漫画「ナマちゃんのにちよう日」を発表し、同年12月号より「ナマちゃん」のタイトルで赤塚に無断で連載が決定する。1961年、アシスタントだった稲生登茂子との結婚のためにトキワ荘を退去[30]

フジオプロ設立編集

1962年(昭和37年)、『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となる。1964年(昭和39年)、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。1965年(昭和40年)、長谷邦夫古谷三敏横山孝雄[31]高井研一郎等と東京都新宿区十二社フジオ・プロダクションを設立。この年に長女のりえ子が誕生[32]。また1963年に、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加[注釈 5]1966年(昭和41年)には『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作により毎日放送NET(現:テレビ朝日)系でテレビアニメ化され、赤塚が監修として関わっている他、主題歌2本の作詞も手掛けている。

1967年(昭和42年)には『週刊少年マガジン』(講談社)にて「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』にて「もーれつア太郎」を発表して天才ギャグ作家として時代の寵児となる。1969年(昭和44年)に『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』、1971年(昭和46年)に『天才バカボン』と、代表作が相次いでテレビアニメ化された。以後2010年現在までに『天才バカボン』は4度、『ひみつのアッコちゃん』は3度、『おそ松くん』『もーれつア太郎』が2度にわたりテレビアニメ化されている。『バカボン』の第1作のアニメ化の際に「パパが無職なのは子供番組として良くない」というテレビ局の要請で植木屋と無断で設定された際には「パパは無職(バガボンド=放浪者)でないといけない」としている赤塚を失望させたと言う。そのために2回目のアニメの際に赤塚は拒否するはずだったと言い、原作に忠実=パパが無職と言うことで「元祖」と言うタイトルを付けており、ED「元祖天才バカボンの春」の作詞も手がけている。

1970年(昭和45年)3月、母親が不慮のガス爆発事故で入院。一命は取り留め一時退院するものの、ショックからクモ膜下出血を発症して再入院となりその後容態が急変するも赤塚の懸命の呼びかけで再び息を吹き返すが、脳死状態となり8月20日に59歳で死去した[33]。この年に妻と別居状態となり、12月にはスタジオ・ゼロが事実上の解散となった。

1971年(昭和46年)5月、既に『少年サンデー』での新連載が決まっていたものの赤塚は既にアメリカに在住していた森田拳次との約束と『MAD』編集部への取材との口実で、長谷、滝沢解、そして当時交際していた愛人の女性とともに渡米。2か月間滞在し、入稿締め切りが迫る中でサンデーの担当編集者武居俊樹に宛て新連載のタイトルが入った旨を記した手紙と自由の女神との記念写真を送り付ける。そのタイトルが『レッツラゴン』で、写真はそのまま扉絵として使用されその後3年にわたり連載される。当初の設定は次第に有形無実となり、劇画や文芸作品までも茶化し武居が「タケイ記者」として作品に登場して赤塚を苛め抜く描写など、ナンセンスを越えたシュールでアナーキーなストーリー展開が連載当時はなかなか理解されなかったという[34][35]。この年、元・スタジオ・ゼロのアニメーター、吉良敬三らとアニメーション制作会社「不二アートフィルム」を設立(1981年、フジオプロより独立)。

1972年(昭和47年)に『天才バカボン』他の作品で文藝春秋漫画賞を受賞。この受賞がきっかけとなり、週刊文春で『赤塚不二夫のギャグゲリラ』の連載がスタートし10年を超えるロングランとなる。

また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌『まんがNo.1』を創刊(元々、まんがNo.1という名前はフジオプロのファンクラブ会報のタイトルだった)。多忙を極める赤塚が編集作業に携わることが不可能だったため、実質的な編集長は長谷が務め、赤塚の荒唐無稽なイメージを伝える事に腐心した。しかし1号につき250万円(一説にはトータルで5000万円)程の赤字を出し、1973年(昭和48年)に6号で休刊[36]

1973年(昭和48年)11月5日に3年の別居生活を経て妻・登茂子と正式離婚[37]

1974年、「週刊少年マガジン」(1974年1月6日第1号)掲載の特別企画「ギャグ界の独裁者 赤塚不二夫の秘密大百科」において、ギャグの一環として実験的に「山田一郎」とペンネームを改名することを宣言。「週刊文春」(1974年1月7日号)掲載の『ギャグゲリラ』を皮切りに、『天才バカボン』『レッツラゴン』を含む連載中の作品、新連載作品、読み切り作品等、全てのタイトルを同名義で執筆するも、広告サイドから苦情があり、3ヶ月で元に戻した[38](当時はペンネームを戻したのはロクなことが無かったからという)。

一方でこの年の税務署の調査で税金の支払いが長期に渡り滞納していることが発覚。延滞金だけで6000万円ともされた。原因はフジオプロの経理担当者の横領によるもので被害額は二億円とも言われ、実印まで預け信頼していた人物による裏切りであった。失踪したこの人物は後日逮捕されるが、赤塚はこの人物の将来を考え告訴することはなかった[39]。しかし、横領された二億円の中には古谷三敏や芳谷圭児といったフジオプロ所属の漫画家らのプール金もあり、このトラブルにより古谷、芳谷はフジオプロを退社。それぞれのスタッフを引き連れ、自身らの制作プロダクション・ファミリー企画を設立した(その後、赤塚は古谷、芳谷らの被害額を返済している)。

なお、この年(1974年)にはこれまでのギャグ漫画家としての功績が讃えられ、「週刊少年ジャンプ」にてギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」が設立された。

ステージへの傾倒と長いスランプ編集

1975年(昭和50年)、『元祖天才バカボン』が日本テレビ系列で放映開始。

この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌5本(『天才バカボン』「週刊少年マガジン」、『のらガキ』「週刊少年サンデー」、『ギャグゲリラ』「週刊文春」、『オッチャン』「週刊少年キング」、『ワルワルワールド』「週刊少年チャンピオン」)、月刊誌7本(『天才バカボン』「月刊少年マガジン」、『赤塚不二夫の歌謡ギャグ劇場』「月刊明星」、『つまんない子ちゃん』「プリンセス」、『らくガキ』「読売新聞 日曜日版」、『ニャンニャンニャンダ』「冒険王」(途中より斉藤あきらによる代筆)、『元祖天才バカボン』「月刊テレビマガジン」(長谷邦夫による代筆)、『おまわりさん』「全電通文化」(途中より北見けんいちによる代筆))の同時連載をこなす一方で長谷邦夫の紹介によりタモリと出会う。

タモリを中枢とする芸能関係者との交流を深める中、1977年(昭和52年)を境に、ステージパフォーマンスに強い関心を示し、傾倒していく。後述の面白グループでの活動を筆頭に数多くのイベントを企画・出演するようになったが、その10年後には「漫画に費やしていたエネルギーをステージで発散してしまった」といった趣旨の発言があり[38]、長いスランプに陥っている事を公言。

1978年(昭和53年)、長らく主力作家として執筆していた「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」での連載が全て終了する。

また、同年の「月刊少年マガジン」12月号でも、『天才バカボン』が終了し、以降、執筆活動は縮小傾向をむかえる。

1979年(昭和54年)、3月31日にっかつ配給による赤塚原案、面白グループ脚本によるロマンポルノ『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』が公開となる。6月23日には赤塚の原案・製作総指揮・脚本、面白グループが製作に関わったコメディー映画『下落合焼とりムービー』が公開。どちらも監督は山本晋也が務め、一部ファンからカルト的な人気を博する。そうした陰で5月17日にフジオプロで赤塚のマネージャーとなっていた父親の赤塚藤七すい臓ガンの転移により71歳で死去している[40]

1982年(昭和57年)、『ギャグゲリラ』の連載が終了。この頃より、酒量が激増する。

1987年(昭和62年)、アルコール依存症に陥った赤塚のサポートを行っていた、写真家の国玉照雄の元アシスタントで、スタイリストの鈴木眞知子と結婚。結婚にあたっては先妻・登茂子が後押しし、保証人になっている[41]。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席した[注釈 6][27]

この年、テレビ東京の『マンガのひろば』枠で『元祖天才バカボン』が再放送され、小中学生を中心に「バカボン」人気が再熱した流れから、翌1988年よりアニメ『おそ松くん』が21年ぶりにリメイクされ、高視聴率をマークする。

その後も『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』(タイトルは『平成天才バカボン』)『もーれつア太郎』が続々とリメイク放映されるとともに、赤塚の手による新作漫画が『コミックボンボン』を中心とする講談社系児童雑誌に連載されるなど健在さを印象付けたが、リバイバル路線が終焉を迎えた1991年頃より更に酒量が増え始める。

以後も治療のため入退院を繰り返すものの回復の兆しはなく、1992年(平成4年)には長年赤塚のアイデアブレーンとして支えてきた長谷がフジオプロを退社[42]

1993年(平成5年)にNHK出版から、亡き父母への愛情と賛歌を綴った自叙伝『これでいいのだ』を刊行。翌1994年(平成6年)、NHKドラマ新銀河枠で連続ドラマ化される。

1997年(平成9年)、第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞[43]1998年(平成10年)、紫綬褒章を受章[44]

1997年6月1日より、静岡県伊東市の池田20世紀美術館で、「まんがバカなのだ 赤塚不二夫展」が開催され、好評を博す。デビュー前の貴重な習作から1990年代初頭までの間に描かれた名作、怪作、およそ200枚に及ぶ美麗な生原稿が展観出来るだけではなく、赤塚自ら肉体を駆使し、挑戦したエドヴァルト・ムンクレオナルド・ダ・ヴィンチエドガール・ドガフィンセント・ファン・ゴッホといった歴史上の画家のパロディ・アートも展示。フロアには、バカボンのパパやイヤミの銅像が所狭しとディスプレイされるなど、美術館本来のイメージをぶち破る赤塚ならではの遊び心とウィットが沸き立った大回顧展となった。その後、この原画展は、上野の森美術館横浜ランドマークプラザ箱根彫刻の森美術館京都美術館えきなど、全国を巡業し、いずれも大入りを記録。特に、上野の森美術館では、期間中65000人を集客し、ピカソ展やゴッホ展の記録を塗り替え、同美術館の動員新記録を樹立した。

同年12月12日、吐血し緊急入院。精密検査の結果、食道がんと診断され22日に告知を受ける。医師から「2か月後には食べ物がのどを通らなくなる」と告げられ、「食道を摘出し小腸の一部を食道の代用として移植する」と今後の手術・治療の内容も告げられたが「小腸を食道に使ったら、口からウンチが出てきちゃうんじゃないの。」とギャグで返す気丈さを見せて24日には退院を強行。民間療法での治療を選択する[45]。その後は放射線治療を併行し、一時は腫瘍が消失するが[46]、翌年11月に悪化し再入院。12月に10時間に及ぶ手術を受け、5か月間の長期入院を余儀なくされ体重は13キロ減少した[47]。しかし酒とタバコはやめられず、退院後のインタビューでは水割りを片手にインタビューを受ける型破りなパフォーマンスを見せた[48][49]。その後も毎月定期的にアルコール依存症治療の「ウォッシュアウト」のため入院を繰り返した[50]

1998年、三作目の「ひみつのアッコちゃん」、1999年、四作目に当たる「レレレの天才バカボン」が、それぞれフジテレビ系、テレビ東京系で放映開始される。

だが、1980年代後期〜90年代初頭の赤塚アニメのリバイバルラッシュの時とは異なり、再び赤塚の手によるリメイク漫画が描かれることはなかった。

2000年(平成12年)8月25日、自宅内で転倒し頭を打つ。数時間後に言葉が不明瞭になったため緊急入院。検査の結果、急性硬膜下血腫と診断される。当初、手術は必要なしと判断されたが、その後右手に麻痺が出たため緊急手術[51][52]、その後は順調に回復し[53][54]、11月1日には退院を果たす[55]。同年、点字の漫画絵本『赤塚不二夫のさわる絵本“よーいどん!”』を発表。ある日テレビで見た視覚障害を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したもので、点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈された。なお、赤塚は同書を少しでも安い価格で提供するためにと、著作権料を辞退している[56][57][58]

2001年(平成13年)2月8日、快気祝いを兼ねた新年会「赤塚大センセイを囲む会」が都内ホテルで催された[59]。当初身内だけの予定が、漫画家仲間を含め約100名が駆け付ける「騒ぎ」に発展。相変わらず水割りを手離さずに新作の構想を語る様子が報道された[60]

晩年編集

2002年(平成14年)4月10日、検査入院中にトイレで立とうとしたところ、身体が硬直し動けなくなる。脳内出血と診断され、5時間に及ぶ手術。これ以降、一切の創作活動を休止する[注釈 7][61]。この年、点字絵本の第2弾『赤塚不二夫のさわる絵本“ニャロメをさがせ!”』を発表。また、小学館からデビュー以降の作品を集めたDVD全集『赤塚不二夫漫画大全集 DVD-ROM』が発売された。2005年からはオンデマンド出版形式で全271巻が販売されている[62]2003年(平成15年)、妻の尽力により青梅市青梅赤塚不二夫会館を設立。館内には幼少時、漫画家になることを決意させるきっかけとなった映画「駅馬車」の看板も飾られている。

2006年(平成18年)7月12日、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急死[63]

2年後の2008年(平成20年)8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院死去した。満72歳だった[64](享年74)。赤塚は2004年から意識不明のまま植物状態にあったという[65]。2008年2月24日にはちばてつやが赤塚を見舞い、写真をブログで公開していた(後に似顔絵に差し替えられた)[66]。また赤塚の死去の3日前の7月30日、前妻でりえ子の母である登茂子が死去していた事が後に報じられた[67][68][69]

赤塚不二夫の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げた他、一般紙も一面で大きく掲載した。また民放各局ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げるなど、その一連の報道は赤塚が昭和・平成を通して日本の漫画史に一時代を築いた大漫画家であったことを改めて世間大衆に印象付けることとなった。

また赤塚が才能を見出し、芸能界へデビューさせたタモリは「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉を寄せた[70]。なお「タモリが赤塚の入院費用を全部出していた」という話がインターネットで流布したが、「これは誤りで入院費用は全部パパのお金で賄った。」と娘のりえ子が著書に記している[71]。とはいえ「肉親以上」の関係であることに変わりはなく、りえ子に対しても励ましやアドバイスがあったとのこと。

赤塚の葬儀では藤子不二雄(安孫子素雄)が葬儀委員長を務めることとなり、8月6日通夜、翌7日告別式が東京都中野区内にある宝仙寺で営まれた。喪主は長女・りえ子が務め、告別式には漫画・出版関係者や芸能関係者、ファンなど約1200人が参列し、藤子不二雄古谷三敏高井研一郎北見けんいちらが弔辞を読み上げた。タモリは本名の“森田一義”として弔辞を読んだが、この時手にしていた巻紙が白紙であった事が報じられ話題となった[72](項目タモリも参照)。弔辞は「私もあなたの数多くの作品の一つです。」と結ばれている[73]。弔辞を報じる記事の中で「重苦しい陰の世界」と表現されている箇所が各社に出てくるが、これは「重苦しい意味の世界」の間違い[74]アイドル・フォーが歌う「天才バカボン」のアニメ(第1作)のテーマソングが葬送曲として流れる中で出棺、遺体は赤塚の自宅にほど近い新宿区落合斎場で荼毘に付された。法名は「不二院釋漫雄(ふにいんしゃくまんゆう)」[注釈 8]

生前の最後の言葉は、倒れた時に偶然、女性の胸に手が触れて放った「おっぱいだ、おっぱい」。原稿に記した最後の文字は「思い出を積み重ねていくのが人生なのよ.イヤーン!H」[75]

没後編集

2009年、ヒットアニメの原作提供という観点から、東京国際アニメフェア第五回功労賞を受賞。

同年、東京銀座の松屋百貨店を皮切りに、「追悼 赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年」が全国巡業で開催される。

2011年浅野忠信堀北真希主演による『これでいいのだ!!映画★赤塚不二夫』(監督・佐藤英明)が全国東映系で、2012年綾瀬はるか主演の実写版「ひみつのアッコちゃん」(監督・川村泰祐)が全国松竹系で、それぞれ劇場公開される。

2015年、赤塚不二夫生誕80周年を迎え、その一環として、『天才バカボン』と『フランダースの犬』のコラボレート企画『天才バカヴォン〜蘇るフランダースの犬〜』(監督・FROGMAN)が全国東映系で劇場公開される。

同年9月にはBSプレミアムにおいて過去の赤塚不二夫特集番組の再放送が行われたほか、新作ドキュメンタリー番組の『赤塚不二夫 最後のこれでいいのだ』が制作、放映され、これまで陽の目を見なかった未完成の遺作『ヤジキタ バカ道中』の一部分が初めて一般に公開された。ちなみに、番組中によると、この原稿は何故か自宅のキッチンに無造作に保管されていたという。

また、大人になった『おそ松くん』の六つ子兄弟のその後を描いたアニメ『おそ松さん』も10月からテレビ東京系列にて放映開始し、以後全国で順次放映。イベント開催、記念切手、関連書籍の多数発売など単なる人気作品に留まらず、社会現象を引き起こすほどの人気を博し、赤塚人気としては、二次媒体との連動も含め、近年にない盛り上がりと発展を見せた。

2016年4月30日より、赤塚の生涯を追ったドキュメンタリー映画『マンガをはみだした男 赤塚不二夫』(企画プロデュース・坂本雅司/監督冨永昌敬)が、ポレポレ東中野下北沢トリウッドほか、全国にてロードショー公開される。

人物編集

晩年はアルコール依存症に苦しめられるが、酒に溺れた原因は極度の恥ずかしがり屋であるため、酒なくして人と向き合う事が出来なかった事と自己分析している。また自分よりお酒を飲む人として、たこ八郎壁村耐三滝田ゆうを挙げている[76]。なおアシスタントだった古谷三敏によると、若い頃は一滴も飲めなかったという[77]

家。1979年から飼った菊千代は、死んだフリやバンザイのできる芸達者なCMに出演、一躍人気者になった。『菊千代』の名前は、黒澤明監督の映画七人の侍』で三船敏郎演じた主人公の名前から採った。赤塚自身も『花の菊千代』(『月刊コロコロコミック』連載)といった漫画を描いた。しかし1997年に菊千代は他界、赤塚自身のみならず周辺のファンをも悲しませた[78]

映画通でありハタ坊のコミカルな動きはバスター・キートンを範としていること、自分でパロディ映画を作ったことがあることなどを明かしている。自宅のライブラリーには(当時としては高価で珍しい)大画面モニターと、数千本の映画のビデオがあったという。また、少年時代の夢は喜劇王チャーリー・チャップリンの弟子になることだったという。

バカボンのパパが一番気に入っているキャラクターで、その理由は「どんなに酔っ払っていてもバカボンのパパの顔だけは、ちゃんと描けるから」とのこと。またバカボンのパパが赤塚の実父・赤塚藤七をモデルにしている[79] こともあり、晩年は赤塚本人がパパのコスプレをする事が多かった。同じく『おそ松くん』の母親・松野松代のモデルは赤塚の実母・リヨとされ、自身の少年時代を回顧する作品での実母が松代の顔で描かれる。

バカボンのママの声優の増山江威子を気に入っており、赤塚の生前のバカボンのアニメ化の際には一度代役があっただけですべて増山が担当した。4回目のTVアニメ化に際して、赤塚からの指示等は特に無かったが、唯一の希望が「ママの声だけは(増山から)変えないで欲しい」だったという。

ひみつのアッコちゃん』の主人公・加賀美あつ子と『おそ松くん』のトト子が似ていることについて1989年に発行されたコミック本のあとがきで、そのことを指摘された際は赤塚自身が「そんなわけないだろ」などと逆ギレ気味に反論している。ただし、一方で赤塚が生前「トト子イコールアッコ」という趣旨の発言を残していたらしい、とも伝えられている。

山下洋輔らジャズメンとの交流からジャズ好きかと思われがちだが、赤塚はジャズを一切聴かず、歌謡曲好き・美空ひばり好きだった。水木しげるの娘赤塚不二夫の娘手塚治虫の娘による対談集『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』内でも赤塚がジャズを聴いていないのは謎だとネタにされているが、これは『おそ松くん』内でイヤミがジャズを使ったギャグを言っているコマを見たジャズ評論家の相倉久人(山下の師匠的存在)が新宿ピットインの機関紙に赤塚に寄稿してもらおうとフジオプロに訪問したのがきっかけで赤塚と山下洋輔の交流が生まれたからである(件のイヤミのギャグは長谷邦夫発案によるものであり、赤塚の寄稿の話はなくなったが、この相倉の来訪をきっかけに長谷がピットインに入り浸るようになり、その後赤塚も山下洋輔の一派の面白さを聞きつけ、山下に会うためにジャズ関連の場所を訪れるようになった)。

1973年にはロック・ミュージシャンの内田裕也との交友から、日本ロックンロール振興会会長なる役職に就き、その流れで、矢沢永吉率いる人気ロック・バンドキャロルの私設応援団団長を、赤塚自ら名乗り上げ、務めた[80]

1982年、写真家・荒木経惟との交友から、荒木撮り下ろしの写真集『別冊噂の真相 荒木経惟の真相』で、漫画家しては初となるハードコア男優を務め、ファックシーンを披露した。

2010年、誕生日である9月14日Googleのロゴマークに赤塚作品のキャラクターが描かれた[81][82][83]

名和広著『赤塚不二夫大先生を読む 「本気ふざけ」的解釈 Book1』によると、一個人による漫画家の単行本の発行部数が初めて1000万部を突破したのも赤塚だと言われており[84]曙出版講談社より刊行された『天才バカボン』の単行本だけで1000万部を売り上げたとされている[85]

またデビュー以来付き合いがあった曙出版の社長は赤塚と同じく新潟県出身で、のちに売れっ子になった赤塚は貸本時代にお世話になった恩から曙出版で単行本を出すことを了承[86]。曙出版はその後『おそ松くん全集』の初版だけで文京区に7階建てのビルを建てるまでに成長し[87]、他に出た赤塚単行本も含めると1500万部以上を売り上げる大ヒットを記録する[88]。しかし、連載元の出版社がこれを問題視し、今後赤塚の新刊を出す場合は著作権使用料を支払うよう曙出版に命じたため、1977年の『天才バカボン』31巻を最後に新刊を出せなくなり、以降は再版のみになる[89]。その後、曙出版の社長が亡くなった際、赤塚は真っ先に葬儀に駆けつけ、荼毘にふされた社長に泣きながら何度もお礼を言っていたという。しかし、その帰り際、赤塚は靴を履き間違えて帰っていき、弔問客の笑いを誘った[90]。これは湿っぽい雰囲気を変えようとした赤塚流の粋な計らいだったという[91]

芸能界での交流編集

1967年、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビ司会を、黒柳徹子と共に担当[92]。これを機に、赤塚の交流は各界に広がった。後に受章する紫綬褒章は荒木経惟に贈っている。

1970年代半ばには山下洋輔等を介して素人芸人時代のタモリと出会う。タモリの芸を認めた赤塚は大分県日田市ボウリング場の支配人であったタモリを上京させ、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、のちの芸能界入りに大きな貢献をした。またタモリや高平哲郎滝大作らと「面白グループ」を結成した[注釈 9]。高平からは由利徹を紹介され、赤塚は終生、由利徹を敬愛し[注釈 10]、由利の弟子だったたこ八郎が赤塚家の居候となっている。

1960 - 1980年代にかけてテレビアニメドラマ映画などの音響効果や選曲を手掛けていた音響技師の“赤塚不二夫”は赤塚のペンネームと同姓同名の別人だが、下記のアルバム『ライヴ・イン・ハトヤ』でも音響効果を担当するなど、2人の間には親交があった。

全日本満足問題研究会編集

1976年から、『週刊読売』誌上で「全日本満足問題研究会」(赤塚、赤瀬川原平奥成達高信太郎、長谷)と名乗り、「バカなことを真面目にやる」連載を行った。1978年には、赤塚不二夫と全日本満足問題研究会と名称を変え、レコード『ライヴ・イン・ハトヤ』を発表。

ライヴ・イン・ハトヤ編集

伊東市のホテル、ハトヤのステージでライブコンサートをやったらどうなるかという設定で作られた。 赤塚も「駅前ブルース」「想い出のベニス」という二曲の歌唱を務めた。

  • 出演:赤塚不二夫/赤瀬川原平/長谷邦夫/奥成達/高信太郎/タモリ/山下洋輔/坂田明/小山彰太/林美雄/常木健男/伊東鳩子/ハトヤ混声合唱団/下落合テンタクルス/ハトヤ男子従業員一同/ビクター女子従業員一同/ハトヤ・ダンシングチーム/ハトヤ・オールスターズ
  • 指揮:佐香裕之
  • スタッフ:構成・演出:高平哲郎/音楽:小林亜星、佐香裕之/舞台監督:新井龍夫、星野ジロウ/美術:赤塚不二夫/音響効果:赤塚不二夫(同姓同名のスタッフ)/セットデザイン:茂木のぶお/写真:国玉照男/録音:寺尾寿章、佐藤晋/振付:滝大作/制作:全日本満足問題研究会/協力:伊東ハトヤ、面白グループ、協和広告(株)

面白グループ編集

タモリや高平、滝らと結成したグループ。

  • 1977年3月、タモリの初LPの完成記念キャンペーンとして、タモリと東京ヴォードビル・ショーの共演によるショー「タモリ・ヴォードビル・ウィーク」を企画・制作。
  • 1977年10月29日、渋谷公会堂で『輝け!第一回いたいけ祭り』というタモリや赤塚の“宴会芸”を見せるイベントを行うが赤字。奥成達編集で書籍『空とぶかくし芸』が刊行され(赤塚は表紙イラストや本文イラストを担当)、赤字を埋めた。
  • 1979年3月、日活ロマンポルノにて監督:山本晋也、脚本:面白グループ、主演:柄本明、主題歌:所ジョージ、音楽:アルフィーで“赤塚不二夫のギャグ・ポルノ”として『気分を出してもう一度』を製作・公開。また同年6月、東映系でアメリカのコメディー映画『ケンタッキー・フライド・ムービー』に倣った『下落合焼とりムービー』を監督:山本晋也、脚本・出演:面白グループで製作・公開。
  • 1981年、当時、下森真澄と宮村優子の共著で女子大生の赤裸々な本音を綴り、女子大生ブームの先駆けとなった告白本『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本で、女子大生の本音にオジサンが返答するという内容の『SONO・SONO(ソノソノ)』を、面白グループ名義で刊行し、ベストセラーに。1986年には『ソノソノ』をミュージカル・ショーにして、銀座博品館劇場で『Oh! SONO・SONO(オー・ソノソノ)』を上演した。

上記のもの以外に、赤塚がプロデュースしたイベント、また赤塚をフィーチャーしたイベントには次のようなものがある。

  • マンガ劇画展 赤塚ギャグはここで生まれる!(1970年11月4日 -、池袋・IKEBUKURO東武) マンガ劇画展の一環としてのイベント 原画展のほか、赤塚とフジオ・プロスタッフによる漫画製作の実演も披露
  • 赤塚不二夫1000ページ展(1976年4月2日 -、池袋・西武デパート) 原画展のほか、赤塚とフジオ・プロスタッフによる漫画製作の実演も披露
  • 赤塚不二夫の大忘年会 花の応援団を応援しよう(1976年12月27日、目黒名人会)
  • 赤塚不二夫のステージ・ギャグゲリラ(1977年3月8日、渋谷公会堂
  • 新宿オペラ・カルメン(1977年9月3日 - 9月6日、紀伊国屋ホール
  • ギャグゲリラ バカ田大学ギャグ祭(1977年9月10日 - 9月18日、東横ホール 現・東横劇場
  • とんでるカントリー王国(1983年8月6日 北海道士幌町) 熱気球による町おこしイベント 赤塚は大統領、たこ八郎は副大統領にそれぞれ就任
  • カムイ・トラノ83 屈斜路湖JAZZフェスティバル(1983年7月、屈斜路湖畔国立公園内)
  • ザ・赤塚不二夫 おそ松くん わんぱくランド(1988年8月10日 - 22日、横浜そごう) おそ松キャラをフィーチャーしたアトラクションのほか、原画も多数展示 8月14日は赤塚不二夫まんが教室を開講
  • 追悼 赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年(2009年 -、銀座松屋百貨店) 後に全国を巡業
  • 赤塚不二夫生誕80周年 赤塚キャラ誕生のひみつ展(2015年6月19日 - 10月4日、明治大学米澤嘉博記念図書館)

フジオ・プロダクション編集

赤塚不二夫が設立した漫画制作プロダクションである。通称「フジオ・プロ」。アシスタントのみならず多数の漫画家や作家が所属していた。

1965年長谷邦夫古谷三敏横山孝雄高井研一郎等と、新宿十二社の市川ビルにて設立。市川ビルでは、三階の三十四坪を藤子不二雄主宰の藤子スタジオ、つのだじろう主宰のつのだプロとともに三分割して貸し切り、四階はアニメ製作プロダクション・スタジオゼロが軒を構えた。

赤塚はフジオ・プロ設立とともに、執筆のスピードアップを計るべく、正式に完全分業システムを採用。赤塚、長谷、古谷、担当編集者を交えた「アイデア会議」を経て、赤塚がネーム(コマ割りとセリフ)とアタリ(人物の表情や動き、背景のなどのラフな下描き)を作成し、高井と古谷(のちにあだち勉しいやみつのり吉勝太など)が下絵を完成させて製作を進行という形を取った。この様に漫画製作にアシスタントらが大きく関与しているため、赤塚はプロダクションを設立して以来、雑誌掲載時のクレジット表記を長年「赤塚不二夫とフジオ・プロ」としていた。劇中でもフジオ・プロのロゴを無関係な場面に登場させたり、内輪ネタの一環でフジオ・プロを強調することも多かった。

現住所は東京都新宿区中落合1-3-15(スタッフの増加により市川ビルを撤退した後は、代々木にあった村田ビルの八階、その後は中落合へと本拠地を移し換え、現フジオ・プロビル(1978年完成)のすぐそばにあったひとみマンションの部屋七室をフジオ・プロが占領していた)。

1963年ごろ、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』で売れっ子になった赤塚は、長谷、横山、高井、よこたとくお、山内ジョージに赤塚の妻であった稲生登茂子を加え「七福人プロダクション」を設立、漫画制作の共同作業を始めたが、仕事場に借りた雑居ビルの環境の劣悪さ(狭くて徹夜になると寝る場所がない、南京虫が大発生)から1年ほどで解散。その後借りた別の仕事場では横山、高井に古谷や北見けんいちが加わり、これがフジオ・プロの母体になった[93]

赤塚マンガのキャラクターの作り方にはいくつかのパターンがあったようで、北見けんいちは、赤塚が作画スタッフに「大体こういう感じ」と伝えて描かせたものを、話し合いにより少しずつ修正していくという手法を取り、全てのスタッフがアイデア出しや作画に協力するという分業での制作を行っていたと語っている[94]

また、長谷邦夫、高井研一郎は、『おそ松くん』のイヤミ、デカパン、ハタ坊、ダヨーン『もーれつア太郎』のココロのボスなどのキャラクターについて、赤塚が作画スタッフ(高井研一郎)にラフ画を渡し描かせたものを、その後赤塚が自ら描きやすいように修正して、完成させていく手法を取っていたと証言している[注釈 11]。高井研一郎が退社(1968年)した以降は、赤塚がキャラクターデザインを実質一人で施すようになり、バカボンのパパ、ニャロメ、ケムンパス、べし、ベラマッチャ、ウナギイヌ等はその代表的なキャラクターである[95]

曙文庫(1976年曙出版刊)「天才バカボンのおやじ」第1巻の横山孝雄によるあとがきによれば、フジオ・プロでは、通常の漫画製作プロダクションとしては異例な能力給システムを採用しており、各スタッフの能力がフルに発揮出来る環境を用意していたという。

アイデア会議を経た後、十三ページの作品が完成するまでに費やされる時間は、ネームに2時間、アタリに4時間で、赤塚の担当箇所は約6時間。その後、赤塚は他の作品の執筆に取り掛かる。

赤塚の手を離れたアタリ原稿は、スタッフの手によって、3時間の流れ作業を経由し、概ね9時間を掛け、一本の作品として完成したという。

フジオ・プロ劇画部編集

1969年、大河ドラマのようなダイナミズム溢れるストーリー劇画を、赤塚自らプロデュースしたいという想いから、芳谷圭児を部長とするフジオ・プロ劇画部が発足。

漫画原作者の滝沢解をシナリオライターに迎え、『エンジン魂』『高校さすらい派』『ガッツ4』等の滝沢、芳谷コンビによる長編劇画のプロデュースする。

1972年、赤塚番記者である武居俊樹の推薦で、劇画家の園田光慶が、スランプから脱却すべく、フジオ・プロ劇画部に参入するが、この時、園田は、仕事上での付き合いですら、精神的苦痛を感じるようになっており、結局、一本の作品も描かないまま、劇画部を退社したという。

芳谷、園田のほかに、由紀賢二木村知生らが在籍していたが、芳谷のフジオ・プロ退社により、1974年頃、フジオ・プロ劇画部は、自然消滅した。

ちなみに、1972年頃から、赤塚漫画では、グロテスクな覚醒をコンセプトとしたキャラクターの顔面クローズアップ・シーンが半ページ大ほどで、幾度となく頻出するようになるが、こうした場面を最初に担当したのが、この時芳谷のアシスタントを務めていた木村知生である。

現在は、赤塚の長女の赤塚りえ子ロンドン在住の現代美術アーティストであった)が、父が興したフジオ・プロダクションを引き継ぎ、赤塚の二番目の妻だった眞知子が死去した後を受けて社長を務めている。また、広告や新規の単行本などで書き下ろされる版権イラストは80年代後半からチーフアシスタントを務めた吉勝太(本名:嶺松孝佳)が手掛けている。

フジオプロ関係者編集

関連企業編集

※これらの他にスナック経営などにも進出したが、アニメ制作以外は失敗に終わり、閉店・解散・倒産の憂き目に遭っている。
  • レーシングチーム「ZENY」
トヨタ・1600GTを6台購入し、カーマニアである友人とその仲間、レース好きだった前妻・登茂子のために1968年に設立したレーシングチーム。藤田直廣(現・NOW MOTOR SPORTS 代表)が所属していた。
  • フジビデオ・エンタープライズ
ポリドールレコードの井尻新一から、新人歌手を集めたオーディション番組の立ち上げを持ち掛けられ、設立した番組制作会社兼芸能プロダクション。1969年設立。
  • 不二アートフィルム
スタジオゼロ解散後、吉良敬三を中心とする残党メンバーを集め、「フジオ・プロ動画部」として立ち上げたアニメ制作会社。1971年設立。NHKの「みんなのうた」、「おかあさんといっしょ」やフジテレビの「ひらけ!ポンキッキ」、コマーシャルなどにセルアニメだけに頼らない実験的な作品を提供している。1981年にフジオ・プロから独立。現・株式会社 スリー・ディ[111]
  • スナック「アミーゴ」
1978年11月、旧友である元東洋バンダム級チャンピオンの三浦清との共同出費で、新宿風林会館そばにある第二和幸ビルの一室にオープンしたスナック。三浦との経営方針の違いや、赤塚による常連客へのただ酒振る舞いなどが災いし、翌年には閉店の憂き目に合う。

作品リスト編集

連載作品編集

(※発表順)
  • くらやみの天使(1958年-1959年、少女クラブ)U・マイア(石森章太郎水野英子との合作)名義
  • ナマちゃん(1958年-1962年、まんが王
  • まつげちゃん(1958年-1961年、ひとみ<--ひとみとは別の雑誌-->)
  • まりっぺ先生(1959年、りぼん
  • おハナちゃん(1960年-1962年、少女クラブ)
  • ハッピィちゃん(1960年-1961年、りぼん)
  • トンネルチーム(1960年、たのしい四年生
  • おカズちゃん(1960年-1961年、たのしい五年生
  • がんばれマミちゃん(1960年、なかよし
  • ホームラン教室(1960年-1961年、冒険王)原作:高垣葵、初回は石森章太郎との合作
  • あらマアちゃん(1960年-1961年、なかよし)
  • ボクはなんでもしっている(1961年-1962年、たのしい五年生)
  • ナマちゃん(1961年、小学生画報)
  • カン太郎(1961年、冒険王)
  • ママなにしてるの(1961年、小学三年生
  • キツツキ貫太(1961年、週刊少年マガジン
  • まつげちゃん(1961年、りぼん)
  • おそ松くん(1962年-1969年、週刊少年サンデー) - 1967年からは月1連載
  • オーちゃんと11人のなかま(1962年-1963年、たのしい五年生)
  • ジンクスくん(1962年-1963年、中一コース
  • ひみつのアッコちゃん(1962年-1965年、りぼん)
  • 青い目の由紀(1962年、少女クラブ)
  • すすめ! ケン太郎(1962年、漫画王)
  • カン太郎(1962年、冒険王)
  • おた助くん(1963年-1965年、小学四年生
  • アイ・アム・ア・トランジスターボーイ(1962年-1963年、中学生の友一年)
  • サーカス☆ジン太(1963年、冒険王)
  • まかせて長太(1963年-1965年、少年
  • カン太郎(1964年-1965年、少年ブック
  • メチャクチャ No.1(1964年-1965年、冒険王)
  • そんごくん(1964年-1965年、小学四年生)
  • ケンちゃん(1964年-1965年、朝日新聞日曜版)
  • あべこべ3番地(1964年、週刊マーガレット
  • しびれのスカタン(1965年-1968年、少年画報)画:長谷邦夫
  • そんごくん(1965年、小学五年生
  • おた助くん(1965年、小学六年生
  • なんでもやろうアカツカくん(1965年、少年ブック)
  • ミスター研(1965年、中一コース)
  • おた助・チカちゃん(1965年-1966年、小学四年生)
  • ジャジャ子ちゃん(1965年-1966年、少女フレンド
  • 過激派七年生(1965年、別冊漫画サンデー)
  • ユー・ラブ・ミー君(1965年-1966年、平凡
  • いじわる教授(1965年、ボーイズライフ
  • キビママちゃん(1965年-1966年、りぼん)
  • おたすけくん(1965年-1966年、小学二年生)
  • スリラー教授(1966年、ボーイズライフ)
  • 怪盗1/2面相(1966年、少年ブック)
  • 中一コースケ(1966年、中一コース)
  • いじわる一家(1967年、少女フレンド)
  • 赤塚不二夫のガンバリまショー(1967年、少年ブック。単行本は『モジャモジャおじちゃん』と改題)
  • ミータンとおはよう(1967年、りぼん)
  • メチャクチャNo.1(1967年)
  • きかんぽ元ちゃん(1967年、小学一年生)
  • キカンポ元ちゃん(1967年、小学二年生)
  • キカンポ元ちゃん(1967年、小学三年生)
  • キカンポ元ちゃん(1967年、小学四年生)
  • スリラー一家(1967年、少女フレンド)
  • おせっかい一家(1967年、少女フレンド)
  • 天才バカボン(1967年-1969年、週刊少年マガジン)
    • (1967年-1969年、別冊少年マガジン
    • (1969年-1970年、週刊少年サンデー)
    • (1969年-1970年、デラックス少年サンデー)
    • (1971年、ぼくらマガジン)
    • (1971年-1975年、週刊少年マガジン)
    • (1971年-1975年、テレビマガジン)赤塚不二夫とフジオプロ名義
    • (1974年-1975年、別冊少年マガジン)
    • (1975年-1978年、月刊少年マガジン)
    • (1975年-1976年、週刊少年マガジン)
    • (1987年-1989年、コミックボンボン)
    • (1988年-1989年、月刊少年マガジン)
    • (1988年-1991年、月刊テレビマガジン)
    • (1989年-1991年、月刊ヒーローマガジン
    • 元祖天才バカボン(1975年-1977年、テレビマガジン)赤塚不二夫とフジオプロ名義
    • 平成天才バカボン(1990年-1991年、コミックボンボン)
      • (1991年-1992年、デラックスボンボン)
    • 天才バカボンのおやじ(1969年-1971年、週刊漫画サンデー)作画協力:古谷三敏
    • 天才バカボンのパパ(1973年、まんがNo.1)
  • スリラー教授(1967年、ボーイズライフ)
  • クレージー中学校(1967年、中一コース)
  • たまねぎたまちゃん(1967年-1969年、小学一年生)
  • へんな子ちゃん(1967年-1969年、りぼん。1968年 - 1970年にはよこたとくお代筆で「別冊りぼん」や「リボンコミック」に連載)
  • 赤塚不二夫のびっくり研究室(1967年、週刊少年サンデー)
  • テッちゃんただいまケンカ中(1967年、少女フレンド)
  • もーれつア太郎(1967年-1970年、週刊少年サンデー)
    • (1990年-1991年、コミックボンボン)
    • (1990年-1991年、月刊テレビマガジン)
  • ヒッピーちゃん(1967年-1968年、少女フレンド)
  • 荒野のデクの棒(1968年、週刊少年キング)作画協力:古谷三敏(フルヤプロ名義)
  • なんでもヤリます(1968年、週刊漫画サンデー)高井研一郎との合作
  • 花のデコッ八(1968年-1969年、週刊少年サンデー増刊→デラックス少年サンデー)
  • われら8(パー)プロ(1968年、週刊少年キング)作画協力:古谷三敏(フルヤプロ名義)
  • パア助くん(1968年-1969年、小学二年生
  • 二代目社長 一郎くん(1968年-1969年、小学四年生)
  • ひみつのアッコちゃん(1968年-1969年、りぼん)
    • (1988年-1989年、なかよし)
  • まんが大学院(1969年、少年ブック)
  • にわとり一家(1969年、週刊少年キング)
  • SOSエンチャカ丸(1969年、小学四年生)
  • やってきた(おいら)ズル長(1969年、少年ジャンプ
  • ハレンチ名作シリーズ(1969年、りぼんコミック)
  • 赤塚ギャグ笑待席(1969年、少年ジャンプ)フジオプロメンバーの長谷邦夫・古谷三敏・とりいかずよしとの交互制作
  • 赤塚不二夫のヒゲヒゲ物語(1969年、ジョーカー)
  • テレテレおじさん(1969年、少年チャンピオン)
  • おれはゲバ鉄(1970年、週刊少年ジャンプ)
  • 風のカラッペ(1970年-1971年、週刊少年キング)途中より作画を佐々木ドンが担当
  • ネコの目ニュース(1970年-1971年、新潟日報日曜版)
  • ギャグ+ギャグ(1970年、週刊少年サンデー)単行本では『ア太郎』に収録
  • ぶッかれ*ダン(1970年-1971年、週刊少年サンデー)
  • 死神デース(1970年-1971年、ぼくらマガジン
  • 狂犬トロッキー(1971年、週刊少年マガジン)シナリオ:滝沢解、作画協力:さいとうあきら
  • ハタ坊(1971年、赤旗日曜版)
  • くりくりくりちゃん(1971年-1972年、幼稚園)
  • おれはバカラス(1971年、週刊少年キング)画:佐々木ドン
  • レッツラゴン(1971年-1974年、週刊少年サンデー)
  • ワルリーマン(1971年-1972年、東京タイムズ
  • にちようパパ(1971年-1972年、東京タイムズ日曜版)
  • ケムゴロー(1971年-1972年、小学四年生)
  • 名人(1971年-1973年、リイドコミック
  • ワンペイ(1972年、赤旗日曜版)
  • クロッケくん(1972年-1973年、小学四年生)
  • 大バカ探偵 はくち小五郎(1972年-1974年、冒険王)
  • ひさし笑劇場(1972年-1973年、オール読物) 原作:井上ひさし
  • 赤塚不二夫のギャグゲリラ(1972年-1982年、週刊文春
  • くそババア!!(1972年-1973年、まんがNo.1)原作:滝沢解
  • ワンペイモウチャン(1972年-1973年、赤旗日曜版)
  • スケ番ケロ子(1973年、週刊少年チャンピオン)
  • 赤塚不二夫の 歌謡ギャグ劇場(1973年-1975年、月刊明星
  • ニャロメ(1973年-1974年、リイドコミック)
  • ギャグギゲギョ(1974年、週刊少年キング)山田一郎名義。単行本では『ギャグの王様』と改題。
  • おいらダメ高(1974年、高二コース)
  • 少年フライデー(1974年-1975年、週刊少年サンデー)
  • オッチャン(1974年-1975年、週刊少年キング)
  • ワルワルワールド(1974年-1975年、週刊少年チャンピオン)
  • おまわりさん(1974年-1977年、全電通文化)
  • つまんない子ちゃん(1975年-1976年、月刊プリンセス
  • ニャンニャンニャンダ(1975年-1976年、冒険王)『おはよう!こどもショー』のマスコット「ニャンダ」(赤塚自らデザイン)を漫画化。
  • B.C.アダム(1975年、週刊少年マガジン)
  • のらガキ(1975年-1976年、週刊少年サンデー)
  • オッチャン PARTII(1975年-1976年、週刊少年キング)
  • ラクガキ(1975年、読売新聞日曜版)※月一連載
  • 四畳半の西日(1975年、新潟日報
  • ひさし・不二夫の漫画全集(1976年、週刊小説
  • わんぱく天使(1976年-1977年、月刊プリンセス)
  • 母ちゃんNo.1(1976年-1977年、週刊少年サンデー)
  • コングおやじ(1976年-1977年、週刊少年キング)
  • タトルくん(1977年、マンガくん
  • 建師ケン作(1977年、週刊少年マガジン)原作:牛次郎、協力:さいとうあきら
  • 怪球マン(1977年-1978年、どっかんV
  • 不二夫のギャグありき(1977年、週刊少年サンデー)
  • ハウスジャックナナちゃん(1977年、週刊少年マガジン)原作:筒井康隆(「家族八景」)
  • あんたが名人(1977年-1978年、コミック野郎
  • おバカさん(1978年、週刊少年マガジン)原作:遠藤周作
  • アニマル大戦(1978年、週刊少年キング)
  • まめたん(1978年-1982年、小学一年生)
  • ちびママ(1978年-1979年、どっかんV)
  • アニメまんが(1978年、アニメージュ
  • ニャロメの研究室(1978年、コスモコミック
  • 荷車権太郎(1978年、週刊漫画アクション
  • いじわる爺さん(1978年-1979年、週刊漫画アクション)
  • ダダ氏(1978年-1979年、新美術新聞)
  • ブックリぎょうてん(1979年-1981年、親子読書)
  • 赤塚不二夫のギャグランド(1979年、リイドコミック)
  • モンスター13番地(1979年、少年チャレンジ
  • おじさんはパースーマン(1979年-1981年、小学五年生)
  • まめたん(1979年、小学二年生)
  • ロメオとジュリー(1980年、少年チャレンジ)
  • ニャロメ紳士録(1980年-1982年、カスタムコミック
  • チビドン(1980年-1981年、月刊コロコロコミック
  • キャスター(1980年、ポップコーン)過激な内容が問題視され雑誌回収騒動に到った問題作
  • ババッチ先生(1980年-1981年、少年少女新聞
  • なんじゃらママ(1980年、少年チャレンジ)
  • 乙女座★虎右衛門(1981年、週刊ヤングジャンプ
  • 花の菊千代(1981年-1982年、月刊コロコロコミック)
  • ワルちゃん(1981年-1983年、小学五年生)
  • ピヨ13世(1981年、ジャストコミック
  • カマラマン荒気だ!!(1981年、月刊ギャグダ)
  • 赤塚不二夫のギャグ・フォトランド(1981年-1982年、ショートショートランド
  • 四谷「H」(1982年、ジャストコミック)
    • 連載当時四谷に存在したバー『ホワイト』が舞台のモデルとなっており[112]、主人公となっている赤塚のアシスタント「シイヤ」も当時赤塚の下でチーフアシスタントを務めていた椎屋光則(現:しいやみつのり)を元にしている。
  • お笑いはこれからだ(1982年-1984年、小説新潮
  • 不二夫のワルワル・ワールド(1982年-1983年、別冊コロコロコミック
  • 不二夫と菊千代の交換日記(1983年-1984年、いんなあとりっぷ
  • 赤塚不二夫の文学散歩(1983年-1985年、オール讀物
  • 松尾馬蕉(1983年、平凡パンチ
  • 今週のダメな人(1983年-1985年、週刊宝石
  • 今週のアダムとイフ(1983年-1984年、女性自身
  • にっぽん笑来ばなし(1983年-1985年、2001)
  • 週刊スペシャル小僧!(1983年-1984年、週刊少年チャンピオン)
  • 吾輩は猫・菊千代である(1984年-1990年、いんなあとりっぷ)
  • TOKIOとカケル(1985年、週刊少年チャンピオン)
  • 赤塚不二夫のどうしてくれる!?(1985年、』サンデー毎日
  • 赤塚不二夫のいじわる時事(1985年-1987年、産経新聞日曜版)
  • トキワ荘グループ テーマ競作選(1985年-1986年、コミックWOO
  • 「大先生」を読む。(1986年-1989年、ビッグコミックオリジナル
  • 花ちゃん寝る(1986年-1987年、話のチャンネル)
  • ヤラセテおじさん(1987年、週刊大衆
  • 大日本プータロー一家(1990年-1991年、コミックボンボン)
  • へんな子ちゃん(1991年-1994年、週刊女性)1967年版「へんな子ちゃん」のリメイク
  • 赤塚不二夫のギャグ屋(1991年、週刊現代
  • MR・マサシ(1991年-1992年、コミックボンボン)
  • そんごくん(1992年、デラックスボンボン
  • ネコの大家さん(1993年-1994年、デラックスボンボン)
  • 母ちゃんNo.1(1994年-1995年、デラックスボンボン)
  • 下落合シネマ酔館(1994年-1996年、ビッグゴールド)赤塚不二夫&やまさき十三名義。映画について語る対談連載
  • バカボン線友録(1995年、スポーツニッポン
  • 赤塚不二夫のアニマルランド(1995年、まんがジャパンダ
  • 酒仙人ダヨーン(1999年、ビッグコミックスペリオール

読み切り編集

  • 荒野に夕日がしずむとき(1957年、少女クラブ増刊号)
  • 小鳩は嵐をこえて(1957年、少女ブック増刊号)
  • まさみちゃん(1957年、少女ブック別冊付録)
  • 千年杉の家(1957年、少女クラブ別冊付録)
  • うごく肖像画(1957年、少女ブック別冊付録)
  • ユリ子のしあわせ(1958年、りぼん)
  • ブローチとバレエ靴(1958年、少女ブック増刊号)
  • ママ大やすうり!(1958年、りぼん)
  • ナマちゃんのにちようび(1958年、漫画王
  • ちりぬるを(1958年、少女クラブ増刊号) - 石森章太郎との合作、いずみあすか名義
  • きえていく星(1958年、少女クラブ) - 石森章太郎との合作、いずみあすか名義
  • 赤い火と黒かみ(1958年、少女クラブ付録) - 石森章太郎・水野英子との合作、U・マイア名義
  • 星はかなしく(1958年、少女クラブ別冊付録) - 石森章太郎・水野英子との合作、U・マイア名義
  • フープのフラちゃん(1959年、少女ブック増刊)
  • パコちゃんのお正月(1959年、りぼん増刊)
  • ドン太のアルバイト(1959年、冒険王増刊)
  • ミミとイコちゃん(1959年、少女ブック付録)
  • がらがらガンちゃん(1959年、冒険王付録)
  • 一日ママさん(1959年、少女ブック付録)
  • のん子ちゃん(1960年、りぼん)
  • あらマアちゃん(1960年、なかよし増刊)
  • カツ子ちゃんのひみつ(1960年、えくぼ
  • タンちゃん めっ!(1960年、えくぼ)
  • おかあさんありがとう(1960年、たのしい一年生
  • まつげちゃん(1960年、ひとみ増刊)
  • あらマアちゃん(1960年、なかよし増刊)
  • 点平とねえちゃん(1960年、少女クラブ増刊)
  • パパとマミちゃん(1960年、ひとみ別冊付録)
  • ママはやっぱりはなしがわかる(1961年、少女クラブ増刊)
  • 茶ばしら(1961年、りぼん増刊)
  • ことしこそは!(1961年、たのしい四年生
  • インスタント君(1961年、週刊少年サンデー)
  • ダマちゃん(1961年、週刊少年マガジン)
  • タマオのどろぼうたいじ(1961年、別冊少年サンデー)
  • しろいかっぽうぎ(1961年、少女クラブ増刊)
  • ちびっこギャング(1961年、なかよし増刊)
  • 僕はサラリーマン(1962年、別冊少年サンデー)
  • チャン吉くん(1962年、別冊少年サンデー)
  • お茶の間にあつまれ(1962年、少女クラブ増刊)
  • ミスターかぐや(1962年、週刊少年サンデー)
  • ぼくはサラリーマン(1962年、別冊少年サンデー)
  • 人気スターまんが 九ちゃん(1962年、少女ブック別冊付録)
  • 3センチボーイ(1962年、小学四年生)
  • ケチケチおじさん(1962年、まんが王増刊)
  • 夏休みまんが学校 アルバイト大懸賞(1962年、小学三年生)
  • ユウちゃん(1962年、小学三年生別冊付録)
  • OK!ケンちゃん(1962年、小学四年生別冊付録)
  • ガッチリ三平(1963年、小学四年生)
  • しごとはじめ(1963年、まんが王増刊)
  • ペスくん(1963年、小学三年生別冊付録)
  • ミソッパくん(1963年、ぼくら)
  • ヨーヨーカポくん(1963年、ぼくら)
  • バイトのカン太郎(1963年、少年ブック増刊)
  • ひみつのアッコちゃん(1963年、りぼん増刊)
  • バイトのカン太郎(1963年、少年ブック増刊)
  • ひみつのアッコちゃん(1964年、りぼん増刊)
  • ひみつのアッコちゃん(1964年、りぼん増刊)
  • おそ松くん(1964年、別冊少年サンデー)
  • まかせて長太(1964年、少年 お正月大増刊)
  • べんりでおもいゾウ(1964年、週刊マーガレット)
  • ひみつのアッコちゃん(1964年、りぼん増刊)
  • まかせて長太(1964年、少年 夏の大増刊)
  • おそ松くん(1964年、週刊少年サンデー増刊)
  • みがわりおてつだいさん(1965年、少女フレンド)
  • デカとチビ(1965年、週刊少年マガジン)
  • オステスカリ子(1965年、週刊漫画サンデー)
  • ギャハハ三銃士(1966年、週刊少年サンデーお正月増刊号) - 藤子不二雄つのだじろうとの合作
  • らくガキ(1966年、週刊少年マガジン)
  • オハゲのKK太郎(1966年、週刊少年サンデー) - 藤子不二雄との合作
  • ダ・ヨーンのおじさん(1966年、少年ブック)
  • ホラホラのおじさん(1966年、少年ブック)
  • おじさんのおばさん(1966年、少年ブック)
  • 九平とねえちゃん(1966年、りぼん別冊付録)
  • おそ松くん(1966年、週刊少年サンデー 春の増刊号)
  • おそ松くん(1966年、ボーイズライフ)
  • チビ太の履歴書 ミスター・イヤミの履歴書(1966年、ボーイズライフ)
  • イヤミくん母をたずねて…(1966年、週刊少年サンデー)
  • 世のニャカまちがっとるヨ(1966年、ボーイズライフ)
  • シービレちゃった シービレちゃった シービレてるよ〜ん!!(1966年、ボーイズライフ)
  • イヤミないやみな一日(1966年、ボーイズライフ)
  • おそ松くん(1966年、月刊別冊少年サンデー)
  • おそ松くん(1966年、週刊少年サンデー 夏休み増刊号)
  • 赤塚不二夫 ただいま珍案特許出願中!!(1966年、ボーイズライフ)
  • チビ太くん(1966年、少年ブック)
  • ケイジとゴエモン(1966年、週刊少年マガジン)
  • おそ松くん(1966年、月刊別冊少年サンデー)
  • おめでとう1967年 夢と希望のまんが代行進(1967年、週刊少年サンデー)
  • かなしいまんが 新デレラ姫(1967年、少女フレンド)
  • 7くせ一家(1967年、なかよし)
  • こどもの日ばんざい!!(1967年、小学四年生) - 藤子不二雄との合作
  • おそ松くん(1967年、月刊別冊少年サンデー)
  • 赤塚不二夫の夏休みおとぼけ教室(1967年、週刊少年サンデー)
  • おそ松くん(1967年、週刊少年サンデー 夏休み増刊号)
  • 男の中に女がひとり(1967年、なかよし)
  • 女の中に男がひとり(1967年、なかよし)
  • バラバラ一家(1967年、なかよし)
  • なきむし一家(1967年、なかよし)
  • 天才バカボン(1967年、別冊少年マガジン)
  • 挑戦(1967年、「マンガニカ」藤子不二雄編所収 少年 別冊付録)
  • ぼくの机の上(1967年、「マンガニカ」藤子不二雄編所収 少年 別冊付録)
  • おそ松くん(1967年、週刊少年サンデー)
  • らくがき(1967年、COM
  • こきつかい一家(1967年、なかよし)
  • おそ松くん(1967年、週刊少年サンデー)
  • おそ松くん(1967年、週刊少年サンデー)
  • 怪物一家(1967年、なかよし)
  • 天才バカボン(1967年、別冊少年マガジン)
  • 赤塚寄席だよ よっといで(1967年、週刊少年サンデー)
  • おそ松くん(1967年、週刊少年サンデー)
  • まんがNo.1 サルばかガードマン(1968年、少年別冊付録)
  • 天才バカボン(1968年、別冊少年マガジン)
  • おそ松くん(1968年、週刊少年サンデー お正月増刊号)
  • 秘○ナ氏(1968年、週刊漫画サンデー) 原作・赤塚不二夫 作画・高井研一郎
  • 紅白ものまねまんが合戦 どろろ(1968年、週刊少年サンデー)
  • おでんクシの助(1968年、週刊少年キング)
  • へんな子ちゃん(1968年、りぼん 春休み大増刊号)
  • おそ松くん(1968年、週刊少年サンデー 春休み増刊号)
  • 天才バカボン(1968年、別冊少年マガジン)
  • 何がでるか?(1968年、週刊少年キング)
  • 地球はせまくてすみあきた!! 宇宙へニゲロ!(1968年、まんが王)
  • やってやれないことはない!! 男ならやってみろ(1968年、まんが王)
  • ジャマ子(1968年、りぼんコミック) 原作・赤塚不二夫 作画・高井研一郎
  • 浦島くん(1968年、週刊少年キング)
  • おそまつくんのおばけじまたんけん(1968年、小学二年生)
  • おばけの大行しん(1968年、小学二年生)
  • ドロボウ一家(1968年、ぼくら)
  • 野球一家(1968年、週刊少年キング)
  • ボクシング一家(1968年、週刊少年キング)
  • 大あばれアパッチ君(1968年、少年ジャンプ)
  • 天才バカボン(1968年、別冊少年マガジン)
  • 赤塚不二夫夏休みびっくりショー(1968年、少年ブック別冊付録)
  • いじわるコンクール(1968年、小学二年生別冊付録)
  • 天才バカボン(1968年、別冊少年マガジン)
  • カッコイイ男 (1968年、ヤングコミック) 原作・赤塚不二夫 作画・高井研一郎
  • ズレた奴ら (1968年、リイドコミック)
  • たまちゃんのゆうえんちゲーム(1968年、小学一年生)
  • やさいがっこうの大うんどうかい (1968年、小学一年生)
  • ビッグ社会時評『影一族』 (1968年、ビッグコミック)* ジャングルの社長ターラン (1968年、ビッグコミック)
  • 新撰組おそまつ記 (1968年、増刊漫画サンデー) - 原作・赤塚不二夫 作画・高井研一郎
  • 用心棒的人物 (1968年、ビッグコミック)
  • 聖ハレンチ女学院(1968年、りぼん別冊付録) - 古谷三敏芳谷圭児との合作
  • 猛烈的西部人 (1969年、ビッグコミック)
  • オールズタズター御前試合 (1969年、週刊少年サンデー) 立石鉱一、長谷邦夫、山口琢也との共作
  • ア太郎+おそ松「時のかなたの森の石松」(1969年、週刊少年サンデー)[注釈 12]
  • おそ松くん(1969年、週刊少年サンデー)
  • BIGパロディーバラエティー『人気漫画家の転職先 赤塚不二夫氏の場合…トイレットペーパー屋』 (1969年、ビッグコミック)
  • BIGパロディーバラエティー『おお‼ なつかしキャラクター 人気者その後』 (1969年、ビッグコミック)
  • ア太郎+おそ松「いまにみていろミーだって」(1969年、週刊少年サンデー)[注釈 13]
  • 赤塚ギャグオールスター「風雲もーれつ城」(1969年、週刊少年サンデー)[注釈 12]
  • カラーギャグ口絵 (1969年、週刊少年サンデー)
  • ナーンセーンス~ (1969年、ビッグコミック) 作画・古谷三敏
  • もてもて一家(1969年、少年ジャンプ)
  • イライラ一家(1969年、少年ジャンプ)
  • 日立ゴールドくん(1969年、週刊少年サンデー)
  • オールカラー写真コミック「マッピルマの決闘」(1969年、週刊少年サンデー)
  • ハレンチ名作シリーズ 新こじき王子(1969年、りぼんコミック)
  • もーれつア太郎(1969年、週刊少年サンデー夏休み増刊号)
  • ハレンチ名作シリーズ アラジンとまほうのランプ(1969年、りぼんコミック)
  • ハレンチ名作シリーズ 新桃太郎(1969年、りぼんコミック)
  • 大バカ探偵 はくち小五郎(1969年、週刊少年サンデー)
  • 本格写真コミック「現金(げんなま)カッパライ作戦」(1969年、週刊少年サンデー)
  • おれはニャロメだ!! キャッキョいいニャロ!!(1969年、週刊少年サンデー)
  • ハレンチ名作シリーズ 人魚姫でなくて金魚姫(1969年、りぼんコミック)
  • わが家の日よう日(1969年、ビッグコミック)
  • ナンでも見てやろう(1969年、ビッグコミック)
  • ハレンチ名作シリーズ ケロゴンとお姫さま(1969年、りぼんコミック)
  • チビ太くん ぬたくり一家(1969年、少年ジャンプ)
  • チビ太モミモミ物語(1969年、ジョーカー
  • アシアトモノガタリ(1969年、ビッグコミック)
  • アシあとものがたり(1969年、ビッグコミック)
  • 秋です(1969年、ビッグコミック)
  • 赤塚ギャグ笑待席 ゲバゲバ博士(1969年、週刊少年ジャンプ)
  • 第6条(1969年、まんが安保
  • たき火(1969年、ビッグコミック)
  • 脱獄ナンセンス(1970年、週刊少年サンデー)
  • シブ井ケチ男くん(1970年、週刊少女フレンド)
  • 旅ガラスカー太郎(1970年、週刊少年キング)
  • カタキウチでやんす(1970年、ビッグコミック) - 作画担当:古谷三敏
  • 赤塚ギャグオールスター「最後の休日」(1970年、週刊少年サンデー)[注釈 12]
  • 東京ああ忍び泣き 新宿(1970年、東京25時
  • ドクターニャロメ(1970年、明星
  • ダメなおまわりさん(1970年、サンデー毎日増刊)- 作画担当:古谷三敏
  • トキワ荘物語(1970年、COM
  • 吸血鬼ドメキュラ(1970年、週刊ぼくらマガジン)
  • 天才話の特集(1970年、話の特集) - 和田誠との合作
  • ホッカイローのケイコターン(1970年、サンデー毎日増刊) - 作画協力:古谷三敏
  • 鬼警部(1970年、別冊少年マガジン) - 原作:滝沢解
  • ミスター・イヤミ氏「あしたの朝」(1971年、リイドコミック) - 作画協力:古谷三敏
  • スパルタッコ(1971年、週刊少年サンデー) - シナリオ:滝沢解
  • ひどい顔(1971年、太陽
  • わしは女が欲しいのだ!!(1971年、内外タイムス
  • 「72年サラリーマンの生き方」72年の副業サラリーマン(1972年、サンデー毎日)
  • 新おそ松くん(1972年、週刊少年キング)
  • 白痴小五郎(1972年、週刊漫画ゴラク
  • 天才バカボンのおやじ(1972年、週刊漫画サンデー)
  • 鉄腕アトムなのだ!!(1972年、話の特集)
  • シラノ・ド・ベラマッチャ(1972年、少年サンデー増刊)
  • わがはいは猫である(1972年、小学五年生)
  • ヘンシン(1972年、女性自身
  • 彼女がほしい!!(1972年、女性セブン
  • 女のアショコ(1972年、まんがNo.1) - 原案:赤塚不二夫、画:さいとうあきら
  • スケバンケロ子(1973年、まんがNo.1)
  • ウナギイヌの最期(1973年、まんがNo.1)
  • 天才バカボンのおやじ(1973年、週刊漫画サンデー)
  • ドバッ(1973年、平凡パンチ
  • 青い目のバンチョウ(1973年、週刊少年サンデー) - 原作:山中恒
  • 幕末珍犬組(1973年、週刊少年マガジン) - 原作:滝沢解
  • これがギャグだ!!(1973年、別冊少年ジャンプ)
  • おー!ばけ(1973年、週刊少年チャンピオン)
  • おまわりさん(1973年、週刊朝日増刊)
  • 大事件onマガジン74(1974年、話の特集)
  • 「小野田サンこれが日本です」 変わりましたのだ(1974年、サンデー毎日)
  • 女子大生(1974年、週刊サンケイ
  • ウンコールワット(1974年、週刊少年ジャンプ)
  • ジャジャ子(1974年、小学五年生)
  • 冬(1975年、リイドコミック)
  • キザかっぺ(1975年、週刊読売
  • 世界史(1975年、リイドコミック)
  • うちの女房は東大出(1975年、週刊読売)
  • 古谷三敏伝(1975年、週刊少年サンデー増刊号)
  • 中年フライデー(1975年、週刊少年サンデー)
  • ガキトピア(1975年、週刊少年ジャンプ)
  • ココロのボス(1975年、週刊少年サンデー)
  • 独裁者(1975年、週刊読売)
  • アンゴウ(1975年、週刊読売)
  • 探偵(1975年、週刊読売)
  • わたしバカよネ おバカさんよネ(1975年、週刊読売)
  • かけあし人生(1975年、リイドコミック)
  • 禁じられた恋(1976年、リイドコミック)
  • ませガキ(1976年、少女コミック
  • ウジャバランド(1976年、週刊少年ジャンプ)
  • タレント一家(1976年、少年ジャンプ増刊)
  • 劇画詩集 自分タチ(1976年、月刊ポエム) - 谷川俊太郎との共作
  • 恐怖のネゴト男(1976年、リイドコミック)
  • おそ松くん(1976年、月刊少年ジャンプ
  • ナンセンセイ(1976年、リイドコミック)
  • カガミくん(1976年、少年キング増刊)
  • イレズミ作戦(1976年、リイドコミック)
  • さびしの秋(1976年、プレイコミック
  • ヘビの恩返し(1977年、リイドコミック)
  • 天才ヘタボン(1977年、ビックリハウスSUPER) - 赤塚番記者との共作
  • 子連れ記者(1977年、少年ジャンプ増刊)
  • み〜んな悩んで・・・・(1977年、リイドコミック増刊)
  • 名人!!(1977年、リイドコミック)
  • ナンセンセイ(1977年、リイドコミック増刊)
  • アニマルランド(1977年、週刊少年ジャンプ)
  • 競馬鹿野郎(1977年、リイドコミック)
  • ニャロメの夏休み(1977年、少年少女新聞)
  • いたいけ君(1977年、週刊少年サンデー)
  • いたいけ君(1978年、週刊少年サンデー)
  • 天才バカボン(1978年、週刊少年マガジン)
  • 赤塚不二夫のパロディ・ゲリラ(1978年、文藝春秋デラックス
  • やっぱり母ちゃん(1978年、こどもの光
  • 赤塚不二夫のタリラリラーン(1978年、週刊漫画アクション)
  • 家族(1978年、ビッグコミック増刊号)
  • ハナハダ君(1978年、小学五年生別冊付録)
  • 赤塚不字夫のギャグ漫字(1979年、リイドコミック)
  • 中高年をいじめへけめれ(1979年、サンデー毎日
  • めくるめっくワールド(1979年、アサヒ芸能臨時増刊ギャグマン)
  • 銀座鉄道999、999(1979年、週刊文春
  • 気分を出してもう三度(1979年、ビッグコミックオリジナル増刊号)
  • 拝啓おまわり様(1979年、ビッグゴールド
  • 逃げろや逃げろ(1979年、少年チャレンジ)
  • 愛情レストラン(1979年、ビッグ辻調)
  • かくれジャイアンツ(1980年、週刊漫画ゴラク
  • ぼくの音楽青春(1980年、サウンドレコパル
  • ヤング版ひみつのアッコちゃん(1981年、ヤングマガジン
  • ボクとタモリ(1981年、月刊少年ジャンプ
  • ビューティービレッジ(1981年、ヤングコミック
  • シェー!! カムバック(1982年、BRUTUS
  • 仲良き事は美しき哉(1982年、プレイコミック)
  • ぼくののらくろ(1982年、
  • バカボンの人間痴脳vs人工知能なのだ(1983年、週刊朝日増刊号)
  • チビ太とニャロメとアッコちゃん(1983年、別冊少女コミック
  • 私が読んだキライな本(1984年、週刊漫画アクション)
  • 私が見たキライな番組(1984年、週刊漫画アクション)
  • ロマンは内面にあり(1984年、サンデー毎日)
  • トキワ荘グループテーマ競作選 受付嬢(1985年、月刊コミックWOO
  • トキワ荘グループテーマ競作選 社長秘書(1986年、月刊コミックWOO)
  • トキワ荘グループテーマ競作選 経理の娘(1986年、月刊コミックWOO)
  • トキワ荘グループテーマ競作選 ああお花見(1986年、月刊コミックWOO)
  • トキワ荘グループテーマ競作選 ああゴールデンウィーク(月刊コミックWOO)
  • オール ザット ギャグ(1986年、CLUB LIFE CLIP)
  • ラーメン大脱走(1986年、漫画チャルメラアクション
  • 時計(1987年、月刊パーキーコミック
  • 誘拐でウイロー(1987年、漫画アクション¦漫画ギャグアクション)
  • おむすびくん(1987年、こどもの光)
  • 四齣画廊(1988年、新書館「ぼはなん」所収)
  • おむすびくん(1988年、こどもの光)
  • おむすびくんのお米おもしろ探検(1988年、こどもの光別冊付録)
  • あの有名キャラクターは、いま!?(1989年、週刊少年サンデー30周年記念増刊号)
  • 最近みたバカ! 偉大なるバカどもに乾杯だーっー!(1989年、NEWパンチザウルス
  • 旅 おいしい話!(1989年、NEWパンチザウルス)
  • みんなのうた 歌・口ぐせ(1989年、NEWパンチザウルス)
  • ツッパリ伝説 こんなコトもある(1989年、NEWパンチザウルス)
  • ボクのストレス解消法(1989年、保険同人社「ストレスくん、さようなら」所収)
  • 平成天才バカボン(1989年、コミックボンボン増刊号)
  • 西暦2000年の生活風景(1990年、週刊住宅情報
  • もーれつア太郎(1990年、コミックボンボン増刊号)
  • わが家に円盤が来た日(1990年、週刊文春)
  • 平成天才バカボン(1990年、デラックスボンボン
  • 合点だい!(1991年、合点だい!
  • イヤミの電気屋さん(1991年、ホットドッグプレス
  • 大人になったおそ松くん(1993年、ビッグコミック)
  • 天才バカボンのお正月(1994年、グランドチャンピオン
  • 帰って来た天才バカボン(1994年、プレイボーイ
  • 織恵ちゃんはやっぱりスゴイのだ!(1994年、ソニーマガジンズ 「大食い入門」所収)
  • 昭和よっぱらい研究所(1995年、微笑増刊号)
  • 愛しのモンローちゃん(1995年、パチンカーワールド
  • シェー教の崩壊(1996年、ビッグゴールド
  • 真夏の昼のゆめ(1996年、学習科学「3年の読み物特集」所収)
  • 用心棒(1996年、週刊漫画サンデー)
  • 天才バカボン「70年代の約束なのだ」(1996年、別冊宝島
  • ニャロメ(1997年、赤塚不二夫展 作品図録)
  • 四コマ漫画「たまごっち」(1997年、週刊朝日)
  • イヤミの敬老の日(1998年、共同通信社南日本新聞」「北国新聞」「岐阜新聞」ほか、全国紙に掲載)
  • お正月ざんす(1999年、共同通信社 新潟日報」「徳島新聞」ほか、全国紙に掲載)<--最後の読み切り-->
  • 『こち亀』赤塚キャラに乗っ取られる!の巻(2001年、Kamedas2) - 秋本治との合作、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』とのコラボレーション漫画

単行本編集

(※エッセイ、共著、対談集、絵本などを含む)
  • 嵐をこえて(1956年、曙出版) - デビュー作
  • 湖上の閃光(1956年、曙出版)
  • 心の花園(1957年、曙出版)
  • 消えた少女(1957年、曙出版)
  • 白い子犬(天使)(1957年、若木書房
  • その仮面をとれ(1957年、若木書房) - 石森章太郎との合作、石塚不二太郎名義
  • お母さんの歌(1958年、若木書房)
  • シェー!!の自叙伝(1966年、華書房
  • 赤塚不二夫全集(曙出版)
    1. ナマちゃん(1968年)
    2. ナマちゃん(1968年)
    3. おハナちゃん(1968年)
    4. お助けくん(1969年)
    5. お助けくん(1969年)
    6. お助けくん(1969年)
    7. お助けくん(1969年)
    8. まかせて長太(1969年)
    9. そんごくん(1969年)
    10. そんごくん(1969年)
    11. おた助くん(1969年)
    12. おた助くん(1969年)
    13. 九平とねえちゃん(1969年)
    14. キビママちゃん(1969年)
    15. いじわる一家(1970年)
    16. ジャジャ子ちゃん(1970年)
    17. まかせて長太(1970年)
    18. へんな子ちゃん(1970年)
    19. ミータンとおはよう(1970年)
    20. モジャモジャおじさん(1970年)
    21. 男の中に女がひとり 女の中に男がひとり(1970年)
    22. 新版世界名作まんが全集 ハッピィちゃん(1970年)
    23. まつげちゃん(1970年)
    24. まつげちゃん(1970年)
    25. スリラー教授 いじわる教授(1971年)
    26. われら8プロ(1971年)
    27. おれはゲバ鉄!(1971年)
    28. おれはゲバ鉄!(1971年)
    29. 死神デースI(1971年)
    30. 死神デースII(1972年)
  • ニャロメの万博びっくり案内(1970年、実業之日本社) - 全3巻
  • まんがプロ入門(1972年、曙出版)
  • まんが入門(1972年、小学館) - 監修
  • 「別冊まんがNo.1」赤塚不二夫大年鑑(1973年、日本社
  • 人生破壊学(1974年、広済堂
  • 赤塚不二夫1000ページ(1975年、話の特集
  • 全部切りぬく本(1975年、主婦と生活社
  • 劇画詩集 自分タチ(1976年、すばる書房) - 谷川俊太郎との合作。1979年に『谷川俊太郎エトセテラ』(2006年に『谷川俊太郎エトセテラリミックス』と改題増補改訂)に収録
  • 赤塚不二夫の天才バカ本(1977年、徳間書店
  • 笑わずに生きるなんて(1978年、海竜社
  • マンガとギャグに強くなる本(1978年、主婦と生活社)
  • まんが劇画ゼミ(1)(1979年、集英社) - 手塚治虫ちばてつやとの共著
  • ボクは落ちこぼれ(1979年、ポプラ社
  • レッツラゴン宣言(1981年、山手書房
  • ニャロメのおもしろ数学教室(1981年、パシフィカ
  • ニャロメのおもしろ宇宙論(1982年、パシフィカ)
  • 吾輩は菊千代である(1982年、二見書房
  • ニャロメのおもしろ生命科学教室(1982年、パシフィカ)
  • クイズ&パズル無理難題(1982年、主婦と生活社)
  • ニャロメのおもしろコンピュータ探検(1982年、パシフィカ)
  • 「日本国憲法」なのだ!(1983年、草土文化) - 永井憲一との共編著
  • 中国故事つけ漫画(1983年、集英社)
  • ニャロメのおかしなおかしな囲碁格言(1983年、日本棋院
  • ニャロメのおもしろ体の不思議探検(1983年、パシフィカ)
  • ニャロメのおもしろ性教室(1983年、西武タイム
  • 落ちこぼれから天才バカボンへ(1984年、ポプラ社)
  • ニャロメのたのしい囲碁入門(1984年、日本棋院)
  • 変態しながら生きてみないか(1984年、PHP研究所
  • マンガ狂殺人事件(1984年、作品社
  • ニャロメの血液型大研究(1984年、池田書店
  • 赤塚不二夫の巨人軍笑撃レポート(1985年、日本文芸社
  • ニャロメのおもしろ将棋入門(1985年、池田書店)
  • ニャロメの非公式 科学万博おたのしみガイドブック(1985年、学研
  • 宇宙の謎(1985年、潮出版) - 堀源一郎との共著
  • 心と脳の謎(1985年、潮出版) - 斎藤茂太との共著
  • ニャロメのおもしろ麻雀入門(1985年、池田書店)
  • ニャロメの原子力大研究(1985年、廣済堂
  • ニャロメのスターウォーズ大研究(1986年、廣済堂)
  • 地球外生命七不思議(1986年、学研)
  • ニャロメの地震大研究(1986年、廣済堂)
  • いま来たこの道 帰りゃんせ(1986年、東京新聞出版局
  • ビジネス古典コミックス(ダイヤモンド社
  • ニャロメの異常気象大研究(1987年、廣済堂)
  • マンガゼミナール古典入門(学研)
  • ビジネス風林火山(1987年、講談社) - 赤塚不二夫とフジオ・プロ名義
  • ラディカル・ギャグ・セッション(1988年、河出書房新社
  • アドベンチャーノベルズ 赤塚不二夫劇場(1988年、JICC出版局) - 文:喰始、挿絵:赤塚不二夫
  • まんが「消費税戦略」入門(1989年、ダイヤモンド社)
  • 赤塚不二夫の名画座・面白館(1989年、講談社)
  • 地獄の交遊録(1989年、コア出版
  • 赤塚だァ! 菊千代だァ!(1991年、いんなぁとりっぷ社
  • これでいいのだ(1993年、NHK出版
  • 赤塚不二夫とタモリの西サモアに行ってこれでいいのだ(1994年、講談社)
  • ニャロメのなぞなぞ1(1994年、岩崎書店
  • ニャロメのなぞなぞ2(1995年、岩崎書店)
  • ニャロメのおもしろ数学教室(1995年、新構社
  • ボクの満洲 漫画家たちの敗戦体験(1995年、亜紀書房) - 中国引揚げ漫画家の会編
  • バカボン線友録 赤塚不二夫の戦後漫画50年史(1995年、学研)
  • 赤塚不二夫の「これでいいのだ!」人生相談(1995年、集英社)
  • 赤塚不二夫のハチャメチャ哲学(1996年、ごま書房
  • 赤塚不二夫の「人生これでいいのだ!?」(1996年、日本文芸社)
  • 下落合シネマ酔館(1996年、小学館) - 赤塚不二夫&やまさき十三名義
  • 吾輩は猫なのだ(1997年、扶桑社
  • 友達とは何か?(1997年、ポプラ社)
  • いま来たこの道 帰りゃんせ(1997年、小池書院
  • 赤塚不二夫の特集(1997年、自由国民社) - 矢崎泰久坂梨由美子
  • 男の哲学(1998年、ごま書房)
  • 源氏物語(1998年、学研)
  • 平家物語(1998年、学研)
  • ニャロメのおもしろ血液型雑学知識(1998年、三心堂出版社
  • 赤塚不二夫1000ページ(1998年、扶桑社)
  • 人生これでいいのだ!!(1999年、集英社)
  • 赤塚不二夫120%(1999年、アートン
  • これでいいのだ。赤塚不二夫対談集(2000年、メディアファクトリー
  • 赤塚不二夫のさわる絵本よーいどん!(2000年、小学館)
  • 人生まるわかり 「バカボングラム」(2001年、双葉社) - 監修
  • アカツカNo.1 赤塚不二夫の爆笑狂時代(2001年、イーストプレス
  • バカは死んでもバカなのだ 赤塚不二夫対談集(2001年、毎日新聞社
  • 赤塚不二夫これでいいのだ(2002年、日本図書センター
  • 赤塚不二夫のさわる絵本 「ニャロメをさがせ」(2002年、小学館)
  • 赤塚不二夫のおコトバ(2005年、二見書房) - マンガ人生50周年記念出版
  • 赤塚不二夫 実験マンガ集(2015年、Pヴァイン

代表的なギャグ編集

  • シェー!(『おそ松くん』、イヤミ)
  • だよーん(『おそ松くん』、ダヨーン)
  • これでいいのだ!(『天才バカボン』、バカボンのパパ)
  • 賛成の反対なのだ!(『天才バカボン』、バカボンのパパ)
  • 不思議だが本当だ。本当だが不思議だ(『天才バカボン』、バカボンのパパ)
  • おでかけですか?レレレのレ(『天才バカボン』、レレレのおじさん)
  • タイホする!(『天才バカボン』、おまわりさん)
  • 国会青島幸男が決めたのか?(『天才バカボン』ほか)
  • 忘れようとしても思い出せない(『天才バカボン』ほか)
  • …でやんす(『もーれつア太郎』、ケムンパス)
  • …のココロ?(『もーれつア太郎』、ココロのボス)
  • …べし(『もーれつア太郎』、べし)
  • …だニャロメ!(『もーれつア太郎』、ニャロメ
  • のベラマッチャ(『レッツラゴン』、ベラマッチャ

その他編集

  • タモリ - 山下洋輔らに見出され、赤塚が物心両面を支え、後ろ盾となって芸能界デビュー。以来、交友を続けた。弔辞にて「私もあなたの数多くの作品の一つです」と述懐した。
  • コビト製菓 コビトくん(1968年) ※コビト製菓に提供した同社のイメージキャラクター。チビ太とたまねぎたまちゃんをフュージョンさせたデザイン。
  • 山下洋輔トリオ 『ミナのセカンド・テーマ』アルバム内ジャケット(1969年) ※べしを描いた。
  • ヤマハエレクトーン ゴリラくん(1971年)※ヤマハエレクトーンでは、前年(1970年)にニャロメをイメージキャラクターに擁した関係から、この年のイメージキャラクターのデザインも赤塚が担当。面長なポーカーフェイスが印象的なこのキャラクターも、ニャロメ同様、ソフトビニール人形として立体化され、購買者に抽選でプレゼントされた。
  • 映画批評』表紙イラスト(1972年 - 1973年)
  • おはようこどもショー」 ニャンダ(1973年)※「おはようこどもショー」の着ぐるみのデザインをオファーされた赤塚によって作られたキャラクターで、番組内での人気に目を付けた「冒険王」の編集者の熱烈なプッシュにより、後に『ニャンニャンニャンダ』というタイトルでコミカライズされた。
  • 内田裕也ロックンロールBAKA(1973年)※渋谷公会堂、中野サンプラザで行われた内田裕也の15周年リサイタルのポスターを赤塚がデザイン。キャロル、沢田研二田辺昭知井上堯之淡谷のり子らとともにゲスト出演した。
  • 喜納昌吉&チャンプルーズハイサイおじさん』シングルジャケット(1977年)
  • ポルノチャンチャカチャン(1978年)※山本晋也監督による日活ロマンポルノ作品のポスターをデザイン。
  • Mr.Boo!ミスター・ブー(1979年)※ ミスターブーチャンチャンブラザーズバンドによる主題歌の日本語バージョンの作詞を担当。
  • 志賀正浩 「おんどピコピコ」「ロンリーロード」(1980年) ※作詞とシングルジャケットのイラストを担当。
  • でん六 「赤塚不二夫の鬼の面」(節分用豆製品付録のお面)デザイン(1971年 -) ※1977年を除く[注釈 14]。また2003年以降の実質作者はフジオ・プロ。
  • 銀座7丁目劇場「スリスリおじさん」(1994年)※ 吉本興業がかつて運営していた劇場の看板とポスターをデザインした際、フィーチャーされたキャラクター。
  • ゲームソフト 『爆伝 アンバランスゾーン』 キャラクターデザイン(1994年)
  • 所ジョージ「チャイニーズ・ホテル・ブルース」(1979年)作詞
  • ぺいざん(赤塚不二夫命名の馴染みの洋食店)[113]

「赤塚不二夫」本人、および赤塚作品について論じた書籍編集

  • 天才バカボン論(1992年、風塵社 小林広一
  • 天才バカボンの大神秘(1993年、KKベストセラーズ バカ田大学後援会+フジオプロ)
  • 天才バカ本なのだ!!(1993年、評伝社 バカ田大学バカボン研究会 長谷邦夫)
  • 元祖マンガ・データ主義 天才バカボンのパパの「国会で細川総理が決めたのだ宣言!!」(1994年、扶桑社 豊福きこう
  • ギャグにとり憑かれた男 赤塚不二夫との漫画格闘記(1997年、冒険社 長谷邦夫)
  • アカツカNo.1 赤塚不二夫の爆笑狂時代(2001年、イーストプレス ほうとうひろし編)
  • 赤塚不二夫 天才ニャロメ伝(2005年、マガジンハウス 長谷邦夫)
  • 赤塚不二夫のことを書いたのだ(2005年、文藝春秋武居俊樹
  • 赤塚不二夫でいいのだ!!(2005年、辰巳出版
  • シェーの時代「おそ松くん」と昭和こども社会(2008年、文藝春秋泉麻人
  • KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 赤塚不二夫(2008年、河出書房新社
  • 赤塚不二夫大先生を読む「本気ふざけ」的解釈 Book1(2011年、社会評論社 名和広
  • 赤塚不二夫というメディア 破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説「本気ふざけ」的解釈 Book2(2014年、社会評論社 名和広)
  • 赤塚不二夫先生との 下落合呑んべえ日記(2015年、小学館 しいやみつのり)
  • 破壊するのだ!! - 赤塚不二夫の「バカ」に 学ぶ(2015年Pヴァイン赤塚りえ子山下洋輔他)
  • ユリイカ 臨時増刊号 総特集 赤塚不二夫 81年目のバカなのだ(2016年11月、青土社

主な出演番組編集

- 審査委員長を務める

俳優として出演した映画作品編集

企画参加した映画作品編集

テレビドラマ編集

監督作品編集

CM出演編集

「赤塚不二夫」を演じた俳優編集

参考文献編集

  • 赤塚藤七『星霜の記憶』フジオ・プロ、1972年12月
  • 赤塚不二夫『笑わずに生きるなんて―ぼくの自叙伝』中央公論社(中公文庫)ISBN 978-4122011076 (1984年3月)。
  • 赤塚不二夫『ラディカル・ギャグ・セッション 挑発する笑いの構造』(1988年、河出書房新社
  • 赤塚不二夫『これでいいのだ―赤塚不二夫自叙伝』文春文庫 ISBN 978-4167753276 - ※1993年、NHK出版刊による単行本の文庫収録版
  • 長谷邦夫『ギャグにとり憑かれた男―赤塚不二夫とのマンガ格闘記』(1997年、冒険社) ISBN 4938913151
  • 長谷邦夫『漫画に愛を叫んだ男たち トキワ荘物語』(2004年、清流出版ISBN 4860290755
  • 武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』 ISBN 978-4163670805 - ※2007年、同じ文藝春秋より文庫版が刊行 ISBN 978-4167717315
  • 文藝別冊 KAWADE夢ムック『総特集 赤塚不二夫 ふしぎだけどほんとうなのだ』(2008年、河出書房新社) ISBN 978-4-309-97714-0
  • 名和広『赤塚不二夫大先生を読む「本気ふざけ」的解釈 Book 1』(2011年、社会評論社) ISBN 978-4784519040
  • 名和広『赤塚不二夫というメディア 破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説「本気ふざけ」的解釈 Book 2』(2014年、社会評論社) ISBN 978-4784519118
  • まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8

関連項目編集

  • RIP SLYMEGROOVISIONSが赤塚に触発されたイラストでジャケットデザインを手がける)
  • 赤塚賞集英社が新人ギャグ漫画家発掘の為に創設した漫画賞。赤塚不二夫自身が審査委員長を担っていた)
  • アニメ週刊DX!みいファぷー(要所でニャロメなど赤塚キャラが進行役を務め、平成生まれの子供たちに赤塚キャラを知らしめる役割を担っていた)
  • これでいいのだ!!映画★赤塚不二夫 - 2011年の映画。『週刊少年サンデー』の赤塚担当編集者として35年にわたり交流をもった武居俊樹の回顧録「赤塚不二夫のことを書いたのだ」を大幅に脚色、武居に相当する新人編集者を女性(堀北真希)に置き換え、フィクションを交えて映画化。赤塚役は浅野忠信
  • エポック社 - 1977年から1979年まで発売されたボードゲームシリーズ「まんがゲーム」の第9弾として、「赤塚不二夫の駅前タクシーゲーム」を発売。赤塚自らゲームを作成、ボードやカードにはバカボン一家を始めとした赤塚キャラクターが描かれている。

脚注編集

注釈編集

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  1. ^ 最初、よこたと共に若木書房に持ち込みにいったが、よこたの漫画のみ採用され二件目に行ったのが曙出版である。
  2. ^ 2005年二見書房刊「赤塚不二夫のおコトバ」P.60に「(トキワ荘仲間の中で)オレだけ彼女がいたんだよ。ハンサムだったから」という赤塚の発言が、藤子不二雄によって紹介されている。
  3. ^ 原稿提出日を「今日か明日か」と言うことから「泉鏡花」を連想し、そこをもじって「いずみあすか」となった
  4. ^ 3人ともワーグナーが好きだったためドイツ名の「マイヤー」が候補となり、そこにU(ドイツ読みでウー)を付け「うまいやー」となり3人の頭文字(水野のM、石ノ森のI、赤塚のA)になるようにもじって「U・MIA」、表記をカタカナとし「U・マイア」となった
  5. ^ ただし、赤塚は同社の出版部門のみに属し、アニメーション部門にはノータッチであった。文藝別冊 KAWADE夢ムック「総特集 赤塚不二夫 ふしぎだけどほんとうなのだ」(2008年、河出書房新社)P.249より。
  6. ^ 会見では向かって左から登茂子・不二夫・眞知子・りえ子の順に並んで座り、マスコミに対応した。
  7. ^ 2002年4月|日記2000 〜 2002”. 赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ. 2014年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月16日閲覧。 - 公認サイト内の日記は倒れる前日の記事で終了しており、東京アニメーター学院の入学式で講演を行った事が記載されている。
  8. ^ 漫画好きで知られる麻生太郎自由民主党幹事長(当時)も「あの種のギャグ漫画の草分け的存在で、(イヤミの)『シェー』はじめ、よく笑った。ちょっと残念だ」とコメントした。天才といわれ、その天才さえギャグにした「赤塚不二夫」さん死去”. オフイス・マツナガのブログ!(現役雑誌記者によるブログ日記!) (2008年8月3日). 2014年2月5日閲覧。
  9. ^ ビートたけしも一時的に参加した事があったが(本人の項参照)、グループの雰囲気が肌に合わず離れている。ただし、その後も赤塚の対談集『これでいいのだ。』へ参加したり、バカボンのパパを思わせる扮装を好んで披露したりしている。共演頻度こそ少ないがタモリとも交流を保っており、また所ジョージとは公私に亘っての盟友関係にある。
  10. ^ 武居俊樹・著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(文春文庫・2007年、P244〜245)に「オレ、由利徹、尊敬しているの。あの人、ずうっと、くだらないことやり続けてるじゃない」「オレは由利徹で行く。死ぬまでくだらない漫画描き続ける」という、赤塚の発言がある。
  11. ^ 1997年・冒険社刊「ギャグにとり憑かれた男―赤塚不二夫との漫画格闘記」、2005年・マガジンハウス刊「赤塚不二夫―天才ニャロメ伝」(共に長谷邦夫著)、2005年・辰巳出版刊「赤塚不二夫でいいのだ!!」で、長谷邦夫、高井研一郎がそれぞれ証言。
  12. ^ a b c 単行本化では『もーれつア太郎』の長編作とされ、『ア太郎』単行本(曙出版講談社竹書房)に収録されている。なお『最後の休日』は単行本化の際、「まっ黒しっぽを東京でなおせ!」と改題された。
  13. ^ 「ア太郎+おそ松」とされているが『ア太郎』長編作ではなく、『おそ松』の長編作、それも『少年サンデー』で掲載した最後の作品となっている。
  14. ^ 1977年山上たつひこ作の『がきデカ』の主人公「こまわり君」を起用。

出典編集

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  1. ^ “ギャグマンガの王様「これでいいのだ!! 映画☆赤塚不二夫」”. zakzak. (2011年4月4日). オリジナル2014年6月16日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140616124730/http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110404/enn1104041541016-n1.htm 2014年6月16日閲覧。 
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  3. ^ 世界大百科事典
  4. ^ a b c 赤塚不二夫インタビュー アーカイブ”. 日本漫画学院. 2008年9月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月12日閲覧。
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  6. ^ マンガ ぼくの満洲
  7. ^ 日の丸旗之助 - マンガ図書館Z(外部リンク)
  8. ^ 赤塚不二夫 『これでいいのだ─赤塚不二夫自叙伝』 文春文庫2008年、10-92頁。ISBN 978-4167753276
  9. ^ 赤塚藤七 『星霜の記憶』 フジオプロ1972年
  10. ^ マンガをはみ出した男 赤塚不二夫
  11. ^ a b c d 赤塚不二夫 『これでいいのだ─赤塚不二夫自叙伝』 文春文庫2008年ISBN 978-4167753276
  12. ^ 満州生活写真集「宮岸家族」⑦満州生活写真集「宮岸家族」⑧
  13. ^ 赤塚不二夫、北見けんいちちばてつや 他 『ボクの満州―漫画家たちの敗戦体験』 亜紀書房1995年ISBN 978-4750595245 赤塚不二夫 『これでいいのだ─赤塚不二夫自叙伝』 文春文庫2008年、43-46頁。ISBN 978-4167753276
  14. ^ 赤塚不二夫 『これでいいのだ─赤塚不二夫自叙伝』 文春文庫2008年、47頁。ISBN 978-4167753276
  15. ^ 引き揚げ、そして祖国へ
  16. ^ 武居俊樹・著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(文春文庫・2007年、P.69〜74)より。
  17. ^ 2008年8月13日付『しんぶん赤旗』掲載・石子順「赤塚不二夫さんを送る」より。
  18. ^ 武居俊樹 『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』 文藝春秋2005年ISBN 978-4163670807
  19. ^ 自然体で生きる天才漫画家が話す人間の愛。子どものときは差別なんてしない ―― それでいいのだ! 赤塚不二夫氏
  20. ^ 赤塚不二夫 『赤塚不二夫120%―死んでる場合じゃないのだ』 小学館1999年ISBN 978-4901006095
  21. ^ [六つ子原作「おそ松くん」奈良にゆかり?/奈良 https://mainichi.jp/articles/20160712/ddl/k29/070/643000c](毎日新聞、2016年7月)
  22. ^ 赤塚不二夫が語っていた戦争と差別…終戦時の満州で助けてくれた中国人、日本に帰って受けたイジメと差別 - LITERA(2016年6月)
  23. ^ a b c 赤塚不二夫プロフィール”. Village center. 2000年12月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月12日閲覧。
  24. ^ a b 「青春紀行」『異国の丘新潟』(昭和57年読売新聞大阪本社版掲載)
  25. ^ 赤塚不二夫インタビュー プロフィール”. MEDIA TRASH. 1999年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月12日閲覧。
  26. ^ 手塚治虫とその周辺「つげ義春」
  27. ^ a b c これでいいのだ!! 赤塚不二夫 伝説”. フジテレビジョン (2010年8月29日). 2010年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月12日閲覧。
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  29. ^ a b 石ノ森章太郎 萬画大全集 動画インタビュー 水野英子・丸山昭(元『少女クラブ』編集長)対談(第2回)”. 石森章太郎プロ. 2008年2月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月13日閲覧。
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外部リンク編集