赤塚不二夫

日本の漫画家

赤塚 不二夫(あかつか ふじお、本名:赤塚 藤雄1935年昭和10年〉9月14日 - 2008年平成20年〉8月2日)は、日本漫画家タレント俳優である。

赤塚 不二夫
本名 赤塚 藤雄
生誕 1935年9月14日
満州国の旗 満州国 熱河省灤平県古北口古城裡22号(現・中華人民共和国河北省承徳市灤平県と北京市密雲県古北口中国語版との境界線)
死没 (2008-08-02) 2008年8月2日(72歳没)
日本の旗 東京都文京区
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
称号 紫綬褒章
活動期間 1956年 - 2002年
ジャンル ギャグ漫画少女漫画
代表作おそ松くん
ひみつのアッコちゃん
天才バカボン
もーれつア太郎
レッツラゴン
ギャグゲリラ
受賞 第10回小学館漫画賞
(『おそ松くん』)
第18回文藝春秋漫画賞
(『天才バカボン』他)
第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞
第5回東京国際アニメフェア功労賞
公式サイト 赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!
テンプレートを表示

小学六年生の時、手塚治虫の『ロストワールド』に大いなるショックを受け、漫画家を志す。上京後は東京で工員などをしながら漫画修業にはげみ、つげ義春の推薦で曙出版から上梓した貸本漫画嵐をこえて』で1956年(昭和31年)にデビュー。

その後、赤塚よりも3歳年下の石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家となる。1967年(昭和42年)に代表作である『天才バカボン』の爆発的ヒットと、その後の『もーれつア太郎』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』といった一連のヒット作や長期連載作品等により「ギャグ漫画の王様[1] と謳われ、戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。

生涯編集

生い立ち編集

 
4~5歳の頃の赤塚不二夫
(父の藤七・母のリヨと)

1935年(昭和10年)9月14日満州国熱河省灤平県古北口古城裡(現在の中華人民共和国河北省承徳市灤平県と北京市密雲県古北口中国語版との境界線)に赤塚藤七と妻リヨの6人兄弟の長男として生まれる[2]。古北口は中国内地である河北省満州熱河省との境界であった万里の長城において山海関居庸関の中間地点に設けられた要害関門の町で、古来より北京(北平)と熱河とを結ぶ要地であり[3]、当時は満州国と中華民国冀東防共自治政府をまたぐ)との国境地帯であった。

父親である赤塚藤七1908年4月22日 - 1979年5月17日・満71歳没)は新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)の農家出身で地元の小学校を経て苦学の末、陸軍憲兵学校の卒業試験を2番目の成績で卒業し関東軍憲兵となったが、1933年(昭和8年)に上官の理不尽ないい分が我慢できずに職を辞し、満州国警察古北口国境警察隊の保安局特務警察官として中満国境地帯で現地人への宣撫工作や、現地で抗日活動を行っていた東北抗日聯軍八路軍等の抗日ゲリラ宋哲元冀察政務委員会率いる国民革命軍第29軍と対峙して掃討・謀略(防諜)活動を行う特務機関員をしていた[4][5][6]

父・藤七は非常に厳格でなおかつ権威的であり、田河水泡の『のらくろ』や中島菊夫の『日の丸旗之助[7] といった漫画を読むことを禁じられたり、箸の持ち方等で厳しくしつけられ、幼い頃の赤塚は恐怖感から父親が大の苦手であり畏怖を感じさせる存在だったという。しかし宣撫官という職務柄もあって普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を現地の村人達に分けてあげたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもあった。そのため彼には抗日ゲリラ側から当時の金額で2000円もの懸賞金がかけられていたにも関わらず現地の村人から密告されることもなく、また終戦直後の奉天で赤塚家の隣に住む日本人一家が報復として中国人に惨殺される中で普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は難を逃れている[8]

母親であるリヨ(1911年 - 1970年8月20日・満59歳没)は奈良県生駒郡矢田村(現・大和郡山市矢田口)出身で藤七との結婚前には満州で芸妓をしており、藤七とは宴席で出会った後に鉄道で運命的に再会。芸妓としての経験から彼女の左腕には、父とは違う別の男の名前で「○○命」と刺青が彫られていたが、藤七はこのことも含めたリヨの過去を先刻承知のうえですべて受け入れて共通の知人の仲介を経て結婚したという[9]。赤塚はこのことを父の回想を通して知り、「これは芸妓という悲しい過去を持つ母に対して父が見せた『いたわり』なのだ」と断言している。また1968年(昭和43年)に藤七が結核に罹患した際にリヨは「とうちゃんのために」と自らの意思で刺青を除去したという[10]。なお、リヨは子供の頃に目を傘で突かれたことが原因で右目を失明しており、少年時代の赤塚はタンスの引き出しから見つけた母の義眼であるガラス製の目玉をそうとは知らずに妹たちに見せて驚かせていたところ、母からこっぴどく怒られたと回想している[11]。右目の視力を失っている人物としては後に赤塚の盟友となったタモリがおり、母親との共通点から親近感を抱いたこともあって彼を居候として手厚く迎え入れたとも言われている。

当時の現地での父親との体験について赤塚は著書『これでいいのだ―赤塚不二夫自叙伝』において、

「ある晩、隣の砦のほうから突然、ドカーン、パンパンパン……と爆発音に続く銃声が聞こえた。「襲撃だ!」おやじは言うが早いか制服に着がえてぼくと一緒に外に飛び出した。「ぼくも行く」と言ったからなのか、それとも「お前もこい!」とおやじがぼくを促したからなのかは定かではない。しかし、火事場見物ではない。深夜の殺し合いに、たとえ子供にせがまれたからといって連れて行くというのは考えにくい。やはりおやじは自分の意志で息子をあえて殺戮現場に連れて行ったのだろう。おやじは長男であるぼくに、ゆくゆくは父親のあとを継がせたいという明確な意志を持っていた。この夜の同行も、この意識から出たことだったにちがいない。外に出ると小規模だが日本の正規軍と“満系”も集合、トラック何台かに分乗して現場へ急行した。到着したときはすでに敵の襲撃は終わり姿を消したあとであり、一家皆殺しに遭った千葉さんの家が焼け落ちて煙がブスブス立ちのぼっていた。敵は明らかに千葉さん一家を標的として選び、襲撃したのである。おやじの首には当時の金で2千円の賞金がかかっていた。当時としては途方もない大金である。べつに護衛に守られていたわけではないおやじが、裏切りや密告によってつかまる可能性はそれほど低くはなかったはずだ。おやじが砦の外の村へ出たとき、村人の一人が敵に連絡すればそれまでである。だが村人は誰もおやじを敵に売り渡さなかった。こういうわけで、おやじだけではなく赤塚家も襲撃されることがなかった。砦には時々、さまざまな物資を積んだトラックが到着した。おやじはその物資をよく村人に分けていた。「敵も味方も同じ人間じゃないか」何か見返りを期待したわけではない、こちらに真心があればそれは必ず相手に通じるはずだ──これがおやじの人間観だった。」

と回想している。 その後、日中戦争(北支事変・支那事変)の勃発により日本軍が華北(北支)へと侵攻するのに合わせて(古北口で日本勢力圏と対峙していた国民革命軍八路軍との前線が後方へと移動したことで)古北口地域が安定したとして、1937年(昭和12年)3月に古北口国境警察隊が解散[12]。父・藤七は危険な辺境任務を任されることとなり妻・リヨと赤塚ら子供達は大連の親類へと預けられた後、奉天鉄西消防分署長となったが、この時も消防署の部下の中国人を差別せずに親切に接する姿勢は変わらなかったという。この時の体験について赤塚は著書において次のように回想している[11]

「終戦直前におやじが奉天(現在の瀋陽市)の鉄西区の消防分署の署長になった。戦争中おやじは、部下の中国人がミスを犯すと容赦なく叱った。そんな時、彼らは翌朝早く籠に山盛りの卵を持って、自宅へ謝りにきた。しかし、おやじはかあちゃんに、「彼らも余裕があって持ってくるわけではない。どこかで無理しているはずだ。絶対もらっちゃいかんぞ」と言って受け取らせなかった。敗戦まぎわになると生活物資が不足する。そんな時も彼らは、卵や砂糖を持ってきた。かあちゃんやぼくたちは、のどから手が出そうな気持だった。しかしおやじは、「お前たちで食べろ」と言って頑固に受け取ろうとしなかった。このいかにもおやじらしい“清官”ぶりと、中国人に対するやさしさが、ぼくたち一家の危機を救ったのだ。おやじは戦争中、子供であるぼくにも「中国人からものをもらってはいけない」と絶えず言っていた。おやじが受け取らないので、息子のぼくに渡そうとするのではないか、とまで神経を配っていた。小さな恩を忘れない彼らは、終戦後もなにくれとなくぼくたち一家の生活を支えてくれた。「奥さん、米あるか」「砂糖あるか」と、生活全般にわたって1年近くも、ぼくたち一家の細かい動静に目を配っていてくれたのである。ぼくが中国人の子供たちとどういうつき合い方をしていたかといえば、生来こういう人間だから、ごく自然な形で彼らの世界に溶け込んでいた。学校では先生から、中国人を蔑視した教育を受けていたけど、ぼくは学校から帰ってくると、おやじの部下の中国人の子どもたちと、官舎のまわりで犬コロみたいに遊んでいた。中国語で、みんないっしょになって生活してたわけだから、「おまえは日本人なんだからエリートなんだぞ」なんてことはおやじは言わなかった。だから、ぼくは中国人に対して差別とかそういう気持ちをもったことはなかった。敗戦によって日本人と中国人の立場は逆転したのであるが、それは子供どうしの世界でもそれなりの形で起こった。敗戦まで、ぼくはよく中国人の遊び仲間に、「遊んでやるから、頭をひとつ殴らせろ!」とやったものだ。これが敗戦を境に変わった。彼らは殴らせろとは言わなかった。「遊んでやるから、おれに最敬礼しろ!」と言うのだった。もちろんぼくは彼らに最敬礼した。あとはそれまでとまったく変わりなく遊んだ。」

終戦編集

1945年(昭和20年)8月15日、赤塚は10歳の時に奉天終戦を迎えた。しかし翌16日、中国人の群衆が鉄西の工場内にある軍需物資を狙って大挙して押し寄せ暴徒化、凄惨な殺戮に発展した。この時の体験について赤塚は著書において、

「目の前ですさまじい騒動の光景が繰り広げられたのは8月16日である。ぼくたちが住む消防署の官舎の隣は鉄西消防署、その隣が憲兵隊。道路をはさんで藤倉電線東洋タイヤの工場があった。その工場内にある軍需物資を狙って、数え切れないほどの中国人が殺到したのだ。無秩序の略奪は、中国人どうしの目を覆う殺しあいに変わった。これに日本人の工場関係者と憲兵が加わって、三つ巴、四つ巴の地獄絵が出現したのである。「シュルシュルシュルッ」衣ずれの音を思わせるのは、藤倉電線が作っていたパラシュートを運び出す音だ。その略奪者の頭上へ、塀の上からコンクリートの塊や石を投げ降ろす。「ギャーッ」という悲鳴。「パパーン」憲兵のピストルが略奪者を狙い撃つ。東洋タイヤの倉庫から持てるだけのサラシを抱えた略奪者は、それでもまだ足りずに、胸から胴にかけて白いサラシを巻けるだけ巻いて逃げようとする。ピストルの弾がその胸を貫通する。巻けるだけ巻いたサラシが見る見る真紅に染まっていく……。そういう光景をぼくは憲兵隊の馬小屋のなかから息を殺して見ていた。敗戦ソ連進駐、暴動という混乱のなかで、ぼくたちはまず官舎から、隣のこの馬小屋に避難したのだった。そしてそこに日本人が潜んでいると知れたら、どんな危険がやってくるかわからないので、「赤ん坊を泣かすな!」と制止しあいながら、息をのんで外の様子をうかがっていたのだった。」

と回想している[11]

この時、馬小屋に潜んでいた一家は父の部下だった中国人の手助けもあり、全員中国服を着せられて消防車に乗り、鉄西から無事脱出して事なきを得た[13]。後に赤塚は「いつも部下の中国人を可愛がっていたおやじが、ぼくたち一家を救ったと思わないわけにはいかなかった」と語っている[14]。しかし父親は侵攻してきた赤軍によってソビエト連邦へ連行され、軍事裁判にかけられて4年間シベリアに抑留されることになる。

奉天に残された家族は赤塚が11歳だった1946年(昭和21年)に奉天を後にして海岸(渤海沿岸)の引揚船を目指して徒歩で引き揚げを始め、途中でソ連兵からの襲撃を受けてソ連軍憲兵内務人民委員部政治将校)に助けられながらも6月15日に葫芦島から大発動艇で4日かけて(赤塚にとって初めて見る内地である)佐世保港に到着[15]、厚生省佐世保引揚援護局(現在の浦頭引揚記念平和公園)から国鉄大村線南風崎駅を経由し汽車で母の実家がある奈良県大和郡山市矢田口に移った。

引き揚げまでに妹(次女)の綾子はジフテリアにより死去し、弟は他家へ養子に出され(後に赤塚は茨城県の常磐炭田炭鉱で働いていた彼と一度だけ再会している)、更には死んだ次女である綾子の名を授けられた生後6か月の末妹も母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため夭折し、日本に帰還する頃には兄弟は藤雄と弟と妹の三人と半数となってしまった。その時の母親には泣く気力もなく、赤塚は「胸がえぐられるようだった」という[16][17]

この時の経験について赤塚と赤塚と生涯を通じて密接な仲にあった担当編集者の武居俊樹は次のように回想、著している[11][18]

「かあちゃんを先頭に、ぼく、須満子と背中の綾子、宣洋の順につかまって歩いた。かあちゃんは絶叫する、「しっかりつかまるんだよ、離しちゃダメだよ!」。このとき手を離したら残留孤児となっていた。死体が散乱する草原。真っ赤な夕焼け空に何千何万のカラスの大群が飛んでいた。オレは、今でも、その夢を見るよ。人が殺されるシーンも何回も見た。その時代、戦争も死体も、子供のオレ達にとっても「日常」だったんだ。ソ連兵は子どもたちにチョコレートをくれる優しいひとたちだったが、ある夜、そいつらの何人かが、我が家に押し入り、おふくろに襲いかかった。夢中で外に飛び出し、カーベー(ソ連軍憲兵)を呼びに行った。たまたま通りかかったカーべーは、狼達を銃把で撲りつけ、おふくろを助けてくれた。人間は、天使にもなるが、獣にもなる。平和な時代だったら知る必要のない智恵が、オレには、自然に授かっていた。(中略)ぼくが初めて眼にする日本だ。行けども行けどもコーリャンと畑とでっかい夕陽、乾いた道が一瞬にして大河に変わる光景、一寸先が見えなくなる黄砂……、といった風景しか見たことのなかったぼくにとって、今、眼の前に広がる風景は新鮮そのものだった。ちょうど、朝の通勤通学時間だった。すれ違う人々は、我々を汚い物でも見るように、冷たい目で見て、通り過ぎていく。同じ日本人が、我々を「よそ者」のように見ていた。矢田村のおふくろの実家に着いて30分後に、生後六か月だった綾子はフーッと一つため息をついた。そしてそのまま息を引き取った。おふくろは、泣く気力もなく、綾子を抱きしめていた。一番弱い者が犠牲になった。オレは、二人の綾子という妹を失った。引き揚げの途中で子供に死なれでもしたら、かあちゃんは半狂乱になったかもしれない。でもここまできて綾子に死なれたのなら、かあちゃんには自分を責めるものは何もなかったし、泣く理由も感傷ももうなかったのだろうと思う。どんなことがあっても子どもたちと日本にたどりつかなければ、という必死な思いを叶えた綾子は、そういう意味でも本当にかあちゃん思いの親孝行な妹だった。チビ太もニャロメもこの時代の思い出から生まれている。結局、赤貧と、ガキのドロボウグループが、ひとりのギャグ漫画家を育てたんだよ。」

引き揚げ後編集

父を除いた一家が奈良へと引き揚げてから母親は大日本紡績郡山工場の工員寄宿舎で寮母として働くようになり、赤塚は地元の郡山町立郡山小学校に編入[19]して小学5年生となった。赤塚は奈良での経験について1994年のインタビューで、

「オレは満州から引きあげてきて、奈良の大和郡山に3年間住んでいたんだけど、あのあたりってヨソ者を徹底的に排除する風潮があったんだ。差別意識が定着してたのかもしれないな。オレも差別されたよ。配給の列に並んでて、オレの順番になると「満州、ダメ」とか言って本当にくれないんだから。いい大人が子供に対してだよ。今でも忘れられないよ」

と回想している[20]。ただし、妹の寿満子は「奈良時代は楽しい事ばかりだったが後の新潟時代は辛かった」と回想している[19]。このように一家が満州帰りとして差別を受け学校でもいじめの対象となる中、2学期の頃から貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになり、このとき手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意。見よう見まねで手塚風の漫画の執筆に没頭する[4]。この漫画がきっかけで、学校で番長を張っていた奥村という同級生と出会うことにより学校生活が一転することとなった。彼との出会いについて

「僕は子供の頃から、絵が得意だった。「よーし、あいつが俺のこと、そんなにイジメるんだったら、漫画を描こう」って、藁半紙16枚くらいを糸で縫って、そこに鉛筆でマンガを描いたのだ。確か「寿司屋のケンちゃん」ってマンガ。その頃、お寿司屋さんなんか行ったことなかったのに、どうしてそんなマンガを描いたんだろう。それがわからない。でもとにかく、描いたわけだ。それを番長に、「僕の描いたマンガです」って差し上げた。番長はしばらく、パラパラめくって見てたよ。「これ、ほんとにおまえが描いたのか?」「ほんとです」それからみんなを集めて、「いいか、今度なぁ、赤塚イジメたら、俺が承知しないぞ」って。それから見事に、イジメにあわなくなった。」

と回想している[21]。これをきっかけに奥村と仲良くなった赤塚は柿畑から柿を盗んで売り警察の厄介になるなど、数々の悪行に手を染めることになったが、その一方で

「クラスに一人、重度の小児マヒの子がいた。性格のとてもいい子だった。運動会の日がきたが彼は参加できない。窓から外を見ているだけだ。その日、ボス奥村はぼくに命じた。「お前残って、あいつと一緒にいてやれ」しかたなくぼくも運動会に出ないで、二人で教室に残った。グランドではワーワーみんな楽しそうにやっている。窓からそれを見ている彼に、「面白いか?」と聞くと、嬉しそうに「うん」と答えた。(中略)それにしても奥村という男も大したものだと思う。ただ体がでかくて腕っぷしが強いだけではなかった。ハンデを背負った友達の気持がわかり、ぼくに運動会を休んで付き添わせるという、教師ではできない対応をやってのけたのである。」

というエピソードがあり、赤塚のみならずかつて父が現地の中国人に対して親切に接したように、周囲から差別される立場の人間に対して優しい態度をとる一面もあったという。

赤塚本人にとって奥村が面倒を見ていた子供もまた少年時代の赤塚の心に深く刻まれることとなったとされ「奈良の少年時代は餓鬼のように動物のように生きた。底辺に生きる少年たちの群像から、私の登場人物のキャラクターを得ている」とも回想しており、遊び仲間たちと一緒に遊んであげていた近所の当時3歳の馬車屋の息子は『おそ松くん』に登場する浮浪児チビ太」のモデルになり、いたずらをして遊んだ野良猫が「ニャロメ」のモデルにもなったという[22]

共に強い立場にありながら弱い者を守り、決して差別しない態度をとった父親と奈良での小学生時代の同級生の奥村の二人と接した少年時代の経験がきっかけとなって後の赤塚作品では「弱い者いじめはしない」という姿勢が貫かれることとなったとされ、小説家の井上ひさしは「文部省が赤塚漫画を『道徳』の副読本にしないのは理解できない。ある意味で、赤塚の作品は道徳的だ。例えば、暴力シーンはいっぱい出てくるが、弱虫でチビのハタ坊がいじめられるシーンは決して出てこない。喧嘩も、対等か、強い者に逆らう時に起きている。チビ太が一人で六つ子に挑んでいくような時だ。」と評している[23]

その後も赤塚は漫画を描き続け、小学6年生になった12歳の時には『ダイヤモンド島』という128ページのSF長編漫画[19]を描き、母親と一緒に大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行ったが失敗した[24]

中学生となった13歳の時の1949年(昭和24年)秋、母親のわずかな稼ぎでは残った3人の子供を養っていくことが困難であったため、兄弟は父の郷里である新潟の親類縁者にそれぞれ預けられることになり、中学1年生になっていた赤塚は新潟県に住む父親の姉一家(以前満州で父が危険な辺境勤務をしている間に1年間預けられていたことがある)である大連帰りの母子家庭に預けられて母親からのわずかな仕送りで暮らした。

赤塚は後の自身に大きな影響を与えた当時の体験として

「日本有数の豊かで美しいコメどころでも、その閉鎖性と排他性は、陰湿な風土の奈良に、勝るとも劣らぬものだった。関西なまりになっていたボクは、その頃常用の他所者(よそもの)に対する差別語を、しばしば浴びせられた。母からのわずかな仕送りで暮らす中学1年の私はひどく貧しかった。得意な図工の時間、新潟港の写生にでかけた時、私の絵の具は赤、青、茶、黒のチューブしか残っていなかった。ヤケな気分で、4色だけ使いわけて、港のスケッチを済ませた。私は、本来、当時の少年雑誌を風靡(ふうび)していた人気絵物語の影響で、細かい絵が好きで自信があるつもりだったのだが、色数が少なくてはそのテクニックは披露できない。そんな訳で、くやしまぎれのやけくそタッチで描いた。港の破船を荒っぽい筆遣いで茶色に塗り、空と海を同じ色で塗りたくって、船体のあちこちを赤と黒で彩って、おしまいにしておいた。ところが、その絵が全校の図画コンクールで第1席になってしまった。“ヒョウタンからコマ”である。本意のある絵ではなかったから、私の嬉しさは、さほどのものではなかったが、図工の成績でいくらか先生から「ホウ!?」という目で見られたこと、差別意識が強かった級友たちからも、驚きの目でみられたことが、この絵の賞が私にもたらしてくれた利点と言えた。」

と回想している[25]

赤塚が14歳になったその年の暮れに父親が舞鶴港に帰国するが過酷なシベリアでの抑留生活や日本の敗戦などで権威を失い、栄養失調による水疱でかつての面影もなくし、動作がのろくなって食欲が異常に強くなり台所を度々荒らしてしまうなど以前とは全く違うような人物になっていたという。母親を除いた父親と3人兄弟の4人一家は父の出身地であり赤塚の本籍地であった新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)809番地に移り、赤塚は四ツ合中学校(現・新潟市立潟東中学校)へ転入し、父親は農業協同組合職員の職を得て彼の実家近くにあった 法讃寺(父の実家である赤塚家はこの寺の檀家であったらしく、後に赤塚の両親が死去した際この寺で葬式が行われた)に月100円で納屋を間借りをして生活を始めたが、やはり赤塚一家は「外地から戻ったもてあまし者として、排他的な農村では心底とけこむことは出来なかった」という[25]

1952年(昭和27年)に赤塚は中学校を卒業したが、家庭の金銭的な事情から高校進学を断念し、映画看板を制作する新潟市内の看板屋小熊塗装店[19]に就職した。ドラム缶を塗る仕事の他、映画看板の制作に携わっていた由縁から花月劇場という映画館の管理人と仲良くなったおかげで映画を無料で鑑賞できる事となり[19]、このときバスター・キートン駅馬車チャーリー・チャップリン喜劇に感銘を受けたという[4][24][26]。この時期に『漫画少年』への投稿も始めた。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、この頃から自分の絵柄を模索し始めるようになる。

18歳だった1954年(昭和29年)頃(『マンガをはみだした男 赤塚不二夫』では1953年〈昭和28年〉)に父親の頼みもあって上京し、父親の友人の紹介で就職した東京都江戸川区小松川エビス科学工業所という化学薬品工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人に参加。この同人の東京支部に長谷邦夫よこたとくおがいた。また既にプロの漫画家だったつげ義春が同じく赤塚の漫画に興味を持ち、しばしば遊びに来るようになった(投稿欄に住所も載せる緩やかな時代だった)[27]

『漫画少年』の突然の休刊後、つげからプロへの転向を勧められ、一人では心細いとよこたを誘い、よこたと西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動する事となる。つげの仲介で曙出版と契約を交わし[注釈 1]1956年(昭和31年)6月、描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー[24]

トキワ荘時代編集

同年、上京した石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。のちに赤塚の母も上京し、しばらくの間同居した[28]。赤塚の母は向かいの部屋に住んでいた水野英子を非常に気に入り、事あるごとに結婚を勧めたという。当時、赤塚はトキワ荘一の美青年として認識されていた[注釈 2]。後年のイメージとは異なる、シャイで穏やかな赤塚青年の姿は、トキワ荘を描いた様々な作品で一致している。

当時の赤塚は少女漫画の単行本を3、4ヶ月に一冊描く貸本漫画家であり、原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にあった。将来を悲観して漫画家廃業を考え、新宿のキャバレーの住み込み店員になろうと思った時期もあったが、安孫子素雄に「一応テラさんに相談してみたら」と勧められ、トキワ荘のリーダー的存在で兄貴分として慕われていた寺田ヒロオに相談。すると寺田から「ちょっと待て。これのある間は、ここにいろ。なくなっても、もし漫画家として売れていなかったら、キャバレーでもどこへでも行けばいい」と現金5万円を渡される(当時の国家公務員初任給は9200円)[29]。またこの時期、石森のおごりで映画を浴びるほど観て、その経験が後の作品に活かされることになった。

1958年(昭和33年)、作家不足に陥った『少女クラブ』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか[注釈 3][30] 名義で作品を発表した。

合作の楽しさから、続いて石森と水野英子との合作ペンネーム「U・マイア[注釈 4][30] で『赤い火と黒かみ』『星はかなしく』『くらやみの天使』を合作し発表。

同年、ちばてつやの代原にトキワ荘の石森は赤塚を推薦し[28]秋田書店の名物編集者として知られる壁村耐三は赤塚に読切漫画を依頼。『まんが王』(秋田書店)1958年11月号にギャグ漫画「ナマちゃんのにちよう日」を発表し、同年12月号より「ナマちゃん」のタイトルで赤塚に無断で連載が決定する。1961年(昭和36年)、当時21歳だったアシスタントの稲生登茂子との結婚のためにトキワ荘を退去[31]

その間に、横山光輝の出張アシスタントをつとめたこともある[32]

フジオプロ設立編集

1962年(昭和37年)、『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となる。1964年(昭和39年)、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。1965年(昭和40年)、長谷邦夫古谷三敏横山孝雄[33]高井研一郎等と東京都新宿区十二社フジオ・プロダクションを設立。赤塚不二夫は、アシスタント制度は自分が最初に導入したと述べている[19]。この年に長女のりえ子が誕生[34]。また1963年に、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加[注釈 5]1966年(昭和41年)には『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作により毎日放送NET(現:テレビ朝日)系でテレビアニメ化され、赤塚が監修として関わっている他、主題歌2本の作詞も手掛けている。

1967年(昭和42年)には『週刊少年マガジン』(講談社)にて「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』にて「もーれつア太郎」を発表して天才ギャグ作家として時代の寵児となる。1969年(昭和44年)に『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』、1971年(昭和46年)に『天才バカボン』と、代表作が相次いでテレビアニメ化された。以後2010年現在までに『天才バカボン』は4度、『ひみつのアッコちゃん』は3度、『おそ松くん』『もーれつア太郎』が2度にわたりテレビアニメ化されている。『バカボン』の第1作のアニメ化の際に「パパが無職なのは子供番組として良くない」というテレビ局の要請で植木屋と無断で設定された際には「パパは無職(バガボンド=放浪者)でないといけない」としている赤塚を失望させたと言う。そのために2回目のアニメの際に赤塚は拒否するはずだったと言い、原作に忠実=パパが無職と言うことで「元祖」と言うタイトルを付けており、ED「元祖天才バカボンの春」の作詞も手がけている。

1970年(昭和45年)3月、母親が不慮のガス爆発事故で入院。一命は取り留め一時退院するものの、ショックからクモ膜下出血を発症して再入院となりその後容態が急変するも赤塚の懸命の呼びかけで再び息を吹き返すが、脳死状態となり8月20日に59歳で死去した[35]。この年に妻と別居状態となり、12月にはスタジオ・ゼロが事実上の解散となった。

1971年(昭和46年)5月、既に『少年サンデー』での新連載が決まっていたものの赤塚は既にアメリカに在住していた森田拳次との約束と『MAD』編集部への取材との口実で、長谷、滝沢解、そして当時交際していた愛人の女性とともに渡米。2か月間滞在し、入稿締め切りが迫る中でサンデーの担当編集者である武居俊樹宛てに新連載のタイトルが入った旨を記した手紙と自由の女神との記念写真を送り付ける。そのタイトルが『レッツラゴン』で、写真はそのまま扉絵として使用されその後3年にわたり連載される。当初の設定は次第に有形無実となり、劇画や文芸作品までも茶化し武居が「タケイ記者」として作品に登場して赤塚を苛め抜く描写など、ナンセンスを越えたシュールでアナーキーなストーリー展開が連載当時はなかなか理解されなかったという[36][37]。この年、元・スタジオ・ゼロのアニメーター、吉良敬三らとアニメーション制作会社「不二アートフィルム」を設立(1981年、フジオプロより独立)。

1971年(昭和46年)9月25日、『天才バカボン』が日本テレビ系列で放映開始。

1972年(昭和47年)に『天才バカボン』他の作品で文藝春秋漫画賞を受賞。この受賞がきっかけとなり、週刊文春で『赤塚不二夫のギャグゲリラ』の連載がスタートし10年を超えるロングランとなる。

また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌『まんがNo.1』を創刊(元々、まんがNo.1という名前はフジオプロのファンクラブ会報のタイトルだった)。多忙を極める赤塚が編集作業に携わることが不可能だったため、実質的な編集長は長谷が務め、赤塚の荒唐無稽なイメージを伝える事に腐心した。しかし1号につき250万円(一説にはトータルで5000万円)程の赤字を出し、1973年(昭和48年)に6号で休刊[38]

1973年(昭和48年)11月5日に3年の別居生活を経て妻・登茂子と正式離婚[39]

1974年(昭和49年)、「週刊少年マガジン」(1974年1月6日第1号)掲載の特別企画「ギャグ界の独裁者 赤塚不二夫の秘密大百科」において、ギャグの一環として実験的に「山田一郎」とペンネームを改名することを宣言。「週刊文春」(1974年1月7日号)掲載の『ギャグゲリラ』を皮切りに、『天才バカボン』『レッツラゴン』を含む連載中の作品、新連載作品、読み切り作品等、全てのタイトルを同名義で執筆するも、広告サイドから苦情があり、3ヶ月で元に戻した[40](当時はペンネームを戻したのはロクなことが無かったからという)。

一方でこの年の税務署の調査で税金の支払いが長期に渡り滞納していることが発覚。延滞金だけで6,000万円ともされた。原因はフジオプロの経理担当者の横領によるもので被害額は二億円とも言われ、実印まで預け信頼していた人物による裏切りであった。失踪したこの人物は後日逮捕されるが、赤塚はこの人物の将来を考え告訴することはなかった[41]。しかし、横領された二億円の中には古谷三敏や芳谷圭児といったフジオプロ所属の漫画家らのプール金もあり、このトラブルにより古谷、芳谷はフジオプロを退社。それぞれのスタッフを引き連れ、自身らの制作プロダクション・ファミリー企画を設立した(その後、赤塚は古谷、芳谷らの被害額を返済している)。

なお、この年(1974年)にはこれまでのギャグ漫画家としての功績が讃えられ、「週刊少年ジャンプ」にてギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」が設立された。

ステージへの傾倒と長いスランプ編集

1975年(昭和50年)10月6日、『元祖天才バカボン』が日本テレビ系列で放映開始。

この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌5本(『天才バカボン』「週刊少年マガジン」、『のらガキ』「週刊少年サンデー」、『ギャグゲリラ』「週刊文春」、『オッチャン』「週刊少年キング」、『ワルワルワールド』「週刊少年チャンピオン」)、月刊誌7本(『天才バカボン』「月刊少年マガジン」、『赤塚不二夫の歌謡ギャグ劇場』「月刊明星」、『つまんない子ちゃん』「プリンセス」、『らくガキ』「読売新聞 日曜日版」、『ニャンニャンニャンダ』「冒険王」(途中より斉藤あきらによる代筆)、『元祖天才バカボン』「月刊テレビマガジン」(長谷邦夫による代筆)、『おまわりさん』「全電通文化」(途中より北見けんいちによる代筆))の同時連載をこなす一方で長谷邦夫の紹介によりタモリと出会う。

タモリを中枢とする芸能関係者との交流を深める中、1977年(昭和52年)を境に、ステージパフォーマンスに強い関心を示し、傾倒していく。後述の面白グループでの活動を筆頭に数多くのイベントを企画・出演するようになったが、その10年後には「漫画に費やしていたエネルギーをステージで発散してしまった」といった趣旨の発言があり[40]、長いスランプに陥っている事を公言。

1978年(昭和53年)、長らく主力作家として執筆していた「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」での連載が全て終了する。

また、同年の「月刊少年マガジン」12月号でも、『天才バカボン』が終了し、以降、執筆活動は縮小傾向をむかえる。

1979年(昭和54年)、3月31日にっかつ配給による赤塚原案、面白グループ脚本によるロマンポルノ『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』が公開となる。6月23日には赤塚の原案・製作総指揮・脚本、面白グループが製作に関わったコメディー映画『下落合焼とりムービー』が公開。どちらも監督は山本晋也が務め、一部ファンからカルト的な人気を博する。そうした陰で5月17日にフジオプロで赤塚のマネージャーとなっていた父親の赤塚藤七すい臓ガンの転移により71歳で死去している[42]

1982年(昭和57年)、『ギャグゲリラ』の連載が終了。この頃より、酒量が激増する。

1987年(昭和62年)、アルコール依存症に陥った赤塚のサポートを行っていた、写真家の国玉照雄の元アシスタントで、スタイリストの鈴木眞知子と結婚。結婚にあたっては先妻・登茂子が後押しし、保証人になっている[43]。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席した[注釈 6][28]

この年、テレビ東京の『マンガのひろば』枠で『元祖天才バカボン』が再放送され、小中学生を中心に「バカボン」人気が再熱した流れから、翌1988年よりアニメ『おそ松くん』が21年ぶりにリメイクされ、高視聴率をマークする。

その後も『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』(タイトルは『平成天才バカボン』)『もーれつア太郎』が続々とリメイク放映されるとともに、赤塚の手による新作漫画が『コミックボンボン』を中心とする講談社系児童雑誌に連載されるなど健在さを印象付けたが、リバイバル路線が終焉を迎えた1991年(平成3年)頃より更に酒量が増え始める。

以後も治療のため入退院を繰り返すものの回復の兆しはなく、1992年(平成4年)には長年赤塚のアイデアブレーンとして支えてきた長谷がフジオプロを退社[44]

1993年(平成5年)にNHK出版から、亡き父母への愛情と賛歌を綴った自叙伝『これでいいのだ』を刊行。翌1994年(平成6年)、NHKドラマ新銀河枠で連続ドラマ化される。

1997年(平成9年)、第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞[45]1998年(平成10年)、紫綬褒章を受章[46]

1997年(平成9年)6月1日より、静岡県伊東市の池田20世紀美術館で、「まんがバカなのだ 赤塚不二夫展」が開催され、好評を博す。デビュー前の貴重な習作から1990年代初頭までの間に描かれた名作、怪作、およそ200枚に及ぶ美麗な生原稿が展観出来るだけではなく、赤塚自ら肉体を駆使し、挑戦したエドヴァルト・ムンクレオナルド・ダ・ヴィンチエドガール・ドガフィンセント・ファン・ゴッホといった歴史上の画家のパロディ・アートも展示。フロアには、バカボンのパパやイヤミの銅像が所狭しとディスプレイされるなど、美術館本来のイメージをぶち破る赤塚ならではの遊び心とウィットが沸き立った大回顧展となった。その後、この原画展は、上野の森美術館横浜ランドマークプラザ箱根彫刻の森美術館京都美術館えきなど、全国を巡業し、いずれも大入りを記録。特に、上野の森美術館では、期間中65,000人を集客し、ピカソ展やゴッホ展の記録を塗り替え、同美術館の動員新記録を樹立した。

同年12月12日、吐血し緊急入院。精密検査の結果、食道がんと診断され、22日に告知を受ける。医師から「2か月後には食べ物がのどを通らなくなる」と告げられ、「食道を摘出し小腸の一部を食道の代用として移植する」と今後の手術・治療の内容も告げられたが「小腸を食道に使ったら、口からウンチが出てきちゃうんじゃないの。」とギャグで返す気丈さを見せて24日には退院を強行。民間療法での治療を選択する[47]。その後は放射線治療を併行し、一時は腫瘍が消失するが[48]、翌年11月に悪化し再入院。12月に10時間に及ぶ手術を受け、5か月間の長期入院を余儀なくされ、体重は13キロ減少した[49]。しかし酒とタバコはやめられず、退院後のインタビューでは水割りを片手にインタビューを受ける型破りなパフォーマンスを見せた[50][51]。その後も毎月定期的にアルコール依存症治療の「ウォッシュアウト」のため入院を繰り返した[52]

1998年(平成10年)、三作目の「ひみつのアッコちゃん」、1999年(平成11年)、四作目に当たる「レレレの天才バカボン」が、それぞれフジテレビ系、テレビ東京系で放映開始されるが、1980年代後期 - 1990年代初頭の赤塚アニメのリバイバルラッシュの時とは異なり、放送期間に合わせる形で赤塚の手によるリメイク漫画が描かれることはなかった。

2000年(平成12年)8月25日、自宅内で転倒し頭を打つ。数時間後に言葉が不明瞭になったため緊急入院。検査の結果、急性硬膜下血腫と診断される。当初、手術は必要なしと判断されたが、その後右手に麻痺が出たため緊急手術[53][54]、その後は順調に回復し[55][56]、11月1日には退院を果たす[57]。同年、点字の漫画絵本『赤塚不二夫のさわる絵本“よーいどん!”』を発表。ある日テレビで見た視覚障害を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したもので、点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈された。なお、赤塚は同書を少しでも安い価格で提供するためにと、著作権料(印税)を辞退している[58][59][60]

2001年(平成13年)2月8日、快気祝いを兼ねた新年会「赤塚大センセイを囲む会」が都内ホテルで催された[61]。当初身内だけの予定が、漫画家仲間を含め約100名が駆け付ける「騒ぎ」に発展。相変わらず水割りを手離さずに新作の構想を語る様子が報道された[62]

晩年編集

2002年(平成14年)4月10日、検査入院中にトイレで立とうとしたところ、身体が硬直し動けなくなる。脳内出血と診断され、5時間に及ぶ手術。これ以降、一切の創作活動を休止する[注釈 7][63]。この年、点字絵本の第2弾『赤塚不二夫のさわる絵本“ニャロメをさがせ!”』を発表。また、小学館からデビュー以降の作品を集めたDVD全集『赤塚不二夫漫画大全集 DVD-ROM』が発売された。2005年(平成17年)からはオンデマンド出版形式で全271巻が販売されている[64]2003年(平成15年)、妻の尽力により青梅市青梅赤塚不二夫会館を設立。館内には幼少時、漫画家になることを決意させるきっかけとなった映画「駅馬車」の看板も飾られている。

2006年(平成18年)7月12日、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急死[65]

2年後の2008年(平成20年)8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院死去した。満72歳だった[66](享年74)。赤塚は2004年から意識不明のまま植物状態にあったという[67]。2008年2月24日にはちばてつやが赤塚を見舞い、写真をブログで公開していた(後に似顔絵に差し替えられた)[68]。また赤塚の死去の3日前の7月30日、前妻でりえ子の母である登茂子が死去していた事が後に報じられた[69][70][71]

赤塚不二夫の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げた他、一般紙も一面で大きく掲載した。また民放各局ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げるなど、その一連の報道は赤塚その人が昭和・平成を通して日本の漫画史に一時代を築いた大漫画家であったことを改めて世間大衆に印象付けることとなった。

また赤塚が才能を見出し、芸能界へデビューさせたタモリは「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉を寄せた[72]。なお「タモリが赤塚の入院費用を全部出していた」という話がインターネットで流布したが、「これは誤りで入院費用は全部パパのお金で賄った。」と娘のりえ子が著書に記している[73]。とはいえ「肉親以上」の関係であることに変わりはなく、りえ子に対しても励ましやアドバイスがあったとのこと。

赤塚の葬儀では藤子不二雄(安孫子素雄)が葬儀委員長を務めることとなり、8月6日通夜、翌7日告別式が東京都中野区内にある宝仙寺で営まれた。喪主は長女・りえ子が務め、告別式には漫画・出版関係者や芸能関係者、ファンなど約1200人が参列し、藤子不二雄、赤塚門下の古谷三敏高井研一郎北見けんいちらが弔辞を読み上げた。タモリは本名の“森田一義”として弔辞を読んだが、この時手にしていた巻紙が白紙であった事が報じられ話題となった[74](項目タモリも参照)。弔辞は「私もあなたの数多くの作品の一つです。」と結ばれている[75]。弔辞を報じる記事の中で「重苦しい陰の世界」と表現されている箇所が各社に出てくるが、これは「重苦しい意味の世界」の間違い[76]アイドル・フォーが歌う「天才バカボン」のアニメ(第1作)のテーマソングが葬送曲として流れる中で出棺、遺体は赤塚の自宅にほど近い新宿区落合斎場で荼毘に付された。法名は「不二院釋漫雄(ふにいんしゃくまんゆう)」[注釈 8]

生前の最後の言葉は、倒れた時に偶然、女性の胸に手が触れて放った「おっぱいだ、おっぱい」。原稿に記した最後の文字は「思い出を積み重ねていくのが人生なのよ.イヤーン!H」[77]

没後編集

2009年(平成21年)、ヒットアニメの原作提供という観点から、東京国際アニメフェア第五回功労賞を受賞。

同年、東京銀座の松屋百貨店を皮切りに、「追悼 赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年」が全国巡業で開催される。

2011年(平成23年)、浅野忠信堀北真希主演による『これでいいのだ!!映画★赤塚不二夫』(監督・佐藤英明)が全国東映系で、2012年綾瀬はるか主演の実写版「ひみつのアッコちゃん」(監督・川村泰祐)が全国松竹系で、それぞれ劇場公開される。

2015年(平成27年)、赤塚不二夫生誕80周年を迎え、その一環として、『天才バカボン』と『フランダースの犬』のコラボレート企画『天才バカヴォン〜蘇るフランダースの犬〜』(監督・FROGMAN)が全国東映系で劇場公開される。

同年9月にはBSプレミアムにおいて過去の赤塚不二夫特集番組の再放送が行われたほか、新作ドキュメンタリー番組の『赤塚不二夫 最後のこれでいいのだ』が制作、放映され、これまで陽の目を見なかった未完成の遺作『ヤジキタ バカ道中』の一部分が初めて一般に公開された。ちなみに、番組中によると、この原稿は何故か自宅のキッチンに無造作に保管されていたという。

また、大人になった『おそ松くん』の六つ子兄弟のその後を描いたアニメ『おそ松さん』も10月からテレビ東京系列にて放映開始し、以後全国で順次放映。イベント開催、記念切手、関連書籍の多数発売など単なる人気作品に留まらず、社会現象を引き起こすほどの人気を博す。赤塚人気としては、二次媒体との連動も含め、近年にない盛り上がりと発展を見せ、2017年(平成29年)に第2期、2020年(令和2年)に第3期が放映される。

2016年(平成28年)4月30日より、赤塚の生涯を追ったドキュメンタリー映画『マンガをはみだした男 赤塚不二夫』(企画プロデュース・坂本雅司/監督冨永昌敬)が、ポレポレ東中野下北沢トリウッドほか、全国にてロードショー公開される。

2020年(令和2年)、青梅赤塚不二夫会館が3月27日を持って閉館される。

人物編集

晩年はアルコール依存症に苦しめられるが、酒に溺れた原因は極度の恥ずかしがり屋であるため、酒なくして人と向き合う事が出来なかった事と自己分析している。また自分よりお酒を飲む人として、たこ八郎壁村耐三滝田ゆうを挙げている[78]。なおアシスタントだった古谷三敏によると、若い頃は一滴も飲めなかったという[79]

家。1979年(昭和54年)から飼った菊千代は、死んだフリやバンザイのできる芸達者な猫でCMに出演、一躍人気者になった。『菊千代』の名前は、黒澤明監督の映画七人の侍』で三船敏郎演じた主人公の名前から採った。赤塚自身も『花の菊千代』(『月刊コロコロコミック』連載)といった漫画を描いた。しかし1997年(平成9年)に菊千代は他界、赤塚自身のみならず周辺のファンをも悲しませた[80]

映画通でありハタ坊のコミカルな動きはバスター・キートンを範としていること、自分でパロディ映画を作ったことがあることなどを明かしている[要出典]。自宅のライブラリーには(当時としては高価で珍しい)大画面モニターと、数千本の映画のビデオがあったという。また、少年時代の夢は喜劇王チャーリー・チャップリンの弟子になることだったという。

バカボンのパパが一番気に入っているキャラクターで、その理由は「どんなに酔っ払っていてもバカボンのパパの顔だけは、ちゃんと描けるから」とのこと。またバカボンのパパが赤塚の実父・赤塚藤七をモデルにしている[81]こともあり、晩年は赤塚本人がパパのコスプレをする事が多かった。同じく『おそ松くん』の母親・松野松代のモデルは赤塚の実母・リヨとされ、自身の少年時代を回顧する作品での実母が松代の顔で描かれる。

ひみつのアッコちゃん』の主人公・加賀美あつ子と『おそ松くん』のトト子が似ていることについて、1989年に発行されたコミック本のあとがきで指摘された際、赤塚自身は「そんなわけないだろ」などと逆ギレ気味に反論している。ただし、一方で赤塚が生前「トト子イコールアッコ」という趣旨の発言を残していたらしい、とも伝えられている。

山下洋輔らジャズメンとの交流からジャズ好きかと思われがちだが、赤塚はジャズを一切聴かず、歌謡曲好き・美空ひばり好きだった。水木しげるの娘赤塚不二夫の娘手塚治虫の娘による対談集『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』内でも赤塚がジャズを聴いていないのは謎だとネタにされているが、これは『おそ松くん』内でイヤミがジャズを使ったギャグを言っているコマを見たジャズ評論家の相倉久人(山下の師匠的存在)が新宿ピット・イン機関紙に赤塚に寄稿してもらおうとフジオプロに訪問したのがきっかけで赤塚と山下洋輔の交流が生まれたからである(件のイヤミのギャグは長谷邦夫発案によるものであり、赤塚の寄稿の話はなくなったが、この相倉の来訪をきっかけに長谷がピット・インに入り浸るようになり、その後、赤塚も山下洋輔の一派の面白さを聞きつけ、山下に会うためにジャズ関連の場所を訪れるようになった)。

1968年(昭和43年)、NHKの漫才コンクールで、志賀あきら榎本晴夫コンビに「求む!秘書」という台本を書き下ろし、準優勝という好成績を収めた。また、この時の様子は『お笑い招待席』(1969年6月7日放送)で放映されている[82]

1973年(昭和48年)にはロック・ミュージシャンの内田裕也との交友から、日本ロックンロール振興会会長なる役職に就き、その流れで、矢沢永吉率いる人気ロック・バンドキャロル私設応援団団長を、赤塚自ら名乗り上げ、務めた[83]

1982年(昭和57年)、写真家・荒木経惟との交友から、『写真時代』(白夜書房)9月号の巻頭グラビアで、漫画家としては初となるハードコア男優を務め、ファックシーンを披露した(荒木撮り下ろしの写真集『別冊噂の真相 荒木経惟の真相』所載)。

2010年(平成22年)、誕生日である9月14日Googleのロゴマークに赤塚作品のキャラクターが描かれた[84][85][86]

名和広著『赤塚不二夫大先生を読む 「本気ふざけ」的解釈 Book1』によると、一個人による漫画家の単行本の発行部数が初めて1000万部を突破したのも赤塚だと言われており[87]曙出版講談社より刊行された『天才バカボン』の単行本だけで1000万部を売り上げたとされている[88]

またデビュー以来付き合いがあった曙出版の社長は赤塚と同じく新潟県出身で、のちに売れっ子になった赤塚は貸本時代にお世話になった恩から曙出版で単行本を出すことを了承[89]。曙出版はその後『おそ松くん全集』の初版だけで文京区に7階建てのビルを建てるまでに成長し[90]、他に出た赤塚単行本も含めると1500万部以上を売り上げる大ヒットを記録する[91]。しかし、連載元の出版社がこれを問題視し、今後赤塚の新刊を出す場合は著作権使用料を支払うよう曙出版に命じたため、1977年の『天才バカボン』31巻を最後に新刊を出せなくなり、以降は再版のみになる[92]。その後、曙出版の社長が死去した際、赤塚は真っ先に葬儀に駆けつけ、荼毘にふされた社長に泣きながら何度もお礼を言っていたという。しかし、その帰り際、赤塚は靴を履き間違えて帰っていき、弔問客の笑いを誘った[93]。これは湿っぽい雰囲気を変えようとした赤塚流の粋な計らいだったという[94]

芸能界での交流編集

1967年、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビ司会を、黒柳徹子と共に担当[95]。これを機に、赤塚の交流は各界に広がった。後に受章する紫綬褒章は荒木経惟に贈っている。

1970年代半ばには山下洋輔等を介して素人芸人時代のタモリと出会う。タモリの芸を認めた赤塚は大分県日田市ボウリング場の支配人であったタモリを上京させ、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、のちの芸能界入りに大きな貢献をした。またタモリや高平哲郎滝大作らと「面白グループ」を結成した[注釈 9]。高平からは由利徹を紹介され、赤塚は終生、由利徹を敬愛し[注釈 10]、由利の弟子だったたこ八郎が赤塚家の居候となっている。

テレビアニメドラマ映画などの音響効果や選曲を手掛けていた音響技師の“赤塚不二夫”は赤塚のペンネームと同姓同名の別人だが、2人の間には親交があった(詳細は「赤塚不二夫 (音響技術者)」を参照)。

全日本満足問題研究会編集

1976年から、『週刊読売』誌上で「全日本満足問題研究会」(赤塚、赤瀬川原平奥成達高信太郎、長谷)と名乗り、「バカなことを真面目にやる」連載を行った。1978年には、赤塚不二夫と全日本満足問題研究会と名称を変え、レコード『ライヴ・イン・ハトヤ』を発表。

ライヴ・イン・ハトヤ編集

伊東市のホテル、ハトヤのステージでライブコンサートをやったらどうなるかという設定で作られた。 赤塚も「駅前ブルース」「想い出のベニス」という二曲の歌唱を務めた。

  • 出演:赤塚不二夫/赤瀬川原平/長谷邦夫/奥成達/高信太郎/タモリ/山下洋輔/坂田明/小山彰太/林美雄/常木健男/伊東鳩子/ハトヤ混声合唱団/下落合テンタクルス/ハトヤ男子従業員一同/ビクター女子従業員一同/ハトヤ・ダンシングチーム/ハトヤ・オールスターズ
  • 指揮:佐香裕之
  • スタッフ:構成・演出:高平哲郎/音楽:小林亜星、佐香裕之/舞台監督:新井龍夫、星野ジロウ/美術:赤塚不二夫/音響効果:赤塚不二夫(同姓同名のスタッフ)/セットデザイン:茂木のぶお/写真:国玉照男/録音:寺尾寿章、佐藤晋/振付:滝大作/制作:全日本満足問題研究会/協力:伊東ハトヤ、面白グループ、協和広告(株)

面白グループ編集

タモリや高平、滝らと結成したグループ。

  • 1977年3月、タモリの初LPの完成記念キャンペーンとして、タモリと東京ヴォードビル・ショーの共演によるショー「タモリ・ヴォードビル・ウィーク」を企画・制作。
  • 1977年10月29日、渋谷公会堂で『輝け!第一回いたいけ祭り』というタモリや赤塚の“宴会芸”を見せるイベントを行うが赤字。奥成達編集で書籍『空とぶかくし芸』が刊行され(赤塚は表紙イラストや本文イラストを担当)、赤字を埋めた。
  • 1979年3月、日活ロマンポルノにて監督:山本晋也、脚本:面白グループ、主演:柄本明、主題歌:所ジョージ、音楽:アルフィーで“赤塚不二夫のギャグ・ポルノ”として『気分を出してもう一度』を製作・公開。また同年6月、東映系でアメリカのコメディー映画『ケンタッキー・フライド・ムービー』に倣った『下落合焼とりムービー』を監督:山本晋也、脚本・出演:面白グループで製作・公開。
  • 1981年、当時、下森真澄と宮村優子の共著で女子大生の赤裸々な本音を綴り、女子大生ブームの先駆けとなった告白本『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本で、女子大生の本音にオジサンが返答するという内容の『SONO・SONO(ソノソノ)』を、面白グループ名義で刊行し、ベストセラーに。1986年には『ソノソノ』をミュージカル・ショーにして、銀座博品館劇場で『Oh! SONO・SONO(オー・ソノソノ)』を上演した。

上記のもの以外に、赤塚がプロデュースしたイベント、また赤塚をフィーチャーしたイベントには次のようなものがある。

  • マンガ劇画展 赤塚ギャグはここで生まれる!(1970年11月4日 -、池袋・IKEBUKURO東武) マンガ劇画展の一環としてのイベント 原画展のほか、赤塚とフジオ・プロスタッフによる漫画製作の実演も披露
  • 赤塚不二夫1000ページ展(1976年4月2日 -、池袋・西武デパート) 原画展のほか、赤塚とフジオ・プロスタッフによる漫画製作の実演も披露
  • 赤塚不二夫の大忘年会 花の応援団を応援しよう(1976年12月27日、目黒名人会)
  • 赤塚不二夫のステージ・ギャグゲリラ(1977年3月8日、渋谷公会堂
  • 新宿オペラ・カルメン(1977年9月3日 - 9月6日、紀伊国屋ホール
  • ギャグゲリラ バカ田大学ギャグ祭(1977年9月10日 - 9月18日、東横ホール 現・東横劇場
  • とんでるカントリー王国(1983年8月6日 北海道士幌町) 熱気球による町おこしイベント 赤塚は大統領、たこ八郎は副大統領にそれぞれ就任
  • カムイ・トラノ83 屈斜路湖JAZZフェスティバル(1983年7月、屈斜路湖畔国立公園内)
  • ザ・赤塚不二夫 おそ松くん わんぱくランド(1988年8月10日 - 22日、横浜そごう) おそ松キャラをフィーチャーしたアトラクションのほか、原画も多数展示 8月14日は赤塚不二夫まんが教室を開講
  • 追悼 赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年(2009年 -、銀座松屋百貨店) 後に全国を巡業
  • 赤塚不二夫生誕80周年 赤塚キャラ誕生のひみつ展(2015年6月19日 - 10月4日、明治大学米澤嘉博記念図書館)

「赤塚不二夫」を演じた俳優編集

参考文献編集

  • 赤塚藤七:『星霜の記憶』フジオ・プロ、(1972年12月)。
  • 赤塚不二夫:『笑わずに生きるなんて―ぼくの自叙伝』中央公論社(中公文庫)ISBN 978-4122011076 (1984年3月)。
  • 赤塚不二夫:『ラディカル・ギャグ・セッション 挑発する笑いの構造』(1988年、河出書房新社)。
  • 赤塚不二夫:『これでいいのだ―赤塚不二夫自叙伝』文春文庫 ISBN 978-4167753276 - ※(1993年)、NHK出版刊による単行本の文庫収録版。
  • 長谷邦夫:『ギャグにとり憑かれた男―赤塚不二夫とのマンガ格闘記』(1997年、冒険社) ISBN 4938913151
  • 長谷邦夫:『漫画に愛を叫んだ男たち トキワ荘物語』(2004年、清流出版ISBN 4860290755
  • 武居俊樹:『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』 ISBN 978-4163670805 - ※(2007年)、同じ文藝春秋より文庫版が刊行 ISBN 978-4167717315
  • 文藝別冊 KAWADE夢ムック『総特集 赤塚不二夫 ふしぎだけどほんとうなのだ』(2008年、河出書房新社) ISBN 978-4-309-97714-0
  • 名和広:『赤塚不二夫大先生を読む「本気ふざけ」的解釈 Book 1』(2011年、社会評論社) ISBN 978-4784519040
  • 名和広:『赤塚不二夫というメディア 破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説「本気ふざけ」的解釈 Book 2』(2014年、社会評論社) ISBN 978-4784519118
  • まんがseek・日外アソシエーツ共著:『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、(2003年2月25日初版発行)、ISBN 4-8169-1760-8
  • 山口孝:「赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母」、内外出版社、ISBN 978-4862574763、 (2019年8月31日)。

関連項目編集

  • 赤塚不二夫の作品一覧
  • RIP SLYMEGROOVISIONSが赤塚に触発されたイラストでジャケットデザインを手がける)
  • 赤塚賞集英社が新人ギャグ漫画家発掘の為に創設した漫画賞。赤塚不二夫自身が審査委員長を担っていた)
  • アニメ週刊DX!みいファぷー(要所でニャロメなど赤塚キャラが進行役を務め、平成生まれの子供たちに赤塚キャラを知らしめる役割を担っていた)
  • これでいいのだ!!映画★赤塚不二夫 - 2011年の映画。『週刊少年サンデー』の赤塚担当編集者として35年にわたり交流をもった武居俊樹の回顧録「赤塚不二夫のことを書いたのだ」を大幅に脚色、武居に相当する新人編集者を女性(堀北真希)に置き換え、フィクションを交えて映画化。赤塚役は浅野忠信
  • エポック社 - 1977年から1979年まで発売されたボードゲームシリーズ「まんがゲーム」の第9弾として、「赤塚不二夫の駅前タクシーゲーム」を発売。赤塚自らゲームを作成、ボードやカードにはバカボン一家を始めとした赤塚キャラクターが描かれている。

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 最初、よこたと共に若木書房に持ち込みにいったが、よこたの漫画のみ採用され二件目に行ったのが曙出版である。
  2. ^ 2005年二見書房刊「赤塚不二夫のおコトバ」P.60に「(トキワ荘仲間の中で)オレだけ彼女がいたんだよ。ハンサムだったから」という赤塚の発言が、藤子不二雄によって紹介されている。
  3. ^ 原稿提出日を「今日か明日か」と言うことから「泉鏡花」を連想し、そこをもじって「いずみあすか」となった
  4. ^ 3人ともワーグナーが好きだったためドイツ名の「マイヤー」が候補となり、そこにU(ドイツ読みでウー)を付け「うまいやー」となり3人の頭文字(水野のM、石ノ森のI、赤塚のA)になるようにもじって「U・MIA」、表記をカタカナとし「U・マイア」となった
  5. ^ ただし、赤塚は同社の出版部門のみに属し、アニメーション部門にはノータッチであった。文藝別冊 KAWADE夢ムック「総特集 赤塚不二夫 ふしぎだけどほんとうなのだ」(2008年、河出書房新社)P.249より。
  6. ^ 会見では向かって左から登茂子・不二夫・眞知子・りえ子の順に並んで座り、マスコミに対応した。
  7. ^ 2002年4月|日記2000 〜 2002”. 赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ. 2014年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月16日閲覧。 - 公認サイト内の日記は倒れる前日の記事で終了しており、東京アニメーター学院の入学式で講演を行った事が記載されている。
  8. ^ 漫画好きで知られる麻生太郎自由民主党幹事長(当時)も「あの種のギャグ漫画の草分け的存在で、(イヤミの)『シェー』はじめ、よく笑った。ちょっと残念だ」とコメントした。天才といわれ、その天才さえギャグにした「赤塚不二夫」さん死去”. オフイス・マツナガのブログ!(現役雑誌記者によるブログ日記!) (2008年8月3日). 2014年2月5日閲覧。
  9. ^ ビートたけしも一時的に参加した事があったが(本人の項参照)、グループの雰囲気が肌に合わず離れている。ただし、その後も赤塚の対談集『これでいいのだ。』へ参加したり、バカボンのパパを思わせる扮装を好んで披露したりしている。共演頻度こそ少ないがタモリとも交流を保っており、また所ジョージとは公私に亘っての盟友関係にある。
  10. ^ 武居俊樹・著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(文春文庫・2007年、P244〜245)に「オレ、由利徹、尊敬しているの。あの人、ずうっと、くだらないことやり続けてるじゃない」「オレは由利徹で行く。死ぬまでくだらない漫画描き続ける」という、赤塚の発言がある。

出典編集

  1. ^ “ギャグマンガの王様「これでいいのだ!! 映画☆赤塚不二夫」”. zakzak. (2011年4月4日). オリジナルの2014年6月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140616124730/http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110404/enn1104041541016-n1.htm 2014年6月16日閲覧。 
  2. ^ 赤塚不二夫略歴
  3. ^ 世界大百科事典
  4. ^ a b c 赤塚不二夫インタビュー アーカイブ”. 日本漫画学院. 2008年9月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月12日閲覧。
  5. ^ 赤塚不二夫の満州
  6. ^ マンガ ぼくの満洲
  7. ^ 日の丸旗之助 - マンガ図書館Z(外部リンク)
  8. ^ 赤塚不二夫『これでいいのだ─赤塚不二夫自叙伝』文春文庫、2008年、10-92頁。ISBN 978-4167753276
  9. ^ 赤塚藤七『星霜の記憶』フジオプロ、1972年。
  10. ^ マンガをはみ出した男 赤塚不二夫
  11. ^ a b c d 赤塚不二夫『これでいいのだ─赤塚不二夫自叙伝』文春文庫、2008年。ISBN 978-4167753276
  12. ^ 満州生活写真集「宮岸家族」⑦満州生活写真集「宮岸家族」⑧
  13. ^ 赤塚不二夫、北見けんいちちばてつや 他『ボクの満州―漫画家たちの敗戦体験』亜紀書房、1995年。ISBN 978-4750595245 赤塚不二夫『これでいいのだ─赤塚不二夫自叙伝』文春文庫、2008年、43-46頁。ISBN 978-4167753276
  14. ^ 赤塚不二夫『これでいいのだ─赤塚不二夫自叙伝』文春文庫、2008年、47頁。ISBN 978-4167753276
  15. ^ 引き揚げ、そして祖国へ
  16. ^ 武居俊樹・著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(文春文庫・2007年、P.69〜74)より。
  17. ^ 2008年8月13日付『しんぶん赤旗』掲載・石子順「赤塚不二夫さんを送る」より。
  18. ^ 武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』文藝春秋、2005年。ISBN 4163670807
  19. ^ a b c d e f 『マンガをはみだした男 赤塚不二夫』
  20. ^ 自然体で生きる天才漫画家が話す人間の愛。子どものときは差別なんてしない ―― それでいいのだ! 赤塚不二夫氏
  21. ^ 赤塚不二夫『赤塚不二夫120%―死んでる場合じゃないのだ』小学館、1999年。ISBN 978-4901006095
  22. ^ [六つ子原作「おそ松くん」奈良にゆかり?/奈良 https://mainichi.jp/articles/20160712/ddl/k29/070/643000c](毎日新聞、2016年7月)
  23. ^ 赤塚不二夫が語っていた戦争と差別…終戦時の満州で助けてくれた中国人、日本に帰って受けたイジメと差別 - LITERA(2016年6月)
  24. ^ a b c 赤塚不二夫プロフィール”. Village center. 2000年12月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月12日閲覧。
  25. ^ a b 「青春紀行」『異国の丘新潟』(昭和57年読売新聞大阪本社版掲載)
  26. ^ 赤塚不二夫インタビュー プロフィール”. MEDIA TRASH. 1999年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月12日閲覧。
  27. ^ 手塚治虫とその周辺「つげ義春」
  28. ^ a b c これでいいのだ!! 赤塚不二夫 伝説”. フジテレビジョン (2010年8月29日). 2010年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月12日閲覧。
  29. ^ 藤子不二雄Ⓐ『78歳いまだまんが道を…』、2012年、68頁。ISBN 978-4120043918
  30. ^ a b 石ノ森章太郎 萬画大全集 動画インタビュー 水野英子・丸山昭(元『少女クラブ』編集長)対談(第2回)”. 石森章太郎プロ. 2008年2月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月13日閲覧。
  31. ^ INAX サウンド オブ マイスター:くにまる東京歴史探訪”. 文化放送 (2007年7月2日). 2008年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月13日閲覧。
  32. ^ 『中国の群雄 諸葛孔明(赤塚不二夫 眩しき男たち)』旺文社、1985年1月25日、128-129頁。
  33. ^ トキワ荘・青春物語〜横山孝雄の巻”. 風こぞうのブログ (2012年4月24日). 2014年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月13日閲覧。
  34. ^ “赤塚不二夫さん頑張るのだ!幻の名作を初単行本化”. ZAKZAK. (2004年9月6日). オリジナルの2004年9月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20040906235340/http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_09/g2004090609.html 2014年6月13日閲覧。 
  35. ^ 赤塚不二夫『これでいいのだ―赤塚不二夫自叙伝』文春文庫、2008年。ISBN 978-4167753276
  36. ^ 武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ』文春文庫、2007年。ISBN 978-4167717315
  37. ^ 『レッツラゴン』作品紹介”. 赤塚不二夫公認サイトこれでいいのだ. 2014年6月26日閲覧。
  38. ^ 文化ジャーナル9月号『まんがNo.1』の時代(14)長谷邦夫さん◎インタビュー”. 北島町HOMEPAGE (2007年9月1日). 2007年10月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月13日閲覧。
  39. ^ 武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ』文春文庫、2007年、279頁。ISBN 978-4167717315
  40. ^ a b ラディカル・ギャグ・セッション(1988年、河出書房新社)
  41. ^ 赤塚不二夫というメディア 破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説. 社会評論社. (2014). p. 190-192. ISBN 978-4784519118 
  42. ^ 赤塚不二夫『これでいいのだ―赤塚不二夫自叙伝』文春文庫、2008年、204-208頁。ISBN 978-4167753276
  43. ^ 赤塚不二夫と二人の妻”. 本の話WEB - 文春写真館(文藝春秋) (2009年3月9日). 2013年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月14日閲覧。
  44. ^ 文化ジャーナル9月号 『漫画に愛を叫んだ男たち』(清流出版) 著者・長谷邦夫先生に聞く”. 北島町HOMEPAGE (2004年9月1日). 2005年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月13日閲覧。
  45. ^ 歴代受賞者(日本漫画家協会賞および文部科学大臣賞) 第23回(1994年度) - 第32回(2003年度)”. 社団法人 日本漫画家協会. 2013年12月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月16日閲覧。
  46. ^ “98年秋の紫綬褒章 赤塚不二夫氏が受賞「俺にくれるの?」”. Sponichi Annex. (1998年11月2日). オリジナルの2014年6月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140614051531/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19981102000.html 2014年6月14日閲覧。 
  47. ^ “赤塚不二夫氏「食道がん」なのだ 手術拒否、スポニチに告白”. Sponichi annex. (1998年3月27日). オリジナルの2014年6月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140614034456/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/akatuka/KFullNormal19980327000.html 2014年6月14日閲覧。 
  48. ^ “赤塚不二夫さん がん入院を告白”. Sponichi.Annex. (1999年7月4日). オリジナルの2014年6月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140614050344/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19980704000.html 2014年6月14日閲覧。 
  49. ^ “赤塚不二夫さん がん手術していた 入院5カ月「死んでる暇ない」”. Sponichi Annex. (1999年4月9日). オリジナルの2014年6月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140614051013/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19990409000.html 2014年6月14日閲覧。 
  50. ^ “赤塚不二夫さん 水割りグビグビ 食道がんから復活”. Sponichi Annex. (1999年4月30日). オリジナルの2014年6月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140614045931/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19990430000.html 2014年6月14日閲覧。 
  51. ^ “お別れなのだ 赤塚不二夫さん死去”. 朝日新聞. (2008年8月3日). オリジナルの2014年6月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140614040012/http://www.asahi.com/special/08-09/news2/TKY200812050244.html 2014年6月14日閲覧。 
  52. ^ “赤塚さん がん闘病中も酒を手放さず…”. Sponichi Annex. (2008年8月3日). オリジナルの2008年10月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081019131328/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/akatuka/KFullNormal20080803135.html 2014年6月14日閲覧。 
  53. ^ “赤塚不二夫さん 開頭手術・さすがに断酒なのダ”. Sponichi Annex. (2000年9月12日). オリジナルの2014年6月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140614053003/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal20000912000.html 2014年6月14日閲覧。 
  54. ^ 2000年8月|日記2000 〜 2002”. 赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ. 2014年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月16日閲覧。
  55. ^ 2000年9月|日記2000 〜 2002”. 赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ. 2014年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月16日閲覧。
  56. ^ 2000年10月|日記2000 〜 2002”. 赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ. 2014年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月16日閲覧。
  57. ^ 2000年11月|日記2000 〜 2002”. 赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ. 2014年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月16日閲覧。
  58. ^ “赤塚不二夫氏 目の見えない子にもギャグを… 点字絵本なのだ”. Sponichi Annex. (2000年8月12日). オリジナルの2014年6月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140615043726/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal20000812000.html 2014年6月15日閲覧。 
  59. ^ 武居俊樹・著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(文春文庫・2007年、P350〜351)より。
  60. ^ 2001年5月5日放送「美と出会う」漫画家 赤塚不二夫〜ギャグのココロは愛なのだ〜(NHK教育)より。
  61. ^ 2001年2月|2000〜2002”. 赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!!. 2014年6月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月14日閲覧。
  62. ^ “赤塚不二夫氏 元気に新年会なのだ!”. Sponichi Annex. (2001年2月9日). オリジナルの2014年6月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140614054139/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal20010209000.html 2014年6月14日閲覧。 
  63. ^ “赤塚不二夫さん 脳内出血で手術していた”. Sponichi Annex. (2002年4月21日). オリジナルの2014年6月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140614054540/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal20020421000.html 2014年6月14日閲覧。 
  64. ^ 漫画販売・無料立ち読み|絶版マンガを復刊! コミックパーク”. コミックパーク. 2014年6月14日閲覧。
  65. ^ “赤塚不二夫さんの妻、眞知子さんがまさかの死”. ZAKZAK. (2006年7月25日). オリジナルの2007年2月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070227205635/http://www.zakzak.co.jp/gei/2006_07/g2006072501.html 2014年6月13日閲覧。 
  66. ^ “漫画家 赤塚不二夫さん死去”. スポーツ報知. (2008年8月2日). オリジナルの2008年8月5日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080805080148/http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20080802-OHT1T00270.htm 2014年6月13日閲覧。 
  67. ^ なぎら健壱FC会報
  68. ^ お見舞いで”. ちばてつや『ぐずてつ日記』 (2008年2月24日). 2008年4月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月5日閲覧。
  69. ^ “赤塚不二夫さん通夜にタモリら1200人参列”. nikkansports.com. (2008年8月7日). オリジナルの2012年1月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120127045208/http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20080807-392711.html 2014年2月4日閲覧。 
  70. ^ 赤塚不二夫”. ちばてつや『ぐずてつ日記』 (2008年8月3日). 2009年2月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月5日閲覧。
  71. ^ “赤塚不二夫さん死去の3日前に前妻が病死”. nikkansports.com. (2008年8月3日). オリジナルの2008年8月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080806025222/http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20080803-391174.html 2014年6月14日閲覧。 
  72. ^ “タモリ、赤塚不二夫さんへコメント「先生、ありがとうございました」”. スポーツ報知. (2008年8月2日). オリジナルの2009年8月31日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090831152907/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20080805-OHT1T00034.htm 2014年2月4日閲覧。 
  73. ^ 赤塚りえ子(著) 『バカボンのパパよりバカなパパ 赤塚不二夫とレレレな家族
  74. ^ “ギャグで約8分赤塚弔辞 タモリが明かす真相”. J-CASTニュース. (2008年8月19日). オリジナルの2011年2月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110226070238/http://www.j-cast.com/2008/08/19025350.html 2014年2月4日閲覧。 
  75. ^ “タモリさんの弔辞(全文) 赤塚不二夫さん告別式”. 47NEWS. (2008年8月7日). オリジナルの2013年6月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130604225924/http://www.47news.jp/CN/200808/CN2008080701000680.html 2014年2月4日閲覧。 
  76. ^ 赤塚不二夫(KAWADE夢ムック 文藝別冊)
  77. ^ NHK BSプレミアムこれが最後の「これでいいのだ!」〜赤塚不二夫 最後のマンガ〜』2015年9月24日初回放送
  78. ^ 赤塚不二夫の「これでいいのだ!!」人生相談
  79. ^ 漫画家・古谷三敏が語る 手塚治虫と赤塚不二夫の酒の思い出
  80. ^ “赤塚不二夫氏の“長男”菊千代 大往生”. Sponichi Annex. (1997年10月11日). オリジナルの2014年6月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140623023229/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special//akatuka/KFullNormal19971011000.html 2014年6月23日閲覧。 
  81. ^ パパの質問コーナー”. 赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!!. 2007年2月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月14日閲覧。 - 「片眼のジャックさん」からの質問
  82. ^ 赤塚不二夫編集*ギャグ漫画ファン誌*「まんがNo.1」第7号(1968年3月発行)p.32
  83. ^ 名和広『赤塚不二夫大先生を読む 「本気ふざけ」的解釈 Book1』p.290
  84. ^ “祝・赤塚生誕75周年。Googleロゴがバカボンバージョン”. コミックナタリー. (2010年9月14日). オリジナルの2012年7月15日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/sGht 2014年6月13日閲覧。 
  85. ^ “祝・赤塚生誕75周年。Googleロゴがバカボンバージョン / 2010年9月14日現在のGoogleトップページ。”. オリジナルの2014年2月5日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/1OjML 2014年6月13日閲覧。 
  86. ^ Google Doble アーカイブ
  87. ^ 『赤塚不二夫大先生を読む「本気ふざけ」的解釈 Book1』p.30
  88. ^ 名和広のツイート 2014年12月5日
  89. ^ 名和広のツイート 2017年10月26日
  90. ^ 名和広のツイート 2014年12月5日
  91. ^ 名和広のツイート 2014年12月5日
  92. ^ 名和広のツイート 2014年12月5日
  93. ^ 名和広のツイート 2014年12月5日
  94. ^ 名和広のツイート 2014年12月5日
  95. ^ コミックパーク特別企画〜赤塚ギャグの合奏者たち 第1回 五十嵐隆夫さん”. コミックパーク. 2006年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月13日閲覧。
  96. ^ 番組エピソード 父と子の絆を描く【父の日ドラマ特集】 -NHKアーカイブス

外部リンク編集