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邦寿王

賀陽宮邦寿王から転送)

邦寿王(くにながおう、1922年大正11年)4月21日 - 1986年昭和61年)4月16日)は、日本の元皇族陸軍軍人。最終階級は陸軍大尉賀陽宮恒憲王の第1王子。

邦寿王
HIH Prince Kaya Kuninaga.jpg
少年時代の邦寿王
続柄 賀陽宮恒憲王第一王子
身位 皇籍離脱
敬称 殿下→皇籍離脱
出生 1922年4月21日
日本の旗 日本 東京府
死去 (1986-04-16) 1986年4月16日(63歳没)
中華民国の旗 中華民国 台北市
配偶者 津雲龍子
父親 賀陽宮恒憲王
母親 恒憲王妃敏子
役職 陸軍大尉
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目次

生涯編集

1941年7月、陸軍士官学校(55期)を卒業。陸軍少尉に任官する。大尉時代には早淵四郎中将のもとで豊橋第一陸軍予備士官学校の教官を務め、精神訓話と戦術の講義を担当した。1942年4月、満20歳に達したため、貴族院の皇族議員となる(1946年5月23日まで[1])。1942年から南方を転戦。陸軍大尉として敗戦を迎える。

復員後、1946年京都大学経済学部に入学。大学在学中、1947年10月14日、11宮家の皇籍離脱が行われ、賀陽邦寿(かや くになが)となり、公職追放となる[2]1950年に京都大学経済学部卒業。東京銀行日本国土開発などへの勤務を経て、後に賀陽会(かようかい)を主宰、賀陽政治経済研究所を設立し、所長となった。また、第8回参議院議員通常選挙1968年7月7日投票)に全国区から立候補したが落選した大日本居合道連盟初代会長を務めた。[3]。1986年(昭和61年)4月16日、心筋梗塞のため旅行中の台湾で客死。

血縁編集

逸話編集

京都大学在学時、大工の娘で祇園舞妓・南洋子と深い仲となり結婚を決意するが、両親の大反対と洋子が結核に冒されたことで諦める。洋子の存命中、邦寿には別の恋人ができた[4]。それは深川富岡町の料亭の一人娘の長島マリ子であった[4]。マリ子は当初、久邇朝融とも併行してつきあっていた[4]

心配した両親から津雲龍子と強引に結婚させられたが、邦寿は結婚に際し「洋子の病気が治ればすぐに離婚しよう。龍子には気の毒だが指一本触れまい」との決意で臨んでいた。龍子は新婚旅行にも連れて行かれず、入籍も先延ばしにされた[5]。結局洋子は1952年7月27日に死去したが、その後も邦寿の気持ちが変わらなかったため、龍子は1955年春に離婚した[6]。龍子は義母の賀陽敏子から「本当にすまなかったねぇ、あなたの半生を台無しにして。申し訳なさで言葉もないわ、どうぞ幸せな第二の人生をみつけてください」とのお詫びと励ましの言葉を受けて、龍子は処女のまま賀陽家を去った[7]

皇籍離脱後、「石ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子 巻8 1418)を揮毫し、この歌の石碑が春日宮天皇陵(志貴皇子の陵墓)前に設置されている。

脚注編集

  1. ^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
  2. ^ 『朝日新聞』1947年10月17日二面。
  3. ^ 大日本居合道連盟 連盟について、2012年8月4日閲覧。
  4. ^ a b c 河原敏明『天皇家の50年』p.131
  5. ^ 河原敏明『天皇家の50年』p.133
  6. ^ 河原敏明『天皇家の50年』p.134
  7. ^ 河原敏明 『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』 講談社、2004年、193-214頁

関連項目編集

外部リンク編集