逸見 猶吉(へんみ ゆうきち、1907年9月9日 - 1946年5月17日)は日本の詩人童話作家。本名は大野四郎。画家としては、士路と号する。新聞記者の和田日出吉は兄、その妻の木暮実千代は兄嫁にあたる[1]。また、弟の大野五郎は画家[1][2]

1938年ごろ、大連にて(藤原定撮影)

詩は寡作[3]。没後1966年に編まれた定本詩集には初期詩篇を含めて78作。『詩と詩論』、『文藝汎論』、『歴程』などの雑誌に寄稿する[注釈 1]。『歴程』創刊時の同人の1人である[注釈 2]

生涯

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1907年茨城県猿島郡古河町(現・古河市)に生まれる[4][5]。祖父と父は、ともに足尾銅山鉱毒事件対策の渡良瀬遊水地用地として強制廃村になった栃木県下都賀郡谷中村で村長を務めていた[4][5]1908年東京府北豊島郡岩渕町(現・東京都北区)に移住[要出典]

東京の岩渕尋常高等小学校、暁星中学校を経て、1926年早稲田大学専門部法科に入学。大学在学中の1928年牛込神楽坂でバー・ユレカを経営。この年逸見猶吉を名乗り、1929年、詩誌『学校』に連作詩「ウルトラマリン」第一部「報告」を寄稿、ほかに第二部「兇牙利的」・第三部「死ト現象」を合わせて同年、伊藤新吉編集の『學校詩集』に寄稿。1931年早稲田大学政治経済学部を卒業[注釈 3]。同年、草野心平と詩誌『弩』を発刊するが、1号で終わる。1932年吉田一穂の季刊『新詩論』創刊に参加。同年、時事新報広告代理店万来社に勤務。1935年、『歴程』創刊に参加。同年、飯尾静と結婚。1937年日蘇通信社新京駐在員として満州(中国東北部)に渡る。1939年、満州生活必需品配給会社弘報科に勤務。1940年10月、結成された日本詩人協会結成に参加する。1941年、満州文芸家協会委員を委嘱される。1942年長谷川濬四郎兄弟共訳のウラディミール・アルセーニエフ著『デルスウ・ウザーラ』を装幀する。1943年関東軍報道隊員として満州北部に派遣される。1946年肺結核と栄養失調のため[6]新京(長春)特別市安民区で死去[7][注釈 4]。戒名は長安道猶信士[6]

渡良瀬遊水地の一角にある「旧谷中村合同慰霊碑」の傍らに、「ウルトラマリンの詩」の一部を刻んだ詩碑が建立されている[4]

著書

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  • 『児童文学 第2冊』(「火を喰つた鴉」を収める)文教書院、1932年
  • 『現代詩人集3 岡崎清一郎菱山修三藤原定菊岡久利・逸見猶吉・草野心平』山雅房、1940年
  • 『北の護り 関東軍報道隊作品集』(山田清三郎、八木橋雄次郎、大野沢緑郎、筒井俊一、林田茂雄、青木実共著)満州新聞社、1943年
  • 『逸見猶吉詩集』十字屋書店、1948年
  • 『現代日本詩人全集 全詩集大成 第12巻 草野心平・高橋新吉中原中也尾形龜之助八木重吉・逸見猶吉』創元社、1954年
  • 『現代日本名詩集大成 7 草野心平・中原中也・八木重吉・岡崎清一郎・逸見猶吉・尾形亀之助・山之口貘』創元新社、1964年
  • 『定本逸見猶吉詩集』思潮社、1966年

論文

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  • 「東欧ソ連圏の回顧と展望」『ソ連研究』第3巻 5号、1954年

関連文献

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  • 尾崎寿一郎『詩人 逸見猶吉』コールサック社、2011年

脚注

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注釈

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  1. ^ 1933年頃、厚生閣が出版していた季刊『文學』に「牙のある肖像」を発表。これは遺稿として雑誌『風雪』1947年4月號に再録された。なお、題と作者名との間に“Chacun drapé dans sa fierté solitaire-Lautréamont”とある。「牙のある肖像」『風雪』1947年4月號 22-25頁、田村泰次郎「逸見猶吉の死」『風雪』1947年4月號 70-71頁
  2. ^ 創刊号の編集兼発行人は逸見。
  3. ^ 在学中に富名腰義珍の許で空手を学ぶ。田村泰次郎「逸見猶吉の死」『風雪』1947年4月號 71頁
  4. ^ 草野心平からの伝聞によれば、引き揚げの途中に妻と次女は錦州兵営にて死去。他の3人の遺児は孤児となり帰国したが、栄養失調のため入院を要する状態であった。田村泰次郎「逸見猶吉の死」『風雪』1947年4月號 71頁

出典

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  1. ^ a b つぶや記141和田日出吉のこと - 下関市立近代先人顕彰会田中絹代ぶんか館(名誉館長のつぶやき)
  2. ^ 大野五郎 - 八王子市夢美術館
  3. ^ 草野心平「覚え書」『逸見猶吉詩集』十字屋書店、1948年への添書き。
  4. ^ a b c イベントアーカイブ - NPO法人足尾鉱毒事件田中正造記念館(2012年11月11日「第6回学び舎研究会が開催されました」の箇所を参照)
  5. ^ a b 「難解さで埋もれた詩人 逸見猶吉(旧谷中村出身)『兇牙利』に新説」下野新聞2012年2月23日[1]
  6. ^ a b 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)206頁
  7. ^ 『定本逸見猶吉詩集』思潮社、1966年

外部リンク

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