都賀 淸司(つが せいじ、1885年3月25日 - 1946年6月17日)は、日本の俳優、元子役である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。新漢字表記都賀 清司[1][6][7][8][9]津賀 清司都賀 静司と表記に揺れがある[6][7][9]。本名須永 淸三郎(すなが せいざぶろう)[1][3]

つが せいじ
都賀 淸司
本名 須永 淸三郎 (すなが せいざぶろう)
生年月日 (1885-03-25) 1885年3月25日
没年月日 (1946-06-17) 1946年6月17日(61歳没)
出生地 日本の旗 日本 埼玉県大里郡西島村(のちの同郡深谷町大字西島、現在の深谷市西島町)
職業 俳優
ジャンル 舞台劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1924年 - 1933年
配偶者 都賀かつ
著名な家族 都賀静子 (長女)
都賀一司 (長男)
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人物・来歴

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1885年明治18年)3月25日埼玉県大里郡西島村(のちの同郡深谷町大字西島、現在の深谷市西島町)に生まれる[1][2][3]。『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』には本名も芸名に同じとあるが[2]、『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』では改まっている[3]

幼少時から子役として舞台に上がっていた[1]。時期は不明であるが結婚し、東京府東京市本郷区駒込坂下町(現在の東京都文京区千駄木2丁目あるいは3丁目)に在住した満27歳のとき、1912年(明治45年)5月18日に長女・都賀静子が生まれ[1][10]、その後、生年月日は不明であるが長男・都賀一司が生まれている[1]。1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災のため、関西に移り、同年12月までには、兵庫県西宮市甲陽園にあった東亜キネマ甲陽撮影所に入社しており、同月公開された『夕日を浴びて』(監督山根幹人)に出演した記録が残っている[7]。1924年(大正13年)7月31日に公開された『熱血の洗礼』(監督本山裕児)には、娘の静子ともども出演している[6][7][11]。同月、東亜キネマは、牧野省三率いるマキノ映画製作所を吸収合併したが、1925年(大正14年)6月には、牧野が再度独立、御室撮影所を開いてマキノ・プロダクションを設立、都賀は娘とともに、東亜キネマからマキノへ移籍した[6][7][10]。このとき、妻の都賀かつも入社し、結髪係となる[4][12]

1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、都賀は、嵐冠三郎荒木忍南光明根岸東一郎谷崎十郎阪東三右衛門、そして長男の一司らとともに「俳優部男優」に、娘の静子は「俳優部女優」にそれぞれ名を連ねた[13]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)6月、同社解散により退社した[1]。記録に残る同社での最後の出演作は、1930年(昭和5年)11月14日に公開された『信州侠客伝』(監督中島宝三)であった[6][7]。娘とともに東活映画社に移籍していたが[4]、翌1932年(昭和7年)2月には、高村正次立花良介が御室撮影所に設立した正映マキノキネマに参加したが、同社は同年4月には解散しており、出演歴は見当たらない[1][6][7]。同年、高村正次らが同所に設立した宝塚キネマ興行に親子3人で移籍したが、同社も1934年(昭和9年)2月には解散に追い込まれている[1][6][7]。同社の最後は、給料遅配が4か月続き、解散時には50銭しか渡されなかったという[1]

その後、満50歳となった1935年(昭和10年)8月29日に公開された、第一映画社製作、松竹キネマ配給によるトーキーお嬢お吉』(監督高島達之助溝口健二)に出演した記録が残っている[9]が、以降の出演記録が不明である[6][7][9]。妻かつは、1938年(昭和13年)6月15日に公開された東宝映画京都撮影所が製作した『花ちりぬ』(監督石田民三)に、結髪係としてクレジットされている[12]

1946年(昭和21年)6月17日、娘・静子と共に満州からの引き揚げの途中、疫病のため死去した[14]

フィルモグラフィ

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クレジットはすべて「出演」である[6][7]。公開日の右側には役名[6][7]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9][15]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

東亜キネマ甲陽撮影所

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すべて製作は「東亜キネマ甲陽撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[6][7]

マキノプロダクション御室撮影所

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すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[6][7]

宝塚キネマ興行

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すべて製作・配給は「宝塚キネマ興行」、すべてサイレント映画である[6][7]

第一映画社

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製作は「第一映画社」、配給は「松竹キネマ」、トーキーである[16]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k キネマ旬報社[1979], p.365.
  2. ^ a b c 映画世界社[1928], p.63.
  3. ^ a b c d 映画世界社[1929], p.81.
  4. ^ a b c 管家紅葉氏談話立命館大学、2013年5月21日閲覧。
  5. ^ 都賀清司jlogos.com, エア、2013年5月21日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 都賀清司日本映画データベース、2013年5月21日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 都賀清司津賀清司都賀静司、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月21日閲覧。
  8. ^ a b 都賀清司KINENOTE, 2013年5月21日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 都賀清司都賀静司東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月21日閲覧。
  10. ^ a b 都賀静子jlogos.com, エア、2013年5月21日閲覧。
  11. ^ 熱血の洗礼、日本映画データベース、2013年5月21日閲覧。
  12. ^ a b 都賀かつ - 日本映画データベース、2013年5月21日閲覧。
  13. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録立命館大学、2013年5月21日閲覧。
  14. ^ 石割[2000], p..
  15. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年5月21日閲覧。
  16. ^ お嬢お吉、日本映画データベース、2013年5月21日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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