1978年のクラウンライターライオンズ
1978年のクラウンライターライオンズでは、1978年のクラウンライターライオンズの動向をまとめる。
1978年のクラウンライターライオンズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ5位 年間成績:51勝67敗12分 勝率.432 後期5位:23勝36敗6分 勝率.390 前期4位:28勝31敗6分 勝率.471 | |
本拠地 | |
都市 | 福岡県福岡市 |
平和台野球場 | |
球団組織 | |
オーナー | 中村長芳 |
経営母体 | 福岡野球 |
監督 | 根本陸夫 |
« 1977 1979 » |
この年のクラウンライターライオンズは、根本陸夫監督の1年目のシーズンである。
このシーズン終了後、ライオンズの経営権が福岡野球から西武グループに移ったため、クラウンライターライオンズとしての最後のシーズンである。また、平和台野球場を本拠地とした最後のシーズンでもあった。
概要
編集監督が鬼頭政一から根本陸夫に代わったが、ドラフト会議で指名した江川卓(法政大学)に入団を拒否され、更に春季キャンプ中に江田孝コーチが急逝と次から次へと災難が起こる中のシーズン、真弓明信(118試合出場、117安打、8本塁打、38打点、打率.280、遊撃手部門ベストナイン獲得)や立花義家といった若手や、中日から移籍したウィリー・デービスや巨人から移籍(1975年以来の復帰)の伊原春樹の活躍はあったものの、投手陣がエースの東尾修(45試合登板、303.1回、23勝14敗1セーブ、防御率2.94)以外は頼りにならなかった。前期は若手の台頭もあり借金3ながら4位と健闘。だが後期に入ると負けが込んで5位に転落、総合成績でも結局5位に終わった。
そしてシーズン終了後の10月12日、福岡野球が国土計画に経営権を移管する事を発表。これに伴い球団名が「西武ライオンズ」に変更となり、本拠地も福岡県から埼玉県所沢市に移動、1950年以来29年続いた福岡のライオンズの歴史は幕を降ろしたのだった。翌年からは所沢に移転するも坂井保之球団代表と根本監督は続投し、新球団での若手育成及びトレードでの大物獲得に重要な役割を果たしていくことになる。
チーム成績
編集レギュラーシーズン
編集1 | 二 | 吉岡悟 |
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2 | 遊 | 広瀬宰 |
3 | 右 | 立花義家 |
4 | 中 | デービス |
5 | 指 | 土井正博 |
6 | 一 | ハンセン |
7 | 左 | 竹之内雅史 |
8 | 捕 | 若菜嘉晴 |
9 | 三 | 山村善則 |
投手 | 山下律夫 |
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順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 阪急ブレーブス | 82 | 39 | 9 | .678 | 優勝 |
2位 | 近鉄バファローズ | 71 | 46 | 13 | .607 | 9.0 |
3位 | 日本ハムファイターズ | 55 | 63 | 12 | .466 | 25.5 |
4位 | ロッテオリオンズ | 53 | 62 | 15 | .461 | 26.0 |
5位 | クラウンライターライオンズ | 51 | 67 | 12 | .432 | 29.5 |
6位 | 南海ホークス | 42 | 77 | 11 | .353 | 39.0 |
*阪急が前後期完全優勝したため、プレーオフは行わずそのまま年間優勝
オールスターゲーム1978
編集→詳細は「1978年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
ファン投票 | 監督推薦 |
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選出なし | 東尾修 真弓明信 土井正博 |
できごと
編集選手・スタッフ
編集表彰選手
編集リーグ・リーダー |
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受賞者なし |
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
真弓明信 | 遊撃手 | 初受賞 |
土井正博 | 指名打者 | 初受賞[注 1] |
ダイヤモンドグラブ賞 | ||
選出なし |
ドラフト
編集→詳細は「1978年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
順位 | 選手名 | ポジション | 所属 | 結果 |
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1位 | 森繁和 | 投手 | 住友金属 | 入団 |
2位 | 柴田保光 | 投手 | あけぼの通商 | 入団 |
3位 | 山川猛 | 捕手 | 西川物産 | 入団 |
4位 | 黒原祐二 | 投手 | 都城工業高 | 入団 |
脚注
編集注釈
編集- ^ 外野手部門で2度受賞しており、通算3度目。
出典
編集- ^ “西武ライオンズ公式HP 背番号の歴史”. 埼玉西武ライオンズ. 2017年4月22日閲覧。