M-21, M-21M
/ М-21, М-21М

ウクライナ・ヴィーンヌィツャ市にあるM-21Mを用いた記念碑。ウクライナ空軍創立記念として1998年に建てられた。

ウクライナ・ヴィーンヌィツャ市にあるM-21Mを用いた記念碑ウクライナ空軍創立記念として1998年に建てられた。

M-21 (エム 21 ; ロシア語: М-21[注 1][注 2] )は、ソビエト連邦(以下、ソ連)で開発され、ソ連およびウクライナで製造されたターゲット・ドローン( дистанционно-управляемый самолёт-мишень[注 3] )である。型式の М は「標的」という意味の мишень の略号である[注 4]MiG-21Ye (ミグ 21 イェー; МиГ-21Е[注 5][注 6] )とも呼ばれた。旧式化した MiG-21 戦闘機を改修して製造された。使用した母機の違う準同型機も製造され、 M-21M (エム 21 エム;ロシア語: М-21М[注 7][注 8] )、あるいは製品 94M (せいひん 94 エム; Изделие 94М )と呼ばれた。こちらの二つ目の М は、「近代化された」という意味のロシア語の形容詞 модернизированный の略号である[注 9]。ともに、ソビエト連邦空軍(以下、ソ連空軍)の代表的な無人航空機( беcпилотные летательные аппараты, БПЛА )となった。

概要

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開発

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1960年代、ソ連空軍と国土防空軍航空産業省第 155 工場( OKB-155 )製の MiG-21 シリーズを国中に配備したが、新しい発展型の配備に伴い初期型の中には余剰化する機体が出てきた。そこで、これを利用した初めての超音速標的機が開発されることになった。まずは迎撃戦闘機 MiG-21PF を利用した機体を設計することとなり、名称は M-21 とされた。

M-21 の設計は、それまで MiG-17F を利用した M-17MiG-19S を利用した M-19 などの開発実績のあるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国カザーニ市のカザーニ航空工場ロシア語版 およびカザーニ航空研究所ロシア語版 試作設計局( OKB SA )と、同・ジュコーフスキイ市の M・M・グローモフ記念飛行研究所ロシア語版( LII )が共同で行った。

設計

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M-21M の外見上の特徴(識別点)
ウクライナ・ヴィーンヌィツャ市の空軍博物館に展示されている M-21M (2008年)。
背面にアンテナ用の鰭状の膨らみと扁平な膨らみがそれぞれ 1 箇所ずつある。 M-21 で設置されていた垂直尾翼上の大型アンテナ[3]は取り付けられていない。

M-21 は遠隔操作によって操縦されるいわゆるラジコン機であり、操縦士なしでの飛行が可能であった。元が機動性の優れた戦闘機であったため、空中目標を完全に再現できる高機動性標的としてソ連空軍で最も人気のある標的機となった[4]

外見は、各部に取り付けられたアンテナ類を除けば母機と差異はなかった[4]翼平面形は MiG-21 と同じ典型的な尾翼付きデルタ翼で、機首に配された大型の空気取り入れ口の中央に円錐形のショックコーンを配置していた。

コーンの中に設置されていたレーダー TsD-30TP は降ろされ、照準器無線機酸素装置なども廃止された。かわりにオートパイロット AP-17 を用いる操縦自動装置が機首に搭載され、操舵小型機械、赤外線探知目標の投下装置、記録機器が設置された[5] 。記録機器は、撃ち損ないの数と撃墜の事実を記録した。また、外部から軌道を測定するための機上機器と昼間の観測用の照明弾も搭載された。

MiG-21PF が枯渇すると母機を MiG-21PFM に変更した M-21M が開発された。この機体は、舗装された滑走路でなくとも、土の滑走路から離着陸ができた。外見上は、元からの MiG-21PF と MiG-21PFM の相違点以外に、 M-21 とはアンテナの配置が異なっていた。

製造

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M-21 の製造は、航空機修理工場にて1981年から開始された[2]。並行して母機を MiG-21PFM に変えた M-21M も開発され、1985年からウクライナ・ソビエト社会主義共和国リヴィウ市にあるリヴィウ航空機修理工場で製造が開始された[注 10]。 M-21M の生産はソビエト連邦の崩壊後もリヴィウ航空機修理工場で続けられ、2004年に終了した。リヴィウ航空機修理工場では、 M-21 と M-21M 合わせて 150 機が製造された[1]

運用

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ソ連時代に製造された M-21 および M-21M は、ソ連空軍で運用された。これらは、主に高射ミサイル複合の訓練や新しい防空兵装の試験に使用された[6]

ソ連崩壊後、残っていた機体はロシア連邦空軍ウクライナ空軍へ継承された。ウクライナではその後も 12 年にわたって製造が続けられたため、多数の機体が2010年現在も国内へ残されている。いくつかの機体は博物館や広場に展示されているが[注 11]、誤って MiG-21PFM と紹介されることがある[注 12]

仕様

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ギャラリー

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脚注

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注釈

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  1. ^ IPA: [ˈɛm ˈdvatʦətʲ ɐˈdʲin エーム・ドヴァーッツァチ・アヂーン]
  2. ^ ウクライナ語名では M-21 ( М-21 IPA: [ˈɛm ˈdwɑdʦʲɐtʲ ɔ̝ˈdɪn エーム・ドヴァードツャチ・オディーン])。
  3. ^ ウクライナ語では дистанційно-керований літак-мішень 。
  4. ^ ウクライナ語では мішень 。
  5. ^ IPA: [ミーグ・ドヴァーッツァチ・アヂーン・イェー]
  6. ^ ウクライナ語名では MiH-21Ye (ミフ 21 イェー; МіГ-21Є )。
  7. ^ IPA: [ˈɛm ˈdvatʦətʲ ɐˈdʲin ˈɛm エーム・ドヴァーッツァチ・アヂーン・エーム]
  8. ^ ウクライナ語名では M-21 ( М-21М IPA: [ˈɛm ˈdwɑdʦʲɐtʲ ɔ̝ˈdɪn ˈɛm エーム・ドヴァードツャチ・オディーン・エーム])。
  9. ^ ウクライナ語では модернізований 。
  10. ^ Микоян,Гуревич МиГ-21ПФС(ПФМ)”. Уголок неба - Большая авиационная энциклопедия. 2010年9月19日閲覧。 では M-21 は1967年に初飛行し M-21M も1973年には配備されたとしているが、開発元の OKB SA (現試作設計局「ソーコル」)によれば M-21 の量産化は上述のとおり 1981年であり、 M-21M を収蔵・展示するウクライナ航空国立博物館ウクライナ語版によれば M-21M の製造開始は1985年である。試作設計局「ソーコル」によれば同局が無人標的機の開発に着手したのが1968年であるので、 Уголок неба - Большая авиационная энциклопедия の記述には矛盾が生じている。
  11. ^ 2009年現在で、少なくとも以下の機体がそれぞれの場所に保存・展示されていた。
  12. ^ ヴィーンヌィツャ市の空軍博物館では、誤って MiG-21PFM という説明書きを付けている。一方、キエフ市にあるウクライナ航空国立博物館では MiG-21PFM と M-21M の両方を展示しており、後者にはきちんと M-21M としての説明書きを付けている。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h Экспозиция - Дистанционно управляемый самолет-мишень M21M” (ロシア語). www.zhulyany.net - Державний музей авіації України. 2010年9月19日閲覧。
  2. ^ a b История” (ロシア語). Опытно-конструкторское бюро "СОКОЛ". 2010年9月17日閲覧。
  3. ^ Gordon, Yefim、藤田勝啓日本語)『No.76 MiG-21 "フィッシュベッド"』文林堂東京都〈世界の傑作機〉、1999年(平成11年)5月、56頁。ISBN 4-89319-073-3 
  4. ^ a b c d e f g h i j Микоян, Гуревич М-21” (ロシア語). Уголок неба - Большая авиационная энциклопедия. 2010年9月17日閲覧。
  5. ^ МиГ-21” (ロシア語). Современная авиация России. 2010年9月17日閲覧。
  6. ^ Микоян,Гуревич МиГ-21ПФС(ПФМ)”. Уголок неба - Большая авиационная энциклопедия. 2010年9月19日閲覧。
  7. ^ a b Gordon, Yefim; Dexter, Keith (2007) (英語). Mikoyan MiG-21 (Famous Russian Aircraft). Midland: Hinckley. ISBN 978-1-85780-257-3 

外部リンク

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