繁野天来
繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16日 - 1933年〈昭和8年〉3月2日)は、日本の詩人、英文学者。早稲田大学で4人目となる博士号授与者。本名は繁野 政瑠(しげの まさる)、他の筆名に繁野 狂美がある。
繁野天来 | |
人物情報 | |
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全名 | 繁野 天来 |
別名 | 狂美 |
生誕 |
繁野 政瑠 1874年2月16日 徳島市下助任町 |
死没 |
1933年3月2日(59歳没) 慶應義塾大学病院 肺癌 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京専門学校文学科(退学) |
配偶者 | 武子 |
両親 |
父:繁野傑 母:イサ |
子供 |
長男:俊 長女・三保子 次男:純 |
学問 | |
時代 | 明治・大正・昭和 |
研究分野 | 英文学 |
学位 | 文学博士 |
来歴・人物
編集1874年2月16日、現在の徳島市下助任町に、徳島藩士の繁野
徳島市立助任尋常小学校、川島尋常小学校、公立寺島小学校、徳島市立徳島高等小学校を経て、1889年に徳島県立徳島尋常中学校に入学[1]。祖母の死を機に大阪に移り、1891年に大阪市立尋常中学校に転学[2]。在学中に熊本謙二郎から英語を教わる[2][3]。1893年9月に第三高等学校に入学するも、後に病気退学[2][注釈 1]。
1894年9月に東京専門学校文学科に入学[1][注釈 2]。在学中には文芸雑誌『早稲田文学』に幾度か詩を寄稿し、1896年には新体詩研究とその発達を目的とした「新詩会」を結成する[4][5][注釈 3]。1897年3月に家事都合で退学[4][注釈 4]。
1898年5月に北海道に移り、函館毎日新聞の記者となり社会面を担当し、詩や小説を掲載する[6][7][8]。1899年8月に上京した後に京都に移り、12月から真宗京都中学校の英語科教員となる[8]。
1900年に熊谷勝太郎の長女・武子と結婚する[8]。1901年に父・傑が、1905年に母・イサが亡くなる[7][8]。
1905年3月に師範学校中学校英語科教員検定試験に合格し、教員免状を得る[7][8]。1906年1月から茨城県立水戸中学校教諭、1908年1月から愛知県立第二中学校教諭・英語科主任を務める[7][8]。この頃より、ミルトンやメリディスの研究を始める[8]。
1911年6月30日に長男・俊が生まれるも翌年5月に亡くなる[8]。1912年8月20日に長女・三保子が[8]、1915年1月25日に次男・純が生まれる[9]。
1916年5月に台湾に渡り、台北中学校教諭となる[7][9]。この頃、医師に糖尿病と宣告される[9]。
1921年2月に高等学校高等科英語教員検定試験に第一位で合格し[9]、9月に台北中学校を辞して上京[10]。同年9月から早稲田大学大学部・高等師範部講師・早稲田高等学院教授となり、後に1926年12月から早稲田大学高等師範部教授、1927年5月から旧制早稲田大学文学部の教授となる[9]。1932年に博士論文を提出するも、病に倒れて自宅療養を始める。1933年1月28日に慶應義塾大学病院に入院し、肺癌と診断される[11][12][13]。
1933年2月25日に博士論文『ミルトン「失楽園」の研究』により、早稲田大学から文学博士の学位を得る[11][13][注釈 5]。同年3月1日危篤に陥り[13]、翌2日午前7時35分に逝去、享年60歳[15]。3日午前9時から川上博士により病理解剖が行われた[15]。
著書
編集単著
編集- 『教育小説 青葉若葉』 上巻、春陽堂、1903年2月。 NCID BA4912395X。全国書誌番号:41008074。
- 『教育小説 青葉若葉』 下巻、春陽堂、1903年2月。 NCID BA4912395X。全国書誌番号:41008074。
- 『近代英詩法』研究社、1931年5月。 NCID BN15021575。
- 『「失楽園」研究』研究社、1932年11月。 NCID BN04189389。全国書誌番号:47031020。
編集
編集- 『ミルトン失楽園物語』坪内文学博士閲、冨山房〈通俗世界文学 1〉、1903年2月。 NCID BN07760711。全国書誌番号:41003595。
- 『ダンテ神曲物語』坪内文学博士閲、冨山房〈通俗世界文学 10〉、1903年12月。 NCID BA36716256。全国書誌番号:41016487。
- 『絵本失楽園物語』ドレ画、冨山房〈冨山房百科文庫 106〉、1940年3月。 NCID BN15738128。
訳著
編集- クレメンス・デイン『離婚法案』新潮社〈海外文学新選 33〉、1925年11月。 NCID BA57250555。全国書誌番号:43040737。
- ミルトン『失楽園』新潮社〈世界文学全集 5〉、1929年12月。 NCID BN04927934。全国書誌番号:47038385。
- メリディス『エゴイスト』 上、冨山房〈冨山房百科文庫 31〉、1938年11月。 NCID BA38313421。全国書誌番号:47034842。
- メリディス『エゴイスト』 下、冨山房〈冨山房百科文庫 32〉、1938年11月。 NCID BA38313421。全国書誌番号:47034842。
- ミルトン『失楽園』 上巻、大泉書店〈新選世界文学集〉、1948年3月。 NCID BN1086956X。全国書誌番号:46029036 全国書誌番号:49000859。
- ミルトン『失楽園』 下巻、大泉書店〈新選世界文学集〉、1948年3月。 NCID BN1086956X。全国書誌番号:46029036 全国書誌番号:49000858。
- ミルトン『失楽園』 上巻、新潮社〈新潮文庫 335〉、1948年12月。 NCID BN13773172。全国書誌番号:47034866。
- ミルトン『失楽園』 下巻、新潮社〈新潮文庫 336〉、1948年12月。 NCID BN13773172。全国書誌番号:47034866。
- ミルトン 著、繁野陽一、日本ミルトン・センター共 編『力者サムソン』金星堂、1978年9月。 NCID BN03188212。全国書誌番号:78034811 全国書誌番号:90018418。
共著
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 数学を嫌ったためとも言われている[1]。
- ^ 当時、教員には坪内逍遥、大西祝などが、同窓には長谷川誠也、喜安璡太郎などがいた[1]。
- ^ 会員は天来の他、大町桂月、落合直文、佐々木信綱、塩井雨江、杉烏山、武島羽衣、正岡子規、宮崎湖処子、与謝野鉄幹の9人[5]。
- ^ 失恋のためとも言われている[5]。
- ^ 審査員は日高只一(早稲田大学教授)及び吉江喬松(早稲田大学教授・文学博士)[14]。
出典
編集- ^ a b c d e 新井 1978, p. 225.
- ^ a b c 近代文学研究室 1971, p. 226.
- ^ 尾島 1952, p. 107.
- ^ a b 近代文学研究室 1971, p. 304.
- ^ a b c 新井 1978, p. 226.
- ^ 尾島 1952, p. 108.
- ^ a b c d e 近代文学研究室 1971, p. 305.
- ^ a b c d e f g h i 新井 1978, p. 228.
- ^ a b c d e 新井 1978, p. 229.
- ^ 近代文学研究室 1971, p. 306.
- ^ a b 近代文学研究室 1971, p. 307.
- ^ 尾島 1952, p. 112.
- ^ a b c 新井 1978, p. 234.
- ^ 「校報 学位授与」『早稲田学報』第457巻、早稲田大学校友会、1933年3月10日、12-17頁。
- ^ a b 近代文学研究室 1971, p. 308.
参考文献
編集- 岸本満子「繁野天来」『学苑』第14巻第8号、昭和女子大学光葉会、1952年9月1日、36-45頁、NAID 40000441003。
- 尾島庄太郎「繁野天来」『英文学』第4巻、早稲田大学英文学会、1952年10月4日、107-112頁、NAID 40000205025。
- 昭和女子大学近代文学研究室編「繁野天来」『近代文学研究叢書』 第34巻、近代文化研究所、1971年7月25日、301-335頁。
- 新井明 著「天来繁野政瑠年譜」、繁野陽一 編『繁野天来・完訳遺構 ミルトン 力者サムソン』近代文化研究所、1978年9月30日、225-235頁。