アゴスティーノ・ディ・バルトロメイ
アゴスティーノ・ディ・バルトロメイ(Agostino Di Bartolomei,1955年4月8日 - 1994年5月30日)は、イタリア・ローマ出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー、ディフェンダー。ボールスキルに優れたプレイメーカーで、ASローマで最も偉大な選手の一人で、イタリア代表でプレーすることが無かったものの最高の選手の一人とされている[1]。
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1974-75シーズンのバルトロメイ | ||||||
名前 | ||||||
ラテン文字 | Agostino Di Bartolomei | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1955年4月8日 | |||||
出身地 | ローマ | |||||
没年月日 | 1994年5月30日(39歳没) | |||||
身長 | 180cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
ASローマ | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1972-1984 | ASローマ | 237 | (50) | |||
1975-1976 | → ヴィチェンツァ・カルチョ (loan) | 33 | (4) | |||
1984-1987 | ACミラン | 88 | (9) | |||
1987-1988 | ACチェゼーナ | 25 | (4) | |||
1988-1990 | USサレルニターナ1919 | 52 | (16) | |||
代表歴 | ||||||
1976-1978 | イタリア U-21 | 8 | (7) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
経歴
編集ローマの郊外で生まれたバルトロメイは、ガルバテッラでサッカーを始め、14歳の時にASローマのユースチームに加入した。その後、すぐにトップチームでプレーすることを求められ、1972-73シーズンにセリエAデビューを果たした。
1975年、「骨を鍛え上げる(build up his bones)」としてセリエBのヴィチェンツァ・カルチョにレンタル移籍した。(ブルーノ・コンティも同じ理由でジェノアCFCにレンタル移籍した。)1976年にローマに戻ると、ローマに不可欠な選手となった。
ニルス・リードホルムが監督に復帰すると、無敗のチームのキャプテンとして、タイトルの獲得に貢献し、サポーターのお気に入りの選手となった。バルトロメイがプレイする時、サポーターが「Ohhhhhhhhhhhhhhh, Agostino, Ago, Ago, Ago, Agostino gol!!!”」と歌っているのがよく聞かれた。
バルトロメイはゴールを挙げる高い能力を持っていたが、当時のローマにはバルトロメイとファルカンの2人のプレイメーカーがいたため、リードホルム監督は、バルトロメイをディフェンダーの前のポジションに置き、ファルカンにより攻撃的な役割を担わせた。バルトロメイは、ローマ在籍中に、コッパ・イタリアを3度優勝し、1982-83シーズンには記憶に残るスクデット獲得を成し遂げた。1983-84シーズンはUEFAチャンピオンズカップで決勝に進出したが、リヴァプールにPK戦の末に敗れた。
ローマを退団し、2度のセリエB降格を経験し再建の過程にあったACミランに加入した。3シーズン在籍した後に、ACミランを去り、ACチェゼーナ、USサレルニターナ1919でプレーした後、1990年に現役引退した。
引退後
編集うつ病に苦しみ、リヴァプールに敗れた1984年5月30日から10年後の1994年5月30日にカステッラバーテの別荘で自殺した[2]。
2012年に、ASローマ殿堂の11名に選ばれた。
タイトル
編集クラブ
編集- ASローマ
個人
編集- ASローマ殿堂[3]
脚注
編集- ^ “Dieci italiani più uno che avrebbero meritato la nazionale” (イタリア語). La Repubblica. 26 February 2017閲覧。
- ^ “Agostino Di Bartolomei, vent’anni fa”(イタリア語) Il Post、2014年5月30日
- ^ “Hall of Fame” (イタリア語). A.S. Roma. 27 July 2016閲覧。