グリンカ記念合唱学校

ロシアのサンクトペテルブルクにある合唱学校

グリンカ記念合唱学校 (グリンカきねんがっしょうがっこう、ロシア語: Хоровое училище имени Михаила Ивановича Глинки、英語: Glinka Choir School) は、ロシアサンクトペテルブルク市が運営している専門教育機関で、以前はサンクトペテルブルク国立アカデミーカペラに所属していた。

一般教育課程と専門の音楽教育課程が同時に行われている。合唱指揮のコースでは指導者も養成され、合唱指揮と教師の資格を取得できる。修了年限は11年で、男子のみが入学できる。4-6年次と9-11年次の生徒は青少年合唱団に参加し、コンサートに出場している。必修の音楽科目のほかに、器楽演奏を学ぶこともできる。学費は無料で、他の地域から来た学生のための寄宿舎もある。

卒業生の多くは大学の合唱科、指揮科、あるいは声楽科、音楽理論科、ピアノ科に進み、さらにはオペラ科やオーケストラのコースに行く。主要な就職先は、合唱団、合唱やオーケストラの指揮者、オペラのソリスト、そして教師である。

歴史 編集

合唱学校は正式には1944年の創立である (当初は「音楽合唱学校」という名称で、1945年から「合唱学校」となり、1954年には「グリンカ記念」が冠せられた) 。しかしながら学校は元々サンクトペテルブルク国立アカデミーカペラに所属していて、長い歴史がある。カペラは15世紀モスクワに創設の君主詠唱合唱団に始まり、1703年にサンクトペテルブルクに移った (「カペラ」の名称は18世紀末につけられた) 。当初は男声合唱団で、いつからか少年の児童合唱も加わるようになった。

児童合唱は当初は歌うことだけに従事していたが、18世紀になって彼らに恒常的なトレーニングをする試みが始まった。1740年にロシア皇帝アンナは、少年たちに楽器の指導もするために、合奏指揮者にヨハン・ヒューブナー英語版を任命する勅令をだした。1766年には、少年たちに一般教養と外国語の訓練をするという理事会の提案を、カペラ監督は承認した。1834年と1839年に、少年たちに楽器演奏の新しいトレーニングの試みが始まった。しかし音楽監督のアレクセイ・リヴォフがカペラで楽器演奏の恒常的な指導に成功したのは、1859年になってからだった。バラキレフリムスキー=コルサコフは1884年に器楽演奏クラスを再編成し、音楽院のカリキュラムに近づけた。

これと同じ時期、1846年にカペラの合唱指揮クラスが開かれた。カペラの若い歌手を対象にした器楽クラスとは対照的に、合唱指揮クラスでは外部の社会人が参加することが始まった。合唱指揮クラスの目的は、帝国内の教会合唱がどれも帝室合唱団をモデルとしたものになることだった。合唱指揮クラスと器楽クラスに外部者が加わることは、「政治的に有害な潮流」を防ぐために1907年に中止されるまで続いた。

20世紀初頭までのカペラの音楽監督と教師たちは次の通り。ドミトリー・ボルトニャンスキーアレクセイ・リヴォフミハイル・グリンカガブリイル・ロマーキンС. Смирнов、ミリイ・バラキレフ、ニコライ・リムスキー=コルサコフ、アナトーリ・リャードフセルゲイ・リャプノフアントン・アレンスキーステパン・スモレンスキイニコライ・ケドロフ英語版

カペラの合唱指揮クラスと器楽クラスの卒業生には、アレクサンドル・アレクサンドロフアンドレイ・アノーキン英語版パルラディ・ボグダノヴィッチロシア語版ウラディミール・ドラニシュニコフロシア語版А. А. Егоровヴァシリー・ゾロタレフ英語版ニコライ・イワノフ-ラドヴィッチロシア語版ニコライ・カサチェンコロシア語版ニコライ・ヴァシリェヴィッチ・ミハイロフロシア語版イオセフ・ネムセフロシア語版ニコライ・ポノマニエンコロシア語版、ハープ奏者のニコライ・アモソフロシア語版Н. Г. Парфёнов、フルート奏者のフョードル・ステパノフロシア語版がいる。聖歌作曲家のアレクサンドル・アルハンゲルスキーは合唱指揮クラスを修了している。またウクライナの作曲家マイコラ・レオントーヴィッチュは、休暇中に非公式にカペラで学んでいる。正教徒の作曲家金須嘉之進は1891年から1894年にかけてカペラ (帝室附カペーラ声楽院) に学び、リムスキー=コルサコフに師事している[1][2][3]

1917年の革命の結果、カペラの合唱団は帝室合唱団としての特別の目的を失い、組織を維持し再構築するためのプロジェクトが始まった。新しい現実の中での主な活動は音楽教育とコンサートであった。これは新しいレパートリーの早急な習得と、古いレパートリーの維持という、大きな活動になった。子どもたちはこの活動に耐えられず、1920年から少年合唱団に少女合唱が加わった。カペラの教育部門の活動はコンサート部門の活動とは切り離されるようになった。1923年以降に合唱団に加わった少年少女たちは、追加の要素として時々合唱に参加した。子どもたちのためにカペラの器楽学習コースは残され、その後しばしば名称が変遷した (1924年以降、ペテルブルク労働学校/レニングラードGUBONO/OBLONO; 1935年以降、LENOBULONO 第4中学校) 。従来の合唱指揮クラスは1923年以降、合唱指揮技術学校に生まれ変わった。そこには再び外部の社会人が入学できるようになった。それに加え、カペラの生徒たちは技術学校でも学び続けられるようになった。1930年に技術学校は、独立した教育機関ではなくなり、高等学校として学校に組み込まれた。1917年から1935年の間には指揮者のグレゴリー・イワノビッチ・ベズボフロシア語版П. П. Григоровエリザベータ・クドリャフツェワロシア語版ボリス・ミルティンロシア語版アレクサンドル・ムーリンロシア語版А. Е. Никлусовコンスタンチン・シメオノフドイツ語版、ホルン奏者のパウル・オレホフロシア語版、音楽学者のニコライ・ウスペンスキーロシア語版エフゲニー・ムラヴィンスキーが、カペラの教師のもとでプライベートに学んだ。

以前の合唱学校の卒業生は1935年までだった。1936年からは修了年限が9年から10年に延長されたので、その年の卒業生はいなかった。そして同じ年に合唱学校の生徒、教師、施設は、10年制の音楽院ロシア語版に再構築された。それによって従来の合唱学校の生徒たちは、次の年以降は別の学校を卒業することになった。当時の卒業生には、作曲家のガリーナ・ウストヴォーリスカヤ、学者のА. Л. Биркенгоф、指揮者のユーリー・ガマリーロシア語版エフゲニー・ルゴフロシア語版がいる。

アレクサンドル・ワシリェヴィッチ・スウェシュニコウドイツ語版の努力により、1937年にカペラの学校は再建された。それは児童合唱学校という名称で、最初の年には2クラス (2年と3年) のみ、男子のみが入学できた。学校の少年合唱は独立した演奏団体になり、単独であるいはカペラの成人合唱と共に演奏会を行った。1941年の春には、学校には6つのクラス (1年から6年) があった。レニングラード包囲戦のために、学校は完全に、生徒や教師やカペラの芸術家たちと共に、キーロフ州アルバス英語版に疎開した。1944年初頭にカペラの児童合唱学校は廃止され、生徒たちはモスクワに移り、そこを拠点にモスクワ合唱学校 (現在のポポフ記念モスクワ合唱アカデミードイツ語版) が創設された。1937年から1944年まで存続していたカペラの児童合唱学校では、独自の卒業生を出してはいないが、1945年以降のモスクワ合唱学校の卒業生からは、数多の著名な音楽家を輩出した。そこには指揮者のФ. М. Козловウラディーミル・ミーニンアレクサンダー・ユーロフロシア語版、作曲家のロスティスラフ・ボイコВ. А. Отрезовアレクサンダー・フルヤルコフスキーロシア語版がいる。

1944年、パルラディ・ボグダノヴィッチロシア語版ゲオルギー・ドミトレフスキーロシア語版の主導と尽力により、生徒を再び失ったカペラの学校は音楽合唱学校として再建された。最初の生徒は以前のカペラ児童合唱学校の生徒で、疎開しなかった子どもたちであり、そこにカペラの教師と芸術家たちが参加した。モスクワ合唱学校からも何人かの生徒がレニングラードに戻ってきた。さらに最初の2年間は、少年だけでなく少女たちも合唱学校へ入学できた (1946年からは少女たちは別の教育機関へ移った) 。

現在の活動 編集

1955年以降合唱学校と少年合唱団は独立した組織となった (1986年からはマスタースカヤ通り4番地にある)。

合唱学校少年合唱団の芸術監督 編集

合唱学校の校長 編集

少年合唱団の映像 編集

合唱学校の出身者 編集

指揮者

作曲家

歌手

器楽奏者

音楽学者

脚注 編集

  1. ^ 金須嘉之進『ペトログラード音樂院時代の憶ひ出』月刊楽譜発行所〈月刊楽譜〉、1934年3月1日、54-56頁。doi:10.11501/11004546NDLJP:11004546https://dl.ndl.go.jp/pid/110045462024年2月2日閲覧。"欠ページあり、一部判読不能"。 
  2. ^ 中村洪介, 林淑姫「第二節 一般音楽界の動向」『近代日本洋楽史序説』東京書籍、2003年、681頁。国立国会図書館書誌ID:000004054428https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000004054428 
  3. ^ 城元智子, 北原かな子「金須嘉之進と「帝室附カペーラ声楽院」 : 東北地方におけるキリスト教受容に関連して」『青森中央学院大学研究紀要』第28号、青森中央学院大学、2017年9月、31-44頁、CRID 1050564287702991104ISSN 1344-99902024年2月2日閲覧 
  4. ^ Страница Андрея Аниханова на сайте «Капелланин»
  5. ^ Страница В. В. Антипина на сайте «Капелланин»
  6. ^ Страница П. П. Левандо на сайте «Капелланин»

外部リンク 編集