ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル( Georg Friedrich Händel ['hɛndl][1], 1685年2月23日 - 1759年4月14日)は、ドイツ出身で、主にイギリスで活躍し、イギリスに帰化した作曲家。英語では(George Frideric (Frederick) Handel [ˈhændᵊl][2])。バロック音楽における最も重要な作曲家のひとりであり、特にイタリア語のオペラ・セリアや英語のオラトリオの作曲によって知られる。
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル 独: Georg Friedrich Händel 英: George Frideric Handel | |
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![]() 肖像画(1733年) | |
基本情報 | |
生誕 | 1685年2月23日 |
出身地 |
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死没 |
1759年4月14日(74歳没)![]() |
ジャンル | バロック音楽 |
職業 | 作曲家 |


目次
生涯編集
ハレ・ハンブルク時代編集
1685年、現ザクセン=アンハルト州(当時はブランデンブルク=プロイセン領)のハレに生まれた[3]。ハレはもとマクデブルク大司教領の中心都市で、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の子のザクセン=ヴァイセンフェルス公爵アウグストによって支配されていたが、1680年のアウグストの没後はブランデンブルク=プロイセンの領土になった。ヘンデルの父のゲオルクははじめアウグストの外科医(床屋を兼ねる)かつ従僕だったが、アウグストの死後はその子のヴァイセンフェルス公爵ヨハン・アドルフ1世に仕えた[4]。父は1697年に没している[5]。
ヘンデルは幼少時から非凡な音楽の才能を示していたが、父は息子を法律家にしようと考えており、息子が音楽の道へ進むことには反対していた。しかし、幸いなことにヴァイセンフェルス公爵がヘンデルのオルガン演奏の才能を気に入り、ヘンデルは公爵の援助のおかげで音楽の勉強を続けることができたという[6]。ヘンデルはハレの聖母マリア教会のオルガニストであったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハウに作曲とオルガン、チェンバロ、ヴァイオリンの演奏を学んだが、じきに師をしのぐほどになった[7][8]。
1702年にハレ大学に入学したが、同年ハレ大聖堂のオルガニストを1年間の契約でつとめる[9][10]。この頃に始まったテレマンとの交友は終生続いた[11]。翌1703年、ヘンデルはハンブルクへ出た。当時のハンブルク・オペラの中心的な作曲家はラインハルト・カイザーであり[12]、ヘンデルはその影響を受けた[13][14]。ハンブルク時代にはヘンデルの最初のオペラ『アルミーラ』が1705年1月8日に上演され、成功した[15][16]。同年2月には次のオペラ『ネロ』(現存せず)が上演されている。翌1706年にも2つのオペラを作曲しているが(1708年上演)、これらも現存しない。ハンブルクではまたヨハン・マッテゾンと親友関係にあったが、マッテゾンのオペラ『クレオパトラ』(1704年)の上演中に2人は喧嘩を始めた挙句、決闘で刺殺されそうになったことがある。しかし後に和解している[17][18][19]。
1703年にヘンデルはマッテゾンとともにブクステフーデの後任オルガニストになるためにリューベックに旅行しているが、ブクステフーデの娘との結婚が条件とされていると聞いて逃げ出している。2年後にバッハも同じ経験をしている[20][21]。
イタリア時代編集
1706年から1710年までイタリアの各地を巡った。ヘンデルの正確な足取りは明らかでないが、フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィア、ナポリを訪れたらしい[22]。ローマでは当時オペラの上演が禁止されていたため、ここでヘンデルは最初のオラトリオ『時と悟りの勝利』を作曲している[23][24]。ローマではまたコレッリに会ってその影響を受け[25]、またドメニコ・スカルラッティと鍵盤楽器の競演を行っている。チェンバロの腕前については評価が分かれ、スカルラッティの方が優れているとする者もあったが、オルガン演奏についてはヘンデルが圧倒し、スカルラッティ自身がヘンデルの強い影響を受けたという[26][27]。再びフィレンツェのココメロ劇場で、ヘンデル最初のイタリア・オペラ『ロドリーゴ』が上演された[28]。1708年にはオラトリオ『復活』が上演されている[29][30]。1709年にヴェネツィアで上演されたオペラ『アグリッピーナ』は大成功を収め、連続27回も上演された。イタリア・オペラの中心地のひとつであるヴェネツィアで外国人の作品がこれほど成功するのは異例であった[31][32]。ほかにカンタータなども発表した。
ロンドンへ編集
1710年、25歳のヘンデルはハノーファー選帝侯の宮廷楽長となったが、ハノーファーには落ち着かず、ハレで年老いた母を訪れた後、デュッセルドルフに滞在し、その年の暮には初めてロンドンを訪れた[33]。ここで書かれたオペラ『リナルド』は1711年2月14日に初演され、15回の上演を数える大成功となった[34][35]。6月にオペラのシーズンが終わるとデュッセルドルフを再び訪れた後にハノーファーに戻った[36]。
翌1712年11月には再びロンドンを訪れ、ハノーファーに帰る約束があったにもかかわらずそのままイギリスに住み着いた。1714年のアン女王の死去に伴い、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになるが、ヘンデルは2年以上もハノーファーを留守にしていたことを咎められることなく、新国王とは良好な関係を保った[37]。1727年には正式にイギリスに帰化した。
1716年にジョージ1世はハノーファーに戻り、ヘンデルも久しぶりにハノーファーを訪れている。ロンドンに戻った後の1717年には『水上の音楽』が演奏された[38]。ロンドンのオペラはいったん下火になるが、ヘンデルは、後にシャンドス公爵となるジェイムズ・ブリッジズ(en)の住み込み作曲家として『シャンドス・アンセム』や仮面劇を作曲した[39][40]。
1720年には貴族たちによってオペラ運営会社「王室音楽アカデミー」が設立され、ヘンデルはその芸術部門の中心人物となった[41][42]。ヘンデルはアカデミーのために歌手と契約を結ぶために1719年にドイツを訪れた。バッハがヘンデルに会おうとしたと伝えるのはこの時のことだが、結局会うことはなかった[43][44]。またアカデミーのための音楽の大部分はヘンデルが作曲し、『ラダミスト』『ジューリオ・チェーザレ』『タメルラーノ』『ロデリンダ』をはじめとするオペラが上演された。アカデミーにおけるヘンデルのライバルはボノンチーニであった。しかしアカデミーの経営はずさんであり、歌手同士の争いもあってロンドンのイタリア・オペラは再び衰退していった。さらに1728年に上演された『乞食オペラ』は、すでに没落していたアカデミーに最後のとどめをさし、1728年6月1日にアカデミーは倒産する[45][46]。
ジョン・ジェームズ・ハイデッガーとともにヘンデルはアカデミーを建て直し、イタリアを訪れて歌手と契約を結んでドイツ経由でロンドンに戻った。一方1733年にはライバルの貴族オペラが設立される。貴族オペラの作曲家はニコラ・ポルポラであった。さらにハイデッガーも1734年にはヘンデルと決別し、それまでアカデミーのオペラを上演していたヘイマーケット国王劇場を貴族オペラに引き渡してしまう[47]。ヘンデルはコヴェント・ガーデン劇場に移るが、貴族オペラ側はアカデミーから歌手を引き抜いた上、有名なカストラートのファリネッリを迎え、アカデミー側は苦戦をしいられた[48]。アカデミーと貴族オペラはともに1737に倒産する[49]。ヘンデルは1737年に病に倒れ、回復後は再びハイデッガーと組んでオペラの公演を続けるが、もはやロンドンでオペラが成功することはなかった[50]。
オラトリオと晩年編集
ヘンデルは1732年の『エステル』以来[51][52]、英語のオラトリオをいくつか上演している。1734年から1738年まではオラトリオの新作を発表しなかったが、1739年はじめにオラトリオのシーズンを開き、『サウル』と『エジプトのイスラエル人』を上演した。1741から翌年にかけてダブリンで慈善演奏会を開き、このときに『メサイア』を初演して好評を得た。ロンドンに戻ってからはオペラをやめてオラトリオ一本にしぼり、ロンドンで四旬節の期間に演奏会を開き、オラトリオ作家としての名声を確立していった。一方ヘイマーケット国王劇場ではミドルセックス伯爵(en)が中心になって再びイタリア・オペラが上演されるようになり、ヘンデルの新たなライバルになった。
1749年にはオーストリア継承戦争の終結を祝う祝典のために『王宮の花火の音楽』を作曲する[53][54]。
1751年に左眼の視力を失い、間もなく右眼の視力も悪化し、1752年に完全に失明したため作曲活動はできなくなったが、その後も演奏活動だけは続けていた。1758年の夏、タンブリッジ・ウェルズで眼科医のジョン・テイラーによる手術を受けたが成功しなかった(ジョン・テイラーはバッハにも同様の手術を施して失敗している)。翌1759年、体調の悪化により死去。74歳であった。ウェストミンスター寺院に埋葬された[55]。
ヘンデルが没した翌年にジョン・マナリングによるヘンデルの伝記が出版された。音楽家の伝記が出版されることは当時としては異例であった[56]。1784年にはヘンデルの生誕百周年を祝って大編成の管弦楽団によるヘンデル記念祭が挙行され、その後も記念祭は続けられた[57]。サミュエル・アーノルドによるヘンデル全集は1787年から1797年までかけて刊行された[58]。
ヘンデルは1724年以来、メイフェアのブルック街25番地に住んでいた[59]。偶然にも1968年以降ジミ・ヘンドリックスが隣の23番地に住んでいた[60][61]。現在この建物は「ヘンデル・アンド・ヘンドリックス・イン・ロンドン」という博物館になっている。
バッハとの関係編集
ヘンデル、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、ドメニコ・スカルラッティはともに1685年に生まれた。
バッハは、1719年と1729年の2度にわたりヘンデルに面会を求めたが、最初はすれ違いになり、2度目はヘンデルが何らかの事情で面会を断ったために、同時代に活躍しながらも生涯出会うことはなかった[62]。バッハが「音楽の父」と評されるのに対し、日本ではヘンデルを俗に「音楽の母」と呼ぶこともあるが[63]、これは日本人がヘンデルをバッハと対等の存在として位置付ける意味で考案した呼び名であり、欧米にはこのような呼び名は存在しない[64]。
バッハが主として教会の礼拝で用いる音楽(教会音楽)で活躍したのに対し、ヘンデルはオペラや(劇場用の)オラトリオなど、劇場用の音楽で本領を発揮した。
バッハが音楽家一族として有名なバッハ家の生まれであったのに対し、ヘンデルの家族は音楽とは無関係だった。またヘンデルは生涯独身で子供はいなかったのに対し、バッハは2度の結婚で合計20人もの子供(うち成人した子供は10人)に恵まれた子沢山の父親として知られており、両者は作曲家としての活動だけでなく私生活においても全く対照的な人生を歩んでいたと言われている。
作品について編集
オラトリオ『メサイア(救世主)』は曲中に有名な「ハレルヤ・コーラス」を含み、今日でも非常に有名である。オラトリオではほかに『エジプトのイスラエル人』が知られ、また『ユダス・マカベウス(マカベウスのユダ)』中の合唱曲「見よ、勇者は帰る」は、大会の優勝者を称える曲・表彰状授与のBGM(得賞歌)として日本でも頻繁に用いられている。
オラトリオにくらべて約50曲あるオペラはヘンデルの没後は大部分が忘れられてしまったが、オペラ『セルセ』(クセルクセス)中の「オンブラ・マイ・フ(懐かしい木陰よ)」は、「ヘンデルのラルゴ」とも呼ばれて親しまれている。そのほか、『ジュリアス・シーザー』、『リナルド』の中のアリア「私を泣かせてください」なども知られている。1920年からドイツでヘンデルのオペラの復活上演が行われるようになったが、その演奏や演出は18世紀のものとは相容れないものだった[65]。イギリスでは第二次世界大戦後になってようやく復活上演されるようになった[66]。1990年代あたりからはオペラの蘇演が非常に盛んとなり、今日では器楽曲よりもバロック・オペラの代表的作曲家として人気が高い。
オペラ、オラトリオや世俗カンタータの他、管弦楽曲としては、管弦楽組曲『水上の音楽』『王宮の花火の音楽』が有名。また、合奏協奏曲、室内楽、オルガンやチェンバロのための作品がある。合奏協奏曲では作品6の12曲(1739年)がもっとも優れている[67]。コレッリの影響が強く、ヴィヴァルディの影響は見られない[68][69]。オルガン協奏曲はオラトリオの幕間にヘンデル本人が演奏するために書かれたもので、オラトリオ以上に人気があったという。教会のオルガンではなく、劇場の中の演奏会のためにペダルのない小型のオルガンを使用した[70]。
イギリスではしばしば重要な行事でヘンデルの音楽が採用される。たとえば1981年のチャールズ王子とダイアナ妃との結婚式では『サムソン』から「輝かしい天使よ」がキリ・テ・カナワによって歌われ、2018年のヘンリー王子とメーガン妃の結婚式では『アン女王の誕生日のための頌歌』の第1曲「神々しい光の永遠の源よ」がエリン・マナハン・トーマスによって歌われた。要人の葬式には『サウル』の葬送行進曲が演奏されることが多い。『ソロモン』の「シバの女王の到着」もよく使われる曲で、2012年ロンドンオリンピックの開会式でも使われた。『ジョージ2世の戴冠式アンセム』中の「司祭ザドク」は伝統的に戴冠式で使われる。サッカー・UEFAチャンピオンズリーグの入場曲「UEFAチャンピオンズリーグ・アンセム」も「司祭ザドク」を原曲とする。
影響編集
ヘンデルは生前から高く評価され、没後すぐに神格化された。ヘンデルは名声が没後も衰えなかった最初の作曲家だった[71]。とくにオラトリオはイギリスだけでなく、1772年にはハンブルクで『メサイア』が上演された[72]。1773年にはカール・フィリップ・エマヌエル・バッハが『メサイア』を上演した。オラトリオは当時発達した市民レベルの合唱団に好まれた。エマヌエル・バッハは『メサイア』を何度も指揮し、これに刺激されて自らオラトリオを作曲するようになった[73]。
1780年代にはウィーンのヴァン・スヴィーテン男爵がその私的な日曜コンサートでヘンデル作品を広く紹介し、モーツァルトがこのコンサートのためにいくつかの曲を編曲している[74]。また、ハイドンはロンドン訪問から帰るときにザーロモンからオラトリオ『天地創造』の台本を贈られたが、この台本は本来ヘンデルによる作曲を想定して書かれたものだったという。台本はヴァン・スヴィーテン男爵によってドイツ語に翻訳され、それにつけられた音楽はハイドンの代表作のひとつとなった[75]。
ベートーヴェンはとくにヘンデルを高く評価し、『調子の良い鍛冶屋』にもとづく2声のフーガや、『ユダス・マカベウス』の「見よ勇者は帰る」にもとづくチェロとピアノのための変奏曲を作曲した。1824年、ヨハン・アンドレアス・シュトゥンプフとの筆談において、ヘンデルがもっとも優れた作曲家だとベートーヴェンは答えたが、ヘンデル全集をベートーヴェンが持っていないことを知ったシュトゥンプフは後にアーノルド版全集を贈っている[76][77]。
主な作品編集
ヘンデルは、楽曲を演奏するたびに大きく編成を変えることがあり、同じ曲でもさまざまな異稿が存在する。
ヘンデルの生前、楽譜はジョン・ウォルシュ親子(en)によって出版されていた。ヘンデルの全集は、はやく18世紀のうちにサミュエル・アーノルドによるものが刊行されたが(アーノルド版、全180巻)、イタリア・オペラは5曲しか収録されていなかった[78]。19世紀後半にはフリードリヒ・クリュザンダーを中心としてヘンデル協会によるヘンデル全集(en、クリュザンダー版、全105巻)が刊行された。1950年代からはハレ・ヘンデル全集(en、ハレ版、新ヘンデル全集)が刊行されている。ヘンデルの作品カタログとしてはベルント・バーゼルトによるもの(全3巻、1978-1986年)があり、このカタログの番号(ヘンデル作品主題目録番号、HWV)を用いることが一般的になっている。
オペラ編集
- アルミーラ HWV 1 初演1705.1 ハンブルク
- ロドリーゴ HWV 5 初演1707ごろ フィレンツェ
- アグリッピナ HWV 6 初演1709.12 ヴェネツィア
- リナルド HWV 7 初演1711.2 ロンドン(以下全て同じ)
- 忠実な羊飼い HWV 8 初演1712.11
- ラダミスト HWV 12 初演1720.4
- エジプトのジュリアス・シーザー HWV 17 初演1724.2
- タメルラーノ HWV 18 初演1724.10
- ロンバルディア王妃ロデリンダ HWV 19 初演1725.2
- オルランド HWV 31 初演1733.1
- アリオダンテ HWV 33 初演1735.1
- アルチーナ HWV 34 初演1735.4
- セルセ HWV 40 初演1738.4
- デイダミア HWV 42 初演1741.1
オラトリオ編集
- 時と悟りの勝利 HWV 46a 1707年(イタリア語)
- 復活 HWV 47 1708年(同上)
- アチスとガラテア HWV 49 1718年(英語。オペラとも)
- エステル HWV 50 1718年(英語、以下同じ)
- サウル HWV 53 1739年
- エジプトのイスラエル人 HWV 54 1739年
- メサイア HWV 56 1742年
- サムソン HWV 57 1743年
- セメレ HWV 58 1744年(世俗曲)
- マカベウスのユダ HWV 63 1747年
- ヨシュア HWV 64 1748年
- ソロモン HWV 67 1749年
- イェフタ HWV 70 1752年
その他の声楽曲編集
- ジョージ2世の戴冠式アンセム - 「司祭ザドク」 HWV 258 1727年
- アレクサンダーの饗宴 HWV 75 1736年
- 聖セシリアの日のためのオード HWV 76 1739年
- デッティンゲン・テ・デウム HWV 283 1743年
管弦楽曲編集
- 水上の音楽(管弦楽組曲)HWV 348-350
- 王宮の花火の音楽(管弦楽組曲)HWV 351 1748年
- 6つの合奏協奏曲集 作品3 HWV 312-317 1734年出版
- 12の合奏協奏曲集 作品6 HWV 319-330 1739作曲,1740年出版
- 合奏協奏曲ハ長調「アレクサンダーの饗宴」HWV 318(同名のカンタータ第2幕の冒頭で演奏された)
- オルガン協奏曲集 第1集 作品4 HWV 289-294 1738年出版
- 第1番ト短調 HWV 289
- 第2番変ロ長調 HWV 290
- 第4番ヘ長調 HWV 292
- 第6番変ロ長調 HWV 294(有名な「ハープ協奏曲変ロ長調HWV294a」の別稿)
- オルガン協奏曲第2集 HWV 295-300 1760年ごろ出版(多くは作品6の編曲)
- 第13番ヘ長調『かっこうとナイチンゲール』HWV 295
- オルガン協奏曲集 第3集 作品7 HWV 306-311 1761年出版
- 2つの合奏体のための協奏曲
- 第1番 変ロ長調 HWV 332
- 第2番 ヘ長調 HWV 333
- 第3番 ヘ長調 HWV 334
器楽曲編集
- 6つのトリオソナタ 作品2
- 7つのトリオソナタ 作品5
- ハープシコード組曲集
- ホ長調 HWV 430(アリアと変奏は「調子の良い鍛冶屋」として有名)
- ト短調 HWV 432(パッサカリアが有名)
- 変ロ長調 HWV 434(アリアと変奏がやはり有名。ヨハネス・ブラームス『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ』の主題)
- ト長調 HWV 435(主題と21の変奏からなるシャコンヌ)
- ニ短調 HWV 437(サラバンドが有名)
ヘンデルを題材とする作品編集
1942年のイギリス映画『偉大なるヘンデル氏』(The Great Mr. Handel)は、ヘンデルを題材にしている[79]。ヘンデルをウィルフリッド・ローソン(en)、ヒロインの歌手シバ夫人(en、トーマス・アーンの妹のスザンナ)をエリザベス・アランが演じた。
1994年の映画『カストラート』は1730年代のヘンデルと貴族オペラの対立を背景とする。ジェローン・クラッベがヘンデルを演じた。
脚注編集
- ^ Duden Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Dudenverlag. (2005). p. 388. ISBN 978-3-411-04066-7.
- ^ コリンズ英語辞典 "Handel"。ハンドルと発音は同じである。"handle"
- ^ ヘンデルが生まれた時、母は34歳で、父は63歳の高齢だった。
- ^ ホグウッド(1991) p.22
- ^ ホグウッド(1991) p.30
- ^ ホグウッド(1991) pp.26-28
- ^ ホグウッド(1991) pp.28-34
- ^ 渡部(1966) p.16
- ^ ホグウッド(1991) p.34
- ^ 渡部(1966) p.21
- ^ ホグウッド(1991) pp.36-37
- ^ ホグウッド(1991) p.45
- ^ ホグウッド(1991) p.50
- ^ 皆川(1972) p.194
- ^ ホグウッド(1991) p.47
- ^ 渡部(1966) p.29
- ^ ホグウッド(1991) pp.38-43
- ^ 渡部(1966) pp.25-29
- ^ 皆川(1972) p.233
- ^ ホグウッド(1991) pp.39-40
- ^ 渡部(1966) pp.26-27
- ^ 渡部(1966) p.32
- ^ ホグウッド(1991) pp.60-62
- ^ 渡部(1966) pp.34-36
- ^ ホグウッド(1991) p.59
- ^ ホグウッド(1991) p.60
- ^ 渡部(1966) p.38
- ^ ホグウッド(1991) pp.65-68
- ^ ホグウッド(1991) pp.68-73
- ^ 渡部(1966) p.38
- ^ ホグウッド(1991) pp.82-83
- ^ 渡部(1966) p.42
- ^ 渡部(1966) p.43
- ^ ホグウッド(1991) pp.102-107
- ^ 渡部(1966) pp.45-47
- ^ 渡部(1966) p.48
- ^ 渡部(1966) p.53
- ^ 渡部(1966) pp.58-60
- ^ ホグウッド(1991) pp.123-127
- ^ 渡部(1966) pp.61-62
- ^ ホグウッド(1991) pp.131-135
- ^ 渡部(1966) pp.64-65
- ^ ホグウッド(1991) pp.135-137
- ^ 渡部(1966) pp.66-67
- ^ ホグウッド(1991) pp.131-132,158-159
- ^ 渡部(1966) pp.85-86
- ^ 渡部(1966) pp.101-102
- ^ 渡部(1966) pp.103-106
- ^ ホグウッド(1991) pp.189-190
- ^ 渡部(1966) pp.116-117
- ^ ホグウッド(1991) pp.177-179
- ^ 渡部(1966) pp.94-96
- ^ ホグウッド(1991) pp.378-383
- ^ 渡部(1966) pp.145-146
- ^ 渡部(1966) p.154
- ^ 渡部(1966) p.14
- ^ ホグウッド(1991) pp.423-432,436-438
- ^ ホグウッド(1991) pp.438-440
- ^ ホグウッド(1991) 図版32(p.193の前)
- ^ Hendrix Flat, Handel & Hendrix in London
- ^ 「ジミヘンがヘンデル好きだったわけ ロンドンの不思議な隣人関係」、『日本経済新聞』、2010年7月27日 。
- ^ 当時のヨーロッパではバッハよりもヘンデルの人気が圧倒的に高く、バッハはヘンデルの名声を強く意識していたが、ヘンデルの方はバッハをあまり意識していなかったと言われる。ただし、ゲオルク・フィリップ・テレマンやヨハン・マッテゾン、クリストフ・グラウプナーなど、ヘンデルとバッハの両名と交流のあった作曲家は何名か存在している。
- ^ 野村胡堂 『楽聖物語』、1987年(原著1941年)。「バッハが「西洋音楽の父」であるならば、ヘンデルは「西洋音楽の母」でなければならない。」(青空文庫)
- ^ そもそもヘンデルは男性であるから、「母」という表現自体が不適切である。また、ヘンデルとバッハが存命していた当時のヨーロッパにおいては、バッハはヘンデルよりも格下の扱いを受けており、両名は決して対等の存在ではなかったと言われる。当時のライプツィヒの新聞で作曲家の人気投票を行ったところ、1位はテレマンで、ヘンデルは2位、バッハは7位だったという記録がある。
- ^ ホグウッド(1991) pp.476-477
- ^ ホグウッド(1991) p.481
- ^ ホグウッド(1991) pp.282-284
- ^ 渡部(1966) p197
- ^ 皆川(1972) p.240
- ^ 渡部(1966) p.198-199
- ^ ホグウッド(1991) p.485
- ^ ホグウッド(1991) p.442
- ^ 大崎滋生 『音楽演奏の社会史』 東京書籍、1993年、72,94。ISBN 4487791049。
- ^ ホグウッド(1991) pp.443-444
- ^ ホグウッド(1991) pp.446-447
- ^ ホグウッド(1991) pp.448-449
- ^ 大築邦雄 『ベートーヴェン』 音楽之友社〈大作曲家 人と作品 4〉、1962年、115,120。
- ^ ホグウッド(1991) p.440
- ^ The Great Mr. Handel, インターネット・ムービー・データベース
参考文献編集
- クリストファー・ホグウッド 『ヘンデル』 三澤寿喜訳、東京書籍、1991年。ISBN 4487760798。
- 渡部恵一郎 『ヘンデル』 音楽之友社〈大作曲家 人と作品 15〉、1966年。ISBN 4276220157。
- 皆川達夫 『バロック音楽』 講談社〈講談社現代新書〉、1972年。
関連項目編集
外部リンク編集
- 日本ヘンデル協会
- ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト。PDFとして無料で入手可能。
- ヘンデル・フェスティバル・ジャパン
- 今井民子 「C.バーニーの『ヘンデル略伝』」(弘前大学教育学部紀要 第92号 :65-70、2004年10月)