ジェフ・マント

アメリカの野球選手、コーチ (1964-)

ジェフリー・ポール・マントJeffrey Paul "Jeff" Manto1964年8月23日 - )は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州バックス郡ブリストル英語版出身の元プロ野球選手内野手)。右投右打。

ジェフ・マント
Jeff Manto
AA級ミッドランド時代
(1988年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ペンシルベニア州バックス郡ブリストル英語版
生年月日 (1964-08-23) 1964年8月23日(59歳)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
210 lb =約95.3 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手
プロ入り 1985年 MLBドラフト14巡目(全体355位)でカリフォルニア・エンゼルスから指名
初出場 MLB / 1990年6月7日
NPB / 1996年4月5日
最終出場 MLB / 2000年4月20日
NPB / 1996年4月21日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

経歴 編集

1985年MLBドラフト14巡目(全体355位)でカリフォルニア・エンゼルスから指名され、プロ入り。

1990年クリーブランド・インディアンスで初めてメジャーに昇格した。以降マイナーとメジャーを往復する生活が続いていた。

1995年にはボルチモア・オリオールズ三塁手の定位置を獲得。4打席連続本塁打を記録するなど活躍したこともある。

1996年1月26日読売ジャイアンツに入団。年俸はそれまでの2千万程度から1億5千万円に跳ね上がる。キャンプ初日のフリー打撃では、71スイングで23本の柵越えを放つ[1]など、右の長距離砲として期待され、武上四郎打撃コーチは「(本塁打を)70発は打つだろう」と評価した。しかし、オープン戦では3本塁打を放った[2]ものの、公式戦が開幕してからはヒット3本、打率が1割台と低迷した。これを受けて、当時オーナーの渡邉恒雄が二軍降格を提案するが、当時の長嶋茂雄監督が「彼はテンプル大学出身だから、大丈夫でしょう」(テンプル大学ジャパンキャンパスの存在を示唆している[独自研究?])と擁護し起用を続ける。しかし結局成績は向上せず、当時の一軍における外国人選手枠との兼ね合い(当時は一軍には3人までであり、うち投手か野手を1人は含む)でチームはリリーフ強化の為マリオ・ブリトーを起用したい為、同年シーズン開幕して一ヶ月もしない4月23日に解雇された。

巨人でマントが記録した1打点はセンターへの犠牲フライであった。実況担当者は「さすがメジャーのパワーですね」と言ったが、解説者は「ほかの打者なら軽くスタンドに入っている」とコメントした。あまりの低調ぶりに、渡辺オーナーは「あれじゃあ、マントじゃなくて『トンマ』だな」「クスリとマントは逆から読んだらダメなんだ」と言い捨てた[3]

巨人から解雇された後は、5月7日にボストン・レッドソックスと契約したが、7月23日にはアルキメデス・ポゾとのトレードでシアトル・マリナーズに移籍、しかし目立った成績を残せずウェイバー公示され、8月29日には再度レッドソックスと契約した。

2000年シーズンを最後に現役を引退した。

引退後

2006年から2年間ピッツバーグ・パイレーツの打撃コーチを務めた。

2012年から2年間はシカゴ・ホワイトソックスの打撃コーチに就任。

選手としての特徴 編集

守備では、投手以外ならどこでも守れたという。

その他 編集

  • 1996年巨人に加入した際に使われていたフレーズは、『カル・リプケン・ジュニアと三遊間を組んでいた男』だった[3]
  • 1999年、マントは一時的にニューヨーク・ヤンキースに所属していた。とある試合でマントは対戦チームの先発投手が左投手だったこともあり、一塁手として先発起用されていた。ところが、試合中で投手が右投手に代わり、マントの打席に回って来る前に、ヤンキー・スタジアムからティノ・マルティネスの登場の望む声援が発生。案の定マルティネスが代打に備えてベンチから飛び出すと、スタジアムが大声援に包まれ、マントはスゴスゴとベンチに下がってしまった。マントは程なくヤンキースから解雇され、同年シーズン、ヤンキースは世界一に輝いたものの、マントはその瞬間を味わうことは出来なかった。
  • 1997年からプレイしたAAA級バッファロー・バイソンズの背番号30は同球団の永久欠番に指定されている。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1990 CLE 30 97 76 12 17 5 1 2 30 14 0 1 0 0 21 1 0 18 0 .224 .392 .395 .786
1991 47 148 128 15 27 7 0 2 40 13 2 0 1 1 14 0 4 22 3 .211 .306 .313 .619
1993 PHI 8 19 18 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 3 0 .056 .105 .056 .161
1995 BAL 89 280 254 31 65 9 0 17 125 38 0 3 0 0 24 0 2 69 6 .256 .325 .492 .817
1996 巨人 10 35 27 1 3 1 0 0 4 1 0 1 0 1 6 1 1 7 1 .111 .286 .148 .434
BOS 10 34 30 5 8 3 1 2 19 4 0 0 0 0 3 0 1 6 0 .267 .353 .633 .986
SEA 21 63 54 7 10 3 0 1 16 4 0 1 0 0 9 0 0 12 2 .185 .302 .296 .598
BOS 12 23 18 3 2 0 0 0 2 2 0 0 0 0 5 0 0 6 0 .111 .304 .111 .415
'96計 43 120 102 15 20 6 1 3 37 10 0 1 0 0 17 0 1 24 2 .196 .317 .363 .679
1997 CLE 16 31 30 3 8 3 0 2 17 7 0 0 0 0 1 0 0 10 2 .267 .290 .567 .857
1998 7 15 14 3 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 1 0 0 5 2 .071 .133 .071 .205
DET 16 34 30 6 8 2 0 1 13 3 1 0 0 0 3 0 1 11 1 .267 .353 .433 .786
CLE 8 24 23 5 7 1 0 2 14 5 0 1 0 0 1 0 0 5 2 .304 .333 .609 .942
'98計 31 73 67 14 16 3 0 3 28 9 1 1 0 0 5 0 1 21 5 .239 .301 .418 .719
1999 12 37 25 5 5 0 0 1 8 2 0 0 1 0 11 0 0 11 0 .200 .444 .320 .764
NYY 6 10 8 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 2 0 0 4 0 .125 .300 .125 .425
'99計 18 47 33 5 6 0 0 1 9 2 0 0 1 0 13 0 0 15 0 .182 .413 .273 .686
2000 COL 7 7 5 2 4 2 0 1 9 4 0 0 0 0 2 0 0 0 0 .800 .857 .800 2.657
MLB:9年 289 822 713 97 164 35 2 31 296 97 3 6 2 1 97 1 9 182 18 .230 .329 .415 .744
NPB:1年 10 35 27 1 3 1 0 0 4 1 0 1 0 1 6 1 1 7 1 .111 .286 .148 .434

表彰 編集

MiLB

記録 編集

NPB

背番号 編集

  • 45 (1990年 - 1991年)
  • 30 (1993年、2006年 - 2007年)
  • 12 (1995年、1997年 - 1998年途中)
  • 49 (1996年 - 同年途中)
  • 2 (1996年途中 - 同年途中)
  • 10 (1996年途中 - 同年途中)
  • 48 (1996年途中 - 同年終了)
  • 20 (1998年途中 - 同年途中)
  • 26 (1998年途中 - 1999年途中)
  • 13 (1999年途中 - 同年終了)
  • 23 (2000年)
  • 31 (2012年 - 2013年)

脚注 編集

  1. ^ 読売新聞1996年2月9日27面
  2. ^ 読売新聞1996年3月29日19面
  3. ^ a b 中溝康隆 (2018年11月7日). “ジェフ・マント 悲惨な成績で2カ月の在籍で巨人を解雇された“トンマ”/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】”. 週刊ベースボールオンライン. ベースボール・マガジン社. 2021年7月11日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集