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シカゴ・ホワイトソックス

シカゴ・ホワイトソックス英語: Chicago White Sox、略称:CWS・CHW)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ中地区所属のプロ野球チーム。本拠地はイリノイ州シカゴにあるギャランティード・レート・フィールド。通称「シャイソックス (CHISOX)」とも呼ばれる。

シカゴ・ホワイトソックス
Chicago White Sox
1900年創設
Chicago White Sox.svg Chicago White Sox Insignia.svg
所属リーグ
チーム名
  • シカゴ・ホワイトソックス (1904年 - )
    • シカゴ・ホワイトストッキングス (1901年 - 1903年)
    • シカゴ・ホワイトソックス (1904年 - )
本拠地
1901-現在の位置(アメリカ合衆国内)
1901-現在
1901-現在
U.S. Cellular Field (20801009225).jpg
永久欠番
獲得タイトル(獲得年)
ワールドシリーズ優勝(3回)
リーグ優勝(6回)
地区優勝(5回)
  • 1983
  • 1993
  • 2000
  • 2005
  • 2008
ワイルドカード(0回)
球団組織
オーナー ジェリー・ラインズドルフ
GM リック・ハーン
監督 リック・レンテリア

概要編集

1901年当時からアメリカン・リーグに存在する老舗球団。ワールドシリーズ優勝3回、リーグ優勝6回、地区優勝5回を誇る。1919年の「ブラックソックス事件」以降、長らくワールドチャンピオンから遠ざかっていたが、2005年に88年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。

同じシカゴに本拠地を置くカブスと比較されるが、全体の人気面ではカブスに水を開けられている。カブスはシカゴ市北部(ノースサイド)、ホワイトソックスはシカゴ市南部(サウスサイド)での人気が特に高い。本拠地周辺がポーランド系アメリカ人が多い土地柄のため、ポーランド系アメリカ人選手を好んで獲得する傾向にある。

本拠地であるギャランティード・レート・フィールド本塁打の出やすい球場であることから、それまでは長打に頼りがちであったが、2004年のオジー・ギーエン監督の就任以降、きめ細かい指示を出すスモールベースボールを標榜としたチーム方針に転換。

日本人選手では、2004年から高津臣吾が加入し、シアトル・マリナーズイチローニューヨーク・ヤンキース松井秀喜らとの対決が注目された。ホワイトソックスは、高津をストッパーに起用し、高津もその期待に応えた。2005年には井口資仁が入団し、2番打者としてチームの88年ぶりのワールドシリーズ制覇に貢献した。2012年から福留孝介が加入した。

1990年7月11日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で、1917年当時の復刻ユニフォームを着用して対戦を行った。予想外に好評だったため、以降、他球団もこれを採用し、毎年のように復刻ユニフォームでの試合が行われるようになった。最近では、日本プロ野球のチームも主に交流戦を中心に復刻ユニフォームを採用している。

バラク・オバマ前大統領はホワイトソックスのファンであることを公言している。

球団の歴史編集

球団創設編集

アメリカン・リーグの前身であったウエスタンリーグに在籍したセントポールを本拠地としていたセントポール・セインツという球団が今日のシカゴ・ホワイトソックスの淵源である。1900年にマイナー・リーグであったウエスタンリーグがアメリカンリーグに改称し、併せて当時セントポールにあったフランチャイズをナショナル・リーグの許可を得てシカゴに移し、このチームはシカゴ・ホワイトストッキングスと名乗った。これが現在のシカゴ・ホワイトソックスの始まりである。

本拠地をシカゴに移すことに、ナショナル・リーグの許可が必要であったのは、この1900年にはアメリカン・リーグはまだマイナー・リーグであり、メジャーリーグとしてはまだ認識されていなかったからである。そしてこの1900年にシカゴに移ったホワイトストッキングスはアメリカン・リーグ優勝を飾った。今日この年の優勝はマイナー・リーグ時代のものとして、メジャー・リーグの優勝回数には含まれていない。ホワイトストッキングスと名乗ったのは、同時期にリーグに加盟したボストン・レッドストッキングス(現:アトランタ・ブレーブス)に対抗してホワイトストッキングスと名乗ったものであった。また既にシカゴにはナショナルリーグ所属のシカゴ・オーファンズ(現:シカゴ・カブス)が存在しており、このチームも以前は同じくホワイトストッキングスと名乗っていた。

そして1901年にアメリカン・リーグは、ナショナル・リーグに対抗してメジャーリーグ昇格を宣言した。ホワイトストッキングスの初代オーナーはセントルイス・ブラウンズ(現:セントルイス・カージナルス)でプレーし、アメリカン・リーグ創設にも尽力したチャールズ・コミスキーが務めた。前年までオーファンズで投手をしていたクラーク・グリフィス選手兼任監督に招き入れると、グリフィス自身も24勝を挙げる活躍等でメジャー・リーグ昇格1年目の1903年にリーグ優勝を果たす。また、この頃から地元紙シカゴ・トリビューンが、紙面でホワイトソックスと略して掲載するようになったのを機に、ホワイトソックスという名称が一般化した。

ヒットレス・ワンダーズ編集

1906年には後に殿堂入りするエド・ウォルシュを始め、フランク・オーウェンドク・ホワイトニック・アルトロックら強力な投手陣を擁して、チーム打率わずか.230でリーグ優勝した。ワールドシリーズでは、同じ本拠地のカブスとのシカゴ対決となった。この年のカブスはMLB記録となる116勝をあげる程の強さを誇っており、カブス優勢というのがもっぱらの予想だった。しかし、いざシリーズが始まると、第1戦ではアルトロックが、第3戦ではウォルシュがカブス打線を抑え込み、第6戦ではカブスのエースだったモーデカイ・ブラウンを打ち込んだことで、4勝2敗でホワイトソックスが初のワールドチャンピオンに輝いた。打てないまま勝ち続けたこの年のホワイトソックスには、当時「ヒットレス・ワンダーズ」のあだ名がついた程だった。

その後、しばらくチームは優勝から遠ざかることとなり、1908年にはウォルシュがジャック・チェスブロの記録したシーズン41勝に次ぐMLB史上2位のシーズン40勝を挙げるが、チームは3位に留まった。1910年には新本拠地であるコミスキー・パークが開場。1912年にはエディ・シーコットを獲得、1915年にはエディ・コリンズ、シーズン途中にはジョー・ジャクソンを獲得した。こうした補強もあってかチームは徐々に順位を上げ、1917年には100勝54敗という圧倒的な成績で3度目のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズでは、ジョン・マグロー率いるニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)と対戦。4勝2敗でジャイアンツを下し、2度目のワールドチャンピオンに輝いた。

ブラックソックス事件編集

 
1919年当時のホワイトソックスのメンバー

1918年は6位と低迷してしまうが、翌1919年には88勝52敗で4度目のリーグ優勝を果たした。しかしこのようなチームの好成績とは裏腹にチーム内では低水準の給与体制に対する不満がくすぶっていた。オーナーであるコミスキーは選手のユニフォームの洗濯代でさえ渋ったといわれ、どの選手のユニフォームも黒ずみ、当時のホワイトソックスは「ブラックソックス」とあだ名されていた。こうした事情を知ったシカゴの賭博師たちは、シンシナティ・レッズとのワールドシリーズの前に、ホワイトソックスの選手たちに対して八百長試合を持ちかけた。一塁手だったチック・ガンディルがまずこの話に乗ったといわれ、その後、シーコット、ジャクソンを含む7人の選手が八百長に加担することとなった。

結局シリーズは3勝5敗でレッズが勝利したが、シリーズ中から八百長疑惑が取り沙汰されたことに加え、この年の終わりには暴露記事が書かれたことで、八百長は公のものとなった。1年後には大陪審で問題となった選手たちが証言を行い、情状酌量から一度は無罪となったが、これを契機に創設されたコミッショナーによって、上記選手を含む8人がメジャーから永久追放となった。永久追放となった選手たちは「アンラッキー・エイト(悲運の8人)」と呼ばれ、ファンの少年がジャクソンに対して問いかけた「Say it ain't so, Joe(セイ・イット・エイン’ト・ソー、ジョー;嘘だといってよ、ジョー)」という言葉はこの事件を象徴する言葉となった。

1919年に起こった「ブラックソックス事件」で上記選手を含めた8人の永久追放選手を出し、それ以降は低迷が続いた。1920年代に入るとベーブ・ルースを獲得したニューヨーク・ヤンキース[1]がア・リーグの盟主として君臨するようになり、ホワイトソックスはその影に隠れることとなった。1930年代後半を除いて勝率5割を上回ることも稀になり、同じく低迷していたレッドソックスやフィラデルフィア・アスレチックス(現:オークランド・アスレチックス)と最下位争いを続けた。その間、通算260勝のテッド・ライオンズや遊撃手としてのシーズン最高打率.388を記録したルーク・アップリングといった名選手も在籍したが、1950年代まで優勝とは縁がなかった。俗にいうブラックソックスの呪いである。

ゴーゴー・ソックス編集

1951年、クリーブランド・インディアンスからミニー・ミノーソを獲得。ホワイトソックス初の黒人選手となった。ミノーソは俊足巧打の外野手として活躍し、1964年に現役を引退したが、1973年(53歳)、1980年(58歳)と2度に渡ってメジャーに復帰、MLB史上2人目の5つの年代をまたいで活躍した選手(「5ディケード・プレイヤー」)として知られる。1950年にはアスレチックスからネリー・フォックスを獲得、1956年にはルイス・アパリシオがメジャーデビューし、リーグ屈指の二遊間コンビを形成した。そして、彼らによる手堅い守備と機動力を重視した野球で、次第に上位争いに顔を出すようになる。1957年にはアル・ロペスが監督に就任。1959年にはアパリシオが56盗塁で盗塁王を獲得するなど、持ち前の機動力が炸裂し、投手陣では39歳のアーリー・ウィンが22勝を挙げる活躍でサイ・ヤング賞を獲得するなど、投打がかみ合ったシーズンとなった。最終的に94勝60敗で40年ぶりのリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズでは、惜しくもロサンゼルス・ドジャースに破れたものの、この年のホワイトソックスの躍進は「ゴーゴー・ソックス(Go-Go Sox)」と呼ばれ、ホワイトソックスファンを熱狂させた。

人気低迷編集

その後、上位争いは続けるものの、リーグ優勝にはなかなか届かなかった。1964年にはヤンキース、ボルチモア・オリオールズと激しい首位争いを演じたが、1ゲーム差でヤンキースに振り切られてしまった。また、1967年にも4球団による優勝争いに敗れている。この頃には観客減の打開策として、1968年にはミルウォーキーカウンティ・スタジアムで9試合を行うこととなり、年間観客数の3分の1にあたる26万4千人を集めている。アメリカンリーグ西地区所属となった翌1969年にも11試合を行い、20万人を動員した。後にこれに目をつけたバド・セリグシアトル・パイロッツを買収し、ミルウォーキーに移転、現在のミルウォーキー・ブルワーズを創設している。1975年にはホワイトソックス自身もシアトルへの移転が計画されたが、ビル・ベックがチームを買収し、これは取りやめとなった。ベックは1959年にも1度チームを買収し、3年間オーナーを務めていた経緯があり、様々な手法で観客を呼び戻そうとした。1976年から1980年にかけて、チームは大きな襟の付いたユニフォームを着用し、7月~8月には『半ズボン』でプレーしたこともあった[2]が、これは選手から不評で長続きしなかった。1979年のシーズン途中からトニー・ラルーサが監督に就任。1981年にはレッドソックスからカールトン・フィスクを獲得し、ラマー・ホイトハロルド・ベインズといった若手選手も台頭したことで、1983年には初の地区優勝を飾った。しかし、リーグ優勝決定シリーズではオリオールズに敗れ、リーグ優勝はならなかった。その後、チームは再び低迷し、1990年まで勝率5割を切るシーズンが続いた。

ビッグハートの登場編集

1990年、「ビッグハート」こと、フランク・トーマスがメジャーデビューし、チームも前年の最下位から2位に浮上する。1991年には、新しいコミスキー・パーク(現:USセルラー・フィールド)が開場。1993年には、トーマスが打率.317・41本塁打・128打点という成績でMVPを獲得し、ジャック・マクダウエルが22勝でサイ・ヤング賞を獲得した。この2人の活躍により、2度目の地区優勝を果たしたが、リーグ優勝決定シリーズではトロント・ブルージェイズに2勝4敗で敗れてしまった。翌1994年には、新たに創設されたアメリカンリーグ中地区に移動となり、地区首位でシーズンを終えたが、1994年から1995年のMLBストライキによってリーグ優勝決定シリーズは開催されなかったため、ワールドシリーズ制覇はならなかった。1997年にはアルバート・ベルを獲得し、トーマスとベルによる剛腕コンビを形成した。2年間で143本塁打・502打点を記録し、他球団から非常に恐れられたが、結局2シーズン限りでコンビは解消となった。1999年には、不振のトーマスに代わって、シンシナティ・レッズから移籍したポール・コネルコや生え抜きのマグリオ・オルドニェスカルロス・リーといった若手が台頭。しかし、この年はクリーブランド・インディアンスが地区首位を独走し、2位ながら勝率5割を切り、インディアンスに21.5ゲーム差の大差をつけられることとなった。2000年にはトーマスが復活し、打率.328・43本塁打・143打点でシルバースラッガー賞カムバック賞を受賞。トーマスやオルドニェスらの活躍もあり、3度目の地区優勝を果たした。しかし、リーグ優勝決定シリーズではシアトル・マリナーズに3連敗を喫してしまった。その後、2002年から2004年までミネソタ・ツインズに優勝を阻まれ、3年連続で2位に甘んじた。2003年にはエステバン・ロアイザがブレイクし、防御率2.90・21勝9敗・207奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得した。2004年シーズン途中には、そのロアイザとヤンキースのホセ・コントレラスをトレード。また、ヤクルトスワローズから高津臣吾が移籍し、抑え投手として活躍している。

88年ぶりの栄冠編集

 
ワールドチャンピオンのトロフィー

2005年、前年から監督に就任したオジー・ギーエンの下、ジャーメイン・ダイ井口資仁スコット・ポドセドニックといった新加入の選手がキーマンとなり、これまでの一発に頼った野球ではなく、「スモールベースボール」を標榜としたつなぎの野球を目指すこととなった。これにより本塁打数や得点は前年を下回ったものの、機動力、守備力は飛躍的に向上した。投手陣ではジョン・ガーランドマーク・バーリーが左右のエースとしてそれぞれ18勝、16勝をあげる活躍をみせ、コントラレスも15勝と期待に応えた。チーム防御率もUSセルラー・フィールドに本拠地を移して以来、初めて3点台に乗せた。シーズンでは開幕から首位を独走、シーズン終盤でインディアンスの追い上げを受けたものの、1度も首位を明け渡すことなく、4度目の地区優勝を果たした。ディビジョンシリーズでは前年ワールドチャンピオンのレッドソックスに3連勝。続くリーグ優勝決定シリーズではロサンゼルス・エンゼルスを4勝1敗で下し、6度目のリーグ優勝を果たした。そして、46年ぶりにワールドシリーズに出場すると、ヒューストン・アストロズ2012年まではナショナルリーグ所属)を4連勝で下し、1917年以来88年ぶり、悲願のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。これによってレッドソックスのバンビーノの呪い(86年ぶりの優勝)、ホワイトソックスのブラックソックスの呪いと、2年続けて長年のメジャーのジンクスが解けることとなった(残ったのはシカゴ・カブスビリー・ゴートの呪いだったが、この呪いも2016年のリーグ制覇により解かれた)。

低迷と再建期編集

2005年オフには、長年チームを支えたトーマスがチームを去り、代わりにフィリーズからジム・トーミを獲得する。2年連続のワールドシリーズ制覇が期待されたが、打撃陣はその期待に応え、ダイが44本、トーミが42本、ポール・コネルコが35本、ジョー・クリーディが30本を放つなど、リーグ最多となる236本の本塁打を記録した。ダイとクリーディがシルバースラッガー賞、トーミはカムバック賞を獲得している。彼らの活躍によって、シーズンを通して首位争いを続けていたが、終盤になって失速。ツインズに優勝を奪われ、地区3位でシーズンを終えた。

2007年は、主力選手の故障や不調が重なり、シーズンを通して最下位争いを演じることとなった。投手陣は4月18日にマーク・バーリーが四球ひとつだけという準完全試合でのノーヒットノーランを成し遂げ、7月12日から8月12日にかけて、ボビー・ジェンクスがMLBタイ記録となる41人連続アウトを成し遂げるなど、好材料が多かった。しかし、打撃陣の不調は深刻で、チーム本塁打こそリーグ2位の190本だったが、チーム打率はリーグ最低の.246を記録してしまった。結局、首位インディアンスとは24ゲーム差の地区4位に終わり、72勝90敗で8年ぶりに勝率5割を切ってしまった。

2008年は、オーランド・カブレラカルロス・クエンティンキューバから亡命したアレクセイ・ラミレスらを獲得し、打線に厚みが増した。特にクエンティンはその才能が開花した形となり、36本塁打・100打点を記録。ダイ、トーミらの強打者も健在で、両リーグ最多となるチーム235本塁打を記録した。また、投手陣もガビン・フロイドジョン・ダンクスの若手2選手を中心に安定した成績を残した。シーズン途中にはケン・グリフィー・ジュニアが電撃移籍、サミー・ソーサと並ぶ歴代6位タイの通算609本塁打を放った。シーズンでは最終的にツインズと同率首位となり、ワンゲームプレーオフを実施。ダンクスが8回無失点の好投をみせると、トーミが決勝点となるソロ本塁打を放ってこれを下し、3年ぶりの地区優勝を決めた。しかし、ディビジョンシリーズでは、前年地区最下位から初の地区優勝を果たし、勢いに乗るタンパベイ・レイズに1勝3敗で敗れ去った。

それ以降はポストシーズンから遠ざかっており、リック・レンテリア監督が就任した2017年はシーズン中盤にはホセ・キンタナトッド・フレイジャーら主力を放出して再建期に入った。

選手名鑑編集

現役選手・監督・コーチ編集

シカゴ・ホワイトソックス ロースター
40人ロースター 監督・コーチ/他

投手

捕手

内野手

外野手


監督

コーチ



殿堂入り選手編集

永久欠番編集

傘下マイナーチーム編集

脚注編集

  1. ^ 尚、ルース交渉の場にはホワイトソックスも臨んだものの、掲示額が6万ドル(現在の金銭価値に換算すると65万ドル)とヤンキースの10万ドル(現在の金銭価値に換算すると109万ドル)より低かったために獲得を逃す結果となっている。
  2. ^ Dressed to the Nines Timeline (1976) より。

関連項目編集

外部リンク編集