ソダー家児童失踪事件

ソダー家児童失踪事件(ソダーけじどうしっそうじけん、英語: Sodder_children_disappearance)は、1945年12月24日アメリカ合衆国ウェストバージニア州フェイエットビルで起きた児童失踪事件

概要編集

1945年12月24日クリスマス・イヴに、アメリカ合衆国ウェストバージニア州フェイエットビルにあるソダーの家が火災で破壊された。当時、そこはジョージ・ソダー(George Sodder)、妻ジェニー(Jennie)、そして10子のうち9人によって占められていた。火災の間、ジョージ、ジェニー、そして9子のうち4人が逃げた。残りの子供5人の遺体はけっして発見されなかった。ソダー家の人々は死ぬまで、行方不明の子供5人は生き残った、と信じていた[1]

ソダー家の人々はけっして家を再建しなかったし、代わりにその場所を行方不明の子供らの記念庭園に変えた。1950年代に、一家は、子供らが死亡したことを疑うようになったとき、州道16号線ぞいの敷地に写真5葉を載せた看板を立て、事件を終結させる情報に対して懸賞金を提供した。それは1989年のジェニー・ソダーの死亡の直後まで続いた[2]

ソダー家の人々は、子供たちが生き残ったという自分らの信念を支持して、火災の前と最中の多くの異常な状況を指摘した。ジョージは、火災が電気的なものであるという消防署の発見に異議を唱え、最近家の配線をやり直して検査したことを指摘した。彼と妻は放火ではないかと疑った、それは子供たちがシチリアのマフィアに連れて行かれたという理論につながり、ひょっとすると、ジョージの、ベニート・ムッソリーニと彼の母国イタリアのファシスト政府に対する率直な批判に対する報復であるかもしれない。

1950年代初頭の州および連邦の事件をさらに調査する努力は、新しい情報を生み出さなかった。しかしながら、家族は後に、1960年代に大人として少年の1人の写真であったかもしれないものを受け取った。彼らの1人の生き残った娘は、彼らの孫と共に、メディアとオンラインで21世紀に事件を公表し続けた。

背景編集

ジョージ・ソダーは、1895年にイタリア、サルデーニャ、トゥーラでジョルジオ・ソッドゥ(Giorgio Soddu)という名前で生まれた。13年後、彼は兄と一緒にアメリカ合衆国に移住した。彼とジョージの両方がエリス島で税関を通過するとすぐに家に帰った。ジョージは、有名になったために、死ぬまで、自分が故郷を立ち去った理由についてあまり話さなかった。

ソダーは最終的にペンシルベニアの鉄道で仕事を見つけ、労働者らに水その他の物資を運んだ。数年後に、彼はウェストバージニア州スミザーズ(Smithers)で運転手としてより恒久的な仕事をした。さらに数年後に、彼は自分のトラック会社を立ち上げ、最初は不陸整正を建設現場に運び、後に地域で採掘された石炭を運んだ。ジェニー・チプリアーニ(Jennie Cipriani)は、幼い頃にイタリアから移住したスミザーズの或る店主の娘で、ジョージの妻になった[1]

夫婦は、ウェストバージニア州フェイエットビル近くに落ち着いた。そこはイタリア移民が多く、町のtwoマイル (3.2 km)北の2階建ての木骨造の家であった[3]。1923年に、彼らは10子のうち第1子をもうけた。ジョージの事業は繁栄し、或る地方公務員の言葉を借りれば、彼らは「周りでいちばん尊敬されている中流階級の家の1つ」("one of the most respected middle-class families around")になった。しかしながら、ジョージは多くの主題についてはっきりした意見を持っていて、それらを表現することを恥ずかしがらず、ときどき人々を疎遠にした。特に、イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニに対する彼の激しい反対は、移民コミュニティの他のメンバーとのいくつかの強い議論につながった。

ソダー家の子供らの末子シルヴィアは1943年に生まれた。そのときまでに、次男ジョーは第二次世界大戦ちゅう軍隊に仕えるために家を出ていた。翌年に、ムッソリーニは退陣させられ、死刑に処せられた。しかしながら、亡き独裁者に対するジョージの批判は、いくつかの厳しい感情を残していた。1945年10月に、[4]或る訪問中の生命保険セールスマンは、肘鉄砲を食らった後、ジョージに、あなたの家は「煙に包まれて…そしてあなたの子供たちは破壊されるだろう」("[would go] up in smoke ... and your children are going to be destroyed")と警告し、これはすべて「あなたがムッソリーニについて行ってきた汚い発言」("the dirty remarks you have been making about Mussolini.")のせいにした。表面上は仕事を求めている別の訪問者は、折りを見て後ろを回って、ジョージに、1組のヒューズ箱が「いつか火災を引き起こす」("cause a fire someday")だろう、と警告した。ジョージは、この意見に戸惑った、なぜなら電気ストーブが設置されたとき彼は家の配線をやり直したばかりだったし[5]、地元の電力会社は、その後、安全だと言っていた。その年のクリスマスの複数週間に、ジョージの年上の息子らは町を通る幹線道路沿いに奇妙な車が1台駐まっていて、その乗車者らが、学校から戻ってくるソダー家の若い子供らを見ていることに気づいていた[1]

1945年クリスマスイブの家の火災編集

1945年にクリスマスイブにソッダー家の人々は祝った。長女マリオンはフェイエットビルのダウンタウンにあるダイム・ストア(dime store)で働いていたし、彼女は妹のうち3人――マーサ(12歳)、ジェニー(8歳)およびベティ(5歳)[6] ――を、彼女がギフトとしてそこで購入していた新しいおもちゃで驚かせた。年下の子供らはたいへん興奮していたために、母親にいつもの就寝時刻を過ぎても起きていられるかどうか尋ねたほどである[6]

午後10時に、ジェニーは彼らに、まだ起きている最年長の男の子2人モーリス(14歳)と弟ルイ(9歳)が、寝に就く前に雌牛を中に入れ雌鶏に餌をやるのを忘れずにするかぎりすこしの間寝ずに起きていることができると告げた。ジョージと、父親と一緒に一日を過ごしたジョン(23歳)とジョージ・ジュニア(16歳)の2人の最年長の男の子はすでに眠っていた。彼女は残っている雑用を忘れないように子供たちに注意した後、シルビア(2歳)を2階に連れて行き、一緒に寝に就いた[6]

午前12時30分に電話が鳴った。ジェニーは目を覚まし、それに出るために階下に行った。発信者は女で、その声はだれだか彼女はわからなかった。女は笑い声とガラスのちりんと鳴る音を背景に、彼女がよく知らない名前を求めた。ジェニーは発信者に、番号違いであると伝え、のちに女の「奇妙な笑い」("weird laugh")を思い出した。ジェニーは送受器を置き、ベッドに戻った。彼女はそうしながら、照明がまだついていてカーテンが引かれていないことに気づいた。これは子供らが両親よりもおそくまで寝ないで起きているときに世話をする2つのことであった[5]。マリオンは居間のソファで眠りに落ちていたために、ジェニーはもっと夜更かしした残りの子供らは上の屋根裏部屋に戻って眠ったと思い込んだ[1]。彼女はカーテンを閉め、照明を消し、ベッドに戻った[5]

午前1時に、ジェニーはふたたび大きなばーんという音をたてて家の屋根にぶつかる物体の音と、ローリング音で目覚めた[1]それ以上何も聞こえなかった後、彼女はふたたび眠りについた。さらに30分後に、彼女は煙の臭いがして、ふたたび目を覚まし、彼女がふたたび起きあがると、ジョージがオフィスに使用した部屋が、電話線とヒューズ箱の周りで、燃えていた[7]。ジェニーは彼を起こし、今度は彼が年上の息子らを起こした[2]

両親と4子――マリオン、シルビア、ジョン、およびジョージ・ジュニア――が家を脱出した。彼らは階上の子供らに必死に叫んだが、何の反応も聞こえなかった。 階段自体がすでに燃え立っていたために、彼らはそこに昇ることができなかった[4]。ジョンは火災後最初の警察のインタビューで、自分は屋根裏部屋に行きそこで眠っているきょうだいらに警告した、と述べたけれども、後に彼は話を変え、そこで上にむかって叫んだだけで実際は彼らの姿は見えなかった、と言った[7]

子供らを見つけ、手伝い、救出する努力は予想外に複雑であった。電話が機能しなかったために、マリオンは或る隣人に走り消防署に電話をかけた。近くの道路の運転者も炎が見えていて、近くの居酒屋から電話をかけていた。それらも不首尾であった、なぜならそれらは交換手につながれなかった[4]か、そこの電話が壊れているとわかったかのいずれかのためである。近所の人か、通りすがりの運転者のいずれかが、町の中心にある別の電話から消防署に連絡することに成功した[6]

ジョージははだしで[5]壁を登り、屋根裏部屋の窓を割り、その過程で片腕を切った。彼と息子らは、屋根裏部屋へのはしご1つを使って残りの子供らを救う意図であったが、しかしそれは家に立てかけている通常の場所にはなく、近くのどこにも見つからなかった。消火に使用できたはずの水樽1つは固く凍っていた。ジョージはその後、仕事で使用するトラックの両方を家まで走らせ、それらを使って屋根裏部屋の窓に登ろうとしたが、しかしどちらも前日に完全に機能したにもかかわらず始動しなかった[1]

逃げ出していたソッダー家の人々6人は、挫折して、次の45分間で家が燃え尽きて崩壊するのを見守るほかなかった。彼らは、残りの子供5人は炎の中で死んだと思い込んだ。その消防署は戦争のために人手不足で個々の消防士が互いに電話をかけあうことに依存して、その朝遅くまで応答しなかった[2]。翌日に、署長(Chief)F・J・モリスは、すでに遅い応答が消防車を運転できないことでさらに妨げられ、自分は運転できる人が得られるになるまで待つ必要がある、と言った[6]

ジェニーの兄弟の1人がそのうちの1人であった消防士らは[8]、ほとんど何もできず、ソダー家の地下室に残された遺灰を見るほかなかった。午前10時までに、モリスはソダー家の人々に、もし家が燃えているとき残りの子供らがいたならば予想されるように、骨が見つからなかった、と語った[1]。別の話によれば、彼らはいくつかの骨片と内臓を見つけたが、しかし家族に話さないことを選択した[2]。また、現代の消防専門家らは、彼らの捜索はせいぜいぞんざいであったと指摘している[8]。がそれにもかかわらず、モリスは、行方不明の子供5人の身体を完全に燃やすほど熱かったことを示唆しながら、彼らが火事で死亡したと信じた[1]

余波編集

モリスはジョージに、州消防保安官事務所がもっと徹底的な調査を実施できるように、現場を邪魔されないままにしておくように命じた。しかしながら、4日後、ジョージと妻はもう光景に耐えられなかったために、彼はその場所を行方不明の子供らの記念庭園に変えることを意図して、現場の5フィート (1.5 m)の土をブルドーザーした。翌日に、地元の検視官が死因審問を招集し、火災は「配線不良」("faulty wiring")による事故である、と判断した[4]。陪審員の中には、彼の反ムッソリーニの発言に対する報復として彼の家が全焼し子供らが「破壊される」("destroyed")ぞとジョージを脅していた男がいた[1]

12月30日に5子の死亡診断書が発行された[6]。地元の新聞は、すべての遺体が発見されたと述べながら、しかしその後、同じ話の中で、1つの遺体の一部のみが回収された、と報じて矛盾したことを言った。ジョージとジェニーは悲しみに打ちひしがれたために、1946年1月2日の葬儀に参列できなかったけれども、生き残った子供らは参列した[6]

公式説明に対する一家の疑問編集

その後間もなく、彼らは自分らの生活を再建し始めたので、ソッダー家の人々は火災に関するすべての公式の調査結果に疑問を呈し始めた。彼らは、もしそれが電気的故障によって引き起こされたのなら、なぜ家族のクリスマスライトは火災の初期段階で電力が消えたはずなのに点いていたのかしらと思った。それから彼らは火災当夜に家の横からなくなっていたはしごを、75フィート (23 m)離れた盛り土の底で見つけた[6]

或る電話修理工はソダー家の人々に、家の電話回線は自分たちが当初考えていたように火災で焼け落ちていなかったが、しかし何者かによって切断された、その何者かはポールを14フィート (4.3 m)登ることをいとわず、それができ、それから2フィート (61 cm)手を伸ばしてそうすることができる、と語った。火災の前後に財産から複滑車1つを盗んでいるところを隣人らが見ていた男の身元が特定され、逮捕された。彼は盗みを認め[5]、自分は電力線だと思って電話線を切った人だと主張したが、しかし火災とは何の関係もないと否定した。しかしながら、容疑者を特定する記録は存在しないし、なぜ複滑車を盗みながらソダー宅への公益事業線を切りたがったかその理由は説明されていない[4]。ジェニーは1968年に、もし彼が電力線を切っていたなら、自分と夫はけっして、他の4子と一緒に、家からうまく脱出できなかったろう、と言った[5]

ジェニーはまた、子供らの身体の痕跡がすべて火災で完全に焼けたというモリスの信念を受け入れるのに苦労した。灰の中から家電製品の多くが、まだそれと認識できるままに、見つかり[1]、ブリキの屋根の破片とともに[6]であった。彼女は、この火災の結果を、ほぼ同じころに読んだ、一家7人が死亡した同様な住宅火災の新聞記事と対比させた。その事例では、犠牲者全員の骨格遺物が発見されたと報じられていた[5]。 ジェニーは獣骨の小さな山を燃やし、それらが完全に焼き尽くされるかどうかを確認した。何もなかった。彼女がコンタクトした地元の火葬場の或る従業員は、2,000 °F (1,090 °C)で2時間遺体が焼かれた後でさえ、ヒトの骨は残っている、と彼女に語った[1]

ソダー家の人々のトラック複数の始動しなかったことも考慮された。 ジョージは、それらはいじくられた、ひょっとすると複滑車を盗み電話線を切った同じ男によってかもしれない、と信じた。しかしながら、彼の義理の息子の1人は、2013年に『Charleston Gazette-Mail』に、自分はソダーと息子が、急いでトラックを始動させようと、燃料を過剰に供給したかもしれないと信じるようになった、と語った[7]

いくつかの話は、ソダー宅への番号違いの電話も、どういうわけか火災と子供らの失踪に関係しているかもしれないと示唆している[6]。しかしながら、捜査官らは後に電話をかけた女の居どころを突きとめた。彼女はそれが自分の側で番号違いであることを確認した[8]

その後の展開編集

春が近づくと、ソダー家の人々は、彼らがそうしようと言っていたように、家の上にブルドーザーした土に花を植えた。ジェニーは死ぬまで注意ふかくその世話をした[7]。しかしながら、1946年前半のさらなる発展は、彼らが記念していた子供らが実際にどこかで生きているかもしれないという家族の信念を強めた[6]

火は電気的故障で始まったのではなく故意に点けられた、という彼らの信念を裏付ける証拠が現れた。クリスマスイブの終わりにフェイエットビルの横を通過したバスの運転手は、家をめがけて「複数の火のボール」("balls of fire")を投げる人を見た、と言った[4]。数か月後に、雪が溶けたとき、シルヴィアは近くのやぶ(brush)の中に、小さい、固い、濃緑色のゴム・ボール様の物体1つを見つけた。ジョージは、火災の前に屋根に大きな音がしたという妻の話を思い出しながら、それは「パイナップル爆弾」("pineapple bomb")手榴弾または戦闘で使用される他の発火装置のように見えた、と言った。一家は後に、消防保安官の結論に反して、火災は屋根から始まった、と主張したけれども、そのときまでにそれを証明する方法はなかった[6]

他の目撃者らは、その子供ら自身を見たと主張した。 道から火災を見守っていた或る女は、家が燃えている間彼らのうち数人が通りすがりの車1台からじっと見ているのが見えた、と言った。フェイエットビルとウェストバージニア州チャールストンとの間の休憩所の別の女は、翌朝自分が彼らに朝食を提供した、 そのうえ休憩所の駐車場にフロリダのナンバープレートをつけた車1台の存在に気づいた、と言った[1]

ソダー家の人々は、近くのゴーリー・ブリッジ(Gauley Bridge, West Virginia)の町からのC.C.ティンズリー(C.C. Tinsley)と称する私立探偵を雇って[1]事件を調査した。ティンズリーは、ジョージの反ムッソリーニ感情をめぐって一年前に彼らを火災で脅した保険セールスマンが、火災を事故と裁断した検死陪審にいたことを知り、これをソダー家の人々に伝えた。彼はまた、灰の中から遺物が見つからなかったというソッダー家の人々への自分の報告にもかかわらず、モリスは心臓を見つけていた、彼はそれを後で金属製の箱に詰めてひそかに埋めていた、というフェイエットビル周辺のうわさを知った[1]

モリスは明らかにこれを地元の聖職者に告白し、彼はそれをジョージに確認した。ジョージとティンズリーはモリスに行き、このニュースをもって彼に立ち向かった。モリスは、彼が金属製の箱を埋めた場所を2人に見せることに同意したし、彼らはそれを掘り出した。彼らは箱の中に見つけたものを地元の葬儀屋に持っていった。葬儀屋はそれを調べた後、火にさらされたことのない新鮮な牛の肝臓であると彼らに語った。その後、フェイエットビル周辺でさらに多くの噂が広まった。モリスはその後、肝臓の入った箱が元々火災から来たのではないことを認めた。彼は、ソッダーズがそれを見つけ行方不明の子供らが実際に火災で死亡したことに満足することを期待して、そこに置いていたとされる[1]

1949年の発掘編集

ジョージは目撃情報の報告が来るのを待たなかった。ときどき彼は自分で目撃情報を作った。彼はニューヨーク市の若いバレエ・ダンサーらの雑誌の写真1葉の中に、行方不明の娘の1人ベティのように見える少女を見た後、その少女の学校まで車で行き、そこで彼はたびかさなる彼女への面会要求は拒否された[1]

彼はまた、自分が誘拐と見なすものを調査することに連邦捜査局(FBI)に興味を持たせようとした。長官J・エドガー・フーバーは、彼の手紙に個人的に答えた。「わたしは役に立ちたいけれども」("Although I would like to be of service")彼は書いた「関連する問題は地元の性格のものであるようにおもわれ、本局の捜査管轄範囲内には含まれない」("the matter related appears to be of local character and does not come within the investigative jurisdiction of this bureau")。もし地方自治体が局の支援を要請するならば、彼はもちろん代理人に支援を指示するだろうが、しかしファイエットビルの警察と消防署はそうすることを拒否した、と彼は付け加えた[1]

1949年8月に、ジョージはワシントンD.C.の病理学者オスカー・ハンター(Oscar Hunter)を説得して、家の敷地内の土の中を新たに捜索するよう監督させた。徹底的に調べたのち、子供らが所有していた辞書1冊や硬貨数個をふくむ遺物が見つかった。いくつかの小さな骨片複数が発掘され、ヒトの椎骨であると判断された[1]

それら骨片は、スミソニアン博物館の専門家マーシャル・T・ニューマン(Marshall T. Newman)に送られた[7]。それらは、すべて同一人物からの腰椎であることが確認された。「横方向のくぼみが融合しているために、この個人の死亡時の年齢は16歳または17歳であったはずである」("Since the transverse recesses are fused, the age of this individual at death should have been 16 or 17 years")とニューマンの報告書は述べた。「通常23で融合する中心はまだ融合していないために、年齢の上限は約22歳になろう」("The top limit of age should be about 22 since the centra, which normally fuse at 23, are still unfused")。かくして、この年齢範囲を考えると、最年長モーリスは当時14歳であったために、これらの骨が行方不明の子供5人のものである可能性はほぼなかった(ただし、報告では、彼の年齢の男児の椎骨はときどき範囲の下限にあるように見えるほど十分に進んでいる)[1]

ニューマンは、骨が炎への暴露の兆候を示さなかった、と付け加えた。さらに、彼は、これらの骨だけが見つかったのは「非常に奇妙」("very strange")であることに同意した。なぜなら、そのような短い期間の薪の火であれば、子供ら全員の完全な骨格を残していたはずであった。報告は、代わりに、椎骨はジョージが現場上でブルドーザーした土から来た可能性が高い、と結論づけた[1]。その後、ティンズリーはそれら骨片がウェストバージニア州マウントホープ近くの共同墓地から来ていたことを確認したとされるが、しかしなぜそこから持って行かれたのか、どうやって火災現場に来たのか説明できなかった[4]。その記録によると、1949年9月にスミソニアンはそれら骨片をジョージに返した。それらの現在の場所は不明である[7]

調査とその調査結果は全国的な注目を集めたし、1950年にウェストバージニア州議会はこの事件について2回の公聴会を開催した。しかしながらその後、知事オキー・L・パットソン(Okey L. Patteson)と州警察警察署長W・E・バーチェット(W・E・Burchett)はソダー家の人々に、事件は「絶望的」("hopeless")であり、州レベルでそれを閉じた、と語った[1]。FBIは、それは州間誘拐事件として管轄権をもつかもしれないと判断したが、しかし2年間無益な先例にならった後、事件を取り下げた[4]

一家の調査を続けて編集

事件を解決するための公式の努力の終わりとともに、ソダー家の人々は希望をあきらめなかった。彼らは子供らの写真をチラシに印刷し、そのうちの1人でも事件を解決したであろう情報に対して5,000ドルの懸賞金(すぐに2倍にされた)を提供した。1952年に、彼らは家の敷地に(そしてもうひとつ、ウェストバージニア州アンステッド(Ansted)近くの国道60号線ぞいに)看板を設置し[4] [6])同じ情報をかかげた。それはやがて国道19号線(こんにちの州道16号線)に接するフェイエットビルを抜ける交通のランドマークになることになる[1][2][7]

一家の努力はすぐに、火災後の子供らの別の目撃とされるものをもたらした。チャールストン・ホテルを経営していた女アイダ・クラッチフィールド(Ida Crutchfield)[8]は、約1週間後に子供らに会った、と主張した。「わたしは正確な日付は覚えていない」("I do not remember the exact date")と彼女はステートメントで述べた。子供らは真夜中ごろ、男2人および女2人と一緒にやって来ていた。その全員が彼女には「イタリア系」("of Italian extraction")のように見えた。彼女が子供らと話そうとしたとき、「男らのうち1人が敵対的にわたしを見た。彼は振り返り、イタリア語で早口に話し始めた。とたんに、一行全体がわたしに話しかけるのをやめた」("[o]ne of the men looked at me in a hostile manner; he turned around and began talking rapidly in Italian.Immediately, the whole party stopped talking to me")。彼女は、彼らが翌朝早くホテルを出たことを思い出した[1]。しかしながら、今日の捜査官らは、彼女は火災の2年後、進んで申し出る5年前に子供らの写真を初めて見ただけであるために、彼女の話は信頼できる、とは考えていない[8]

ジョージはみずから手がかりを求め、内報が来た場所に移動した。ミズーリ州セントルイスからの或る女は、マーサがそこの修道院に拘束されていた、と主張した。テキサスのバーの或る常連客は、数年前にウェストバージニア州のクリスマスイブに起こった火災について他の2人が罪を犯した発言をしているのを耳にした、と主張した。 それらのどれも重要であるとは証明されなかった[1]。ジョージがのちに、フロリダのジェニーの親戚に彼に似た子供らがいると聞いたとき、その親戚はジョージが満足するにはその子供が自分のものであることを証明しなければならなかった[8]

1967年に、ジョージは別のヒントを調査するためにヒューストン地域に行った。そこの或る女は一家宛てに、或る夜ルイスは飲み過ぎた後、自分に彼の本当の身元を明らかにしたと言う手紙を書き送った。彼女は、彼とモーリスの両方がテキサスのどこかに住んでいる、と信じていた。しかしながら、ジョージと彼の義理の息子グローバー・パクストン(Grover Paxton)は彼女と話すことができなかった。そこの警察は彼女が示した男2人を見つけるのを手伝うことができたが、しかし彼らは行方不明の息子らであることを否定した。パクストンは数年後に、その否定についての疑いが死ぬまでジョージの心に残った、と言った[7]

 
1967年に一家が受け取った写真 成人したルイスであると彼らによって信じられた

彼らがその年に受け取った別の手紙は、少なくともルイスがまだ生きているという最も信頼できる証拠だと彼らが信じたものをソダー家の人々にもたらした。ある日、ジェニーは郵便物の中に、ケンタッキー州セントラル・シティ(Central City, Kentucky)の消印が押された、返信先のない自分宛ての手紙を見つけた。中には、ルイに非常によく似た特徴を持つ30歳前後の若い男の写真があった。もし彼が生き残っていたならば30代であったろう。裏には書いてあった――

Louis Sodder
I love brother Frankie
Ilil boys
A90132 or 35[5]
ルイス・ソダー
わたしは兄弟フランキーを愛している
Ilil boys
A90132 or 35[5]

一家は、セントラル・シティに行きその書状を調べる別の私立探偵を雇ったが、しかし彼はけっしてソダー家の人々に報告を返さなかったし、その後彼らは彼を見つけることができなかった[1]。がそれにもかかわらず、その写真は彼らに希望を与えた。彼らはそれを看板に追加し(セントラル・シティを除外して、そしてルイスが危害を加えられる可能性があることを恐れてその他の公開情報を除外して)、暖炉の上方に引き延ばしたものをかけた[1]

翌年末にジョージは『Charleston Gazette-Mail』に、情報の欠如が「岩壁にぶつかるようなものだった――これ以上進むことはできない」("like hitting a rock wall—we can't go any further")と認めた。がそれにもかかわらず、彼は続けることを誓った[5]。「時間がなくなりつつある」(Time is running out for us")と彼はそのころの別のインタビューで認めた。「しかし、わたしたちは知りたいだけだ。もし彼らが火災で死んだのなら、わたしたちは確信したい。もしそうでないなら、彼らに何が起こったのか知りたいのだ」("But we only want to know. If they did die in the fire, we want to be convinced. Otherwise, we want to know what happened to them")[1]

1969年にジョージ・ソダーは死亡した。ジェニーと彼女の生き残った子供らは――火災当夜について家族がそれを受け入れ生活を続けるべきだと言う以外は決して話さなかったジョンを除いて[8] ――行方不明の子供らの運命についての彼らの疑問の答えを探し続けた。ジョージの死後、ジェニーは実家にとどまり、その周りに柵を設置し、部屋を追加した。彼女は死ぬまで、黒い喪服を着て、かつての家のある庭の世話をした。1989年の彼女の死亡の後、一家はついに風化した摩耗した看板を降ろした[1]

生き残っているソダーの子供らは、自分らの子供らと一緒に、事件を公表し手がかりを調査することを続けた。彼らはフェイエットビルの年配の住民らとともに、シチリアのマフィアがジョージから金銭を恐喝しようとしていると理論づけていたし、子供らは計画された放火について知り、もし彼らが家を立ち去れば安全だと言った何者かに連れて行かれたのかもしれない[1]。彼らは十中八九イタリアに連れ戻された[2]。もし子供らがそれらすべての年月を生き延び、両親ときょうだいも生き残ったことを知っていたなら、彼らは彼らが危害を加えないようにするために接触を避けたかもしれない、と一家は信じている[1]

2015年現在、家族の最年少シルビア・ソダー・パクストンは、火災当夜家にいた唯一の生き残ったソダーのきょうだいである。彼女はそれが自分の最初の記憶であると言う。「わたしが家を立ち去った子供らのうち最後の子供だった」("I was the last one of the kids to leave home")と彼女は2013年に『Gazette-Mail』に思い出させた。彼女と彼女の父親はしばしば遅くまで起きていて、何が起こったのかについて話した。「わたしは彼らの悲しみを長い間経験した」("I experienced their grief for a long time")。彼女はまだ、きょうだいらがその夜生き残った、と信じており、彼らを見つけて事件を公表するための努力を静かに支援している[7]。彼女の娘は2006年に述べた――「彼女はわたしの祖父母に、物語を死なせないこと、できるかぎりのことをすること、を約束した」("She promised my grandparents she wouldn't let the story die, that she would do everything she could")[6]

21世紀に、これらの取り組みは、メディア報道に加えて websleuths.com などのオンライン・フォーラムをふくむようになった[4] [6]。後者の増加により、事件を調査した一部の人々は、子供らが実際に1945年に死亡した、と信じるようになっている。『West Virginia's Unsolved Murders』(2012年)でこの事件について書いた地元の作家ジョージ・ブラッグ(George Bragg)は、ジョンが家から逃げる前にきょうだいらを物理的に目覚めさせようとしたとき、ジョンが元の話で真実を語っていたと信じている。彼は、その結論がまだ正しくないかもしれない、と認めている。「論理は彼らが十中八九火災で燃え尽きたとあなたに告げるが、しかしあなたはかならずしも論理で行けるとはかぎらない」("Logic tells you they probably did burn up in the fire, but you can't always go by logic")[7]

2005年に60周年を迎えた National Public Radio の事件についてセグメントを行ったステイシー・ホーン(Stacy Horn)も、火災での子供らの死亡が最も妥当な解決策であると信じている。彼女は、彼女の話から時間をかけて切り取らねばならなかった資料とともにブログへの同時投稿の中で、家が倒壊した後夜じゅう火がくすぶり続けていた、2時間では灰を徹底的に探すのに十分な時間ではない、と述べた。たとえそうだったとしても、消防士らは何を探すべきかわからなかったかもしれない。「しかしながら」("However")と彼女は言った「このすべてについては十分な本物の奇妙さがある...いつか子供たちが火災で死ななかったことがわかったとしても、わたしはショックを受けない」("there is enough genuine weirdness about this whole thing ... that if someday it is learned that the children did not die in the fire I won't be shocked")[8]

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad Abbott, Karen (2012年12月25日). “The Children Who Went Up In Smoke”. Smithsonian. http://www.smithsonianmag.com/history/the-children-who-went-up-in-smoke-172429802/ 2015年12月2日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f Horn, Stacy (2005年12月23日). “Mystery of Missing Children Haunts W.Va. Town”. National Public Radio. https://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=5067563 2015年12月2日閲覧。 
  3. ^ Associated Press (1945年12月26日). “11 children Die in 4 Home Fires; Weather Man's Christmas Greetings to Two Cities”. The New York Times. https://www.nytimes.com/1945/12/26/archives/11-children-die-in-4-home-fires-weather-mans-christmas-greetings-to.html 2015年12月5日閲覧。 
  4. ^ a b c d e f g h i j Newton, Michael (2009). The Encyclopedia of Unsolved Crimes. Infobase Publishing. pp. 348–50. ISBN 9781438119144. https://books.google.com/books?id=gijG7fSwvjAC&pg=PA349 2015年12月3日閲覧。 
  5. ^ a b c d e f g h i j Jackson, Niles (1968年12月22日). “What Really Happened to Children?”. Charleston Gazette-Mail. http://www.rootsweb.ancestry.com/~wvrcbiog/WhatReallyHappenedToChildrena.html 2015年12月5日閲覧。 
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外部リンク編集