メインメニューを開く

チャールズ・フークア・マニエルCharles Fuqua Manuel, 1944年1月4日 - )は、アメリカ合衆国ウェストバージニア州マクドウェル郡ノースウォーク英語版出身の元プロ野球選手外野手)、プロ野球監督。右投左打。現在は、MLBフィラデルフィア・フィリーズで打撃コーチを務める。

チャーリー・マニエル
Charlie Manuel
フィラデルフィア・フィリーズ コーチ #41
Charlie Manuel.jpg
2007年3月11日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ウェストバージニア州マクドウェル郡ノースウォーク英語版
生年月日 (1944-01-04) 1944年1月4日(75歳)
身長
体重
6' 4" =約193 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1963年
初出場 MLB / 1969年4月8日
NPB / 1976年4月3日
最終出場 MLB / 1975年9月21日
NPB / 1981年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

愛称は「赤鬼」。21世紀においては、日本の一部のマスコミ(NHKなど)で、姓を「マニュエル」と表記している[1]

経歴編集

現役時代編集

高校時代は野球の他にアメリカンフットボールバスケットボール陸上競技でも活躍。野球とバスケットボールではキャプテンを務めていた。当時はバスケットボールが一番好きな種目で、いくつかの大学から奨学金つきの勧誘を受けていた。しかし、高校卒業間近に控えた1963年4月に、糖尿病と心臓疾患を患っていた父が自殺。チャーリーに母と兄弟の世話をするよう求める遺書が残されていた。MLB数球団から誘いを受けていた為、進学を断念してミネソタ・ツインズと2万ドルで契約。

1969年にメジャー初昇格。1974年ロサンゼルス・ドジャースに移籍。メジャーでは控えや代打が中心で、6シーズンで僅か4本塁打に終わった。

1975年には日本球界入りが検討されたがAAA級アルバカーキ・デュークスでのプレーを選択した。

1976年ヤクルトスワローズに入団。

1977年には打率.316、42本塁打、97打点と活躍し、チームの球団創設以来初の2位躍進に貢献。

1978年には打率.312、39本塁打、107打点をあげてヤクルトのリーグ初優勝・日本一に貢献。しかし、機動力・守備力を重視する広岡達朗監督の評価は低かった。その年のオフ、守備面での不安に加え、ヤクルトに左腕投手が不足していた事情もあり、永尾泰憲と共に神部年男佐藤竹秀寺田吉孝との交換トレードで近鉄バファローズに移籍する。

近鉄では指名打者で起用され、1979年は開幕から打ちまくってチームの独走に貢献、開幕から48試合でホームラン24本、打率.378といずれも日本新記録ペースだった。ところが、6月9日の対ロッテオリオンズ戦で八木沢荘六から顔面に死球を受けて顎を複雑骨折するというアクシデントがあったが[2]、わずか14試合の欠場で復帰。この時、マニエル自身は当初アメリカに帰国しての手術を強硬に主張したが、負傷や痛みの状態などから航空会社から航空機への搭乗を拒否される可能性が極めて高い事が判明すると、日本国内での手術と治療に同意した。その年、97試合出場だったものの、37本塁打で本塁打王を獲得し、近鉄のリーグ初優勝に貢献[2]MVPにも輝いた。欠場期間、首位を走っていた近鉄の調子が急下降し、西本幸雄監督は「マニエルおじさんが残してくれた貯金を皆で使い果たしてしまうんじゃないかと心配していた」とコメントした。欠場後の失速とこの発言により奮起し、チームと監督の期待に応えるべく強行出場を続け、チームは辛うじて踏みとどまり、前期最終戦でようやく前期優勝を決めた。復帰した際、球団は特例で顎への防禦用のフェイスマスクを付けた特殊なヘルメットを用意した[3]。この死球に関して、マニエルは「ロッテのベンチから『ぶっつけてしまえ』という声が聞こえた。あれは故意だ」と発言している[4]。ロッテ側は否定しているが、マニエルは納得せず、後日八木沢とマニエルの「手打ち」が行われても、マニエルは決して八木沢と握手しようとはしなかった。

1980年は打率.325、48本塁打、129打点で本塁打・打点の2冠を獲得、チームをリーグ連覇に導いた。しかし、契約更改で複数年契約を要求したが、単年契約を呈示した球団と折り合わずに退団した。

近鉄を退団したマニエルは翌1981年、ヤクルトに復帰した。この時広岡は既に退団しており、監督は武上四郎に交代していた。ヤクルト初優勝の立役者であり、近鉄でも連覇に貢献したマニエルへの期待は大きかったが、大杉勝男は1月末にユマ・キャンプに現れたマニエルを見て、走り込み不足ですっかり下半身が弱くなっており、キャンプで徹底して鍛え直さなければ使い物にならないだろうと危惧していた。ところが首脳陣はマニエルに厳しいトレーニングを課そうとせず、またマニエルの側も過去の実績を過信していた節があって、十分な準備をしないままシーズンに入ったと述べている[5]

果たして大杉の懸念は的中し、マニエルは開幕から打撃不振にあえぎ、ようやく第1号本塁打が出たのは開幕から15試合目の4月24日(対阪神)であった。6月上旬には一時的に調子が上向き、6月3日から7日まで5試合連続本塁打(第5号-第9号)を放ったものの、その後は再び不振に陥り、7月23日の前半戦終了までの間にわずか3本しか本塁打を打つことができなかった。さらには後半戦開始直後の8月2日の大洋戦で盗塁を試みた際に左脇腹を強打して長期離脱を余儀なくされ、9月末には戦線復帰したものの、最終的には本塁打12本、打点36という不成績で、同年限りで退団し帰国した[6]

当時ヤクルトの通訳を務めていた中島国章は、この時マニエルは愛人問題が発覚して夫人と衝突していて精神的に不安定であったため、獲得を見送るよう武上監督に進言したが、聞き入れられなかったと主張している[7]。マニエルは2年契約であったが、ヤクルト球団は離婚問題を理由に1年目で契約を打ち切った[8]

ヤクルト・近鉄両球団とも、マニエルを放出した翌年は最下位に転落しており、マニエルの存在感が大きかったことが分かる。複数の球団から日本シリーズに出場した数少ない外国人選手の一人でもある。

引退後編集

引退後はクリーブランド・インディアンスマイナーリーグの監督やコーチを経て、1988年 - 1989年1994年 - 1999年に打撃コーチを歴任した。日本流の早出特打ちを行うなど打線の強化を図り、翌1995年にはワールドシリーズに導いた。この指導が認められて2000年に監督に昇格。2001年にはアメリカンリーグ中地区優勝を果たしたが、翌2002年に成績不振を理由にシーズン途中で解任された。

2003年フィラデルフィア・フィリーズGM特別補佐に就任、その後、2005年からは監督として現場でチームの指揮を執っている。2007年は独走するニューヨーク・メッツを終盤戦に猛追。残り17試合で6ゲーム差という状況から逆転して地区優勝する。2008年には、リーグチャンピオンシップシリーズロサンゼルス・ドジャースを破ってナショナルリーグ優勝を果たし、チームをワールドシリーズに導いた。そのワールドシリーズでもタンパベイ・レイズを破り、見事チームをワールドチャンピオンへと導いた。因みに日本球界経験者でのワールドシリーズ優勝監督は、巨人でプレーして、1986年にニューヨーク・メッツをワールドチャンピオンに導いたデーブ・ジョンソン以来となった。2013年8月12日には監督としてMLB通算1000勝を達成したが、この年チームは地区4位と低迷しており、4日後の8月16日、フィリーズより監督解任が発表された[9]

2019年8月13日、打撃コーチとしてフィリーズへ復帰した[10]

選手としての特徴編集

人物編集

  • 並外れたパワーと、よく興奮して顔が真っ赤になることから「赤鬼(あかおに)」の異名を持つ。それ以前では阪神に在籍したハル・ブリーデン、後にはマニエルと同じタイプのバッターであるボブ・ホーナーもこう呼ばれた。
  • 打撃とは対照的に守備については評価が高いとはいえなかった。指名打者制が採用されていなかった日本シリーズにおいて、マニエルの守備は近鉄のウイークポイントとなってしまった。また、走塁面についても難が多い選手だった。
  • そのため当時ヤクルト時代(1978年まで)の監督だった広岡からは「打つことしかできない選手」などと酷評され、マニエル自身も池井優のインタビュー本の中で、近鉄時代の監督だった西本を絶賛する一方で、広岡の人間性を批判していた。しかし、後に自身が大リーグで監督を務めるようになってからは「いまではヒロオカのやり方も少しは理解できるよ。性格は合わないけどね」と監督としての広岡の手腕については一定の評価をしている[11]
  • 近鉄時代はホームラン数に応じてタクシーチケットを支給するという待遇をしたが、マニエルが2年連続本塁打王となる事態になって近鉄本社側が困惑した(タクシーチケット約40枚分という高額の待遇が近鉄から放出の要因)。

来日の経緯編集

マニエルは、1976年にドジャースからヤクルトに入団したが、これには以下のような経緯が存在したといわれている。

1973年、ヤクルトに入団したジョー・ペピトーンが数々のトラブルを起こして以降、ヤクルトはもちろん日本のプロ野球界、そして野球ファン全体に、メジャーリーガーを排除すべしという雰囲気が漂っていた。その情報はアメリカにも伝わり、多くのメジャーリーグ関係者が日米プロ野球間の関係悪化を懸念したが、その一人に、ドジャース創設者ウォルター・オマリー元オーナーの長男で、当時のドジャースのオーナーだったピーター・オマリーもいた。オマリーはこの懸念を解消し、メジャーリーガーの信用を回復させるために、自軍からまじめで、かつ活躍できる選手を、ペピトーンが問題を起こしたヤクルトに派遣しようと考えた。かくして、マニエルはこの状況下の日本に送っても大丈夫という信頼が置ける選手として事を託され、来日に至ったといわれている。

詳細情報編集

年度別打撃成績編集

















































O
P
S
1969 MIN 83 194 164 14 34 6 0 2 46 24 1 0 0 2 28 4 0 33 3 .207 .320 .280 .600
1970 59 73 64 4 12 0 0 1 15 7 0 0 0 2 6 2 1 17 1 .188 .260 .234 .495
1971 18 17 16 1 2 1 0 0 3 1 0 0 0 0 1 0 0 8 0 .125 .176 .188 .364
1972 63 129 122 6 25 5 0 1 33 8 0 0 0 2 4 0 1 16 1 .205 .233 .270 .503
1974 LAD 4 4 3 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 1 0 0 0 0 .333 .500 .333 .833
1975 15 15 15 0 2 0 0 0 2 2 0 0 0 0 0 0 0 3 2 .133 .133 .133 .267
1976 ヤクルト 84 296 263 28 64 5 0 11 102 32 1 0 0 1 27 4 5 54 7 .243 .325 .388 .713
1977 114 419 358 70 113 8 0 42 247 97 3 0 0 5 49 6 7 60 10 .316 .408 .690 1.098
1978 127 522 468 85 146 12 2 39 279 103 1 3 1 5 43 5 5 80 14 .312 .376 .596 .972
1979 近鉄 97 403 333 69 108 18 0 37 237 94 0 0 0 3 65 9 2 62 5 .324 .438 .712 1.149
1980 118 520 459 88 149 16 0 48 309 129 0 1 0 2 58 7 1 66 11 .325 .402 .673 1.075
1981 ヤクルト 81 280 246 28 64 10 0 12 110 36 1 0 0 2 31 4 1 42 8 .260 .345 .447 .792
MLB:6年 242 432 384 25 76 12 0 4 100 43 1 0 0 6 40 6 2 77 7 .198 .273 .260 .534
NPB:6年 621 2440 2127 368 644 69 2 189 1284 491 6 4 1 18 273 35 21 364 55 .303 .385 .604 .988
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督戦績編集

年度 チーム 地区 年齢 試合 勝利 敗戦 勝率 順位/チーム数 備考 ポストシーズン
勝敗
2000 CLE AL 中 56 162 90 72 .556 2 / 5
2001 57 162 91 71 .562 1 / 5 ALDS敗退 2勝3敗
2002 58 87 39 48 .448 3 / 6 途中解任
2005 PHI NL 東 61 162 88 74 .543 2 / 5
2006 62 162 85 77 .525 2 / 5
2007 63 162 89 73 .549 1 / 5 NLDS敗退 0勝3敗
2008 64 162 92 70 .568 1 / 5 WS優勝 11勝3敗
2009 65 162 93 69 .574 1 / 5 WS敗退 9勝6敗
2010 66 162 97 65 .599 1 / 5 NLCS敗退 5勝4敗
2011 67 162 102 60 .630 1 / 5 NLDS敗退 2勝3敗
2012 68 162 81 81 .500 3 / 5
2013 69 120 53 67 .442 4 / 5 途中解任
通算 12年 1827 1000 827 .547 29勝22敗
  • 太字はプレイオフ進出(ワイルドカードを含む)。
  • 途中解任の年度の順位はいずれも最終順位。

タイトル編集

NPB

表彰編集

NPB

記録編集

NPB初記録
NPB節目の記録

背番号編集

  • 9(1969年 - 1972年)
  • 46(1974年)
  • 16(1975年)
  • 4(1976年 - 1980年、1989年)
  • 2(1981年)
  • 42(1994年 - 1996年)
  • 48(1997年)
  • 32(1998年 - 2002年)
  • 41(2005年 - 2013年、2019年 - )

脚注編集

  1. ^ フィリーズが優勝パレードNHKスポーツトピックス2008年11月1日
  2. ^ a b 【8月4日】1979年(昭54) “赤鬼”マニエル、“アメフット”スタイルで復活”. スポーツニッポン (2007年8月4日). 2013年1月4日閲覧。
  3. ^ 実はヘルメットの話には、後日談があり、顎への防御用のフェイスマスクが打席に立つ際に上下に動いてしまい、打ちづらかった事を週刊ベースボール創刊50周年記念特別企画のインタビューでコメントしていた。
  4. ^ 乾坤一筆
  5. ^ 大杉勝男『サムライたちのプロ野球』(徳間書店、1984年)117-118頁
  6. ^ 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史 1992年度版』(ベースボール・マガジン社、1992年)290-291頁
  7. ^ 巨人、ヤクルトの元国際スカウトが獲得を後悔 大ハズレ助っ人伝
  8. ^ 【1月22日】1982年(昭57) “2年がかり”の自由契約 クビにした途端もう1人のマニエルが…
  9. ^ “「赤鬼」マニエル監督を解任…フィリーズ”. 読売新聞. (2013年8月17日). http://www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20130817-OYT1T00299.htm 2013年8月17日閲覧。 
  10. ^ MLB=「赤鬼」マニエル氏、フィリーズの打撃コーチにReuters
  11. ^ “消えたプロ野球選手「あれからの人生」 輝きは一瞬だったかもしれない。しかし、確かにあの時、輝いたのだ・・・”. 週刊現代. (2012年2月9日). http://gendai.ismedia.jp/articles/-/30732?page=6 2018年8月5日閲覧。 

関連項目編集

外部リンク編集