トニ・ブランコ
この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はブランコ、第二姓(母方の姓)はカブレラです。 |
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トニ・エンリケ・ブランコ・カブレラ(Tony Enrique Blanco Cabrera, 1980年11月10日[1] - )は、ドミニカ共和国サンフアン州サン・フアン・デ・ラ・マグアナ出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。
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基本情報 | |
---|---|
国籍 |
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出身地 | サンフアン州サン・フアン・デ・ラ・マグアナ |
生年月日 | 1980年11月10日(38歳)[1] |
身長 体重 |
188 cm 102 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手 |
プロ入り | 1998年 アマチュア・フリーエージェントとしてボストン・レッドソックスと契約 |
初出場 |
MLB / 2005年4月4日 NPB / 2009年4月3日 |
最終出場 |
MLB / 2005年9月24日 NPB / 2016年7月12日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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目次
経歴編集
アカデミー時代編集
1997年に、ボストン・レッドソックスがドミニカに設けていたアカデミーに入り、プロとしてのキャリアを始動した。 アカデミー入団時の契約金はわずか5000ドルだったという[2]。
レッドソックス傘下時代編集
1998年7月2日に正式にレッドソックスとプロ契約を結びアメリカに渡る[2]。
レッズ傘下時代編集
2002年12月6日にトレードでシンシナティ・レッズへ移籍。
2003年に1Aでプレーした際には、レッズの若手有望株として名前を連ねた。
ナショナルズ時代編集
2004年12月13日のルール・ファイブ・ドラフトでワシントン・ナショナルズから指名され移籍。2005年4月4日にメジャーデビューを果たす。この年は、打率.177、1本塁打、7打点という成績を残しメジャーで56試合に出場したが、翌年からは成績が振るわず、ルーキーリーグから2Aの往復であった。
2007年10月29日にFAとなった。
ロッキーズ傘下時代編集
2008年1月8日にコロラド・ロッキーズと契約。2Aで打率.323、23本塁打、88打点を記録。秋のドミニカン・ウインターリーグではエストレージャス・オリエンタレスに所属し19安打、9本塁打と長打力を発揮した。
中日時代編集
2009年に、前年限りで退団したタイロン・ウッズに代わる助っ人として中日ドラゴンズへ入団。4月3日の横浜ベイスターズとの開幕戦、初打席で三浦大輔からバックスクリーン中段に飛び込むソロ本塁打を放ち、初打席初本塁打を記録。5月7日の対広島東洋カープ戦では前田健太からナゴヤドームの高さ50mの位置にある天井スピーカーに直撃する推定飛距離160mの大飛球を放ち、ナゴヤドーム初の「認定本塁打」を記録。セ・パ交流戦では、日本生命賞(セ・リーグ優秀選手賞)を受賞。7月1日の対阪神タイガース戦(ナゴヤドーム)で、6回裏に福原忍から3点本塁打を放ち、アーロン・ガイエル(東京ヤクルトスワローズ)に次ぐ外国人史上2人目の、1年目でセ・パ11球団に対し本塁打を放つなど、球宴休みまでに打率.295、28本塁打の成績を挙げていた。しかしシーズン終盤には徹底的なマークに苦しめられた。9月8日の対阪神戦で安藤優也から36号本塁打を放って以降、26日の同じく対阪神戦で下柳剛から37号本塁打を放つまで実に66打席を費やすほど警戒された[3]。来日1年目から全試合で4番に座り、39本塁打・110打点で本塁打王、打点王の二冠を獲得した。シーズン終了後に2011年までの2年契約を結ぶ。
2010年は、他球団からマークされ打撃不振に陥る。さらに右手中指を故障し、4番から5番に降格されたり、二軍降格を経験したりするなど苦しいシーズンであった。それでも32本塁打を放ち、2年連続の30本塁打を達成した。
2011年はヘッドコーチの森繁和が「ブランコより飛ばす奴を連れてくる。競争させる」としてジョエル・グスマンとフェリックス・カラスコを獲得したため、春季キャンプでは右翼手の練習もした[4]。また落合自身もグスマンとカラスコの状態次第ではブランコをレギュラーから外す可能性を示唆していた。結局グスマン、カラスコが不調だった為、規定打席不足でありながらレギュラーとして出場。なお、2011年まで中日ドラゴンズの監督だった落合博満はJ SPORTSにて、2012年には荒木雅博を二塁手に戻す予定で、井端弘和を三塁手、森野将彦を一塁手、ブランコは他球団に持ってかれてもいいよというところまで全て段取りはつけてあったと告白している。
2012年は同年から東北楽天ゴールデンイーグルスから中日に復帰した山崎武司とのポジション争いの結果、開幕直後は代打での出場が中心だったが、山崎の故障もあり、4月下旬からスタメンに復帰。また、応援歌コール「かっとばせ ブランコ!」は、今シーズンから「Go Go Let's Go ブランコ!」に変更された。5月には月間打率3割3分3厘、9本塁打、23打点を挙げ月間MVPを獲得した。7月8日のDeNA戦では山口俊から死球を受けた際に左手中指を骨折し登録を抹消、選手間投票で選ばれたオールスターゲームおよびファン投票で選出された本塁打競争の出場も辞退した(代わりに巨人の阿部慎之助が出場)。ブランコが不在の間、4番は和田一浩と森野将彦と山崎武司が務めた。8月28日の巨人戦で一軍復帰すると、早速連続タイムリーでチームに勝利をもたらす活躍を見せた。9月4日の対広島東洋カープ戦で、江草仁貴から来日初の満塁本塁打を放った。同年オフの残留交渉では、球団側は成績にかかわらず、「マネーゲームはしない」として当初から厳しい契約を示唆していた[5]。その結果、金銭面での乖離[6]で難航した。中日は、11月の段階でブランコの自由契約を前提とした行動をしており、11月9日には監督の高木守道が「ブランコなんて三振、三振、三振だ。落ちるボールを放っときゃいいわ!」「前に監督やった時も落合が出て行ったけど、出て行きたいヤツは出て行けばいい。去る者は追わず。無理して引き留めんでいい[7]」と、この時点でまだ自分の部下であったブランコへの挑発的な言動を見せた。高木監督は夫人から「いらんこと言うな」とたしなめられている[8]。11月30日に正式に保留選手名簿から外れ、自由契約公示された。中日新聞によると、金銭面以外の原因としては、この年の途中にブランコが契約した代理人との交渉が上手くいかなかっただけでなく、本人との直接交渉ができなかったこと、チーム編成のバランスを重視していた中日サイドとの乖離もあった[9]。ちなみに、クライマックスシリーズ終了後にブランコは母国に帰国していたが名古屋市内にあった自宅は片付けられていたということから中日に残留することは既に頭の中になかったことが窺い知れる[9]。ただし、同じく中日新聞社の中日スポーツによると、ドミニカに帰国中のブランコを取材した時は、中日の提示した待遇に満足している旨の発言をしていたといい、「義理人情に厚い男が、カネだけで動いたとは思えない。」と他の要因を示唆している[10]。
DeNA時代編集
2012年12月11日に横浜DeNAベイスターズへの移籍が発表された。奇しくも中日でブランコの前任の4番打者タイロン・ウッズとは逆のパターン(2003年と2004年に横浜に在籍し2005年〜2008年まで中日に在籍)となった。背番号は42[11]。2年総額5億円の契約で、移籍1年目の年俸は2億円となった。その後同じく中日の外国人選手であるエンジェルベルト・ソト、ホルヘ・ソーサもDeNAに移籍し、3人の外国人選手が同一球団から同時に特定の球団に移籍するという史上初めての事態となった[12]。
2013年4月18日の広島戦から同月23日の巨人戦まで5試合連続本塁打を放った[13]。4月30日の対ヤクルト戦で、村中恭兵から横浜スタジアムのセンターバックスクリーンに本塁打を放つ。これが月間14本目の本塁打となり、1954年8月に青田昇が記録した月間13本塁打の球団記録を59年ぶりに塗り替えた。最終的には打率.333、41本塁打、136打点といずれも自己最高の成績を達成し、自身初の首位打者と2度目の打点王を獲得した。
2014年は度重なる足の肉離れの影響で成績が低迷し、9月頃には4番の座を筒香嘉智に奪われた。この間にサヨナラ本塁打を2度放ったが、9月26日には再び肉離れを発症し登録抹消され、そのままシーズンを終えた。最終的には、85試合の出場、打率.283、17本塁打、60打点に留まった。12月2日、自由契約公示された[14]。
オリックス時代編集
2014年12月6日にオリックス・バファローズに入団することが発表された[15]。
2015年は5番指名打者で開幕スタメン起用されたが、4月1日に故障で登録を抹消された。補強した選手が故障などで軒並み不振でそのままチームは不振に陥った。その後も故障の影響で昇格と降格を繰り返し、9月21日にシーズン4度目の登録抹消となった[16]。52試合の出場で本塁打数は来日後初めて二桁に届かないなど、成績は低迷。
選手としての特徴編集
打撃はパワーを持ち味とし、ホームランは多いが三振も多い。キャンプでSSKが開発したヘッドスピードの測定器によって158kmを計測したことからも分かるように特にバットのヘッドスピードが圧倒的に速く、芯でとらえた打球は他の追随を許さないほどの飛距離を誇る(バレンティンは151kmだった)。またHRを放った時はすぐにバットを下に置く[18][19]。また、右方向にも3割近い割合で打球を運んでおり[19]、得点圏では安打狙いに切り替えられる器用さも持つ。また、意外にも左投手を苦手としている。
詳細情報編集
年度別打撃成績編集
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2005 | WSH | 56 | 65 | 62 | 7 | 11 | 3 | 0 | 1 | 17 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 19 | 0 | .177 | .215 | .274 | .490 |
2009 | 中日 | 144 | 615 | 549 | 87 | 151 | 25 | 0 | 39 | 293 | 110 | 1 | 1 | 0 | 4 | 48 | 0 | 14 | 157 | 17 | .275 | .346 | .534 | .880 |
2010 | 134 | 561 | 493 | 71 | 130 | 21 | 0 | 32 | 247 | 86 | 0 | 0 | 0 | 2 | 57 | 3 | 9 | 158 | 13 | .264 | .349 | .501 | .850 | |
2011 | 78 | 318 | 278 | 39 | 69 | 13 | 1 | 16 | 132 | 48 | 0 | 0 | 0 | 5 | 30 | 1 | 5 | 68 | 6 | .248 | .327 | .475 | .802 | |
2012 | 96 | 359 | 311 | 44 | 77 | 10 | 0 | 24 | 159 | 65 | 2 | 1 | 0 | 3 | 40 | 2 | 5 | 84 | 5 | .248 | .340 | .511 | .851 | |
2013 | DeNA | 134 | 558 | 483 | 74 | 161 | 22 | 0 | 41 | 306 | 136 | 1 | 1 | 0 | 4 | 62 | 6 | 9 | 118 | 10 | .333 | .416 | .634 | 1.049 |
2014 | 85 | 333 | 311 | 32 | 88 | 14 | 0 | 17 | 153 | 60 | 0 | 0 | 0 | 3 | 18 | 4 | 4 | 91 | 5 | .283 | .330 | .492 | .822 | |
2015 | オリックス | 52 | 189 | 165 | 13 | 32 | 1 | 0 | 9 | 60 | 24 | 0 | 0 | 0 | 2 | 21 | 1 | 1 | 53 | 2 | .194 | .286 | .364 | .649 |
2016 | 27 | 94 | 78 | 6 | 17 | 2 | 0 | 3 | 28 | 13 | 0 | 0 | 0 | 1 | 14 | 0 | 1 | 26 | 2 | .218 | .340 | .359 | .699 | |
MLB:1年 | 56 | 65 | 62 | 7 | 11 | 3 | 0 | 1 | 17 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 19 | 0 | .177 | .215 | .274 | .490 | |
NPB:8年 | 750 | 3027 | 2668 | 366 | 725 | 108 | 1 | 181 | 1378 | 542 | 4 | 3 | 0 | 21 | 290 | 17 | 48 | 755 | 60 | .272 | .351 | .516 | .868 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績編集
- 内野守備
年 度 |
球 団 |
一塁(1B) | 三塁(3B) | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
2005 | WSH | 3 | 11 | 1 | 2 | 2 | .857 | 5 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1.000 |
2009 | 中日 | 141 | 1236 | 75 | 17 | 96 | .987 | - | |||||
2010 | 130 | 1056 | 83 | 14 | 87 | .988 | - | ||||||
2011 | 71 | 625 | 28 | 10 | 49 | .985 | - | ||||||
2012 | 87 | 660 | 33 | 4 | 51 | .994 | - | ||||||
2013 | DeNA | 129 | 995 | 53 | 12 | 88 | .989 | - | |||||
2014 | 76 | 582 | 39 | 10 | 66 | .984 | - | ||||||
2015 | オリックス | 16 | 118 | 11 | 1 | 8 | .992 | - | |||||
MLB | 3 | 11 | 1 | 2 | 2 | .857 | 5 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1.000 | |
NPB | 650 | 5272 | 322 | 68 | 445 | .988 | - |
- 外野守備
年 度 |
球 団 |
左翼(LF) | 右翼(RF) | 外野 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
2005 | WSH | 9 | 9 | 1 | 0 | 1 | 1.000 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | |||||
2009 | 中日 | - | - | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | .500 | ||||||||||
MLB | 9 | 9 | 1 | 0 | 1 | 1.000 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||
NPB | - | - | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | .500 |
- 2017年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最多
タイトル編集
- NPB
表彰編集
- NPB
- セ・パ交流戦優秀選手賞(日本生命賞):1回 (2009年)
- セ・リーグベストナイン(一塁手部門):3回(2009年、2012年-2013年)
- 月間MVP:3回(2011年10月、2012年5月、2013年3・4月)
- スカパー! サヨナラ賞:1回 (2014年9月)
記録編集
- MiLB
- オールスター・フューチャーズゲーム選出 1回:2004年
- NPB
- 初出場・初先発出場:2009年4月3日、対横浜ベイスターズ1回戦(ナゴヤドーム)、4番・一塁手で先発出場
- 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、2回裏に三浦大輔から中越ソロ ※史上48人目の初打席初本塁打(開幕戦での達成は史上9人目)
- 初盗塁:2009年7月7日、対東京ヤクルトスワローズ10回戦(明治神宮野球場)、1回表に二盗(投手:村中恭兵、捕手:相川亮二)
- 節目の記録
- 100本塁打:2012年6月5日、対埼玉西武ライオンズ3回戦(西武ドーム)、8回表に長田秀一郎から左越2ラン ※史上264人目
- オールスターゲーム出場:4回 (2009年、2010年、2013年、2014年))※2012年は出場辞退
- 全球団から本塁打:2013年3月31日、対中日ドラゴンズ3回戦(ナゴヤドーム)、8回表に山井大介から中越2ラン ※史上25人目[20]
- 月間本塁打:14(2013年4月) ※球団記録
登場曲編集
- 「So Gangsta」Snoop Dogg(2010年 - 2011年)
- 「ターミネーターのテーマ」(2009年・2012年)
- 「Conto Los Cascabeles」El Alfa(2013年 - )
背番号編集
- 28 (2005年)
- 42 (2009年 - 2016年)
脚注編集
- ^ a b 1981年生とする媒体もある。中日スポーツに「野球アカデミーに入るために年齢を低く詐称していた」との記事が載った。
- ^ a b 東京中日スポーツ・2009年12月3日付 3面
- ^ ブランコがキング独走38号、グラはカモ 日刊スポーツ、2009年9月30日
- ^ 過去に2009年9月30日の読売ジャイアンツ戦(ナゴヤドーム)でこの年で現役引退した立浪和義が6番・一塁手でスタメン出場することになり、ブランコが4番・右翼手でスタメン出場した。
- ^ 『日刊スポーツ』2012年10月5日11時29分 中日ブランコ流出危機ソーサも?ソトも!?
- ^ 中日が提示した金額は2年契約で1億8000万と2012年12月12日付の中日新聞朝刊で明らかにしている。
- ^ 『日刊スポーツ』 守道監督、ブランコDeNA入りを公表!?
- ^ 『スポーツ報知』大阪版 2012年11月11日 高木監督、ブラ三振発言を愛妻に叱られ反省!…中日 ウェブ魚拓より
- ^ a b 2012年12月12日付 中日新聞朝刊27面(スポーツ)『ブランコDeNA入り 2年総額5億円で合意』より。
- ^ 『中日スポーツ』2012年12月29日号 生駒泰大「ドラ番記者 2012年12月29日 ブランコが去った。」
- ^ トニ・ブランコ選手獲得のお知らせ 横浜DeNAベイスターズ、2012年12月11日
- ^ “DeNA 守護神候補ソーサを獲得 初の3外国人同一球団移籍”. スポーツニッポン. (2012年12月26日) 2012年12月27日閲覧。
- ^ “ブランコが止まらない! 5戦連発!2打席連発!”. スポニチSponichi Annex (スポーツニッポン). (2013年4月23日) 2013年4月25日閲覧。
- ^ 2014年度 自由契約選手 日本野球機構オフィシャルサイト 2014年12月5日閲覧。
- ^ オリ ブランコとバリントンの獲得を発表 nikkansports.com 2014年12月6日配信
- ^ ブランコ 右脚痛め抹消へ、右大腿二頭筋炎で3度目離脱スポニチアネックス 2016年9月20日配信
- ^ “自由契約選手|2016年度公示”. NPB.jp 日本野球機構 (2016年12月2日). 2016年12月3日閲覧。
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2010』 アスペクトムック、2010年、76-77頁。ISBN 978-4-7572-1744-7。
- ^ a b 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』 白夜書房、2011年、90頁。ISBN 978-4-86191-710-3。
- ^ ラミレス 大台2000本安打あと3 本拠地で決める - スポーツニッポン、2013年4月1日
関連項目編集
外部リンク編集
- Tony Blanco stats MiLB.com (英語)
- 個人年度別成績 ブランコ - NPB.jp 日本野球機構