村中 恭兵(むらなか きょうへい、1987年10月25日 - )は、日本の元プロ野球選手投手)。

村中 恭兵
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基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県愛甲郡愛川町
生年月日 (1987-10-25) 1987年10月25日(32歳)
身長
体重
188 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 2005年 高校生ドラフト1巡目
初出場 2006年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴編集

プロ入り前編集

小学校2年生時に、「中津リバーズ」で一塁手として野球を始める。中学時代は相模原南シニアに所属。左投げが買われ、一塁手と投手を兼任した。

2003年東海大甲府高校に進学すると、同姓の村中秀人監督の下でプレー。チームがその年の夏に夏の選手権本大会へ出場すると、自身もベンチ入りを果たしたが、登板の機会はなかった。翌2004年の夏には、チームが2年連続で選手権の本大会出場を果たしたにもかかわらず、自身は故障からの復帰途上でベンチにも入れなかった。故障が癒えた2年時の秋からエースの座をつかんだものの、3年時夏の選手権山梨大会では、3回戦で日本航空高校に敗れた。

高校時代には前述した事情で甲子園球場のマウンドに立てなかったが、東京ヤクルトスワローズスカウトの鳥原公二が「辻内が『剛』なら、村中は『柔』。器用でコントロールが良く、将来性は十分」[1]と評価したり、NPBドラフト会議での指名に必要な調査書が(ヤクルトを含む)全12球団から届けられたりするほど、素材型の好投手として注目されていた。実際には、2005年のNPB高校生ドラフト会議1巡目でヤクルトから単独指名。元投手の鳥原が交渉を担当した後に、契約金7,500万円、年俸720万円(金額は推定)という条件で入団した。入団当初の背番号は15

プロ入り後編集

2006年、春季キャンプを一軍で過ごしたが、以降はシーズンの序盤まで二軍で体力を養成。イースタン・リーグ公式戦での初登板では、ストレートで自己最速(当時)の145km/hを計測した。10月14日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)に先発投手として一軍公式戦へのデビューを果たしたが、3回まで投げて4失点を喫しただけでシーズンを終えた。

2007年、春季キャンプから二軍生活に終始したが、シーズン中には球威が徐々に増加。8月には北京プレオリンピック野球日本代表に選ばれた。シーズン終了後にハワイ・ウィンターリーグへ派遣されると、3勝1敗2セーブ 防御率2.00という好成績を残した。

2008年、左腕の先発要員が手薄なチーム事情を背景に、春季キャンプを2年振りに一軍でスタート。レギュラーシーズンの開幕から一軍の先発ローテーションに入ると、4月4日の対中日戦(ナゴヤドーム)で、7回1失点8奪三振という好投の末に一軍公式戦での初勝利を挙げた。5月3日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(明治神宮野球場)では、9回表1死まで巨人を無安打に抑えながら、亀井義行から初安打を浴びたことをきっかけに3失点で降板。チームも巨人の投手陣に完封されたため、完投目前の9回2死まで好投したにもかかわらず黒星を喫した。シーズン中の8月末に左肘内側側副靱帯の損傷が判明したが、経過観察のみで手術を回避した。

2009年、前年に痛めた左肘のリハビリを経て、シーズン後半に一軍へ復帰。復帰後に一軍公式戦9試合へ登板したが、制球面の課題を克服できないまま、1勝6敗、防御率7.12という成績にとどまった。

2010年、一軍の開幕先発ローテーションへ復帰すると、3月28日には、巨人との開幕カード第3戦(東京ドーム)に先発。巨人打線から11三振を奪った末に、巨人戦初勝利を収めた。4月18日坊っちゃんスタジアムで催された対戦でも12奪三振で7回表まで無安打に抑えるなど、その後の先発登板でも巨人打線との相性が良く、巨人戦では通算で3勝1敗を記録。中日戦でも4勝1敗と好成績を残したが、阪神タイガースとの対戦では0勝3敗と相性の悪さを示した。シーズン通算では、一軍公式戦28試合の登板で、完投0ながら11勝10敗、防御率3.44をマーク。前田健太広島東洋カープ)に次いでセントラル・リーグ2位の163奪三振を記録した一方で、与四球数(69)はリーグワースト2位、暴投数(10)はリーグ最多と制球難の改善に至らなかった。なお、6月29日には、沖縄県内で35年振りに開かれた一軍公式戦(沖縄セルラースタジアム那覇での対横浜ベイスターズ戦)に先発登板。投げては8回を7被安打無失点、打っては2点適時打の活躍でシーズン3勝目を挙げたことから、試合後にはヒーローインタビューを受けた[2]

2011年、春季キャンプでは、一軍チーフ兼投手(当時)の荒木大輔から開幕投手への立候補を促されるほど期待されていた[3]。実際には前年に続いて開幕から一軍の先発ローテーションに入ったが、開幕投手への起用を見送られたばかりか、開幕の直後に故障で出場選手登録を抹消。5月11日の対阪神戦(甲子園)で先発投手として一軍に復帰したものの、右脇腹を痛めたため、1回裏の途中で緊急降板。後の診察で右脇腹の肉離れが判明したため、およそ2ヶ月もの戦線離脱を余儀なくされた。7月29日の対巨人戦(東京ドーム)に先発で復帰すると、一軍公式戦初完投を完封勝利を記録するとともに、チーム54年振りの同カード8連勝に貢献[4]。レギュラーシーズンでは一軍公式戦で4勝6敗にとどまったが、チームのレギュラーシーズン2位で臨んだ巨人とのクライマックスシリーズ(CS)ファーストステージ(神宮)では、救援で2試合に登板。1勝1敗で迎えた最終戦でセーブを挙げたことによって、チームを史上初のCSファイナルステージ進出に導いた。

2012年、レギュラーシーズンの開幕から先発ローテーションの一角を守りながら、一軍公式戦25試合に登板。4月に3勝を挙げるなど序盤から好調で、シーズン2桁勝利と最終規定投球回を2年振りに達成するとともに、リーグ最多タイの2完封を記録した。防御率は(パシフィック・リーグを含む)規定投球回数到達者でワーストの3.88を記録した一方で、WHIPは通算で1.49をマーク。先発勝利試合での成績が防御率1.30、WHIP1.11であったのに対して、敗戦試合での成績が防御率9.17、WHIP2.27に達するなど、投球に安定感を欠いた。シーズン終了後の11月には、「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」で、野球日本代表トップチームの一員として初めて登板した。

2013年、一軍のレギュラーシーズン開幕直前の3月27日に、7歳年上の女性と結婚[5]。シーズンの序盤には、先発登板6試合のうち4試合で7イニング以上を投げたほか、3勝を記録するなど好調だった。セ・パ交流戦での救援登板を経て、リーグ戦の再開後に先発へ復帰したが、7~9月には1勝も挙げられなかった。シーズン通算では前年と同じく25試合に登板したが、勝利数は前年度を大幅に下回る5勝で、防御率も5.00にまで達した。

2014年、レギュラーシーズンを二軍でスタート。4月6日の対阪神戦(神宮)に救援投手として一軍公式戦でのシーズン初登板を果たしたが、2イニングを無失点に抑えて交代した後に腰の張りを訴えたため、翌7日に出場選手登録を抹消された。7月上旬から、先発要員として一軍に復帰[6]。シーズン3度目の先発登板であった7月31日の対阪神戦(神宮)でシーズン初勝利を挙げた[7]が、8月に右肩の関節炎で再び戦線を離脱[8]。結局、一軍公式戦の登板はわずか7試合で、防御率3.79ながら2勝2敗に終わった。

2015年、一軍の開幕ローテーション入りを控えた3月26日に、横浜DeNAベイスターズとのイースタン・リーグ公式戦で、先発投手として調整登板。1回裏の初球に先頭打者へ死球を与えたことをきっかけに、8四死球11失点の乱調で、4回裏の途中で降板を余儀なくされた。この登板で開幕一軍入りを逃したばかりか、以降の同リーグ公式戦でも、登板のたびに四球を連発。シーズン終盤に制球がようやく安定したものの、同リーグの公式戦では、14試合の登板で2勝2敗、防御率8.33という成績にとどまった[9]。結局、一軍公式戦への登板機会がないまま、シーズン終了後に背番号を43へ変更。

2016年、中継ぎ要員として、レギュラーシーズンを3年振りに一軍でスタート。4月17日の対DeNA戦(坊っちゃんスタジアム)から11登板連続無失点を記録したり、2イニングをまたいだ登板を何度も経験したりするなど、ロングリリーフ中心の登板で救援陣を支えた。6月27日の対中日戦(神宮)で9回表に1イニングを投げてシーズン5勝目を記録したが、先発陣に故障者が続出したことを受けて、6月30日の対広島戦(MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島)でシーズン初先発。中3日での先発登板ながら、5回を投げて5被安打2失点で凌いだ末に、一軍公式戦としては2年振りの先発勝利を挙げた[10]。ちなみに、チームはこの試合に勝利したことで、セ・パ交流戦の終盤から続いていた広島の連勝を11で阻止している。なお、一軍公式戦全体では、自己最多の52試合に登板。先発登板は2試合だけで、7勝3敗6ホールド、防御率3.90という成績を残した。

2017年、一軍の開幕ローテーションへ3年振りに復帰したが、調子が上がらず、シーズン途中から中継ぎに再び転向した。一軍公式戦への登板数は前年を大幅に下回る13試合で、1勝も挙げられずにシーズンを終えた[11]

2018年、春季キャンプのスタートを一軍で迎えながら、キャンプ中からコンディションが整わず[12]、腰痛などに悩まされた。一軍公式戦への登板はわずか3試合で、防御率は31.50を記録。シーズン終了後の契約交渉では、NPBにおける年俸減額の上限(減俸率25%)を大幅に超える減俸を球団から提示された末に、前年から50%減の推定年俸1,400万円という条件で契約を更改した[13]

2019年、前年の12月に腰の手術を受けた影響で、一軍公式戦での登板機会はなく、10月1日に球団から戦力外通告を受けた。その際に現役引退の勧告や引退セレモニー開催の打診を受けた[14]が、シーズン終盤の9月からコンディションが上がっていることを理由にいずれも固辞。「挑戦してから(現役を)辞めても遅くはない」として、他球団で現役を続ける意向を示した[15]11月12日には、大阪シティ信金スタジアムで催された12球団合同トライアウトへ参加。対戦した3人の打者のうち、八百板卓丸に四球を与えたものの、最初に対戦した西岡剛を空振りで三振させるなど、残り2人を凡退させた。独立リーグでの現役続行も視野に入れていること[16]から、オーストラリアで12月から開幕するオーストラリアン・ベースボールリーグにも、オークランド・トゥアタラとスポット契約を結んだうえで参加する[17]。12月2日に自由契約公示された[18]

選手としての特徴編集

スリー・クォーター気味のフォームから投げる平均球速142km/h[19]、最速151km/hのストレート(※2011年10月31日巨人とのCSにてリリーフ登板時に計測)とスライダーフォークSFFタイミングを外すカーブも使い投球を組み立てる。2010年春のキャンプではスラーブを習得。

人物編集

「恭兵」の名は、母の大好きな俳優・柴田恭兵にあやかって付けられた。プロ入り後の2010年、神宮外苑で練習中に偶然草野球をしていた柴田から声を掛けられ、激励を受けたことがある[20]。因みに自らも幼少期の頃、柴田が出演する「あぶない刑事」に夢中だったという[21]

村中昭文相模原市内に洋菓子店「ら・ふらんす」を2店舗構える有名なパティシエである。そのため村中本人もプリンが大好物で、初勝利の際にコメントを求められた父が「オフに特別なプリンを作る」ことを約束している[22]。また2010年のファン感謝デーでは父の店のプリンを600本限定で販売した。

母校・東海大甲府の監督で指導を受けていた村中秀人とは血縁関係にないが、村中監督自身も高校時代は左腕エースだったという共通点がある。

さかなクンに似ているため、チーム内でのあだ名は「さかなくん」

詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
2006 ヤクルト 1 1 0 0 0 0 1 0 0 .000 18 3.0 6 1 4 0 0 1 0 0 4 4 12.00 3.33
2008 21 21 0 0 0 6 11 0 0 .353 530 122.1 107 13 59 4 7 105 12 0 60 59 4.34 1.36
2009 9 9 0 0 0 1 6 0 0 .143 202 43.0 49 5 25 0 3 35 4 0 34 34 7.12 1.72
2010 28 28 0 0 0 11 10 0 0 .524 765 178.0 176 15 69 1 8 163 10 0 79 68 3.44 1.38
2011 15 15 2 1 0 4 6 0 0 .400 352 84.0 76 10 30 1 4 60 2 0 45 40 4.29 1.26
2012 25 23 3 2 0 10 7 0 0 .588 633 144.0 155 6 60 1 5 89 3 0 65 62 3.88 1.49
2013 25 18 0 0 0 5 9 0 0 .357 520 111.2 139 12 55 1 8 65 5 0 65 62 5.00 1.74
2014 7 6 0 0 0 2 2 0 0 .500 152 35.2 34 2 12 0 1 22 1 1 17 15 3.79 1.29
2016 52 2 0 0 0 7 3 0 6 .700 292 67.0 63 9 38 0 5 51 1 0 29 29 3.90 1.51
2017 13 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 61 14.2 4 0 15 1 0 6 1 0 6 5 3.07 1.30
2018 3 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 16 2.0 4 1 5 0 1 3 1 0 7 7 31.50 4.50
NPB:11年 199 123 5 3 0 46 55 0 6 .455 3541 805.1 813 74 372 9 42 600 40 1 411 385 4.30 1.47
  • 2019年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績編集



投手












2006 ヤクルト 1 0 0 0 0 ----
2008 21 8 28 1 2 .973
2009 9 2 7 0 0 1.000
2010 28 15 40 1 0 .982
2011 15 5 17 1 0 .957
2012 25 5 38 0 2 1.000
2013 25 5 34 0 3 1.000
2014 7 2 5 0 0 1.000
2016 52 6 14 0 2 1.000
2017 13 0 3 0 0 1.000
2018 3 0 0 0 0 ----
通算 199 48 186 3 9 .987
  • 2019年度シーズン終了時

記録編集

投手記録
打撃記録

背番号編集

  • 15 (2006年 - 2015年)
  • 43 (2016年 - 2019年)

登場曲編集

脚注編集

  1. ^ 日刊スポーツによる。
  2. ^ 35年ぶり沖縄公式戦で村中恭兵3勝目(2010年6月29日)”. 週刊ベースボール (2018年6月29日). 2019年11月27日閲覧。
  3. ^ 荒木コーチ 村中&由規に「開幕立候補」指令”. スポーツニッポン (2011年2月2日). 2019年11月27日閲覧。
  4. ^ ヤクルト54年ぶり巨人8連破!“キラー”村中も復活”. スポーツニッポン (2011年7月16日). 2019年11月27日閲覧。
  5. ^ 村中、3月に結婚していた…お相手は7歳上の元会社員”. スポニチ Sponichi Annex (2013年5月4日). 2013年6月25日閲覧。
  6. ^ ヤクルト・村中が一軍合流 6日広島戦先発へ意気込む”. スポーツニッポン (2014年7月4日). 2014年12月31日閲覧。
  7. ^ 村中“3度目の正直”で今季初勝利も「一つだけじゃダメ」”. スポーツニッポン (2014年7月31日). 2014年12月31日閲覧。
  8. ^ ヤクルト 村中が右肩関節炎、1週間安静へ”. スポーツニッポン (2014年8月21日). 2014年12月31日閲覧。
  9. ^ 『消えた』ヤクルトのドラフト1位四兄弟。残された村中と由規に託された使命(2)【新・燕軍戦記#18】”. BaseBall Channel (2015年11月28日). 2019年11月27日閲覧。
  10. ^ ヤクルト 村中恭兵投手・背水の思いでブルペンの柱に”. 週刊ベースボール (2016年11月5日). 2019年11月27日閲覧。
  11. ^ ヤクルト村中900万減「個人的には先発やりたい」”. 日刊スポーツ (2017年12月11日). 2019年11月27日閲覧。
  12. ^ ヤクルト村中 コンディション不良で二軍へ 育成・田川が入れ替わり一軍合流”. スポーツニッポン (2018年2月9日). 2019年11月27日閲覧。
  13. ^ ヤクルト村中、制限越える50%減「正直ゼロから」”. 日刊スポーツ (2018年11月27日). 2014年12月31日閲覧。
  14. ^ 元ヤクルト・村中、豪ウインター・リーグ参戦!NZチームで現役続行”. サンケイスポーツ (2019年11月27日). 2019年11月27日閲覧。
  15. ^ ヤクルト村中が戦力外「挑戦してから」現役続行希望”. 日刊スポーツ (2019年10月1日). 2019年11月27日閲覧。
  16. ^ 西岡を三振 オール直球勝負のヤクルト村中”. 日刊スポーツ (2019年11月12日). 2019年11月27日閲覧。
  17. ^ ヤクルト戦力外の村中がニュージーランドへ 豪州WLのオークランドに加入”. FullCount (2019年11月27日). 2019年11月27日閲覧。
  18. ^ 自由契約選手 2019年度 NPB公式サイト
  19. ^ 『2011プロ野球オール写真選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2011年、183頁。ISBN 978-4-930942-98-2
  20. ^ 柴田恭兵が激励!村中“恭兵タッグ”で借金完済だ!-2010年8月24日スポーツニッポン
  21. ^ 柴田恭兵がヤクルト村中恭兵激励 日刊スポーツ、2010年8月24日付け朝刊より抜粋
  22. ^ 2006年4月4日サンケイスポーツ

関連項目編集

外部リンク編集