マウロ・タソッティ

イタリアのサッカー選手

マウロ・タソッティMauro Tassotti1960年1月19日- )は、イタリアローマ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。ACミランの黄金期を支えた一人であり、1988年ソウルオリンピックではイタリア代表主将を務めた[1]。1994年のワールドカップ米国大会に出場した。

マウロ・タソッティ
名前
ラテン文字 Mauro TASSOTTI
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1960-01-19) 1960年1月19日(64歳)
出身地 ローマ
身長 177cm
体重 74kg
選手情報
ポジション DF
利き足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1978-1980 イタリアの旗 SSラツィオ 41 (0)
1980-1997 イタリアの旗 ACミラン 429 (8)
代表歴
1978-1982 イタリアの旗 イタリアU-21 10 (1)
1979  イタリアU-23 1 (0)
1992-1994 イタリアの旗 イタリア 7 (0)
監督歴
1997-2001 イタリアの旗 ACミラン ユース
2001 イタリアの旗 ACミラン
2001-2015 イタリアの旗 ACミラン コーチ
2014 イタリアの旗 ACミラン 暫定監督
2014-2016 イタリアの旗 ACミラン スカウト
2016-2021 ウクライナの旗 ウクライナ代表 コーチ
2021-2022 イタリアの旗 ジェノア コーチ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴

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選手時代

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地元のクラブチームSSラツィオのユースアカデミーでキャリアをスタートさせ[2] 、1978-79シーズン、11月5日のアスコリ・カルチョ戦にてセリエAデビューを果たした[1]。デビュー1年目は、リーグ戦14試合に出場、2シーズン目にレギュラーに定着した[1]。1980年には、トトネロスキャンダルにより、チームはペナルティーでセリエBに降格、同じくペナルティーでセリエBに降格することとなったACミランに移籍することとなる[1]

1980-81シーズン、ACミランに加入、チームは1シーズンでセリエAへの昇格を勝ち取った[1]。ここでは長年に渡りレギュラーとして確実なプレーを見せ、フランコ・バレージアレッサンドロ・コスタクルタパオロ・マルディーニフィリッポ・ガッリらと共に鉄壁のDFラインを築き、ミランの黄金期を支えた[1][2]。ラツィオ時代にはやや荒いプレーをすることが多かったが、移籍後は成長を遂げ、アルタフィー二からも賞賛されるプレーを見せるようになった[3]。ミランでの通算出場数は583試合で[2]、これはマルディーニ、バレージ、ジャンニ・リベラに次ぐ歴代4位の記録である。

1981-82シーズン、10月25日、自身初のミラノダービーでは、インテルのガブリエーレ・オリアーリを負傷させ、大きな批判を浴びた[1]。このシーズン、バレージの不在が影響し、翌1982-83シーズンはセリエBに降格することとなったが、翌シーズンは1年で再昇格を勝ち取った[1]。1983-84シーズン、2月26日のサンプドリア戦でセリエA初得点をマークした[1]。1984-85シーズンから、ニルス・リードホルムが監督に就任すると、リードホルムの指導により、DFとして大きな成長を遂げた[1]。この頃から右サイドバックとして、守備のみならず、果敢な攻撃参加も見せ、優れたクロスも供給するなど、現代仕様のサイドバックになった[1]

1988-89シーズン、チャンピオンズカップ決勝、FCステアウア・ブカレスト戦では1点目のゴールの起点となると[4]、更にクロスでマルコ・ファン・バステンのゴールをアシストするなど[1][4]、優勝に大きな役割を果たした。1990年のインターコンチネンタルカップオリンピア戦ではファン・バステンへスルーパスを送り、ファン・バステンのシュートを相手GKが弾いて、ゴールが生まれるなど、チームの2点目の起点となった[5]。1993-94シーズン、これまで右サイドバックとしてレギュラーを務めてきたが、同じ右サイドバックのパヌッチが加入すると併用して起用された。またチャンピオンズリーグ決勝、FCバルセロナ戦ではバレージ、コスタクルタの出場停止という問題を抱え、バルセロナ優位という下馬評の中[6]、キャプテンとして出場しロマーリオストイチコフを抑え[1]、優勝に貢献した[7]。1994-95シーズン、パヌッチの台頭で大幅に出場機会を減らした[1]。1995-96シーズン、最後のタイトルとなったリーグ優勝を果たした[1]。1996-97シーズン終了後、バレージと共に引退した。

1988年のソウルオリンピック代表の経験はあったが、フル代表デビューは1992年10月14日のスイス戦で[8]、32歳での代表デビューは、当時の最年長記録であった[1]。1994年ワールドカップアメリカ大会では、グループリーグ初戦のアイルランド戦で先発出場[8]、準々決勝のスペイン戦でも先発出場し、好プレーを見せていたが[9]ルイス・エンリケに肘打ちをして鼻骨骨折させ8試合出場停止という処分を受け[1][9]、決勝のブラジル戦にも出場出来なかった。その後は高齢であった事もあり、代表に呼ばれることは無かった。

指導者時代

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引退後はミランに残り、ユースでの指導を経て、2001年からアシスタントコーチに就任。2014年1月13日、マッシミリアーノ・アッレグリ監督解任を受けて、暫定監督に就任。その後、クラレンス・セードルフが監督となりアシスタントコーチに戻り、セードルフの後任のフィリッポ・インザーギの下でも留任した。2015年にシニシャ・ミハイロヴィチが監督に就任するとスーパーバイザーに異動。

2016年7月に現役時代から37年間勤めたACミランを退団、旧知のアンドリー・シェフチェンコの要請を受け、ウクライナ代表のアシスタントコーチ就任が発表された。

代表歴

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Mauro Tassotti, da difensore duro a 'Djalma Santos bianco' nel grande Milan”. GOAL (2023年1月19日). 2023年9月2日閲覧。
  2. ^ a b c Mauro Tasotti-Milan.com
  3. ^ トヨタカップ 1989年 大会公式パンフレット p.28
  4. ^ a b サッカーダイジェスト 1989年8月号 no.123 p.8-9 日本スポーツ企画出版社
  5. ^ サッカーマガジン 1991年2月 NO.382 p.6-9
  6. ^ NUMBER 2017年3月号[要ページ番号]
  7. ^ Milan find perfect pitch in dream final”. UEFA.com (1994年5月18日). 2017年7月25日閲覧。
  8. ^ a b Mauro Tassotti National team”. www.transfermarket. 2020年7月25日閲覧。
  9. ^ a b Mondiali 1994: -strie dicalcio 2018年1月8日

外部リンク

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