フィリッポ・インザーギ

イタリアのサッカー選手・監督

フィリッポ・インザーギFilippo Inzaghi, 1973年8月9日 - )は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州ピアチェンツァ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元イタリア代表。現役時代のポジションはフォワード

フィリッポ・インザーギ
2011年のインザーギ
名前
愛称 ピッポ、スーペル・ピッポ
ラテン文字 Filippo Inzaghi
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1973-08-09) 1973年8月9日(50歳)
出身地 ピアチェンツァ
身長 181cm
体重 74kg
選手情報
ポジション FW (CF)
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1991-1995 イタリアの旗 ピアチェンツァ 39 (15)
1992-1993 イタリアの旗 レッフェ(loan) 21 (13)
1993-1994 イタリアの旗 エラス・ヴェローナ(loan) 36 (13)
1995-1996 イタリアの旗 パルマ 15 (2)
1996-1997 イタリアの旗 アタランタ 33 (24)
1997-2001 イタリアの旗 ユヴェントス 122 (58)
2001-2012 イタリアの旗 ミラン 202 (73)
通算 466 (197)
代表歴
1993-1996  イタリア U-21 14 (3)
1997-2007[1] イタリアの旗 イタリア 57 (25)
監督歴
2014-2015 イタリアの旗 ミラン
2016-2018 イタリアの旗 ヴェネツィア
2018-2019 イタリアの旗 ボローニャ
2019-2021 イタリアの旗 ベネヴェント
2021-2022 イタリアの旗 ブレシア
2022-2023 イタリアの旗 レッジーナ
2023- イタリアの旗 サレルニターナ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

弟のシモーネ・インザーギも元サッカー選手。

選手経歴 編集

初期の経歴 編集

当時セリエBに所属していた ピアチェンツァ下部組織で本格的に競技生活をスタートさせ、1991年にトップチームへ昇格を果たす。翌年に当時セリエC1に所属していたレッフェレンタル移籍し、21試合に出場し13得点を記録。その翌年に今度は当時セリエBに所属していたエラス・ヴェローナに渡り、36試合に出場し13得点を記録した。

この活躍で1994年に開催されたU-21の欧州選手権のイタリア代表にも選出され、後の代表でも共に戦うクリスティアン・ヴィエリアレッサンドロ・デル・ピエロと出場している。

2クラブへのレンタル移籍を経て、1994-95シーズンにピアチェンツァに戻り、37試合に出場し15得点を記録。クラブはセリエBを優勝しセリエAに昇格した。この活躍によりパルマに引き抜かれ、ピアチェンツァを後にした。

当時のパルマはセリエAで優勝争いを繰り広げる強豪であり、攻撃陣にはコロンビアのファウスティーノ・アスプリージャ、ブルガリアのフリスト・ストイチコフ、そしてジャンフランコ・ゾラがおり、1995-96シーズンは完全に控えに回り、途中出場で15試合に出場して2得点を記録するのみであった。またシーズン終盤には足首の骨を骨折して、ベンチにも座れない日々が続いた。

1995-96シーズン終了後にはパルマから放出され、奇しくもセリエAデビューを飾った際の対戦相手、アタランタに移籍した。活躍の場を与えられたインザーギは、シーズン序盤から得点を着実に重ねチームを牽引、リーグ最多の24得点を挙げ、セリエAの得点王となった。

ユヴェントス時代 編集

アタランタBCでの活躍により、予てから入団を熱望していたユヴェントスに(推定)移籍金200億リラ、(推定)年俸20億リラ、5年契約で入団[2]。当時のユヴェントスのエースはアレッサンドロ・デル・ピエロ、そしてクリスティアン・ヴィエリアレン・ボクシッチがいたが、後者の2人がインザーギと入れ代わりで退団し、当然デル・ピエロとインザーギの2トップが形成された。

迎えた1997-98シーズン、開幕当初はチーム自体が波に乗れず、インザーギとデル・ピエロのコンビ(後に「デル・ピッポ」と評される)は、前シーズンまで所属したヴィエリ、ボクシッチの2人に比べてCFとしての重厚感の乏しさを指摘される一幕もあったが、インザーギは18得点を記録し(デル・ピエロは21得点)、またジネディーヌ・ジダンの活躍もあり、結果的にユヴェントスはリーグ2連覇を達成した。

1998-99シーズン、W杯出場選手の疲労からチームは低調が続き、インザーギ自身も前シーズンの終わり頃から抱えていた内転筋の炎症に悩まされ[3]、またデル・ピエロが長期離脱を余儀なくされ、更に年明けに当時ローマの指揮を執っていたズデネク・ゼーマンによるユヴェントスの選手を中心としたドーピング疑惑の告発により、インザーギ自身も参考人としてトリノ検事局で証言するなど[3]、ごたごたシーズンの中でチームは6位の成績に終わった。

ユヴェントスがトレゼゲを獲得、そして彼がフィットしていくにつれ出場機会が減っていったため、2001年にACミランへ移籍金約27億円で移籍した。

ACミラン時代 編集

2002-03シーズンはセリエAにおいてチームトップの17得点を挙げた。またチャンピオンズリーグでは準々決勝アヤックス戦2ndレグにおいて、自らの先制ゴールをはじめとした全得点に絡む活躍を見せ、チームの6度目のビッグイヤー獲得に貢献した。

その後2シーズンは怪我に苦しみ、2004-05シーズンに至っては無得点に終わるなど、満足な活躍を見せられなかった。2005-06シーズンも当初は欠場を余儀なくされたが、怪我を癒して迎えた第8節パレルモ戦にて、ブランクを感じさせないダイビングヘッドを決めてみせた。やがて調子を上げたインザーギは、このシーズンから加入したアルベルト・ジラルディーノからレギュラーを奪い、セリエAにおいては12得点を挙げた。この復活劇は当時のイタリア代表監督マルチェロ・リッピの目に留まり、ドイツW杯メンバーに名を連ねることにもつながった。またチャンピオンズリーグにおいても、ベスト16のバイエルン・ミュンヘン戦2ndレグ、準々決勝のリヨン戦2ndレグでそれぞれ2ゴールを挙げるなど好調を維持していた。しかし、準決勝直前に風邪をひきFCバルセロナ戦の1stレグは欠場、2ndレグの出場は叶ったが精彩を欠き、クラブも敗戦し決勝進出を逃した。2006年3月8日には欧州カップでの通算50ゴール目を決めている。

2006-07シーズン、チャンピオンズリーグ予備戦レッドスター・ベオグラード戦でホーム・アウェイ共にゴールを決めミランを本戦出場の原動力となるなど滑り出しこそ好調だったが、途中怪我もあり満足な活躍が出来なかった。しかし、チャンピオンズリーグ決勝リヴァプール戦では「らしさ」をフルに発揮、全2得点を叩き出して勝利への原動力となり、試合後にはマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた(この時のユニフォームはチャリティオークションに出品し、200万円以上の値が付いたと言われる)。チャンピオンズリーグでの相性の良さ(この時点で66試合38ゴール、歴代3位)を見せており、この2ゴールをキャリアでのベストゴールと本人も話している[要出典]。負けたイギリスの新聞には、インザーギの最初の得点がハンドではないかという疑惑に引っ掛けて、「インザーギの腕に負けた」と書きたてたものもあったが、2005年のリヴァプールの奇跡に対するリベンジ(イスタンブールの悲劇を参照。この試合にインザーギは出場していない)を止められなかったと敗戦は認めた。なお、手が体に密着していたのでハンドではないとする見方が一般的である。ちなみにファビオ・カンナヴァーロは最初の得点を見て、「運ではない。これがインザーギだ」と呟いたという[4]

2007年11月6日時点で予備予選を含むCLでは45ゴール、欧州カップでは97試合62ゴールを記録している。欧州カップでは現役首位、過去を含めてもゲルト・ミュラーと並ぶ最多得点者であったが、2007年12月4日、チャンピオンズリーグ、グループステージ第6節(対セルティック戦)の後半25分にゴールを決め、ゲルト・ミュラーの持つ欧州カップ戦における最多得点記録を抜いた。そしてFIFAクラブワールドカップ2007決勝ボカ・ジュニアーズ戦でも2得点で優勝に貢献。CL、UEFAスーパーカップ、CWCと3つの決勝戦で5得点と大舞台での勝負強さを発揮して、2007年を実りのある年とした。2007-08シーズンは怪我もあり欠場も多かったが、シーズン終盤には5試合連続ゴールを含む9ゴールを挙げた。

 
2009年4月19日のトリノ戦ではハットトリックを達成した。

2009年3月15日、アウェーのシエーナ戦で2ゴールを決め、キャリア300ゴールを達成。シルヴィオ・ピオラ(364)、ジュゼッペ・メアッツァ(338)、ロベルト・バッジョ(318)に次ぐイタリア人においては4番目の同記録達成者となった。試合前日に背番号300INZAGHIというユニフォームを用意しており、それを使うこととなった[5]

2010年11月3日、ホームでのCLレアル・マドリード戦で2ゴールを決めたが、ゲルト・ミュラーラウル・ゴンサレスが挙げた欧州カップ通算69得点を追い越す70得点目という歴代最多得点記録となった[6][7](現時点ではラウルがさらに追い抜いている)。またミランにおいてはマルコ・ファン・バステンの記録124得点を追い抜く通算125得点の記録を打ち立てる得点となった[6]。キャリア300ゴール達成時のように、背番号70INZAGHIというユニフォームを用意してその喜びを示した。対戦前にも彼を警戒するコメントを発していた敵将ジョゼ・モウリーニョからも祝福を受けた[8]

上記のゴールでキャリア315得点に達しバッジョの記録が射程圏内に入った矢先の11日、パレルモ戦で負傷退場、そして左ひざの前十字靭帯及び外半月板の損傷により全治6-9ヶ月と診断された[9][10]

2012年、2011-12シーズンをもって10年以上在籍してきたミランを退団することを発表。さらには現役引退を匂わす発言もした。そしてミランでのラストイヤーの最終戦となるセリエA第38節のノヴァーラ戦に後半途中から出場。同じく長年ミランを象徴する存在であり、同年限りでの退団が決まっていたアレッサンドロ・ネスタクラレンス・セードルフらも出場する中、持ち前のDFラインの裏を取る動きから浮き球を胸トラップし、右足でジャンピングボレーを決め有終の美を飾った。これが現役ラストゴールであり、この得点をアシストした浮き球パスを出したのはセードルフであった。その後、7月24日に現役を引退することを正式表明。引退後はACミラン育成組織のコーチングスタッフに就任すると発表した[11]

イタリア代表 編集

イタリア代表としては1997年6月8日にフランスリヨンで行われたブラジルとの親善試合で代表デビューを飾り、1998 FIFAワールドカップUEFA EURO 20002002 FIFAワールドカップ2006 FIFAワールドカップなどで代表に選出され、国際Aマッチ57試合に出場し25得点を記録した。

2004年の欧州選手権直前に負傷し、代表からは遠ざかっていたが、クラブで好調を維持した事もあり、ドイツ大会のイタリア代表に再び名を連ねる事となった。そして、決勝トーナメント進出のかかったチェコ戦で後半42分にハーフライン手前でスルーパスを受け見事に抜け出すと、完全フリーの状態でペナルティエリアまで独走。最後はキーパーのペトル・チェフをドリブルでかわし左足で流し込んでゴールを決め、W杯3回目の出場にしてついに初ゴールを決めた。その後イタリア代表は、トーナメントを勝ち進み24年ぶりのワールドカップ優勝を決めた。

監督経歴 編集

 
ACミランで監督を務めるインザーギ(2014年)

2014年6月、解任されたクラレンス・セードルフの後任としてACミランの監督に就任。2014-15シーズンは10位となり、2015年6月16日に解任が発表された[12]

2016年6月7日、レガ・プロ・ジローネBに所属するヴェネツィアFCの監督に就任した[13]

2018年6月13日、ボローニャFCと2020年6月30日までの契約を締結したことが発表された[14]。しかし2019年1月28日、第21節時点で2勝8分11敗、降格圏の18位と不振を極め、解任が発表された[15]

2019年6月22日、ベネヴェント・カルチョと2020年6月30日までの契約で監督に就任[16]。2019-20シーズンのセリエBを制覇して昇格。2020-21シーズンも続けて指揮をとるが、18位となり1年で降格。監督を退任した[17]

2021年6月9日、ブレシア・カルチョと2023年6月30日までの契約で監督に就任し[17]、リーグ戦31試合を消化し、14勝12分け5敗で5位とまずまずの成績を収めたが、2022年3月に入ってから失速傾向だったことと、マッシモ・チェッリーノ会長との確執が囁かれ、同年3月23日に解任された[18]

2022年7月12日、レッジーナ1914の監督に就任した。レッジーナではシーズン通じて率い、チームも昇格プレーオフ圏内の7位で終え、昇格プレーオフに進出するも、FCズュートティロール(6位)の前にあと一歩及ばなかった。その後、レッジーナは財務問題を理由にセリエBからセリエD(4部)へ降格。インザーギも2023年8月31日に退任した。

2023年10月10日、USサレルニターナ1919の監督に就任[19]。 2024年2月11日、弟のシモーネ・インザーギが率いるインテル・ミラノ戦を翌週に控える中、16試合を指揮して2勝4分10敗と負け越し、この年のセリエAではリーグ最多の47失点で最下位に位置していたこともあり解任された[20]

特徴・評価 編集

インザーギの通算300ゴール達成時点での内訳は、カテゴリーではセリエAで145、セリエBで28、セリエCで13。イタリア代表で25、アンダー21代表で3。コッパ・イタリアで15、欧州カップで66、(伊、欧)スーパーカップで3、クラブワールドカップで2。内容は右足123、左足79、頭63、PK17、「脚」14、FK3、肩1。膝や太腿など「脚のどこか」で泥臭く14点も取っているのが特徴的である[21]

プレーの特徴としては、DFラインのオフサイドトラップを破り、絶妙なタイミングでゴール前に飛び出して、ゴールキーパーとの1対1を冷静に決めるという得点パターンを持つ[22][23]。インザーギは自身のスタイルについて、一瞬の動きでゴールを奪うストライカーという点でパオロ・ロッシに似ていると分析しており[22]、マーカーの視野から消える動きをすること、パサーとの呼吸を合わせることが重要だと述べている[23]。また、こぼれ球に反応して泥臭く押し込むゴールも多く、こうした特長を持つFWを指す"Alla Inzaghi"(インザーギ流、インザーギ風)という言葉もある[24]

ファビオ・カンナヴァーロは自身が作成した優秀なフォワードベスト3にインザーギを挙げ、理由については「抜群に鼻(得点感覚)が利くからさ。ACミランというビッグクラブで長年にわたって得点を量産することは並大抵のことではない…。脱帽だよ」と語っている[21][要出典]オリバー・カーンは「これまで対戦してきた中で最も嫌だったFWは誰か?」との質問に「最強のFWだと思ったのはロナウドで間違いないが、最も嫌だったとなるとインザーギだな…。知っての通り、やつはスーパーFWってわけじゃない。だが、大事な試合のたびに、やつは俺からゴールを奪ってきた。いつもだ!あいつは何てイラつくやつなんだ!」と答えている[25]

マンチェスター・ユナイテッドFC元監督のアレックス・ファーガソンは、オフサイドラインを上手く突破するインザーギについて「オフサイドポジションで生まれた男」とコメントしている[26]。またヨハン・クライフは「彼はサッカーをまったくしていない。ただ常に的を得た場所にいるだけだ」、ゲルト・ミュラーは「彼がしている事の全てはゴールを決めることだ」とのコメントを残している[26]

タイトル 編集

クラブ 編集

ユベントス 編集

ACミラン 編集

代表 編集

イタリア代表 編集

個人 編集

  • セリエA最優秀若手選手 : 1996-97
  • セリエA得点王 : 1996-97

監督 編集

個人成績 編集

クラブ 編集

クラブ シーズン リーグ戦 カップ戦 国際大会 その他 通算
ディビジョン 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ピアチェンツァ 1991-92 セリエB 2 0 1 0 3 0
レッフェ (loan) 1992-93 セリエC1 21 13 0 0 21 13
ヴェローナ (loan) 1993-94 セリエB 36 13 1 1 37 14
ピアチェンツァ 1994-95 セリエB 37 15 4 2 41 17
パルマ 1995-96 セリエA 15 2 1 0 6[注釈 1] 2 22 4
アタランタ 1996-97 33 24 1 1 34 25
ユヴェントス 1997-98 31 18 4 1 10[注釈 2] 6 1[注釈 3] 2 46 27
1998-99 28 13 1 0 10[注釈 2] 6 3[注釈 4] 1 42 20
1999-00 33 15 2 1 8[注釈 5] 10 43 26
2000-01 28 11 0 0 6[注釈 2] 5 34 16
通算 120 57 7 2 34 27 4 3 165 89
ミラン 2001-02 セリエA 20 10 1 2 7[注釈 6] 4 28 16
2002-03 30 17 3 1 16[注釈 2] 12 49 30
2003-04 14 3 3 2 8[注釈 2] 2 3[注釈 7] 0 28 7
2004-05 11 0 2 0 2[注釈 2] 1 15 1
2005-06 23 12 2 1 6[注釈 2] 4 31 17
2006-07 20 2 5 3 12[注釈 2] 6 37 11
2007-08 21 11 0 0 5[注釈 2] 4 3[注釈 8] 3 29 18
2008-09 26 13 0 0 6[注釈 6] 3 32 16
2009-10 24 2 2 1 7[注釈 2] 2 33 5
2010-11 6 2 0 0 3[注釈 2] 2 9 4
2011-12 7 1 2 0 0 0 9 1
通算 202 73 20 10 74 41 4 2 300 126
キャリア総通算 466 197 35 16 112 69 10 6 623 288
  1. ^ UEFAカップウィナーズカップ
  2. ^ a b c d e f g h i j k UEFAチャンピオンズリーグ
  3. ^ スーペルコッパ・イタリアーナ
  4. ^ UEFAカップ2試合出場1得点、スーペルコッパ・イタリアーナ1試合に出場
  5. ^ UEFAインタートトカップ4試合7得点、UEFAカップ4試合出場3得点
  6. ^ a b UEFAカップ
  7. ^ スーペルコッパ・イタリアーナ、UEFAスーパーカップインターコンチネンタルカップに1試合ずつ出場
  8. ^ FIFAクラブワールドカップ2試合出場2得点、UEFAスーパーカップ1試合出場1得点

代表 編集


イタリア代表国際Aマッチ
出場得点
1997 3 0
1998 6 3
1999 8 3
2000 11 5
2001 8 4
2002 8 0
2003 4 6
2004 0 0
2005 0 0
2006 5 2
2007 4 2
通算 57 25

代表でのゴール 編集

# 開催年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1. 1998年10月18日   サレルノスタディオ・アレキ   スペイン 1–0 2–2 親善試合
2. 2–1
3. 1998年12月16日   ローマスタディオ・オリンピコ  世界選抜 1–0 6–2 親善試合
4. 1999年3月27日   コペンハーゲンパルケン・スタディオン   デンマーク 0–1 1–2 UEFA EURO 2000予選
5. 1999年3月31日   アンコーナスタディオ・デル・コネーロ   ベラルーシ 1–1 1–1
6. 1999年6月5日   ボローニャスタディオ・レナート・ダッラーラ   ウェールズ 2–0 4–0
7. 2000年6月11日   アーネムヘルレドーム   トルコ 1–2 1–2 UEFA EURO 2000
8. 2000年6月24日   ブリュッセルボードゥアン国王競技場   ルーマニア 2–0 2–0
9. 2000年9月3日   ブダペストネープシュタディオン   ハンガリー 0–1 2–2 2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
10. 1–2
11. 2000年10月7日   ミラノサン・シーロ   ルーマニア 1–0 3–0
12. 2001年3月24日   ブカレストスタディオヌル・ステアウア   ルーマニア 0–1 0–2
13. 0–2
14. 2001年3月28日   トリエステスタディオ・ネレオ・ロッコ   ハンガリー 1–0 4–0
15. 3–0
16. 2003年9月6日   ミラノ、サン・シーロ   ウェールズ 1–0 4–0 UEFA EURO 2004予選
17. 2–0
18. 3–0
19. 2003年9月6日   ベオグラードスタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダ   セルビア・モンテネグロ 0–1 1–1
20. 2003年10月11日   レッジョ・ディ・カラブリアスタディオ・オレステ・グラニッロ   アゼルバイジャン 2–0 4–0
21. 4–0
22. 2006年6月22日   ハンブルクフォルクスパルクシュタディオン   チェコ 0–2 0–2 2006 FIFAワールドカップ
23. 2006年9月2日   ナポリスタディオ・サン・パオロ   リトアニア 1–1 1–1 UEFA EURO 2008予選
24. 2007年6月2日   トースハウントースヴェリュール   フェロー諸島 0–1 1–2
25. 0–2

監督成績 編集

2024年2月11日現在
クラブ 就任 退任 記録
勝率
ミラン 2014年6月9日 2015年6月4日 40 14 13 13 035.00
ヴェネツィア 2016年6月7日 2018年6月13日 95 48 30 17 050.53
ボローニャ 2018年6月13日 2019年1月28日 24 4 8 12 016.67
ベネヴェント 2019年6月22日 2021年5月24日 78 33 20 25 042.31
ブレシア 2021年6月9日 2022年3月23日 32 14 13 5 043.75
レッジーナ 2022年7月12日 2023年8月31日 40 17 4 19 042.50
サレルニターナ 2023年10月10日 2024年2月11日 18 3 4 11 016.67
通算 327 132 93 102 040.37

脚注 編集

  1. ^ “Filippo Inzaghi - Goals in International Matches” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/finzaghi-intlg.html 
  2. ^ 金子義仁『ワールドサッカーすごいヤツ全集』フットワーク出版、1999年、p.147-153頁。ISBN 4-87689-330-6 
  3. ^ a b 金子義仁『ワールドサッカーすごいヤツ全集 2005~2006』フットワーク出版、2004年、p.18-26頁。ISBN 4-87689-509-0 
  4. ^ Sports Graphic Number誌より[要出典]
  5. ^ ミランFWインザーギ300得点”. 日刊スポーツ (2009年3月17日付ニュースリリース). 2009年3月17日閲覧。
  6. ^ a b フィリッポ、ヨーロッパの王様”. ACミラン公式サイト日本語版 (2010年4月11日付ニュースリリース). 2010年11月6日閲覧。
  7. ^ UEFA主催クラブ大会の最多得点者は?
  8. ^ インザーギ、欧州70ゴールに到達
  9. ^ ミランのインザーギ、じん帯損傷で今季絶望「決してあきらめはしない」 スポーツナビ 2010年11月12日付記事 (アーカイヴ)
  10. ^ Inzaghi se rompe el cruzado y se pierde el resto de temporada(スペイン語)マルカ 2010年11月11日付記事
  11. ^ “サッカー=インザギが引退、ミランのコーチングスタッフに”. ロイター. (2012年7月25日). http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPTYE86O00F20120725 2012年7月25日閲覧。 
  12. ^ ミラン、インザーギ監督解任を発表。過去15年最低の10位で引責 フットボールチャンネル 2015年6月16日
  13. ^ インザーギ、3部からの再出発が決定 ヴェネツィア監督に就任 - Goal.com 2016年6月8日
  14. ^ Filippo Inzaghi è l’allenatore del Bologna - Bologna FC Official Website 2018年6月14日
  15. ^ インザーギ解任のボローニャ、新指揮官にミハイロビッチ氏 ゲキサカ 2019年1月29日
  16. ^ Ufficiale: Pippo Inzaghi riparte dal Benevento” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport - Tutto il rosa della vita. 2019年7月7日閲覧。
  17. ^ a b co.,Ltd, FromOne. “フィリッポ・インザーギ氏、ブレシアの新監督に就任…2年契約で1部昇格目指す”. サッカーキング. 2021年6月10日閲覧。
  18. ^ ブレシア、フィリッポ・インザーギ監督の解任を正式発表”. 超ワールドサッカー! (2022年3月24日). 2023年10月11日閲覧。
  19. ^ 未勝利で19位に沈むサレルニターナ、パウロ・ソウザ解任でインザーギ招へい”. 超ワールドサッカー! (2023年10月11日). 2023年10月11日閲覧。
  20. ^ サレルニターナがF・インザーギ監督を解任…今季二度目の監督交代、後任も発表”. サッカーキング (2024年2月11日). 2024年2月11日閲覧。
  21. ^ a b ワールドサッカーダイジェスト誌の記事およびインタビューより
  22. ^ a b ジャンニ・ヴィズナーディ. “フィリッポ・インザーギ(ミラン) 「失敗したって、次のチャンスは必ず来る」(1/2)”. ワールドサッカーキング 11.04.21(No.175)掲載インタビュー. OCNスポーツ. 2012年5月15日閲覧。
  23. ^ a b ジャンニ・ヴィズナーディ. “フィリッポ・インザーギ(ミラン) 「失敗したって、次のチャンスは必ず来る」(2/2)”. ワールドサッカーキング 11.04.21(No.175)掲載インタビュー. OCNスポーツ. 2012年5月15日閲覧。
  24. ^ 弓削高志 (2012年1月27日). “38歳になったインザーギの試練。戦力外ギリギリでも己を貫けるか?”. セリエAダイレクトレポート. Number Web. 2012年5月15日閲覧。
  25. ^ 引退のカーン、最も嫌だったFWは livedorr NEWS 2008年5月18日
  26. ^ a b Rob Bagchi (2009年3月18日). “Inzaghi finds greatness in greed” (英語). ガーディアンスポーツブログ. 2010-5-24 05:26 (UTC)閲覧。

外部リンク 編集