ヤン・ウルバン

ポーランドのサッカー選手

ヤン・ウルバンポーランド語: Jan Urban, 1962年5月14日 - )は、ポーランドヤヴォジュノ出身の元サッカー選手、元ポーランド代表で現サッカー指導者。現役時代のポジションはセンターフォワード。息子のPiotrekも同じくサッカー選手である[1]

ヤン・ウルバン Football pictogram.svg
名前
ラテン文字 Jan Urban
基本情報
国籍 ポーランドの旗 ポーランド
生年月日 (1962-05-14) 1962年5月14日(56歳)
出身地 ヤヴォジュノ
身長 179cm
体重 72kg
選手情報
ポジション CF
利き足 右足
ユース
ポーランドの旗 ヴィクトリア・ヤヴォジュノ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1981-1985 ポーランドの旗 ザグウェンビェ・ソスノヴィエツ 113 (23)
1985-1989 ポーランドの旗 グールニク・ザブジェ 124 (54)
1989-1994 スペインの旗 オサスナ 168 (48)
1995 スペインの旗 バリャドリード 21 (3)
1995-1996 スペインの旗 トレド 33 (6)
1996-1997 ドイツの旗 オルデンブルク 19 (3)
1998 ポーランドの旗 グールニク・ザブジェ 11 (1)
通算 489 (138)
代表歴
1985-1991 ポーランドの旗 ポーランド 57 (7)
監督歴
2003-2005 スペインの旗 オサスナB
2007-2010 ポーランドの旗 レギア・ワルシャワ
2010 ポーランドの旗 ポロニア・ビトム
2011 ポーランドの旗 ザグウェンビェ・ルビン
2012-2013 ポーランドの旗 レギア・ワルシャワ
2014-2015 スペインの旗 オサスナ
2015-2016 ポーランドの旗 レフ・ポズナン
2017-2018 ポーランドの旗 シロンスク・ヴロツワフ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

目次

経歴編集

選手時代編集

クラブ編集

ポーランド

貧しい鉱山労働者家族の下で6人兄弟の1人としてヤヴォジュノに生まれた[2]ウルバンは、母国のヴィクトリア・ヤヴォジュノ(Victoria Jaworzno)でキャリアを開始した当初、サッカーをしながら整備士や運転手として働いていた[3]。その後に所属したザグウェンビェ・ソスノヴィエツen)とグールニク・ザブジェでプロ選手として活動しており、特に後者のクラブでは、自身のキャリア最高となる1988-99シーズンの17得点を含めて54得点を記録する活躍でリーグ3連覇とスーパーカップ英語版優勝に貢献した。

オサスナ

ザブジェでの優れたパフォーマンスから、1989年8月により競争力の高いリーグであるスペイン1部CAオサスナと契約[4]し、クラブ史上最高のストライカーの1人と語り継がれるようになる稀有な活躍を示すことになる[1]1季目に35試合8得点を挙げると、2季目には、1990年12月30日のエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでのレアル・マドリード戦(4-0)のハットトリック[5][6]を含めて34試合13得点を挙げ、UEFAカップ1991-92出場圏内にしてクラブ史上過去最高位となる4位でのシーズンを終了することに貢献した[7]。欧州カップ戦とリーグ戦との二足の草鞋となった2季目は、層の薄いチームにとって過酷なものであったためにリーグ戦で降格の危機に喘いでいたが、その中でウルバンは12得点を挙げて再度チーム最多の得点源として活躍し、残留に貢献した。UEFAカップの2回戦では、同シーズンのドイツ1部王者となるVfBシュトゥットガルトとのメルセデス・ベンツ・アレーナでの第2戦(3-2)で2得点を挙げる活躍を見せた[8]

1992-93シーズンは、同胞のロマン・コセツキen)と前線でコンビを組んで7得点を記録。しかし、翌1993-94シーズンになると、別のポーランド人コンビのリシャルト・スタニエクen)とヤツェク・ジオベールen)に先発の座を奪われ、また、チームはシーズン終了時に2部へ降格する悲惨なシーズンとなった。なお、ウルバンはチーム2位となる5得点を記録した。1994-95シーズンはホセ・フランシスコ・ロホen)監督の下で2部でのプレーとなり、冬の移籍市場でレアル・バリャドリードと契約して1部の舞台へ戻った[9][10]までの間に12試合3得点を記録した。

晩年

バジャドリードではセンターバックに転向したことで本職のセンターフォワードでの仕事は少なく[11]、21試合の出場に対して僅か3得点に終わった。また、チームは19位で降格したかに思われたが、同1994-95シーズン終了後の騒動によって翌1995-96シーズンは22クラブに拡大となったことで最下位である20位のCDログロニェスの1チームのみが降格となり、最終的にバリャドリードは1部残留が決定した。しかし、ウルバン自身はバジャドリードから放出され、1995年9月11日にCDトレドと契約したことで2部でのプレーとなった[12]。トレドでは、33歳の高齢ながらチーム2位となる33試合6得点を挙げて良いシーズンを過ごした。

CDトレド退団後は、長年活動したスペインの地を離れてドイツ2部VfBオルデンブルクen)と契約。1998年から古巣のグールニク・ザブジェで1シーズンを過ごし、36歳の時に現役引退した。

代表編集

ポーランド代表としては、6年間で57試合7得点を記録し、1986 FIFAワールドカップでベスト16のメキシコ戦までの4試合全てに出場(うち先発3試合)した[13]

指導者編集

現役引退後はパンプローナに定住したウルバンは、同市内にあるCAオサスナの下部組織で指導者としてのキャリアを開始し、2001年にチームをコパ・デ・カンペオネス・フベニール優勝に導く[14]。2003-04及び2004-05シーズンは、3部を戦う同クラブのリザーブチームを指導。その後は、同クラブの運営に参加し、2007年6月にレギア・ワルシャワの監督に就任するためにクラブを去った[15]

2007年6月4日に強豪レギア・ワルシャワの監督に就任[16]すると、かつて指導したイニャキ・アスティスen)を始めとしたオサスナから3選手を獲得した[17][18]。また、UEFA EURO 2008期間中はレオ・ベーンハッカー監督率いるポーランド代表のアシスタントを務めた。

2010年3月14日にレギア・ワルシャワを解雇となる[19]と、同年の10月29日から12月10までポロニア・ビトムの指導をした。2011年3月10日には、マレク・バヨルen)監督の後任としてザグウェンビェ・ルビンと契約したが、成績不振により同年10月31にパヴェル・ハパルen)監督に置き換えられた[20]。2012年5月30日からは再度レギア・ワルシャワの監督に就任し、2012-13シーズンにリーグカップ2冠を達成してリーグの年間最優秀監督に選出された[21]。しかし、2013年12月18日のグールニク・ザブジェとのカップ戦(1-3)で敗退が契機となって翌19日にヘニング・ベルグ監督に置き換えられた[22]

タイトル編集

脚注編集

外部リンク編集