リッキー・ハーバート
リッキー・ロイド・ハーバート(Ricki Lloyd Herbert, 1961年4月10日 - )は、ニュージーランド・オークランド出身の元プロサッカー選手。現サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。
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リッキー・ハーバート(2008年) | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
リッキー・ロイド・ハーバート Ricki Lloyd Herbert | |||||
ラテン文字 | Ricki Herbert | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ニュージーランド | |||||
生年月日 | 1961年4月10日(63歳) | |||||
出身地 | オークランド | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1978 | マウント・ウェリントン | |||||
1979 | ネルソン・ユナイテッドAFC | |||||
1980-1982 | マウント・ウェリントン | |||||
1983 | シドニー・オリンピックFC | |||||
1984 | マウント・ウェリントン | |||||
1984-1986 | ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFC | |||||
1986-1989 | マウント・ウェリントン | |||||
代表歴 | ||||||
1980-1989 | ニュージーランド | 61 (7) | ||||
監督歴 | ||||||
2006-2007 | パパクラ・シティFC | |||||
2006-2007 | パパトゥトゥー AFC | |||||
2006-2007 | セントラル・ユナイテッドFC | |||||
2005-2013 | ニュージーランド | |||||
2006-2007 | ニュージーランド・ナイツFC | |||||
2007-2013 | ウェリントン・フェニックスFC | |||||
2014-2015 | ノースイースト・ユナイテッドFC | |||||
2015 | パプアニューギニア U-23 | |||||
2015-2016 | モルディブ | |||||
2017-2020 | ハミルトン・ワンダラーズ | |||||
2020- | バFC | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
経歴
編集選手時代
編集1978年に地元のニュージーランドのクラブ、マウント・ウェリントンで選手としてデビュー。オーストラリアのシドニー・オリンピックFCやイングランドのウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCなどニュージーランド国外でもプレーした。
1980年に初めてニュージーランド代表に招集され、1982年には、スペインで開催されたFIFAワールドカップのメンバーにも選出された[1]。本大会のグループリーグ第3戦目では、「黄金のカルテット」擁するブラジルと対戦し、4失点を喫するもののDFとして貴重な経験を得た。
監督時代
編集ニュージーランド代表
編集1989年に現役引退。その後はニュージーランドのアマチュアクラブや育成年代のニュージーランド代表監督などを歴任し、2005年2月、アシスタントコーチから昇格する形で、ニュージーランドのフル代表の監督に就任した。
2008年、OFCネイションズカップで代表を優勝に導き、オセアニア代表としてFIFAコンフェデレーションズカップ2009の出場権を獲得した。しかし、コンフェデレーションズカップ本大会ではスペインに5失点を喫するなどして、3戦1分け2敗でグループリーグ最下位に終わった。
2010 FIFAワールドカップのオセアニア予選では磐石の強さを見せ、アジア5位との大陸間プレーオフに進出。バーレーンとのプレーオフでは、アウェーの第1戦目をスコアレスドローに持ち込むと、ホームの第2戦目を1-0で勝利し、ニュージーランド代表にとって28年ぶり2回目となるワールドカップ出場を決めた。ワールドカップ本大会では、前回大会覇者のイタリアとドローを演じるなど大方の前評判を覆す健闘を見せた。決勝トーナメント進出は果たせなかったものの、出場全32ヶ国の中で唯一の無敗(3戦3分け)チームとなり、世界中から注目を受けた。
2014 FIFAワールドカップ予選でもオセアニア予選を勝ち抜き、メキシコとの大陸間プレーオフに進出したが、2戦合計3-9で敗れ、2大会連続の本大会出場を果たせず、代表監督を退任した[2]。
クラブ
編集2006年12月にAリーグに越境参加していた地元・オークランドのニュージーランド・ナイツFCの監督に就任するも、同クラブがシーズン末に解散。ウェリントンに新しく誕生し、同じくAリーグに参戦することとなったウェリントン・フェニックスFCの監督に代表チームと兼任する形で就任した。ウェリントンでは1年目の2007-08シーズンはリーグ最下位に終わったものの、徐々に成績を上げ、2009-10シーズンはリーグで4位、プレーオフでは準決勝まで進出させるなど、クラブでも手腕を発揮している。
2014年8月、インディアン・スーパーリーグのノースイースト・ユナイテッドFCに監督として就任した[3]。
タイトル
編集選手時代
編集- マウント・ウエリントン
- チャタムカップ:2回(1980、1982)
- ナショナル・サッカーリーグ:(1980、1982、1986)
- シドニー・オリンピックFC
- オーストラリアン・ナショナルサッカーリーグカップ:1回(1983)
監督時代
編集- セントラル・ユナイテッドFC
- チャタムカップ:2回(1997、1998)
- ニュージーランドナショナルサッカーリーグ:1回(1999)
- ニュージーランド代表
- OFCネイションズカップ:1回(2008)
脚注
編集- ^ “NZ 1982 World Cup” (英語). New Zealand Football. (2008年7月23日). オリジナルの2008年7月23日時点におけるアーカイブ。 2016年8月31日閲覧。
- ^ “Departing coach has faith in All Whites' future” (英語). Radio New Zealand. (2013年11月22日) 2016年8月31日閲覧。
- ^ “Herbert 'looking forward' to Indian Super League” (英語). Newshub. (2014-08-19) 2016年8月31日閲覧。