加藤顕清

日本の彫刻家、洋画家(1894-1966)

加藤 顕清(かとう けんせい、1894年12月19日[1][2] - 1966年11月11日[1][2])は岐阜県出身[1][2][注釈 1]彫刻家洋画家[1]。本名、加藤 鬼頭太[1][2]

加藤 顕清
(かとう けんせい)
生誕 加藤 鬼頭太
1894年(明治27年)12月19日[1][2]
岐阜県[1][2]
死没 (1966-11-11) 1966年11月11日(71歳没)[1][2]
神奈川県藤沢市[1][2]
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京美術学校[1]
著名な実績 彫刻家
選出 日本芸術院会員(1962年)[1]
日展常任理事(1965年)[1]
影響を受けた
芸術家
高村光雲[1][2]
白井雨山[1][2]
藤島武二[1]
長原孝太郎[1]

長年に渡り日展審査員を務めたほか、後進の指導育成に尽くした[1]

略歴編集

1894年(明治27年)12月19日、岐阜県に生まれる[1][2]。生後まもなく北海道深川市に転居し、上川中学校(現・北海道旭川東高等学校)卒業後、旭川市代用教員を務めた後に上京して上智大学哲学科に入学。中原悌二郎の彫刻に出会ったことをきっかけに[3]、1915年(大正4年)東京美術学校彫刻科入学[1]、在学中は高村光雲白井雨山に師事[1][2]

1923年(大正12年)同校研究科を卒業し西洋画科本科に再入学、藤島武二長原孝太郎に師事し油絵を学んだ[1]。1928年(昭和3年)東京美術学校油絵科卒業[1][2]

在学中の1921年(大正10年)に「静寂」が第3回帝展入選、その後1928年(昭和3年)より3年連続で帝展特選受賞となり、第9回「女人像」、卒業後の第10回「群像」、第11回「立像」がそれぞれ受賞している[1]

1931年(昭和6年)より帝展審査委員[1]。この間、奈良で上代彫刻[注釈 2]の研究を行う[1]。1932年(昭和7年)より北海道庁嘱託を勤める[1]。1933年(昭和8年)より東京美術学校講師嘱託[1]

1934年(昭和9年)、日本彫刻家協会創立、同会会長就任[1]。翌1935年(昭和10年)より北海道庁千島調査委員委嘱となり、南北千島列島樺太踏査に赴く[1]。1936年(昭和11年)より文部省美術展覧会審査員委嘱[1]。1938年(昭和13年)、北海道第二拓殖計画委員を委嘱[1]

1942年(昭和17年)、海軍省嘱託アリューシャン方面戦線最高顧問およびキスカ島施設監督官を兼任[1]

1946年(昭和21年)、東京芸術大学講師を勤める[1]。同年、日本彫刻家連盟委員長、東京都都市美委員会委員委嘱に就任[1]。1950年(昭和25年)、日展参事に就任[1]

1952年(昭和27年)、前年1951年度(昭和26年)出品作「人間」が第8回日本芸術院賞受賞[1][4][5]

1954年(昭和29年)より渡欧し、イタリアローマではギリシャ古典彫刻、フランスパリでは近代美術、ドイツミュンヘンではアドルフ・ヒルデブラントおよびハンス・マレーヌスウェーデンデンマークノルウェーでは北欧新古典彫刻を研究した[1]。翌1955年(昭和30年)にはフィンランドラップランドなど北極圏を旅行[1]。同年、ローマにおいて日本およびイタリアの美術協会会長となる[1]。また同年、奈良において再度飛鳥仏像彫刻および中国古代彫刻の研究を行う[1]

1960年(昭和35年)、日本都市建設協会技術委員[1]。翌1961年(昭和36年)には東京都都市美協会常務理事に就任[1]。1962年(昭和37年)2月、日本芸術院会員に任命された[1]。1964年(昭和39年)1月には日本放送協会 (NHK) 美術顧問嘱託[1]

1965年(昭和40年)より日展常任理事[1]。1966年(昭和41年)6月、日本彫塑会会長就任[1]

同年11月11日、自宅アトリエ2階より誤って転落、搬送先神奈川県藤沢市の外科病院にて死去、享年71[1]

受賞歴編集

  • 「静寂」 (1921年(大正10年)) - 第3回帝展入選[1]
  • 「女人像」(1928年(昭和3年)) - 第9回帝展特選[1]
  • 「群像」(1929年(昭和4年)) - 第10回帝展特選[1]
  • 「立像」(1930年(昭和5年)) - 第11回帝展特選[1]
  • 「人間[4]」(1952年(昭和27年)) - 1951年度(昭和26年)日本芸術院賞[1][4]

作品編集

  • 「コタンのアイヌ」(1948年中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館
  • 「人間」(1951年日本芸術院賞
  • 「馬」(1953年
  • 「トルソ・女」(1955年
  • 「ペステム」(1957年
  • 「黒田岩吉像」(1959年
  • 「トルソ・女」(1960年
  • 「盲目のアコーディオン奏き」(1960年)
  • 「人間像・青年」(1960年) 旭川市7条緑道
  • 「女の首」(1962年)
  • 「コタンのメノコ(愛情)」(1962年)
  • 「真崎健夫先生像」(1963年
  • 「母子像」(1963年)
  • 「イレネー」(1963年) 帯広競馬場前庭
  • 「裸婦座像」(1964年
  • 「弁財天と世界女性群像」(1964年) 江の島東京オリンピックヨット競技会場記念
  • 「黒沢酉蔵像」(1965年)
  • 「篠田弘作像」(1965年)
  • 「ロシア人の首」
  • 「望郷のタロー」 一番町セントラルビルディング(東京都千代田区一番町22番地1)
  • W.S.クラーク胸像[6]北海道大学構内
    • 現存像は田嶼碩朗により1926年(大正15年)5月14日に建立された元像が1943年(昭和18年)6月に太平洋戦争で金属供出したため、田嶼没後の1948年(昭和23年)10月に加藤が田嶼の残した石膏原型を元に元像に忠実に再現した複製[7][8][9][10][11]
  • 「クラーク先生の原像」 北海道大学事務局大会議室
  • 「青年像」 NHK放送センター入り口花壇
  • 「佐藤昌介像」 北海道大学農学部3階(農業経済学科)・中央ローン東側

ギャラリー編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 北海道出身ではない[1][2]
  2. ^ 専ら飛鳥仏像について研究した[1]

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「加藤顕清」(2015年12月14日)、2016年10月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. “加藤顕清 かとうけんせい”. コトバンク. 2016年10月13日閲覧。
  3. ^ 企画展「思索するアカデミズム〜加藤顕清展」”. 2020年7月26日閲覧。
  4. ^ a b c 作品詳細”. 日本芸術院. 2016年10月13日閲覧。
  5. ^ 歴代授賞者詳細”. 日本芸術院. 2016年10月13日閲覧。
  6. ^ W.S.クラーク胸像”. 札幌芸術の森美術館. 2016年10月13日閲覧。
  7. ^ ボランティア・ニュース No.20 2011.3 (PDF)”. 北海道大学総合博物館. p. 2 (2011年3月). 2016年10月13日閲覧。
  8. ^ 札幌の野外彫刻と彫刻家たち”. 札幌芸術の森美術館. 2016年10月13日閲覧。
  9. ^ W. S. クラーク博士関係文献目録 北大時報 No.383 昭和61(1986)2月”. 北海道大学附属図書館 (1986年2月). 2016年10月13日閲覧。
  10. ^ “北大クラーク像は亡父の作品 末娘が真相究明し著書に 帯広”. 十勝毎日新聞社ニュース. (2016年3月9日). http://www.tokachi.co.jp/news/201603/20160309-0023179.php 
  11. ^ “『彫刻家 田嶼碩朗』 /北海道”. 毎日新聞地方版. (2016年1月23日). http://mainichi.jp/articles/20160123/ddl/k01/040/091000c 

関連項目編集

外部リンク編集