メインメニューを開く
建艦競争の先駆となったブラジルの弩級戦艦ミナス・ジェラエス英語版[注 1]の大砲試験、1909年撮影。舷側に照準できる大砲が全て使われたため、それまでの軍艦による舷側砲斉射の中で最大のものとなった。

南アメリカ建艦競争(みなみアメリカのけんかんきょうそう、英語: South American dreadnought raceスペイン語: Carrera armamentista naval sudamericanaポルトガル語: Corrida armamentista naval da América do Sul)は20世紀初頭、ABC三国アルゼンチンブラジルチリ)による海軍の軍拡競争。ブラジル政府が弩級戦艦を3隻注文したことで始まった。

1904年、ブラジル海軍は自軍がアルゼンチン海軍チリ海軍に質でも総トン数でも水をあけられていることに気づいた。1889年にブラジルの帝政が倒れた英語版後、ブラジル海軍が注文した船の数はめっきり減ったが、アルゼンチンとチリは1904年時点で15年間の建艦競争英語版を終えたばかりであり、近代軍艦を配備していた。ブラジルではコーヒー豆とゴムの需要増大により政府の収入が急増したため、ブラジル国会は大国の座を取り戻すには強力な海軍を建設する必要があると考え、収入の一部を海軍問題の対処にあてることを議決した。

ブラジル政府は1905年末にイギリスに小型戦艦を3隻注文したが、1906年に革新的なイギリス戦艦ドレッドノートが現れたことでこの建艦計画は廃止された(前弩級戦艦も参照)。その代わり、ブラジルはミナス・ジェライス級戦艦(弩級戦艦)を3隻注文した。弩級戦艦は世に現れた時点で世界最強の戦艦であり、20世紀中期の核兵器と同様に国威の象徴となっていた。この注文によりブラジルという新興国は世界の注目の的になり、諸大国の新聞と政治家は敵国がブラジルから弩級戦艦を購入することを危惧した。アルゼンチンとチリ両政府もすぐに海軍制限協定を廃止してそれぞれ弩級戦艦を2隻注文した(アルゼンチンはリバダビア級戦艦を、チリはアルミランテ・ラトーレ級戦艦を注文した)。

一方、ブラジルの3隻目の弩級戦艦は経済衰退と海軍の反乱もあって反対に遭った。海軍の反乱というのは、新しく注文された2隻の弩級戦艦の乗員と、より小型な軍艦数隻の乗員が反乱を起こし、ブラジル海軍が実施している「奴隷制度」を廃止しなければ首都リオデジャネイロを砲撃すると脅した事件だった(チバタの反乱英語版)。このように圧力はあったが、造船会社のアームストロング・ホイットワース社はブラジルに契約を守らせることに成功した。戦艦は暫定的にリオデジャネイロという名前がつけられたが、設計が数度にわたって変更されたため、造船が数回中断された。直後にブラジルのコーヒー豆とゴム景気が崩壊した。さらに大型な超弩級戦艦の登場で旧式艦化することを恐れたブラジル政府は1913年12月に未完成の戦艦をオスマン帝国に売却した。

第一次世界大戦の勃発により南米諸国が戦艦を購入できなくなったため、建艦競争も自然に終息した。ブラジル政府は1914年5月に戦艦リアシュエロ(Riachuelo)を注文したが、世界大戦により注文は実質的にキャンセルされた。イギリスはチリの戦艦2隻を完成する前に買い上げ、うち1隻は1920年にチリに売り戻した。アルゼンチンの弩級戦艦2隻は中立国のアメリカ合衆国で建造されたこともあって接収の運命を逃れ、1914年から1915年に就役した。戦後も南米で建艦計画が持ち上がることがあり、弩級戦艦の建造が主張されたが、実際に建造されることはなかった。

目次

背景編集

アルゼンチンとチリの建艦競争編集

アルゼンチンとチリの主要な軍艦購入と注文(1887年 - 1902年)
船(種類)
船(種類)
1887年   カピタン・プラト英語版(BB)
プレシデンテ・エラスリス(Presidente Errázuriz,PC)
プレシデンテ・ピント英語版(PC)
1896年   オイギンス英語版(AC)
1888年   リベルタド英語版(BB)
インデペンデンシア(BB)
1896年   サン・マルティン英語版(AC)
1890年   ベインティシンコ・デ・マヨ(Veinticinco de Mayo,PC) 1897年   プエイレドン英語版(AC)
1891年   ヌエベ・デ・フリオ英語版(PC) 1898年   ヘネラル・ベルグラーノ英語版(AC)
1892年   ブランコ・エンカラダ英語版(PC) 1901年   リバダビア(AC)
マリアーノ・モレノ(AC)
1894年   ブエノス・アイレス(PC) 1901年   コンスティトゥシオン(BB)
リベルタード(BB)
1895年   エスメラルダ英語版(AC)
ミニストロ・センテノ英語版(PC)
1901年   戦艦2隻(注文したとされた)
1895年   ガリバルディ英語版(AC) 1901年   チャカブコ(PC)
記号解:
  チリ   アルゼンチン
BB: 前弩級戦艦 – PC: 防護巡洋艦 – AC: 装甲巡洋艦
日付は注文日を示す。
出典: Scheina, Naval History, pp. 46–51, 297–299.

アルゼンチンとチリの2国が南米の最南部地域であるパタゴニアの領有権を主張したため、2国は1840年代より緊張状態にあった。1872年と1878年にはアルゼンチン政府より紛争地域で操業する免許を得た商船がチリの軍艦に拿捕されたことで緊張が高まり、1877年にはアルゼンチン軍艦がチリの免許を得たアメリカ商船を拿捕した。さらに1878年11月にアルゼンチンがサンタ・クルス川英語版に小艦隊を派遣して、チリも同様に艦隊を派遣したことで両国は開戦寸前になったが、それに慌てた両国は条約を締結して戦争を回避した。その後の数年はアルゼンチンが先住民族に対する軍事作戦英語版(1870年 - 1884年)で、チリが対ボリビアペルー太平洋戦争(1879年 - 1883年)で手いっぱいだったが、両国とも軍艦を数隻注文した。チリは防護巡洋艦エスメラルダを、アルゼンチンは装甲艦のアルミランテ・ブラウンと防護巡洋艦のパタゴニア英語版を注文した[1]

1887年、チリ政府は海軍の予算を3,129,500ポンド増やした。当時のチリ艦隊は1870年代からの装甲艦アルミランテ・コクラン英語版ブランコ・エンカラダ英語版が主力であったが、チリは戦艦カピタン・プラト英語版、防護巡洋艦2隻、水雷艇2隻を注文、6隻とも1890年に起工した。アルゼンチン政府は即座に戦艦のリベルタド英語版インデペンデンシアを注文、両国間の建艦競争の幕開けとなった。建艦競争はチリが1891年の内戦英語版という支出の高い戦争を経たにもかかわらず、1890年代を通して行われた。両国は1890年から1895年までかわりばんこで巡洋艦を注文、それぞれ前回の巡洋艦より性能を少し上げた巡洋艦を注文した。1895年7月にアルゼンチンがイタリアから装甲巡洋艦ガリバルディ英語版を購入したことで競争が更に激しくなり、チリも負けじと装甲巡洋艦オイギンス英語版を注文した。その結果、アルゼンチンは更にイタリアのアンサルド社から装甲巡洋艦を1隻注文、後に2隻を追加注文した[2]

1899年に米国駐アルゼンチン特命全権公使ウィリアム・ペイン・ロード英語版プナ・デ・アタカマ紛争英語版の解決を仲介したため競争が一旦減速したが、両国とも1901年に軍艦を注文した。アルゼンチン海軍はイタリアから装甲巡洋艦2隻を購入、チリ海軍はイギリスにコンスティトゥシオン級前弩級戦艦2隻を注文した。アルゼンチンはさらに1901年5月にアンサルドと内示書を調印してより大型な軍艦2隻を購入した[3]

イギリス政府はこのように紛争が拡大することに喜ばなかった。というのも、すぐにでも戦争が勃発しそうな勢いであり、武装紛争は当地におけるイギリスの商業利益に悪影響を及ぼすからである。アルゼンチンもチリもイギリス製品を輸入しており、イギリスは主にラプラタ川を通って輸送されるアルゼンチンの穀物とチリの硝酸塩を輸入していた[4]。そのため、イギリス政府は駐チリ大使を通じて交渉を仲介、1902年5月28日の五月協定英語版につながった。五月協定は3つの協定で構成され、うち3つ目の協定は両国の海軍武装を制限、向こう5年内に軍艦を取得する場合は18か月前の事前告知義務を課した。建造中の軍艦は売却され、うちチリの戦艦はイギリスのスウィフトシュア級戦艦になり、アルゼンチンの装甲巡洋艦は日本の春日型装甲巡洋艦になった。計画中のアルゼンチン戦艦2隻の注文がすでになされたかは明らかではなかったが、いずれにしても計画はすぐに放棄された。カピタン・プラト、ガリバルディ、プエイレドンの3隻は武装解除されたが、主砲台を外せるクレーンがなかったため主砲台は残された[5]

ブラジルの没落と再興編集

ブラジルの主な軍艦(1880年 - 1906年)
船(種類)
船(種類)
1881年   リアシュエロ(BB) 1892年   ベンジャミン・コンスタント(Benjamin Constant,PC)
レプブリカ(República,PC)
1883年   アキダバン(BB) 1896年   アウミランテ・バロッソ(Almirante Barroso,PC)
1890年   アウミランテ・タマンダレ英語版(PC) 1898年   デオドロ(Deodoro,BB)
フロリアーノ(Floriano,BB)
記号解:
  ブラジル帝国   ブラジル共和国
BB: 装甲艦海防戦艦 – PC: 防護巡洋艦
日付は進水式の日付。
出典: Scheina, "Brazil," in Gardiner and Gray, Conway's 1906–21, pp. 403–404.

1889年のクーデター英語版でブラジルの帝政が打倒され、さらに1891年と1893年から1894年の2度の海軍反乱英語版、1893年から1895年までの共和派革命英語版、1896年から1897年までのカヌドス戦争英語版など戦乱が重なったため、ブラジル海軍は顧みられないまま艦船が旧式化した[注 2][7]。1896年時点のブラジル海軍は許可された兵員数の45%しか有しておらず、海軍の技術が発展する中、ブラジル海軍の近代装甲艦は1898年進水の海防戦艦2隻だけだった[8]。このように荒廃した状態の守備について、ブラジル外務大臣英語版リオ・ブランコ男爵英語版は「このような状況で、あなたは[...]私がどれだけ心配しているか、私の憂慮がわかるだろう。まだ(ブラジルを)守っているものはこの地に将来が残っていた(帝政)時期より残っている道徳の力と古い栄光である」と述べた[注 3][10]

一方、アルゼンチン=チリ間の協定は海軍の軍拡を制限したが、建艦競争中に建造された艦船は残された[11]。そのため、20世紀が始まる頃にはブラジル海軍がアルゼンチン海軍とチリ海軍に質でも総トン数でも水をあけられた[12]。ブラジルがアルゼンチンの3倍、チリの5倍近くの人口を擁していることもあって、ブラジル政府はブラジル海軍が指導的役割を果たすべきと考えた[注 4][15]

19世紀末期と20世紀初期のコーヒーとゴムに対する需要は、ブラジルのコーヒー生産ゴム景気英語版につながった。この時期、ブラジルは世界のコーヒー供給の8割を占め、特にサンパウロ州ミナスジェライス州リオデジャネイロ州の産量が多かった。この景気によりブラジル政府の歳入がそれまでよりもはるかに高かった[16]。同時期の政治家、特にジョゼ・ゴメス・ピニェイロ・マシャド英語版とリオ・ブランコ男爵はブラジルを大国として諸国に認めさせたかったため、強力な海軍は不可欠だった[17]

1904年12月14日、ブラジル国民会議は大規模な海軍軍拡計画を議決した。しかし、1906年までは軍艦の注文も購入もなされないため、リオ・ブランコ男爵は中継ぎとして中古軍艦の購入を提案したが、受け入れられなかった。1906年までに購入すべき船の種類をめぐって二派に分けられた[18]。一派はイギリスのアームストロング・ホイットワース社(後にブラジルからの注文を受けた)の支持を受け、少数の大型艦で艦隊を編成すべきと主張、もう一派はリオ・ブランコ男爵の支持を受けており、多数のより小型な艦船で艦隊を編成すべきと主張した[19]。リオ・ブランコ男爵は支持の理由として、「小型戦艦6隻があったほうがずっといい。戦闘で1、2隻失ってもまだ4、5隻残って戦える。しかし3隻(の大型戦艦)は?2隻が損傷か破壊されたら、もう1隻しか残らない」ことを挙げた[20]

最初は小型艦派が上手であり、1905年12月30日に第1452号法が議決された。この法案では軍艦建設に4,214,550ポンドの予算を与え(うち1,685,820ポンドは1906年に使用)、小型戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、駆逐艦6隻、水雷艇12隻、潜水艦3隻、石炭船1隻、航海練習船1隻を注文した[21]。ブラジル政府は後に財政問題で装甲巡洋艦の注文をキャンセルしたが、海軍大臣のジュリオ・セザール・デ・ノローニャ英語版提督は1906年7月23日にアームストロング・ホイットワース社と注文の契約を締結した[22]

イギリスの会社が注文を受けたにもかかわらず、巨大の支出を要し、アルゼンチンとブラジルの関係英語版に悪影響を与えたため、イギリス駐ブラジル大使英語版ウィリアム・H・D・ハガード(William H. D. Haggard)はブラジルの海軍拡張計画に反対した。彼はそれを「虚栄心の体現と個人の金銭上の動機が合わさった結果」とみなした[23]アメリカ駐ブラジル大使英語版ロイド・カーペンター・グリスコム英語版は1906年9月に米国国務省に電報を送り、状況が大規模な建艦競争に発展した場合、情勢の不安定化の恐れがあると警告した。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは外交による解決を目指し、ブラジルに計画の中止を求めたが拒否された。リオ・ブランコ男爵は米国の要求をのんだ場合、ブラジルは1901年憲法英語版で米国による内政干渉を許したキューバのような無力な国になると警告した[24]。1906年11月にブラジル大統領に就任したアフォンソ・ペナ英語版は国民会議への演説で海軍の軍拡を支持した。彼は1月に事故で爆発したアキダバン、および現海軍を構成する旧式艦の代替となる軍艦を購入する必要性を鑑みて支持したのであった[25]

ブラジルの弩級戦艦注文編集

ブラジルの小型戦艦3隻の建造が始まると、ブラジル政府は注文を再検討して戦艦の設計を変更した(このことは1913年のリオデジャネイロ建造のときもおきた)。設計変更の理由はイギリスの弩級戦艦ドレッドノートが建造から就役まで要した時間が驚くほどに少ないことだった。弩級戦艦は「単一巨砲」搭載というところが斬新であり、ブラジルの戦艦は完成する前に旧式艦化してしまったのである[26]

1908年9月10日、ミナス・ジェラエスの命名式と就役式。艤装が完成していなかったため、船体の重さは約9,000英トンしかなかった[27]

1905年に定められた軍拡の予算は弩級戦艦3隻(うち3隻目は1隻目が進水した後に起工)、偵察巡洋艦3隻(後に2隻に変更、バイーア級偵察巡洋艦となった)、駆逐艦15隻(後に10隻に変更、パラ級駆逐艦英語版となった)、潜水艦3隻(F 1級潜水艦)、潜水母艦2隻(後にセアラ(Ceará)という1隻に変更)の建造に振り分けられた[28]。この動きはピニェイロ・マシャドなど政界で大きな支持を受けており、上院でほぼ全会一致で支持されたほか、新聞も味方した。海軍では大型艦を支持するアレシャンドリノ・ファリア・デ・アレンカルポルトガル語版が海軍大臣に就任した[29]。それでも、これらの変更は元の予算額を超えないことを前提としていたため、戦艦のトン数を増やすために装甲巡洋艦の注文を取り消したり、駆逐艦を減らしたりした[30]。すでに建造が始まった戦艦3隻は1907年1月7日に放棄され、新しい弩級戦艦の設計は2月20日に承認を受けた[31]。新聞は3月よりブラジルの軍艦注文を報じるようになり[32]、アームストロング社は4月17日に1隻目の弩級戦艦を起工した[33]。同年、ニューヨーク・ヘラルドデイリー・クロニクルタイムズの3紙が弩級戦艦3隻と巡洋艦2隻を含む全ての注文を報じた[34]

同時代の評論家が「世界中に最も強い戦艦」と評したブラジルの注文の同時期にはほかの数か国も同様の注文をしていた[35]。建造中の弩級戦艦を有するのはイギリス(ドレッドノートベレロフォン級戦艦)とアメリカ(サウスカロライナ級戦艦)についで3国目である。すなわち、ブラジルはフランス共和国ドイツ帝国ロシア帝国大日本帝国など多くの列強よりも先に弩級戦艦を有する予定となった[注 5][37]。弩級戦艦が現代の核兵器のように国際での地位を示すようになったため、弩級戦艦を注文、保有するだけで国威を発揚するようになり、国際関係にも影響した[38]

世界中の新聞や雑誌はブラジルという取るに足らない小国がこのような大軍を購入するわけがなく、強国の代理として弩級戦艦を購入したに間違いないと推測した[39]。多くのアメリカ、イギリス、ドイツの出典は様々な推測を行い、アメリカ、イギリス、ドイツ、ひいては日本政府が裏で線を引いていると疑った[注 6][41]ワールズ・ワーク英語版は下記のように記述した。

世界中の外交官を悩ましている問題はブラジルがなぜあのような大きさと武装と速度を有し、イギリス以外の国の10から15年先まで進ませる獰猛なレヴィアタンがほしいかである。[...]ブラジルは戦艦がイングランドと日本のためのものであることを否認したが、諸国の海軍は戦艦がブラジル以外の政府のためのものであると疑った[注 7]。戦争が勃発した場合、即座にこれらの船を確保できる政府は[...]海軍での優位を手中にする。イギリスはどれだけの弩級戦艦を有しても、小国の手に落ちないようこれらを購入しなければならないだろう。これらの艦船は国際政治に新しい問題をもたらす。艦船は小国が建設を準備している、または正しく言えば名前を貸している大艦隊の主力になる。この国際政治の新しいゲームには何らかのマキャヴェリアンの手がかかっている可能性があり、イギリス海軍本部が疑われている。しかし政治家と海軍の学生は各自にそれを推測することができる[43]

一方、大西洋の逆側にあるヨーロッパは英独建艦競争英語版の渦中にあり、イギリス海軍本部が売却など起きないと繰り返して主張したにもかかわらず庶民院は売却の可能性に悩んでいた。庶民院は1908年7月中と9月にブラジルの戦艦が仮想敵国の手に入らず(二国標準主義英語版が崩れる可能性があるため)、イギリス海軍を増強するために戦艦を購入する提案を検討した。これはブラジル政府が1908年3月と7月末の2度にわたって売却計画を否定したにもかかわらずである[44]。1909年3月、海軍卿レジナルド・マッケナはドイツが建艦計画を早めて、1911年までに弩級戦艦を13隻完成させる(それまでの予想より4隻多い)と主張した。これを受けて、イギリスのマスコミと庶民院はさらに多くの弩級戦艦の建造を求めた。すでに建造されたブラジルの弩級戦艦の購入は自然と持ち上がり、マッケナが公式に購入打診の計画を進めていることを否認する羽目になった[45]。また、マッケナは「1909年-1910年時点の優勢が大きくて、海軍本部委員会英語版には不安すら生じない」として、外国に売却されたとしても問題はないと主張した[46]

噂は飛び交ったが、ブラジル政府には戦艦を売却する計画がなかった。弩級戦艦はリオ・ブランコ男爵のブラジルの国際地位を上昇させる計画で重要な役割を演じているのであった:

ブラジルはその大きな地位の重要性、世界で演じられる役割を感じるようになり、それに釣り合うよう行動した。戦艦の建造もデン・ハーグでの態度も、地位を追求する虚栄心の強い国のそれではなく、国の未来に対する公正な概念である。ルイ・バルボサ英語版博士が国際仲裁裁判所への代表派遣の詳細に反対したのは反米によるものではなく、ブラジルの主権が少なくとも他国の主権と等しいと考えたからであった。さらに、裁判所に派遣する代表が不公平である場合、「主権の種類」が成立してしまい、主権の平等という思想に反するとの考えによるものだった[注 8]。そして、国際法や演説と同じように、ブラジルは海軍でも国の等級を示そうとした[47]

アルゼンチンとチリの迎撃編集

アルゼンチンの弩級戦艦リバダビアモレノ英語版はアメリカで建造され、アメリカが外国のために建造した弩級戦艦はこの2隻だけだった。画像は建造中のリバダビア。

アルゼンチンはブラジルの計画を警戒して、1902年の協定でチリと定めた制限を無効化した[48]。1906年11月、アルゼンチン外相マヌエル・アウグスト・モンテス・デ・オカスペイン語版はブラジルの新戦艦のどれをとってもアルゼンチン艦隊とチリ艦隊を全滅させることができると述べた[49]。デ・オカはブラジル政府が注文を弩級戦艦に変更する前にこの発言をしたため、発言時点では誇張表現だったが、結果的には真実に近かった。少なくとも1910年時点ではブラジルの新戦艦がアルゼンチンやチリ艦隊はおろか、世界中の全ての艦船よりも強かった[50]アメリカ船舶工学者協会誌英語版は旧式のリベルタド英語版級やカピタン・プラト英語版級戦艦を維持することが金銭の浪費であるとまで述べた[51]

デ・オカの後任エスタニスラオ・セバリョス英語版も引き続き警戒した。1908年6月、セバリョスはアルゼンチン議会に戦艦購入の計画を提出した。当時、ブラジルの弩級戦艦のうち2隻が未完成であったが、そのうちの1隻の購入を打診するという計画だった。ブラジルが譲渡に応じた場合、両国の海軍力は釣り合うようになる。そして、ブラジルが拒否した場合、セバリョスは最後通牒をつきつけて、8日内に応じなかった場合、アルゼンチン軍を動員して、陸軍大臣と海軍大臣が無防備としているリオデジャネイロに攻撃すると計画した。しかし、セバリョスにとって不幸なことに、計画がマスコミに漏れてしまった。アルゼンチン国民は政府が軍を動員して戦争を起こすために大金を借りることをよしとせず、セバリョスは辞任を余儀なくされた[注 9][53]

アルゼンチン政府はブラジルの計画がアルゼンチンの輸出貿易に影響する可能性も憂慮した。これはブラジルがラプラタ川を封鎖してアルゼンチンの経済を麻痺させる可能性があるためだった。アルゼンチンのとある提督はBoston Evening Transcript紙に対し、弩級戦艦を得てブラジルと同程度に増強することで、「大衆感情の噴出や誇りの傷つきで(封鎖を)わが国対する危険な武器にする相手国(ブラジル)の優勢」を避けることができると述べた[54]

両国とも弩級戦艦の建艦に必要な資金の工面に苦労した。アルゼンチンの与党国家自治党英語版は購入を支持したが、このような高価な買い物は世論に反対された[24]。その後、特にラ・プレンサなどの新聞で煽動的な社説が大量に出回り、さらにブラジルがアルゼンチンのリオ・デ・ラ・プラタ副王領再建陰謀を主張して国境紛争を起こしたなどの事件もあって世論が逆転して購入を支持するようになった[55]。アルゼンチン大統領ホセ・フィゲロア・アルコルタ英語版は緊張を緩和するために、このまま軍拡を続けた場合は建艦競争が必至であるとブラジルに警告した。ブラジル政府は1906年のペナの演説とほぼ同じように、長らく整備されていないブラジル海軍の旧式艦を交換するために必要であると主張し、対アルゼンチンは想定していないと繰り返して述べた[56]

8月、アルゼンチン代議院英語版は72票対13票でアルゼンチン海軍に弩級戦艦3隻の購入を許可した[57]。しかし、その3か月後、アルゼンチン上院英語版が調停条約を許可、政府が最後の試みとしてブラジルの建造中の弩級戦艦2隻のうち1隻を購入する提案を出したことで3隻購入案は上院で一旦否決された[58]。ブラジル政府が提案を拒否したため、議案は再び提出され、1908年12月17日に49票対13票で上院を通過した。一方、社会主義者は反対に回り、アルゼンチンは人口増が必要であり、購入に費やす予算の1,400万ポンドにはより良い使い道があると主張した[59]

アルゼンチン政府が軍備会社に入札を求め、それを検討するために海軍の代表団を派遣すると[24]、5か国(アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア)15社から入札を受けた。アルゼンチンの代表団はまず全ての入札を拒否して、各社の設計を取り入れて新しい入札要件を出して再び入札を求めるというプロセスを2回繰り返した[60]。1度目の再入札の理由は世界初の超弩級戦艦オライオンが進水したことだったが[61]、大型戦艦の設計は多くの時間と資金が必要だったため、造船会社たちはアルゼンチンが各社の企業秘密を暴露したとして激怒した[62]。イギリスの造船家の1人がアルゼンチンの行動を痛烈に批判したが、これは落札会社がイギリス以外の会社であることが明らかになった後のことだった:

イギリスの戦艦が良いアイディアと実践を具体化していることは仮定しては大丈夫でしょう。最良である可能性も高い。これらのアイディアが、イギリスの造船会社が最初にアルゼンチン政府に提出した設計の一部にならない可能性はなかった。2度目の請求では1度目の申し込みでよかったところが全てアルゼンチン当局に奪われ、新しい設計で求められることは想像できる。この2度目の請求はイギリスの造船会社だけでなく、世界中の造船会社に出されたため、私たちの船のアイディアと実践がアルゼンチン政府によって世界に漏らされた可能性が極めて高い。[...]3度目の請求では2度目の請求で消されたか変更されたものを世界の造船会社に示した。このようにして漏洩が進行し、外国の造船会社とアルゼンチン政府が教育されていった[63]

米国のフォアリバー造船所は安い鋼鉄が使えることもあって一番低い値段で入札して落札したが、採算が取れない低価格で入札してロスリーダーにしていると疑われた[64]。アルゼンチンはほかの入札者の不満を和らげるために英仏独の造船所に駆逐艦12隻を注文したが、ヨーロッパの入札者はそれまでアメリカが競争者のうちに入らないと考えたため、疑心が消えることはなかった[注 10]。これらの入札者はイギリスのタイムズ紙などとともに怒りをタフト大統領率いる米国政府にぶつけた。タフトのドル外交政策により米国国務省は手を尽くして契約を獲得した[注 11][69]。彼らの反応が状況を正しく認識している可能性がある。実際、タフトは1910年の一般教書演説でアメリカの造船所が落札できた理由を「国務省の斡旋によるところが大きい」としている[70]

 
ブルックリン海軍工廠乾ドックで塗装中のモレノ、1914年10月。

アルゼンチン政府との契約では、ブラジル政府が契約通りに3隻目の弩級戦艦を注文した場合、アルゼンチン政府に3隻目の弩級戦艦を取得する権利が定められている。ラ・プレンサラ・アルヘンティーナの2紙は3隻目の取得を強く支持、ラ・アルヘンティーナは新しい戦艦のための募金を始めたほどであった[71]アメリカ駐アルゼンチン特命全権公使チャールズ・ヒッチコック・シェリル英語版は本国に電報を送り、「新聞の対抗により、市民寄付にしろ政府出資にしろ3隻目の戦艦に向けた運動は早期終結をみた」と述べた[72]。1910年12月31日、建艦競争を終わらせるようブラジルに懇願していたロケ・サエンス・ペニャ英語版がアルゼンチン大統領に当選すると、アルゼンチン政府は建艦を否決した[73]。さらに、アルゼンチンの3隻目の弩級戦艦の仮想敵となっているブラジルの3隻目の弩級戦艦はすでに数回キャンセルされていた[注 12][75]

1906年バルパライソ地震英語版と1907年の硝酸塩価格暴落により経済衰退に陥ったチリでは建艦計画に遅延が生じたが、宿敵のアルゼンチンが弩級戦艦を購入したためチリの建艦計画は完全には停止しなかった[注 13][78]。アルゼンチンは主にブラジルに注目していたが、チリはアルゼンチンのほかペルーの軍拡にも注目した[79]

チリでは1910年に海軍建艦計画に予算がついた[80]。チリ政府は数社からの入札を受けたが、予想ではイギリスの会社が落札する可能性が極めて高いとしていた。アメリカの駐在武官は革命でもおきない限り契約はイギリスの手中にあるだろうとの意見を述べた。チリ海軍は1830年代よりイギリス海軍と緊密な関係を保ち、チリの海軍士官はイギリス船に乗船して訓練を受けつつ経験を積んだ後に本国に貢献することができた。この関係は1911年にチリがイギリス海軍の派遣団を求め、イギリスもそれに応じたことで継続した[81]。それでも、米独政府はそれぞれ戦艦デラウェアと巡洋戦艦フォン・デア・タンをチリに派遣してチリ政府を動かそうとしたが、この努力は失敗に終わり、イギリスのアームストロング社は1911年7月25日に落札した[82]

その他の海軍編集

アルゼンチン、ブラジル、チリ以外の南米諸国は資源も大型軍艦の操縦経験も足りず、競争に加入できる立場になかった。ペルー海軍は南米で4位の規模だったが、1879年から1883年までの対チリ太平洋戦争の海戦で大敗していた。ペルー政府が新しい軍艦を注文するまで20年を要した。例えば、アルミランテ・グラウ級偵察巡洋艦英語版アルミランテ・グラウ英語版コロネル・ボロネーシ英語版はそれぞれ1906年と1907年に完成した。ほかにはフランスから潜水艦2隻と駆逐艦1隻を購入していた[83]。アルミランテ・グラウは艦隊の旗艦だったが、より強力な軍艦が購入されるまでの中継ぎであり、コロネル・ボロネーシとともに現代海軍の「先駆」となった[84]。Proceedings誌は1905年にこの新しい海軍は9年間と700万ドルの出費をかけて、スウィフトシュア級戦艦のような前弩級戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、駆逐艦6隻、そして数多くの小型軍艦で構成すると報じた[85]

ペルーの計画が現実になることはなかった。計画の実施に最も近いのは1912年にペルー海軍がフランスの装甲巡洋艦デュピュイ・ド・ローム(1895年就役の旧式艦)を300万フランで購入する合意をとりつけたときで、3回の分割払いのうちペルーは1回目を支払った。しかし、ペルー本国ではデュピュイ・ド・ロームを購入してもチリとの実力差を埋めることにはならないことが批判され、さらにエクアドルの巡洋艦購入計画が倒れると、ペルーは支払いを停止した。デュピュイ・ド・ロームは商船に改造され、1923年に解体された[86]

同時期にはほかの南米諸国の海軍も小型艦船を追加した。例えば、ウルグアイ海軍は1910年に排水量1,400ロングトンの砲艦を取得[87]ベネズエラ海軍は1912年に防護巡洋艦マリスカル・スクレ英語版米西戦争で米国に拿捕、編入されたスペイン船)を米国から購入した[88]エクアドル海軍は当時排水量約800ロングトンの通報艦2隻、小型汽動船2隻、小型海防戦艦1隻を有していたが、1907年にチリの水雷艇1隻を取得した[89]

新型軍艦の建造と試験編集

 
ミナス・ジェラエス級戦艦の設計図。上は部品の大きさ、真ん中は主砲列英語版の理論上の旋回範囲、下は副砲の理論上の旋回範囲を示す。

ブラジルのミナス・ジェラエス級戦艦のリードシップであるミナス・ジェラエス英語版は1907年4月17日にアームストロング社により起工、姉妹船英語版サン・パウロも13日後にヴィッカース社により起工した。ミナス・ジェラエスの進水に必要な、部分的に完成した船体は5か月間のストライキにより、進水が1908年9月10日に延期された。その後、サン・パウロも1909年4月19日に進水した[90]。2隻とも大勢の人が見守る中、ブラジル駐イギリス大使英語版のフランシスコ・レジス・デ・オリヴェリラ(Francisco Régis de Oliveira)の妻によって命名された[91]艤装の後、速度、耐久、武器などを試すための海上公試がミナス・ジェラエスを検体として9月に複数回行われた。この海上公試では史上最大規模の軍艦による舷側砲斉射が行われた。ミナス・ジェラエスはその後、完成して1910年1月5日にブラジルに引き渡された[92]。海上公試は上部の背負い式砲塔英語版からの砲撃が下部砲塔の人員に爆傷を負わせないことを証明した。船自体は27,212指示馬力(indicated horsepower)から21.432ノットの速度を出すことに成功した[93]。サン・パウロも1910年5月末の海上公試の後、7月にブラジルに引き渡された。サン・パウロの海上公試では28.645指示馬力から21.623ノットの速度を出した[94]

アルゼンチンの戦艦リバダビアフォアリバー造船所のマサチューセッツ造船所で建造された。最終的な契約で定められたように、戦艦モレノ英語版の建造はニュージャージー州ニューヨーク造船会社に下請けに出された[95]。建艦に必要な鋼鉄は主にペンシルベニア州ベスレヘム・スチール社から供給された[96]。リバダビアはアルゼンチン初の独立政府であるプリメラ・フンタ英語版が設立されてからちょうど100年経った1910年5月25日に起工、1911年8月26日に進水した[97]。モレノは1910年7月23日に起工、1911年9月23日に進水した[98]。2隻とも建造に通常より時間がかかり、さらに海上公試でリバダビアの原動機の1つが損傷、モレノの原動機の1つが壊れたため更なる遅延が生じた[99]。結局、リバダビアは1914年12月に、モレノは1915年2月にようやく正式に完成した[100]。モレノの出港にも事故に見舞われ、1隻が沈み、モレノが2回も座礁してしまった[101]

チリのアルミランテ・ラトーレ英語版は1913年11月27日に進水した[102][注 14]。ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、アルミランテ・ラトーレの建設も1914年8月に中止、9月5日にはアスキス内閣が同艦の購入を推薦、9日にそれが行われた[104]。チリがイギリスとの「友好的中立」を維持したため、同じくイギリス製でオスマン帝国のレシャディエスルタン・オスマン1世(元はブラジルのリオデジャネイロ号になる予定だった)と違って強制接収はされなかった。イギリスがチリとの友好を維持するのは、軍備産業に必要な硝酸塩をチリから輸入する必要があるためだった[105]。それまでアームストロング社が建造した最大の艦船であったアルミランテ・ラトーレは1915年9月30日に完成、10月15日にイギリス海軍に編入され、そのまま第一次世界大戦に参加した[106]。もう1隻の戦艦アルミランテ・コクラン(Almirante Cochrane)の建造は開戦とともに中止、未完成の船体は1918年2月28日にイギリスが購入して航空母艦に転用された。これは当時使える大型船体のうち、航空母艦に転用するのに大規模な改造を必要としないものがアルミランテ・コクランのものしかなかったためであった。しかし建造の優先度は低く、労使紛争もあって完成が遅れ、1924年にようやくイーグルとしてイギリス海軍に編入された[107]

ブラジルの反撃編集

リオデジャネイロ号編集

ブラジルの1隻目の弩級戦艦であるミナス・ジェラエスが進水すると、ブラジル政府は経済的、そして政治的理由から3隻目の弩級戦艦を契約から取り除くよう働きかけるようになった。政治的な理由とは、アルゼンチンとの関係改善、そしてチバタの反乱英語版の2つだった。アームストロング社はブラジル政府に契約を守らせようとしており、債券の利子率が下がったことでブラジル政府が資金を借りやすくなったこともあって、ブラジルは要求を取り下げた。リオデジャネイロは1910年3月にはじめて起工した[108]

5月、ブラジル政府はアームストロング社にリオデジャネイロの建造を止め、最新型の超弩級戦艦の技術を取り入れた新設計を提出することを要求した。ユースタス・テニスン・ダインコート英語版がアームストロング社の駐ブラジル代表を務めた。1911年のブリタニカ百科事典第11版では新設計を全長655フィート、重量32,000ロングトンで14インチ砲を12門積載して、合計300万ポンド近くかかるものとした[109]。ブラジル海軍が多くの細かい変更を要求したことにより、契約の締結が1910年10月10日までずれ込み、さらに造船工の名誉組合英語版との労使紛争により一時ロックアウトに発展し、起工が遅れた。その間にブラジル海軍大臣がジョアキン・マルケス・バティスタ・デ・レオンポルトガル語版提督に変わったが、これは建艦計画に大きな影響を及ぼした。というのも、契約は新設計に新任の海軍大臣の許可が必要であると定めており、デ・レオンなどは12インチ砲への回帰を主張、一方前任のデ・アレンカルやドゥアルテ・ウエト・デ・バセラル・ピント・ゲデスポルトガル語版(ブラジル海軍駐イギリス代表団の団長)などは最大級の武装を主張した。例えば、バセラルの設計では16インチ砲8門、9.4インチ砲6門、6インチ砲14門を搭載した[110]

契約が締結された直後の1910年10月にブラジルを発ったダインコートは1911年3月に戻り、ブラジル海軍に設計案を示した。アームストロング社がデ・アレンカルやバセラルの主張が通ると考えたため、ダインコートはバセラルの設計に基づく契約に必要なものを全て持っていった。3月中旬、アームストロング社はレオンが直近に当選した大統領エルメス・ロドリゲス・ダ・フォンセカ英語版を説得して、14インチ砲12門を採用した設計を破棄してより小型な設計を採用させたとの報せをブラジルから受けた[111]。しかし、レオンの説得のみが原因ではなかった。1910年11月、ブラジル海軍は新しく購入した軍艦3隻とより古い海防戦艦1隻で反乱を起こして海軍における体罰への反対を訴え(チバタの反乱)、ダ・フォンセカはすでにこの反乱に手を焼いていた[112]

さらに、経済が悪化している上に弩級戦艦の支出と借款の支払いにより、政府の財政赤字も公債も増えた。ブラジルの1人あたり国内総生産は1905年の718ドルから1911年の836ドルに増えた後、1914年の780ドルまで減らした(いずれも1990年時点のGKドル英語版準拠)。ブラジルの国内総生産が完全に回復したのは第一次世界大戦戦後のことだった[14]。一方、ブラジルの外債が5億ドルに、内債が3.35億ドルに増えた(1913年時点、当時の米ドル準拠)。これは政府の財政赤字が1908年の2,200万ドルから1912年の4,700万ドルに増えたことが一因となっている[113]。5月、ダ・フォンセカ大統領は新しい艦船を批判した:

私は就任したとき、私の前任が重さ32,000トン、14インチ砲を装備した戦艦リオデジャネイロの建造契約を締結したことを発見した。どのような検討でもこのような艦船の獲得が迷惑であることと、トン数を減らすという形で契約を改訂すべきことを指していた。契約の改訂は行われ、私たちは経験則に従わない誇張された言葉に基づかない、強力な艦船を保有するだろう[114]

ダインコートはおそらく政治情勢を鑑みて、16インチ砲を含む設計を提示しなかった。レオンとの会議において、舷側砲がミナス・ジェラエス級のそれと同じだったが中央に12インチ砲10門しかない設計はすぐに却下され、一方中央に少なくとも12インチ砲14門を有する設計は受け入れられた。デイヴィッド・トップリス(David Topliss)によると、これは政治上そうしなければならなかった。彼は海軍大臣がミナス・ジェラエス級よりも弱い弩級戦艦の購入を正当化できないと考え、より大型な大砲が選ばれないのであればより多数な大砲しかないと結論付けたのであった[115]

 
艤装中のスルタン・オスマン1世。元はリオデジャネイロという名前であり、後にエジンコートになる。

ブラジル海軍の多くの設計変更要求が受け入れたか拒否された後、12インチ砲14門を有する艦船を2,675,000ポンドで購入する契約が1911年6月3日に締結された。そして、リオデジャネイロは9月14日に4度目となる起工を行った。しかし、ブラジル政府が決定を再考するまでに時間がかからず[116]、1912年中には14インチ砲を有する戦艦が建造されるようになり、リオデジャネイロは完成時点で旧式艦になってしまう可能性が出てきた[117]。さらに、1913年8月に第二次バルカン戦争が終結してヨーロッパが不況に陥ると、ブラジルは外国からの借款を得にくくなった。同時期にはイギリスがアジアでゴムのプランテーションを建設してブラジルのゴム独占英語版を崩し、コーヒー豆の価格も2割下がり、ブラジルのゴムとコーヒー豆輸出が同時に崩壊した。ブラジルのコーヒー豆輸出は1912年と1913年の間に12.5%下落、ゴムも25%と36.6%下落した[118]。ブラジル海軍は後にリオデジャネイロの売却を正当化するために、2種類の戦艦を保有すると主張した。すなわち、12インチ砲を有するミナス・ジェラエス級戦艦2隻と、15インチ砲を有する戦艦2隻である[119]

アームストロング社は12インチ砲を15インチ砲7門に置き換える可能性を調べたが、ブラジルはおそらくすでに売却を試みていた。第一次世界大戦直前の緊張した情勢ではロシア、イタリア、ギリシャ、オスマン帝国など多くの国が購入に前向きであり、ロシアはすぐに脱落したがイタリアとそのライバルであるギリシャとオスマン帝国は興味を持った。一時はイタリアが購入するとも思われたが、フランスは仮想敵国のイタリアに購入されるくらいならと、ギリシャによる購入を支持した。ギリシャ政府は元の価格に5万ポンドを上乗せした価格を提示したが、ギリシャが頭金を集めている最中、オスマン帝国も提案をした[120]

オスマン帝国はブラジルのリオデジャネイロを獲得する代償として戦艦レシャディエに金銭を追加して交換することを提案したが、ブラジル政府は購入のみ受け付けるとしてオスマン帝国の提案を拒否した。オスマン帝国は資金が不足しており、借款を余儀なくされた。オスマン帝国にとって幸いなことに、政府から独立して行動するというフランスの銀行家から借款を確保することができた。これにより、オスマン海軍は1913年12月29日に120万ポンドでリオデジャネイロを購入した[注 15][123]。購入契約では残りの工程にオスマン帝国からの2,340,000ポンドを充てるとした[121]。リオデジャネイロは「スルタン・オスマン1世」に改名されたが、第一次世界大戦が開戦するとイギリスに接収され、「エジンコート」としてイギリス海軍に編入された[注 16][125]

アルゼンチン政府は1912年10月に、リオデジャネイロが完成してブラジルに引き渡されることを条件に3隻目の弩級戦艦の購入を許可したが、リオデジャネイロは結局完成しなかった[126]

リアシュエロ編集

ブラジル政府はリオデジャネイロを売却した後、アームストロング社とヴィッカース社に新しい戦艦の設計を準備するよう求めた。このことはブラジルの海軍連盟(Liga Maritima)に強く支持された[127]。アームストロング社はブラジルからの更なる支払いなく建艦することに同意した。ヴィッカースは1913年12月から1914年3月にかけて設計案を6件提出、アームストロング社も1914年2月に8件提出した。ヴィッカース社の設計では15インチ砲が8から10門、16インチ砲が8門で、排水量は26,000から30,500トンであり、速度は22から25ノットである(より遅い船は混焼で、より速い船は石油を使用した)。アームストロング社は15インチ砲8門と10門という2つの基本設計に速度と燃料を変更して8件の設計を作った[128]

多くの二次出典はブラジルが戦艦を注文したことに言及せず[129]Conway's All the World's Fighting Shipsという軍艦の百科事典では「ブラジルは4つの設計から選ばなかった」とまで言及した[130]。ブラジル政府はデザイン781(Design 781)と名付けられた設計を選んだ。この設計は当時イギリスが建造していたクイーン・エリザベス級戦艦リヴェンジ級戦艦にもみられる特徴を有していた[131]。1914年5月12日、ブラジルはこの設計を採用する軍艦1隻を注文、アームストロング社のエルスウィック造船所で建造するとした[132]。予定の起工日は9月10日で、原材料も一部準備されたが、1914年8月に第一次世界大戦が勃発したことで計画が遅れた。結局、リアシュエロの建設は1915年1月14日に正式に中止、5月13日には完全に取り消された[133]

政情不安編集

ブラジル海軍反乱編集

 
ミナス・ジェラエスに乗船していたパルド英語版プレトの海員。

1910年11月末、後に「チバタの反乱」と呼ばれる大規模な海軍反乱がリオデジャネイロで勃発した。反乱の背景には海軍士官の大半が白人であるのに対し、一般海員が黒人かムラートで構成されたことがある[134]。リオ・ブランコ男爵によると、「私たちは海員と兵士の徴募に、都会の密集地のくず、最も卑俗で無価値な奴を準備もさせずに乗船させた。元奴隷と奴隷の息子たちが船員になり、その大半が肌の黒い人かムラートだった」という[135]

このように強制徴募がある上、軽い規律違反でも体罰が使われたことにより、黒人船員と白人士官の関係は良くいってもさめているものだった。ミナス・ジェラエスの船員は1910年には反乱を計画するようになり、経験豊富な海員ジョアン・カンディド・フェリスベルト英語版を首領に選んだ。しかし、反乱は参加者の間の意見不一致により数度延期された。11月13日の会議では革命派が大統領の就任日である11月15日に反乱を起こすことを主張したが、もう1人の首領であるフランシスコ・ディアス・マルチンス(Francisco Dias Martins)は反乱が政治制度全体に対するものとみられるとして、反乱自体の訴えが影薄くなると主張して革命派を説得した。そして、反乱の直接的な原因は1910年11月21日にアフリカ系ブラジル人海員マルセリノ・ロドリゲス・メネセス(Marcelino Rodrigues Menezes)が不服従で250回もむち打ちされたことだった[注 17][138]。ブラジル政府からの立会人で元海軍軍人のジョゼ・カルロス・デ・カルヴァーリョ英語版は海員の背中が「塩漬けのために切り開かれたボラ」のようであると述べた[139]

反乱は11月22日の午後10時頃、ミナス・ジェラエスの船上で始まり、船の指揮官と反乱しなかった海員数人が殺害された。直後、サン・パウロ、新しい巡洋艦のバイーア、海防戦艦デオドロ英語版機雷敷設艦レプブリカ(República)、航海練習船ベンジャミン・コンスタント(Benjamin Constant)、水雷艇タモイオ(Tamoio)とチンビラ(Timbira)も反乱した。このうち、ミナス・ジェラエス、サン・パウロ、バイーアは数か月前に完成して就役したばかりであり、デオドロは12年前に完成したが直近に改修されたばかりだった。それ以外の小型軍艦の海員は反乱者の2%しか占めておらず、一部は反乱が勃発した後により大型な軍艦に移った[140]

政府側に留まった軍艦は旧式の巡洋艦アルミランテ・バロソ(Almirante Barroso)、バイーアの姉妹船リオ・グランデ・ド・スル英語版、新型のパラ級駆逐艦英語版8隻だった。しかし、これらの軍艦の船員も流動的な状態にあった。当時リオデジャネイロにいた海軍軍人の半分近くが反乱している状態では政府側に留まった軍人も疑わしく見えたのであった。この疑惑も全くのデマではなく、政府側に留まった軍艦の無線電信技手は反乱軍に行動計画を横流ししていた。疑惑が付きまとった結果、政府側に留まった軍艦では徴集された海員の人数が最低限に減らされ、直接戦闘に参加する位置は全て士官で埋められた。さらに駆逐艦の魚雷など補給の問題もある。魚雷は雷管なしでは発射できないが、雷管はあるべき場所になく、ようやく発見されて配備されるも駆逐艦の新型魚雷とはサイズが合わず使えなかった。結局雷管が正しく配備されるのは反乱から48時間後のことだった[141]

フェリスベルトらは海軍における「奴隷制度」、特にヨーロッパ諸国ですでに廃止されていたむち打ちの廃止を要求した。海軍士官と大統領は恩赦に強く反対、反乱軍側の軍艦に攻撃する計画を立てたが、議会では多くの代議士が恩赦を支持した。その後の3日間、議会は上下院ともに上院議員ルイ・バルボサ英語版の主導のもと、反乱軍全員に恩赦を与えることと、体罰の廃止を議決した[142]

反乱の最終日にあたる1910年11月26日、ミナス・ジェラエスで記者、士官、海員と面会するジョアン・カンディド・フェリスベルト英語版(左の画像)。軍艦の支配権を海軍に返還するフェリスベルト(右の画像)。

反乱の後、ミナス・ジェラエスとサン・パウロは大砲の遊底が外されて武装解除された。その後、さらなる反乱を恐れて海軍がほぼ操業できない状態に陥ったため、大統領、バルボサ、リオ・ブランコ男爵など多くの政治家、ジョルナル・ド・コンメルシオ英語版紙の編集長などは新しい艦船の運用を疑問視して、外国への売却を支持するようになった[143]。イギリス駐ブラジル特命全権公使のウィリアム・H・D・ハガードはリオ・ブランコ男爵の転向について、「これは購入の決定に責任がある男、購入を自身の政策の申し子とみていた男にしては驚くべき降参である」と述べた[144]。恩赦法案の議決直前、ルイ・バルボサは軍艦購入の反対論を演説した:

 
船尾からみるミナス・ジェラエス。

結論として、私たちが陥った苦々しい状況から学べる2つの重大な教訓を指摘しましょう。1つ目は軍政が国を戦争の浮沈から救うのに民政より1ミリたりとも勇ましいことはなく、資源がより多いこともない。2つ目は大規模な軍備政策はアメリカ大陸での居場所がないことである。少なくとも、わが国とわが国の周りの国々が望み、喜ぶべき政策は貿易関係の発展で国際間のつながりを強化、アメリカ諸国民の平和と友好につながる政策である。

これに関して、ブラジルの経験は決定的である。これまでの20年間、わが国の国防を強化するのに費やした力は結局、度重なる反乱の試みでわが身に跳ね返った。国際戦争がわが共和国を巻き込んだことはまだなく、一方内戦は数度巻き込んでおり、(反乱者は)外的からわが国を守るために準備した武器を使用した。これらの危険でばかけた武器を捨てて、わが隣人との公平な関係で国際平和を守りましょう。すくなくとも、アメリカ大陸においては「平和艦隊」を維持する必要はありません。平和艦隊は、ヨーロッパ諸国の急所を常に脅かしている憎むべき癌である[145]

結果的には大統領と内閣は政治的に不利であると恐れて艦船の売却を拒否した。これは世論が艦船を処分して、その代金でブラジルの川を通れるより小型な軍艦を購入することで合意したにもかかわらずである[146]。バルボサが反乱が集結する前に演説で「冷酷な軍政」と政府を批判したことも大統領を警戒させた[145]。それでもブラジルがアームストロング社に3隻目の弩級戦艦の工事を止めさせたことで、アルゼンチン政府も3隻目の弩級戦艦を建造しなかった。米国駐ブラジル大使は本国への電報でブラジルの南米における海軍覇権の望みが潰えたと報告した[147]

ミナス・ジェラエスはブラジルの手に残ったが、反乱は明らかにブラジル海軍の戦闘準備を乱した。1912年、アームストロング社の代表は軍艦の状態がひどく、砲塔やボイラーが錆び始めていたという。同代表はブラジル海軍がこれらの問題に対処するには約70万ポンドが必要とした[146]。ハガードは「これらの船はブラジルにとって全くの無用である」と簡潔に述べ、Proceedings誌も同様の見解を表明した[148]。政府はこのときはミナス・ジェライス級戦艦2隻の売却を拒否、リオデジャネイロの購入を支持したが、後にリオデジャネイロをオスマン帝国に売却した(売却の決定は1913年1月になされた可能性があり、遅くとも9月までになされた)。一部の歴史家は売却の理由をチバタの反乱と1912年のリオ・ブランコ男爵の死に帰した[149]

売却の試み編集

リオデジャネイロがオスマン帝国に売却された後、アルゼンチン政府は世論に屈して、弩級戦艦2隻の売却先を探し始めた。売却で得た資金は内政に回す予定だった。戦艦の売却議案は1914年中にアルゼンチン議会に提出されたが、その議決では敗北した。英独政府ともにアルゼンチン戦艦が敵国に売却されたことを恐れ、購入に興味を持った国は露墺伊に加えてオスマン帝国とギリシャ王国の5か国だった。うち、ギリシャが興味を示したのはオスマン帝国のリオデジャネイロ購入への危機感によるものだった[150]

 
チリのアルミランテ・ラトーレ英語版、1921年12月撮影。

ニューヨーク・トリビューンは4月末の報道でアルゼンチン政府がギリシャからの1,750万ドルでモレノのみを購入するとの提案を拒否した。建造に要した支出が1,200万ドルだったため、もし成立した場合はアルゼンチン政府の大きな収益になっていた[151]。米国は自身の中立が守られず、また自身の技術が外国に研究されることを恐れてアルゼンチン政府に売却しないよう圧力をかけ、アルゼンチンが屈した形となった[152]。また1913年末と1914年初にはギリシャがオスマン帝国のリオデジャネイロ購入に対抗してチリの1隻目の弩級戦艦を購入すると報じられ[153]、チリ国内でも弩級戦艦を1隻または2隻とも売却するとの世論が盛り上がってきたが、結局売却はされなかった[154]

南アメリカの建艦競争に参加した全ての国で弩級戦艦を売却して、その収益をより有用なものに使う動きが出た[147]。弩級戦艦に必要な支出は巨大であり、ブラジルの新聞は弩級戦艦3隻の初期購入コストを3,125マイルの線路か、農家30,300軒のコストと同等とした。海軍史英語版家ロバート・シェイナ(Robert Scheina)は弾薬(605,520ポンド)とドック改修工事(832,000ポンド)の支出を除く戦艦の支出を6,110,100ポンドとした。さらにミナス・ジェラエスとサン・パウロの就役から5年間の維持費が初期費用の約6割に上った[155]。リバダビア級戦艦2隻はアルゼンチン政府の歳入の約2割を費やし、これにさらに維持費を足す必要がある[156]。歴史家のロバート・マッシーはこの数字を四捨五入して、各国政府の歳入の4分の1を占めるとした[157]

最初に建艦競争を激化させた民族主義の感情も経済衰退により減退、世論は国内への投資に傾くようになった[147]アメリカ駐チリ特命全権公使英語版ヘンリー・プレイザー・フレッチャー国務長官ウィリアム・ジェニングス・ブライアンに対し、「海軍の競争が1910年に始まって以来、当時すでにそれほど良くはなかった財政状況は悪化した。最後の支払いが近づくにつれて、これらの国は戦艦よりもお金が必要であると感じるようになった」と述べた[158]

第一次世界大戦後の軍備拡張編集

ブラジル編集

ミナス・ジェラエス、1909年頃撮影。石炭と石油を燃料としており、排気に煙突を2つつけている。同艦は後に1920年から1921年までニューヨークで、1931年から1938年までブラジルで改修された。
ミナス・ジェラエスかサン・パウロ(どちらかは不明)、1920年代の写真。第一次世界大戦後に一度改修されており、船橋は船内に収められ、司令塔英語版は再建され、射撃管制用のレンジ・クロック英語版三脚マスト英語版につけられた。この写真では主砲台が甲板上の天幕に覆われている。
ミナス・ジェラエス、第二次世界大戦中の写真。1930年代の2度目の改修を経ており、石炭と石油の2種類の燃料から石油の1種類に絞って、ボイラーの数を18から6に減らしたことで、煙突を1つに減らすことに成功した。それ以外の変更点には射撃管制の改良などがあるが、外観からは見えにくい変更である[159]

第一次世界大戦により、南米諸国は突如追加の軍艦を購入する手段を失い、建艦競争はなし崩しに終結した[160]。戦後も建艦競争が再開されることはなかったが、アルゼンチン、ブラジル、チリ3国の政府は多くの海軍拡張や改善計画を提案した。

ブラジルは1918年から1926年まで、ミナス・ジェラエスとサン・パウロ、そして1904年の計画で購入した巡洋艦バイーア英語版リオ・グランデ・ド・スル英語版を現代化した[161]。これら4隻は現代の海戦に適さないため改修は必須だった。ブラジル政府はサン・パウロを連合国大艦隊英語版に派遣しようとしたが、サン・パウロもミナス・ジェラエスも就役後に改修されたことはなく、現代の射撃管制などの必須装備を欠いたままだった[162]。整備もほとんどなされず、サン・パウロが改修のためにニューヨークに向かったとき、ボイラー18基のうち14基が壊れており、ニューヨークまで向かうのにアメリカの戦艦ネブラスカと巡洋艦ローリーに頼る必要があった[163]。バイーアとリオ・グランデ・ド・スルも復水器やボイラー・チューブが足りなかったため最高速度は18ノットしか出せなかったが、修理が終わると参戦した[164]

ブラジル海軍は1920年代と1930年代に軍艦を購入する計画を立てたが、元の計画より大幅に縮小したものだった。1924年の計画では重巡洋艦1隻、駆逐艦5隻、潜水艦5隻を購入する予定だった。同年に新しく到着した、カール・セオドア・ヴォーゲルゲザング英語版海軍少将率いるアメリカの海軍使節団は排水量合計7万トンの戦艦、合計6万トンの巡洋艦、1万5千トンの駆逐艦、6千トンの潜水艦という海軍拡張計画を提出した。ワシントン海軍軍縮条約の交渉を終えたばかりのチャールズ・エヴァンズ・ヒューズ率いる国務省は建艦競争の再開を望まず、すぐに計画の阻止に動いた。結局、この時期のブラジルはイタリア製の潜水艦ウマイタ英語版を購入しただけに終わった[165]

1930年代、国際社会はブラジル海軍の艦船の大半が「旧式化」して、もはや「有効とみなされ」ないと考えるようになった[166]。ミナス・ジェラエスは再び改修され、今度は1931年6月から1938年4月までリオデジャネイロ海軍工廠英語版で改修された[167][注 18]。サン・パウロにも改修計画が立てられたが、同艦の状況が悪くて放棄された[170]。ブラジル政府は同時期にも米国海軍から巡洋艦を購入することを検討したが、ワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約で中古軍艦の他国への売却を制限されて失敗した。結局、ブラジルはイギリスから駆逐艦6隻を購入した[注 19]。中継ぎとして米国から駆逐艦6隻を租借する計画が立てられたが、国際社会と米国当局に強く反対されたことで計画が放棄された[172]。米国のマハン級駆逐艦に基づくマルシリオ・ディアス級駆逐艦英語版3隻は機雷敷設艦6隻とともにブラジルで起工、いずれも1939年から1941年までの間に進水した。建設計画はどれも外国からの援助に頼り、戦争で遅延が生じたが、1944年までに9隻全て完成した[173]

アルゼンチン編集

1920年代、アルゼンチン海軍の主な軍艦全てが旧式化していた。というのも、リバダビアとモレノを除く主要艦船全てが19世紀末に建設されたものだった。アルゼンチン政府はこの状況を認識して、南米における海軍の優位を維持すべく、1924年と1926年にリバダビアとモレノをそれぞれ米国に贈って改修させた。さらに、アルゼンチン議会は1926年に7,500万金ペソの予算を海軍建設計画に充てた。これによりアルゼンチンは巡洋艦3隻(イタリア製のベインティシンコ・デ・マヨ級重巡洋艦2隻とイギリス製のラ・アルヘンティーナ)、駆逐艦12隻(スペイン製のチュルカ級駆逐艦、イギリス製のメンドーサ級駆逐艦英語版ブエノスアイレス級駆逐艦英語版)、潜水艦3隻(イタリア製のサンタ・フェ級潜水艦)を購入した[174]

チリ編集

チリは1919年に艦船を探して艦隊の増強を図り、イギリスは多くの余剰船の提供を打診した。この行動はチリ海軍を南米地域最強の海軍にする試みであり、建艦競争の再来になりかねないので、近隣諸国の警戒を招いた[175]。チリは戦前に注文した戦艦アルミランテ・ラトーレ(このときはイギリス艦カナダとしてイギリス海軍に就役している)とアルミランテ・コクラン(このときはイギリスの空母イーグルに転用されている)を求めたが、イーグルを空母から戦艦に戻すコストが高すぎた[176]。その代わりとしてインヴィンシブル級巡洋戦艦2隻の購入が計画されたが、購入の秘密交渉がマスコミに漏れ、これら2隻の価値をめぐってチリ国内の世論が激高した[177]。結局、チリは1920年4月にカナダと駆逐艦4隻という、1914年以前に注文したが第一次世界大戦勃発後にイギリスに購入された艦船を安値で買い戻したにすぎなかった。例えば、カナダの値段はわずか100万ポンドと、建造コストの半分以下だった[178]

その後の数年間、チリは引き続きイギリスから軍艦を購入した。例えば、駆逐艦6隻(セラーノ級駆逐艦英語版)と潜水艦3隻(カピタン・オブリエン級潜水艦英語版)を購入している[179]。アルミランテ・ラトーレは1929年から1931年までイギリスのデヴォンポート海軍基地で改修された[180]。しかし、経済衰退と1931年チリ海軍反乱によりアルミランテ・ラトーレは実質的に操業停止した[181]。1930年代末、チリ政府はイギリス、イタリア、ドイツ、スウェーデンに排水量8,600ロングトンの巡洋艦の建設を打診したが、注文にはつながらなかった。さらに小型巡洋艦2隻の購入が計画されたが、第二次世界大戦開戦でそれもなくなった[182]真珠湾攻撃直後、米国はアルミランテ・ラトーレ、駆逐艦2隻、潜水母艦1隻の購入を打診した。これはチリ海軍が艦船を最高の状態に保っていると評判だったためとされるが、チリは売却を拒否した[183]

第二次世界大戦戦中と戦後編集

第二次世界大戦中も第一次世界大戦中と同じく、軍艦購入がほぼ不可能な状態だった。それが可能になったのは戦後に英米が余剰軍艦を処分しようとしたときだった。第二次世界大戦では戦艦が時代遅れであることが証明されたため、南米諸国の海軍は巡洋艦、駆逐艦、潜水艦を求めたが、フラワー級コルベットリバー級フリゲート以上の大型艦の購入は政治的に難しく、状況が変わったのは赤狩りがアメリカと国際政治に強く影響するようになってからだった。そして、1949年の相互防衛援助法英語版に基づき、米国は1951年1月に軽巡洋艦6隻をアルゼンチン、ブラジル、チリに売却した[注 20]。これは米国の南米における同盟国の海軍を増強したが(米州相互援助条約に基づき米国の戦争を支援する必要があった)、海軍史家のロバート・シェイナは米国政府がこれを機にアルゼンチン、ブラジル、チリ間の海軍競争を介入した。米国の軽巡売却は3国の海軍の強さを同等にし、3国にそれを受け入れさせたのであった(アルゼンチンは戦前には自軍の軍艦数がブラジルとチリを足したものと同等にすべきと主張した)[184]

南米の弩級戦艦は戦後も引き続き就役した。米国海軍のオール・ハンズ英語版誌は1948年の報道でサン・パウロとアルミランテ・ラトーレを除く全艦船が就役中で、アルミランテ・ラトーレは修理中でサン・パウロは廃艦となったと報じた[185]。現代の巡洋艦、フリゲート、コルベットが導入されたことで、戦艦の多くが解体、売却された。ブラジル海軍は当時就役中の弩級戦艦のうち世界最古のものを有しており、1951年に解体のためにサン・パウロを売却したが、牽引中にアゾレス諸島の北で嵐に遭って沈没した[186]。ミナス・ジェラエスも2年後売却され、1954年初にジェノヴァで解体された[187]。アルゼンチンの弩級戦艦のうち、モレノは1957年に解体のために日本まで牽引され、リバダビアも1959年初にイタリアで解体された[188]。アルミランテ・ラトーレは1951年にエンジン室が爆発した後、修理もなされずに放置されたが、1958年10月に廃艦となり、1959年にモレノとともに日本に向かった[189]

建艦競争に関連する艦船編集

艦船 排水量 主砲台 造船会社 起工日 進水日 完成日 その後
ミナス・ジェラエス英語版   18,976ロングトン(lt)
19,281トン(t)
12インチ/45口径艦砲英語版12門 アームストロング・ホイットワース 1907年4月17日 1908年9月10日 1910年1月 1954年初解体
サン・パウロ   18,803 lt/19,105 t ヴィッカース 1907年4月30日 1909年4月19日 1910年7月 1951年11月、解体に向かう途中で沈没
リオデジャネイロ   
 
27,410 lt/27,850 t 12インチ/45口径艦砲14門 アームストロング 1911年9月14日 1913年1月22日 1914年8月 1913年、オスマン帝国が購入。1914年、「エジンコート」としてイギリスに接収される。1924年初解体
リアシュエロ   30,000 lt/30,500 t 15インチ/45口径艦砲英語版8門 第一次世界大戦勃発により建艦取り消し
リバダビア   27,500 lt/27,900 t 12インチ/50口径艦砲英語版12門 フォアリバー 1910年5月25日 1911年8月26日 1914年12月 1959年初解体
モレノ英語版   1910年7月9日 1911年9月23日 1915年2月 1957年初解体
アルミランテ・ラトーレ英語版    28,100 lt/28,600 t 14インチ/45口径艦砲英語版10門 アームストロング 1911年11月27日 1913年11月27日 1915年10月 1914年、「カナダ」としてイギリスが取得。1920年、チリが再取得。1959年初解体
アルミランテ・コクラン    1913年2月20日 1918年6月8日 1924年2月 1914年、イギリスが取得。1918年、航空母艦に変更。1942年8月11日沈没
Key:
  ブラジル   アルゼンチン   チリ   オスマン帝国   イギリス
出典:
Preston, "Great Britain," p. 38; Scheina, Naval History, pp. 321–322; Scheina, "Argentina," p. 401; Scheina, "Brazil," p. 404; Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," pp. 249–251, 281–283, 286.
ミナス・ジェライス級戦艦は南米のほかの弩級戦艦よりも早く設計、建設、完成したため、より小さく、武装もより貧弱であった。ブラジルはさらにリオデジャネイロとリアシュエロの取得を計画したが、前者は売却され、後者は第一次世界大戦勃発により取り消された[190]
リバダビア級戦艦は南米諸国が購入した2級目の弩級戦艦であり、イギリス以外の会社が建設したものとしては唯一である。ミナス・ジェライス級の建設を受けて注文されたため、リバダビア級戦艦ははるかに大きく、12インチ砲も2門多く、装甲もより強かった[191]
アルミランテ・ラトーレ英語版は最後に建設された南米の弩級戦艦であり、ブラジルとアルゼンチンのそれよりも大きく、よく武装されていた。14インチ砲5門が斜線ではなく、より効果的になるように中央軸に配置されているため、片舷斉射でも船に損傷を与えないようにした[192]

脚注編集

  1. ^ 「ミナス・ジェラエス」(Minas Geraes)はこの戦艦が就役した時点での綴りであったが、ポルトガル語の正書法英語版変更により「ミナス・ジェライス」(Minas Gerais)に変更された。一次出典は正書法変更の前に出版されたため前者を用いており、二次出典では両表記が混在している。本記事では「ジェラエス」を用いている。
  2. ^ 1893年、クストジオ・デ・メロ英語版海軍少将がブラジルのほぼ全ての軍艦をつれて、フロリアノ・ペイショト英語版大統領に対し反乱を起こした。メロの軍勢は知事が降伏したためデステロを占領、リオグランデ・ド・スル州の分離主義者と手を組んだ。反乱は結果的にはブラジル軍に鎮圧されたが、反乱を起こした海軍の大半がアルゼンチンに逃れて降伏、旗艦のアキダバンはデステロ近くに残ったが水雷艇に撃沈された[6]
  3. ^ リオ・ブランコ男爵は元首相リオ・ブランコ子爵英語版の息子であり、外交官を務めた後1902年に外務大臣に任命され、1912年に死去するまで同職を務めた。彼は多くの条約を締結、ブラジルと近隣諸国の領土紛争を解決した[9]
  4. ^ 3国の総トン数はチリが36,896英トン、アルゼンチンが34,425英トン、ブラジルが27,661英トンであり、人口はLivermoreの概算ではチリが300万、アルゼンチンが500万、ブラジルが1,400万である[13]。しかし、アンガス・マディソンらによるマクロ経済史の研究では一人当たりの国内総生産の差が示されている。すなわち、1990年のGKドル英語版に換算した1904年時点の一人当たりの国内総生産はチリが$2,287、アルゼンチンが$3,191、ブラジルが$713である。1910年にはアルゼンチンがブラジルの5倍、チリがブラジルの4倍と差がさらに広がった[14]
  5. ^ ただし、ドイツのナッサウ級戦艦はブラジルのミナス・ジェライス級戦艦より2か月遅く起工したが、3か月早い1909年10月1日に就役した[36]
  6. ^ 同時代の文献では例えばNavy, pp. 11–12が「イギリス=ブラジル軍艦」、Navy, pp. 13–14が「ブラジルの『弩級戦艦』」、Literary Digest, pp. 102–103が「ブラジルの『弩級戦艦』の謎」、World's Work, pp. 10867–10868が「大ブラジル弩級戦艦の謎」、Boston Evening Transcript, 25 January 1908, p. 2が「リオで置き去りにされる」、New York Herald, 1 July 1908, p. 9が「イングランドか日本のための巨大な船」、Sun (New York), 1 July 1908, p. 6が「ブラジルと日本とグレートブリテン」、Evening Telegraph (Angus, Scotland), 17 July 1908, p. 3が「謎の戦艦」、Japan Weekly Mail, 5 September 1908, p. 288は「ブラジルの戦艦」、New York Times, 9 August 1908, p. C8は「ドイツがイギリスの軍艦を購入する可能性あり」、Day (New London), 19 March 1909, p. 7は「(イギリスが)ブラジルの船を取得する可能性あり」、Nelson Evening Mail, 6 April 1909, p. 2は「海軍の優位性への競争」などと様々に報じた。一方、第一次世界大戦直前にはこれらの新聞記事でほとんど言及されなかったロシア政府が実際にブラジルとアルゼンチン政府に弩級戦艦の購入を打診した(両国とも拒否した)[40]
  7. ^ 日本が対米戦争のためにブラジルを代理人にしてイギリスで大量の軍備を注文したとのうわさはブラジル政府に強く否認された。リオ・ブランコ男爵はブラジル駐アメリカ特命全権公使英語版ジョアキン・ナブコ英語版への電報でブラジルとアメリカ政府の親密な関係を論拠として反論した。「両国と両国政府の間の古く、誠心誠意の友好関係は知られている。[...]賢明な人ならば、新聞を作り出した人がブラジルに帰した役割を誠実で尊重に値する政府が手を貸すわけがないとわかるだろう」[42]
  8. ^ ハーグ陸戦条約も参照。
  9. ^ セバリョスの辞任は論議を醸した。というのも、彼の直後に別のスキャンダルが露見したのであった。アルゼンチン政府はブラジルとチリの同盟締結を恐れて、両国間の通信を監視したが、セバリョスの辞任の翌日に9号電報という、ブラジル政府が駐チリ外交官に送った電報を傍受した。アルゼンチンはセバリョスの辞任から離任までの間に電報を解読、セバリョスの離任の翌日にアルゼンチン議会で公表された。セバリョスの後任であるビクトリノ・デ・ラ・プラサ英語版はこの電報がブラジルのアルゼンチンに対する敵意の証拠であると主張した。電報の偽の全文がセバリョスによりマスコミに公表され、国際でのブラジルへの幻滅を引き起こしたが、リオ・ブランコ男爵は反撃して暗号と電報の全文を公表、ブラジルのアルゼンチンに対する敵意など言及すらしていないことを証明した。セバリョスは後に電報の偽造か改竄という疑いをかけられたが、これは証拠がなく、彼の秘書が改竄した可能性もあった。セバリョスが有罪かどうかはともなく、彼の行動は1875年以来のリオ・ブランコ男爵に対する恨みに起因する可能性がある。一例としてはクリーヴランド裁定スペイン語版に関連する国境紛争がある[52]
  10. ^ 英仏独に4隻ずつ注文したが、アルゼンチン海軍に編入されたのはドイツが建造したカタマルカ級(Catamarca)とラ・プラタ級(La Plata)駆逐艦の合計4隻だけだった。イギリスが建造した駆逐艦は第一次バルカン戦争直前にギリシャ王国に購入され(アエトス級駆逐艦英語版)、フランスが建造した駆逐艦は第一次世界大戦の開戦直後にフランスに接収された(アバンチュリエ級駆逐艦[65]
  11. ^ 米国はアルゼンチンに対し、経済と軍事で若干譲歩した。これはアルゼンチンからの獣皮の輸入関税の撤廃、アメリカの技術的に最も先進的な射撃管制装置魚雷発射管をアルゼンチン船でも使えるようにすることの2つであり、さらにアメリカの造船所が落札した場合は追加の譲歩もあるという。また、アメリカの銀行家はアルゼンチン政府に1千万米ドルの借款を提供するよう説得された[66]。また、外交努力への支持としてアメリカの戦艦デラウェアが1911年に南米各地を10週間かけて訪問した[67]。アルゼンチンとチリの建艦契約に関する取り組みは全世界から建艦契約を勝ち取るための外交努力の1つであり、ヨーロッパから中国、ひいてはラテンアメリカまでの全世界で行われたが、そのほとんどが失敗した[68]
  12. ^ ブラジルの契約に含まれていた3隻目の弩級戦艦は当初「リオデジャネイロ」と名付けられる予定で、1910年3月16日に起工した。しかし、起工した時点で新しい海軍技術(主にイギリスのオライオンで始まった超弩級戦艦)により旧式艦化していたため、ブラジル政府は5月7日に注文をキャンセル、アームストロングに新しい設計を準備するよう求めた。新しい契約が10月に締結されたが、11月には新しい海軍大臣が任命され、彼は別の設計を検討した[74]
  13. ^ Livermoreと彼の著作を引用したGrantはいずれもチリの計画遅延の理由を1908年におきた地震としているが[76]、チリでは1908年に大きな地震はおきていない。一方、1906年バルパライソ地震では津波を起こして、首都サンティアゴをはじめとした広域で大きな被害を出して死者が4千人近く出ていた。また、バルパライソ地震を遅延の理由としている一次出典もあるため[77]、Livermoreの1908年地震説は誤植の可能性がある。
  14. ^ Scheinaは進水日を11月17日としているが、誤植とみられる[103]
  15. ^ リオデジャネイロを突如購入したことにより、オスマン帝国は「ギリシャに対する海軍の優位」を確保したため、ギリシャ政府は警戒した[121]。ギリシャは慌ててアルミランテ・ラトーレかアルゼンチンがすでに保有していた弩級戦艦の購入を打診した。オスマン帝国はリオデジャネイロの購入により1914年末には弩級戦艦2隻を確保することになる(もう1隻はレシャディエであり、後にイギリスに接収されて「エリン」に改名された)。一方のギリシャはドイツで建造されていて1915年3月に完成する予定のサラミス、そして1914年5月に戦争を回避すべく米国から購入した、全くの旧式艦である前弩級戦艦キルキスレムノス英語版を保有するのみとなった[122]
  16. ^ イギリスのオスマン戦艦接収はしばしばオスマン帝国に中央同盟国側で参戦させる原因を作ったとして言及された。しかし、歴史家は1914年8月2日にオスマン帝国とドイツが秘密同盟を締結したことと、イギリスが打診した戦艦接収への補償も無視されたことを挙げて反論している[124]
  17. ^ メネセスに対するむち打ちの日付について、Morgan (2003)は11月16日の夜明けとしており、むち打ちから反乱までの間はさらなる計画と組織が必要のためであるとした[136]。ここではLove (2012)の、メネセスが11月21日の夜にむち打ちされ、反乱が22日の午後10時頃に始まったという記述に従った[137]。MorganもLoveもメネセスのむち打ちが反乱の直接的な原因となったことで同意している。
  18. ^ 文献によって改修の時期が違い、1931年から1935年まで[168]、1934年から1937年まで[169]とさまざまである。
  19. ^ これらの駆逐艦は第二次世界大戦が開戦すると、ハヴァント級駆逐艦としてイギリスに購入された[171]
  20. ^ 内訳は大半がブルックリン級軽巡洋艦だったが、ブラジルのアルミランテ・タマンダレはそれを小改良したセントルイス級軽巡洋艦である。

出典編集

  1. ^ Scheina, Naval History, pp. 45–46, 347; Garrett, "Beagle Channel," pp. 85–87.
  2. ^ Scheina, Naval History, pp. 45–49, 297–98, 347.
  3. ^ Scheina, Naval History, pp. 49–51.
  4. ^ Scheina, Naval History, p. 52; Massie, Castles, p. 204.
  5. ^ Scheina, Naval History, pp. 49–52; Grant, Rulers, Guns, and Money, p. 146.
  6. ^ Scheina, Naval History, pp. 67–76, 352.
  7. ^ Grant, Rulers, Guns, and Money, p. 148; Martins, A marinha brasileira, pp. 56, 67; Brook, Warships for Export, p. 133; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 32; Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," p. 240.
  8. ^ Love, Revolt, p. 16; Sondhaus, Naval Warfare, p. 216; Scheina, "Brazil," p. 403.
  9. ^ Love, Revolt, pp. 8–9.
  10. ^ Viana Filho, A vida do Barão do Rio Branco, p. 445.
  11. ^ Scheina, Naval History, pp. 45–52; Garrett, "Beagle Channel," pp. 86–88.
  12. ^ Martins, A marinha brasileira, pp. 50–51; Martins, "Colossos do mares," p. 75; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 32.
  13. ^ Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 32.
  14. ^ a b Bolt and van Zanden, "Maddison Project."
  15. ^ Scheina, "Brazil," 403; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 32.
  16. ^ Hutchinson, "Coffee 'Valorization'," pp. 528–529.
  17. ^ Love, Revolt, p. 14; Scheina, Naval History, p. 80.
  18. ^ Scheina, Naval History, p. 80; Martins, A marinha brasileira, pp. 156–158; Scheina, "Brazil," p. 403; Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," p. 240.
  19. ^ Scheina, Naval History, p. 80; Martins, A marinha brasileira, pp. 80, 128, 158.
  20. ^ Viana Filho, A vida do Barão do Rio Branco, p. 446.
  21. ^ English, Armed Forces, p. 108; Scheina, Naval History, p. 80; Brook, Warships for Export, p. 133; Grant, Rulers, Guns, and Money, p. 147; Martins, A marinha brasileira, pp. 75, 78; Alger, "Professional Notes," pp. 1051–1052.
  22. ^ Martins, A marinha brasileira, p. 80; Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," pp. 240–246.
  23. ^ Foreign Office, British National Archives 371/201, General Report on Brazil for the Year 1906, W.H.D. Haggard, in Grant, Rulers, Guns, and Money, p. 149.
  24. ^ a b c Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 33.
  25. ^ Grant, Rulers, Guns, and Money, p. 152; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 33; "New Era in the Americas," Boston Evening Transcript, 17 November 1906, p. 1.
  26. ^ Scheina, Naval History, p. 81; Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," p. 246; "Brazilian Battleship 'Minas Geraes'—Most Powerful Fighting Ship Afloat," Scientific American, p. 428.
  27. ^ "Brazil," Naval Engineers, p. 836.
  28. ^ Scheina, Naval History, p. 81; "Brazil," Naval Engineers, p. 883; "The Brazilian Navy," Times (London), 28 December 1909, p. 48f.
  29. ^ Love, Revolt, pp. 16–17; Scheina, Naval History, p. 81.
  30. ^ Grant, Rulers, Guns, and Money, p. 152.
  31. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," p. 246.
  32. ^ "A Dreadnought For Brazil," New York Times, 5 March 1907, p. 5; "British & Foreign," Poverty Bay Herald, 6 March 1907, p. 6; "Brazilian Navy," Argus, 7 March 1907, p. 7.
  33. ^ Scheina, "Brazil," p. 404.
  34. ^ "Giant Ships for England or Japan," New York Herald, 1 July 1908, p. 9; "The Large Order for Foreign Battleships," Times (London), 28 August 1907, p. 8f; "£7,000,000 for New Warships," Dundee Courier, 28 August 1907, p. 4; "Brazil Arming," Sydney Morning Herald, 29 August 1907, p. 7.
  35. ^ "The Mystery of the Great Brazilian Dreadnoughts," World's Work, p. 10867; Earle, "Professional Notes," p. 305.
  36. ^ Campbell, "Germany," p. 145; Scheina, "Brazil," p. 403.
  37. ^ Breyer, Battleships, p. 320; Scheina, "Brazil," p. 404; Sondhaus, Naval Warfare, p. 216.
  38. ^ Love, Revolt, p. 15; Sondhaus, Naval Warfare, pp. 227–228.
  39. ^ Martins, A marinha brasileira, pp. 144–150; Martins, "Colossos do mares," p. 77; Mead, "Reaction," p. 238; "The Mystery of the Great Brazilian Dreadnoughts," World's Work, p. 10867; "British-Brazilian Warships," Navy, p. 11; "The Warships for Brazil," Times (London), 14 July 1908, p. 8c; "The Brazilian Battleships," Japan Weekly Mail, 5 September 1908, p. 288.
  40. ^ Budzbon, "Russia," p. 291; Sondhaus, Naval Warfare, p. 217.
  41. ^ Scheina, "Brazil," p. 404; Haag, "O Almirante Negro," p. 89.
  42. ^ "The Reported Purchase of Battleships," Navy, p. 39.
  43. ^ "The Mystery of the Great Brazilian Battleships," World's Work, pp. 10867–10868.
  44. ^ Трубицын, Линкоры, p. 6; Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," p. 246; "Naval Policy," Times (London), 24 March 1908, p. 6e; "Battleships for Brazil," Times (London), 12 May 1908, p. 4d; "The Warships for Brazil," Times (London), 14 July 1908, p. 8c; "Naval and Military Intelligence," Times (London), 18 July 1908, p. 12c; "British and Foreign News," Evening Post (Wellington), 12 September 1908, p. 13; "Naval and Military Intelligence," Times (London), 22 March 1909, p. 9e.
  45. ^ "May Take Brazil's Ships, Day (New London), 19 March 1909, p. 7; "The Brazilian Battleships," Times (London), 23 March 1909, p. 6d; "House of Commons," Times (London), 23 March 1909, p. 12a; "The Brazilian Battleships," Times (London), 25 March 1909, p. 7b; "The Naval Scare," Sydney Mail, 24 March 1909, p. 24; "England's Power on the Sea Safe," New York Herald, 25 March 1909, p. 9.
  46. ^ "The Brazilian Battleships," Times (London), 25 March 1909, p. 7b.
  47. ^ "Mystery of the Brazilian 'Dreadnoughts'," Literary Digest, p. 103.
  48. ^ Трубицын, Линкоры, p. 3; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 32.
  49. ^ Martins, "Colossos do mares," p. 76.
  50. ^ Hough, Dreadnought, p. 72; Scheina, "Argentina," p. 400.
  51. ^ "The Status of South American Navies," Naval Engineers, p. 256.
  52. ^ Viana Filho, A vida do Barão do Rio Branco, pp. 441–44; Heinsfeld, "Falsificando telegramas," pp. 1–2, 5–10.
  53. ^ Heinsfeld, "Falsificando telegramas," pp. 3–4.
  54. ^ "A Message From Garcia," Boston Evening Transcript, 4 June 1910, p. 3.
  55. ^ Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 33; Heinsfeld, "Falsificando telegramas," p. 1; Di Biassi, "Ley de Armamento Naval Nº 6283"; "Brasil's New War Vessels," New York Herald, 10 September 1908, p. 8.
  56. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," p. 247; "Brazil's Armament, No Menace, but Expresses Sovereignty," New York Herald, 10 September 1908, p. 9.
  57. ^ Grant, Rulers, Guns, and Money, p. 156; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 33; "Argentina's Defense," Argus, 29 August 1908, p. 20; "Brazil and Argentina May Fight," Pittsburg Press, 30 August 1908, p. 1.
  58. ^ Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 33; "Argentina and Brazil," Sydney Morning Herald, 1 October 1908, p. 7; "Battleships for Argentina," Sydney Morning Herald, 20 November 1908, p. 7.
  59. ^ Hough, Big Battleship, p. 19; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 33; Di Biassi, "Ley de Armamento Naval Nº 6283"; "The Status of South American Navies," Naval Engineers, p. 254; "Dreadnoughts for Argentina," Sydney Morning Herald, 21 December 1908, p. 7.
  60. ^ Трубицын, Линкоры, p. 3; Scheina, Naval History, p. 83; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 33.
  61. ^ "Argentina's Plans Changed," New York Times, 5 December 1909, p. C2.
  62. ^ Scheina, Naval History, p. 83; Hough, Big Battleship, p. 21.
  63. ^ Scheina, Naval History, p. 84.
  64. ^ Hough, Big Battleship, p. 822; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 839.
  65. ^ Scheina, "Argentina," p. 8400.
  66. ^ Scheina, Naval History, p. 883; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 836.
  67. ^ Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 42.
  68. ^ Livermore, "American Navy," pp. 8875–8876.
  69. ^ Livermore, "Battleship Diplomacy," pp. 836–839.
  70. ^ William Howard Taft, "Second State of the Union Address," 6 December 1910.
  71. ^ Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 44.
  72. ^ Sherrill to Philander C. Knox英語版, No. 415, 11 June 1910, S.D.F., Argentina, in Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 44.
  73. ^ Livermore, "Battleship Diplomacy," pp. 44–45.
  74. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," pp. 249–263, 281–282.
  75. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," pp. 249, 254.
  76. ^ Grant, Rulers, Guns, and Money, p. 168; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 40.
  77. ^ "The Status of South American Navies," Naval Engineers, p. 257.
  78. ^ Livermore, "Battleship Diplomacy," pp. 40–41.
  79. ^ Grant, Rulers, Guns, and Money, pp. 146–147.
  80. ^ "Acorazado Almirante Latorre," Unidades Navales.
  81. ^ Scheina, Naval History, p. 138.
  82. ^ Livermore, "Battleship Diplomacy," pp. 41–42.
  83. ^ Schenia, "Peru," pp. 409–410.
  84. ^ "New Peruvian Warships," Journal of the American Society of Naval Engineers, pp. 581–583.
  85. ^ "Fleets in Preparation," Proceedings, p. 740.
  86. ^ Feron, "The Cruiser Dupuy-de-Lôme," pp. 45–47.
  87. ^ Schenia, "Uruguay," pp. 424–425.
  88. ^ Schenia, "Venezuela," p. 425.
  89. ^ Schenia, "Ecuador," p. 414; "The Status of South American Navies," Naval Engineers, pp. 254–257.
  90. ^ Scheina, Naval History, p. 321; Scheina, "Brazil," p. 404; Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," p. 249; "The Brazilian Battleship," United States Artillery, p. 188; "Minas Geraes I," Serviço de Documentação da Marinha — Histórico de Navios; "São Paulo I," Serviço de Documentação da Marinha — Histórico de Navios.
  91. ^ "Launch Greatest Warships," New York Times, 11 September 1908, p. 5; "Launch Brazil's Battleship," New York Times, 20 April 1909, p. 5.
  92. ^ "The Brazilian Battleship," United States Artillery, pp. 185–188; "The Brazilian Battleship," Scientific American, pp. 240–241; "The Minas Geraes," Times (London), 6 January 1910, p. 4d.
  93. ^ "The Brazilian Battleship," United States Artillery, pp. 187–188; "The New Brazilian Battleships," Times (London), 22 January 1910, p. 16f.
  94. ^ Alger, "Professional Notes," pp. 858–859; "Brazil," Naval Engineers, p. 999; "Trials of the Sao Paulo," Times (London), 3 June 1910, p. 7c; "Gun Trials of the Sao Paulo," Times (London), 4 June 1910, p. 9b.
  95. ^ Scheina, Naval History, p. 83.
  96. ^ "Argentine Navy; Dreadnought Orders," Evening Post (Wellington), 23 March 1910, p. 4.
  97. ^ Scheina, "Argentina," p. 401; "Launch Rivadavia, Biggest Battleship," New York Times, 27 August 1911, p. 7.
  98. ^ Scheina, "Argentina," p. 401; "Moreno Launched For Argentine Navy," New York Times, 24 September 1911, p. 12.
  99. ^ "Rivadavia Towed Here," New-York Tribune, 8 August 1913, p. 4; "The Rivadavia Delayed," New York Times, 24 August 1914, p. 7; "New Battleship Disabled," New York Times, 3 November 1914, p. 18.
  100. ^ Scheina, "Argentina," p. 401; "Dreadnought Row Ended," New York Times, 21 February 1915, p. 1.
  101. ^ "Battleship Sinks Barge," New York Times, 28 March 1915, p. 5; "The Moreno Again Ashore," New York Times, 16 April 1915, p. 8; "Argentine Ship Afloat," New York Times, 17 April 1915, p. 6.
  102. ^ Burt, British Battleships, p. 240; Gill, "Professional Notes," p. 193.
  103. ^ Scheina, Naval History, p. 321.
  104. ^ Scheina, Naval History, p. 321; Parkes, British Battleships, p. 605; Burt, British Battleships, pp. 231, 240; Preston, "Great Britain," p. 37; "British Navy Gains," New York Times, 7 December 1918, p. 14.
  105. ^ Preston, "Great Britain," p. 37.
  106. ^ Scheina, Naval History, p. 321; Burt, British Battleships, p. 240; "The Chilean Dreadnought Almirante Latorre," Naval Engineers, p. 317.
  107. ^ Preston, "Great Britain," p. 70.
  108. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," pp. 247–249.
  109. ^ Encyclopædia Britannica, 11th ed., s.v. "Ship," p. 906.
  110. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," pp. 254–257, 260, 263–264, 268.
  111. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," p. 269.
  112. ^ Scheina, Naval History, pp. 81–82.
  113. ^ Martin, Latin America, p. 37.
  114. ^ Scheina, Naval History, p. 354.
  115. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," p. 280.
  116. ^ Topliss, "The Brazilian Dreadnought," p. 284.
  117. ^ Brook, Warships for Export, p. 133; Vanterpool, "The 'Riachuelo'," p. 140; Gill, "Professional Notes," p. 492.
  118. ^ Martin, Latin America and the War, pp. 36–37.
  119. ^ Gill, "Professional Notes," p. 492.
  120. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," p. 284.
  121. ^ a b "Turkish Navy," Sydney Morning Herald, 31 December 1913, p. 13.
  122. ^ Kaldis, "Background for Conflict," pp. D1135, D1139; Mach, "Greece," p. 384; Gill, "Professional Notes," pp. 1217–1218.
  123. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," p. 284; Gill, "Professional Notes," p. 555.
  124. ^ Parkes, British Battleships, p. 597.
  125. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," pp. 284, 286.
  126. ^ Scheina, Latin America, p. 321; Трубицын, Линкоры, p. 4.
  127. ^ Oakenfull, Brazil, p. 91.
  128. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," pp. 285–286.
  129. ^ Sturton, "Re: The Riachuelo," p. 205.
  130. ^ Scheina, "Brazil," p. 405.
  131. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," pp. 285–286; Sturton, "Re: The Riachuelo," p. 205; Gill, "Professional Notes," p. 192.
  132. ^ Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," pp. 285–286; "E Rio de Janeiro," Navios De Guerra Brasileiros.
  133. ^ Brook, Warships for Export, p. 153; Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," pp. 285–286.
  134. ^ Morgan, "Revolt of the Lash," pp. 36–37.
  135. ^ José Paranhos英語版, in Edmar Morel, A Revolta da Chibata 4th ed. (Rio de Janeiro: Edições Graal, 1986), p. 13, in Morgan, "Revolt of the Lash," p. 37.
  136. ^ Morgan, "Revolt of the Lash," pp. 33, 37.
  137. ^ Love, Revolt, pp. 28–29; 34.
  138. ^ Love, Revolt, pp. 66–72; Morgan, "Revolt of the Lash," pp. 33, 36–37.
  139. ^ Presentation to Federal Congress by Federal Deputy for Rio Grande do Sul, José Carlos de Carvalho英語版, 23 November 1910, in Morel, Revolta, pp. 80–84, in Morgan, "Revolt of the Lash," p. 41.
  140. ^ Love, Revolt, pp. 20, 28–31, 35–36; Morgan, "Revolt of the Lash," pp. 37–38.
  141. ^ Love, Revolt, pp. 30–31, 35–36.
  142. ^ Love, Revolt, pp. 33–47; Morgan, "Revolt of the Lash," pp. 38–46.
  143. ^ Grant, Rulers, Guns, and Money, pp. 158–159; Love, Revolt, 3.
  144. ^ Foreign Office, British National Archives, 371/1051, Haggard to Sir Edward Grey, 3 February 1911, in Grant, Rulers, Guns, and Money, p. 159.
  145. ^ a b Lambuth, "Naval Comedy," p. 1433.
  146. ^ a b Grant, Rulers, Guns, and Money, p. 159.
  147. ^ a b c Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 45.
  148. ^ Foreign Office, British National Archives, 371/1518, Haggard to Grey, 19 June 1913, Brazil, Annual Report, p. 1912, in Grant, Rulers, Guns, and Money, p. 160; Gill, "Professional Notes," p. 1257.
  149. ^ Grant, Rulers, Guns, and Money, p. 160; Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," p. 283.
  150. ^ Livermore, "Battleship Diplomacy," pp. 46–47; Hislam, "Century of Dreadnoughts," p. 146; "Turkey and Greece; Purpose of Dreadnoughts," Poverty Bay Herald, 2 January 1914, p. 3; "Argentine Pride Outweighs $6,000,000 Profit Greece Offers for Moreno," New-York Tribune, 27 April 1913, p. 3.
  151. ^ "Argentine Pride Outweighs $6,000,000 Profit Greece Offers for Moreno," New-York Tribune, 27 April 1913, p. 3.
  152. ^ Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 47.
  153. ^ Gill, "Professional Notes," p. 934; "Turkey Threatened with Another War," New-York Tribune, 2 November 1913, p. 12.
  154. ^ Kaldis, "Background for Conflict," p. D1135; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 45.
  155. ^ Scheina, Naval History, p. 86.
  156. ^ Hough, Big Battleship, p. 19.
  157. ^ Massie, Castles, p. 22.
  158. ^ Fletcher to Bryan, No. 454, 16 February 1914, S.D.F., Chile, in Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 45.
  159. ^ "Minas Geraes I," Serviço de Documentação da Marinha — Histórico de Navios.
  160. ^ Brook, Warships for Export, p. 133.
  161. ^ English, Armed Forces, p. 110.
  162. ^ Scheina, "Brazil," p. 404; Robinson, "Brazilian Navy."
  163. ^ Whitley, Battleships, pp. 26, 28.
  164. ^ Robinson, "Brazilian Navy"; "Bahia (3º)," Serviço de Documentação da Marinha — Histórico de Navios; "Rio Grande do Sul I," Serviço de Documentação da Marinha — Histórico de Navios..
  165. ^ English, Armed Forces, p. 110; Scheina, Naval History, pp. 135–136; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 48.
  166. ^ "Brazil Navy Composed of 28 Obsolete Ships," New York Times, 7 October 1930, p. 3.
  167. ^ Whitley, Battleships, p. 27; Topliss, "Brazilian Dreadnoughts," p. 289.
  168. ^ Scheina, "Brazil," p. 416.
  169. ^ Breyer, Battleships, pp. 320–321; Scheina, Naval History, p. 153.
  170. ^ Whitley, Battleships, p. 29; Breyer, Battleships, p. 321; Scheina, "Brazil," p. 416.
  171. ^ Scheina, Naval History, pp. 136–137.
  172. ^ Scheina, Naval History, pp. 136–137; Scheina, "Brazil," p. 416.
  173. ^ Scheina, Naval History, p. 327.
  174. ^ English, Armed Forces, pp. 38–39; Scheina, "Argentina," p. 419.
  175. ^ Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 48; Graser Schornstheimer, "Chile as a Naval Power," New York Times, 22 August 1920, p. X10.
  176. ^ Preston, "Great Britain," p. 70; Brown, "HMS Eagle," p. 251.
  177. ^ Somervell, "Naval Affairs," pp. 393–394.
  178. ^ Scheina, Naval History, p. 139; Livermore, "Battleship Diplomacy," p. 48.
  179. ^ English, Armed Forces, p. 148.
  180. ^ Whitley, Battleships, p. 33.
  181. ^ Scheina, Naval History, pp. 112–114; Sater, "The Abortive Kronstadt," pp. 240–253.
  182. ^ English, Armed Forces, p. 149.
  183. ^ English, Armed Forces, p. 149; Scheina, Naval History, p. 164; Scheina, "Brazil," p. 416.
  184. ^ Scheina, Naval History, pp. 172–174.
  185. ^ Austin, "Brazil: Small, Modern Ships," p. 16; Austin, "Largest South American Navy," p. 14; Austin, "The Fleets of Chile and Peru," p. 25.
  186. ^ "São Paulo I," Serviço de Documentação da Marinha — Histórico de Navios; "E São Paulo," Navios De Guerra Brasileiros.
  187. ^ "E Minas Geraes," Navios De Guerra Brasileiros.
  188. ^ Whitley, Battleships, pp. 21–22.
  189. ^ Brook, Warships for Export, p. 148; Whitley, Battleships, p. 33; "Acorazado Almirante Latorre," Unidades Navales.
  190. ^ Scheina, Naval History, p. 82; Vanterpool, "The 'Riachuelo'," p. 140.
  191. ^ Scheina, Naval History, p. 82; Scheina, "Argentina," p. 401; Scheina, "Brazil," p. 404.
  192. ^ Whitley, Battleships, p. 20; Preston, "Great Britain," p. 38.

参考文献編集

 
艦首からみたミナス・ジェラエス。砲塔は上部構造の両側にある。

書籍編集

  • Breyer, Siegfried. Battleships and Battle Cruisers, 1905–1970. Translated by Alfred Kurti. Garden City, NY: Doubleday, 1973. OCLC 702840.  
  • Brook, Peter. Warships for Export: Armstrong Warships, 1867–1927. Gravesend, UK: World Ship Society, 1999. ISBN 0-905617-89-4. OCLC 43148897.  
  • Brown, David. "HMS Eagle." In Profile Warship, edited by Antony Preston, 249–72. Windsor, UK: Profile Publishing, 1973. OCLC 249286023.  
  • Budzbon, Przemysław. "Russia." In Gardiner and Gray, Conway's 1906–21, 291–325.  
  • Burt, R. A. British Battleships of World War One. Annapolis, MD: Naval Institute Press, 1986. ISBN 0-87021-863-8. OCLC 14224148  
  • Campbell, N.J.M. "Germany." In Gardiner and Gray, Conway's 1906–21, 134–89.  
  • Encyclopædia Britannica. 11th ed. 29 vols. Cambridge: Cambridge University Press, 1910–11.  
  • English, Adrian J. Armed Forces of Latin America. London: Jane's Publishing Inc., 1984. ISBN 0-7106-0321-5. OCLC 11537114.  
  • Feron, Luc. "The Cruiser Dupuy-de-Lôme." In Warship 2011, edited by John Jordan, 33–47. London: Conway, 2011. ISBN 1-84486-133-3. OCLC 748816436.  
  • Gardiner, Robert and Roger Chesneau, eds. Conway's All the World's Fighting Ships: 1922–1946. London: Conway Maritime Press, 1980. ISBN 0-85177-146-7. OCLC 7734153.  
  • Gardiner, Robert and Randal Gray, eds. Conway's All the World's Fighting Ships: 1906–1921. Annapolis, MD: Naval Institute Press, 1984. ISBN 0-87021-907-3. OCLC 12119866.  
  • Grant, Jonathan A. Rulers, Guns, and Money: The Global Arms Trade in the Age of Imperialism. Cambridge, MA: Harvard University Press, 2007. ISBN 0-674-02442-7. OCLC 166262725.  
  • Hough, Richard. Dreadnought: A History of the Modern Battleship. New York: Macmillan Publishing, 1975. First published in 1964 by Michael Joseph and Macmillan Publishing. OCLC 1673577.  
  • Hough, Richard. The Big Battleship. London: Michael Joseph, 1966. OCLC 8898108.  
  • Love, Joseph L. The Revolt of the Whip. Stanford, CA: Stanford University Press, 2012. ISBN 0-8047-8109-5. OCLC 757838402.  
  • Mach, Andrzej V. "Greece." In Gardiner and Gray, Conway's 1906–21, 382–87.  
  • Martin, Percy Allen. Latin America and the War. Gloucester, MA: Peter Smith, 1967. First published in 1925 by Johns Hopkins Press. OCLC 468553769.  
  • Martins Filho, João Roberto. A marinha brasileira na era dos encouraçados, 1895–1910 [The Brazilian Navy in the Era of Dreadnoughts, 1895–1910]. Rio de Janeiro: Fundãçao Getúlio Vargas, 2010. ISBN 85-225-0803-8. OCLC 679733899.  
  • Massie, Robert K. Castles of Steel: Britain, Germany, and the Winning of the Great War at Sea. New York: Random House, 2003. ISBN 0-679-45671-6. OCLC 51553670.  
  • Morgan, Zachary R. "The Revolt of the Lash, 1910." In Naval Mutinies of the Twentieth Century: An International Perspective, edited by Christopher M. Bell and Bruce A. Elleman, 32–53. Portland, Oregon: Frank Cass Publishers, 2003. ISBN 0-7146-8468-6. OCLC 464313205.  
  • Oakenfull, J.C. Brazil in 1912. London: Robert Atkinson Limited, 1913. OCLC 1547272.  
  • Parkes, Oscar. British Battleships. Annapolis, MD: Naval Institute Press, 1990. First published in 1957 by Seeley Service. ISBN 1-55750-075-4. OCLC 22240716.  
  • Preston, Antony. "Great Britain." In Gardiner and Gray, Conway's 1906–21, 1–104.  
  • Scheina, Robert L. "Argentina." In Gardiner and Gray, Conway's 1906–21, 400–03.  
  • Scheina, Robert L. "Argentina." In Gardiner and Chesneau, Conway's 1922–46, 419–21.  
  • Scheina, Robert L. "Brazil." In Gardiner and Gray, Conway's 1906–21, 403–07.  
  • Scheina, Robert L. "Brazil." In Gardiner and Chesneau, Conway's 1922–46, 416–18.  
  • Scheina, Robert L. "Ecuador." In Gardiner and Gray, Conway's 1906–21, 409–10.  
  • Scheina, Robert L. Latin America: A Naval History, 1810–1987. Annapolis, MD: Naval Institute Press, 1987. ISBN 0-87021-295-8. OCLC 15696006.  
  • Scheina, Robert L. "Peru." In Gardiner and Gray, Conway's 1906–21, 414.  
  • Scheina, Robert L. "Uruguay." In Gardiner and Gray, Conway's 1906–21, 424–25.  
  • Scheina, Robert L. "Venezuela." In Gardiner and Gray, Conway's 1906–21, 425.  
  • Sondhaus, Lawrence. Naval Warfare, 1815–1914. London: Routledge, 2001. ISBN 0-415-21477-7. OCLC 231872232.  
  • Трубицын, С.Б. Линкоры второстепенных морских держав [Battleships of Minor Naval Powers]. St. Petersberg: Р.Р. Муниров, 1998. ISBN 5-00-001688-2.  
  • Viana Filho, Luís. A vida do Barão do Rio Branco. São Paulo: Livraria Martins, 1967. First published in 1959 by Livraria Martins. OCLC 530644.  
  • Whitley, M.J. Battleships of World War Two: An International Encyclopedia. Annapolis, MD: Naval Institute Press, 1998. ISBN 1-55750-184-X. OCLC 40834665.  

雑誌編集

新聞編集

ウェブサイト編集

公式な出典編集

  • "Acorazado Almirante Latorre [Battleship Almirante Latorre]." Unidades Navales. Armada de Chile. Last modified 8 June 2008.  
  • "Bahia (3º)." Serviço de Documentação da Marinha — Histórico de Navios. Diretoria do Patrimônio Histórico e Documentação da Marinha, Departamento de História Marítima. Accessed 30 March 2016.  
  • Di Biassi, Francesco Venturini. "Ley de Armamento Naval Nº 6283 [Naval Armament Law No. 6283]." Departamento de Estudios Históricos Navales. Accessed 30 March 2016.  
  • "Minas Geraes I." Serviço de Documentação da Marinha — Histórico de Navios. Diretoria do Patrimônio Histórico e Documentação da Marinha, Departamento de História Marítima. Accessed 30 March 2016.  
  • "Rio Grande do Sul I." Serviço de Documentação da Marinha — Histórico de Navios. Diretoria do Patrimônio Histórico e Documentação da Marinha, Departamento de História Marítima. Accessed 30 March 2016.  
  • "São Paulo I." Serviço de Documentação da Marinha — Histórico de Navios. Diretoria do Patrimônio Histórico e Documentação da Marinha, Departamento de História Marítima. Accessed 30 March 2016.  

関連図書編集

  • Morgan, Zachary R. Legacy of the Lash: Race and Corporal Punishment in the Brazilian Navy and the Atlantic World. Bloomington: Indiana University Press, 2014.

外部リンク編集